山鹿城
---- やまがじょう ----
別名: (なし)

平成17年7月2日作成
平成17年7月2日更新

平家も頼った山鹿秀遠の居城

山鹿城遠景
山鹿城遠景(手前の橋は遠賀川に架かる芦屋橋)

・データ
・山鹿城概要
・山鹿城へGO!(登山記)
・山鹿城戦歴


 

■データ

名称 山鹿城 やまがじょう
別名 とくに無いようだ。 現在は、城山公園となっている。 しろやまこうえん
築城 天慶年間(938〜947)、俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)の弟・藤原藤次(ふじわらのとうじ)によって築かれたと云われる。(福岡古城探訪)
破却 天正十五年(1587)、豊臣秀吉の命により麻生家氏(あそういえうじ)が筑後国へ移封され、廃城となった。(福岡県の地名)
なお、移封されたのは、「福岡古城探訪」では麻生隆実(あそうたかざね)、戦国人名事典では麻生元重(あそうもとしげ)となっている。

分類 山城(標高40m)
現存 曲輪、土塁。
場所 遠賀郡芦屋町山鹿(旧筑前国遠賀郡=御牧郡・みまきぐん ともいう)
アクセス JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ向かい、約60分、遠賀川手前の「今古賀」交差点から左折、約5キロ走って、芦屋町の「役場前」を右折し芦屋町役場を通り過ぎると、遠賀川にかかる「芦屋橋」に出るので、そのまま川を渡ろう。橋の右手前方には、すでに山鹿城が見えているぞ。
橋を渡り終えたらすぐ、「山鹿」交差点を右折、100mくらい先の左側に大きな駐車場があるので、そこに停めよう。ありがたいことに無料だ。
駐車場奥の赤い火の見やぐらの脇に、「城山公園入口」という大きな看板があるので、そこから徒歩で登ろう。約5分で頂上だ。



■山鹿城概要


遠賀川(おんががわ)の河口、芦屋(あしや)は古代の「岡の水門(おかのみなと)」のころから重要な湊であった。その芦屋津(あしやのつ)の川を挟んだ反対側に山鹿城がある。遠賀川沿いの小さな丘、といった感じだが、山鹿城からは眼下に芦屋津を見下ろすことができ、また、のちの唐津街道(からつがいどう)が城下をとおる交通の要衝である。

山鹿秀遠(やまがひでとお)は、大宰府府官の子孫で、一説には菊池一族(菊池経頼(きくちつねより)の子・粥田経遠(かゆたのつねとお)の子)とも云われる。(外山幹夫氏「中世の九州」)
寿永二年(1183)七月、木曾義仲(きそのよしなか)に攻められ都落ちした平家一門は九州へ向かい、一旦は大宰府に入った。しかし、豊後の緒方惟能(おがたこれよし)が攻め寄せると聞き、大宰府を離れ、山鹿秀遠を頼り山鹿城へ入った。安徳天皇を擁していたので、一時的にせよ行宮(あんぐう=仮の皇居)となったのだ。山鹿城の東には「大君(おおきみ)」という地名が残っている。
しかし、ここにも緒方惟能が攻めてくると聞いて、安全ではないと判断したのであろう、豊前国・柳ヶ浦(大分県の柳ヶ浦ではなくて、北九州市門司区大里(だいり)のこと)から海へ出て、讃岐国・屋島(やしま)へ拠った。

元暦二年(寿永四年=1185)三月二十四日、壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平家は滅び、平家与党であった山鹿秀遠も源頼朝(みなもとのよりとも)によって所領を没収され没落した。
山鹿庄は平家没官領となり、一品坊昌寛(いっぽんぼうしょうかん)という人が代官となったが、のちに実子の宇都宮家政(うつのみやいえまさ)に所領を譲った。家政は、関東(下野国か)から九州へ下向し、山鹿氏を名乗るようになる。これが宇都宮系の山鹿氏だ。

山鹿家政の子・時家(ときいえ)は、次子の資時(すけとき)に山鹿庄のうち麻生庄など3箇所の地頭代職を譲り執権・北条時頼(ほうじょうときより)から安堵されたので、資時はのちに麻生(あそう)氏を名乗った。山鹿氏が本家で、麻生氏が分家だ。

南北朝のころ、山鹿一族も分裂し対立したが、佐殿方や南朝方についた本家・山鹿氏は、終始北朝方であった分家・麻生氏に次第に圧倒されるようになり、没落した。
麻生氏は、室町幕府の奉公衆(ほうこうしゅう=将軍直参の家臣)として遠賀郡を本拠として勢力を伸ばすが、永享八年(1436)、麻生弘家(あそうひろいえ)と家延(いえのぶ)の間に家督争いが起こり弱体化、この頃から周防国の大内氏に従属していく。
戦国時代、大内氏と大友氏の筑前國争奪戦のころ、麻生氏は大内氏、のちに毛利氏について大友氏と戦った。
秀吉の九州平定後、麻生氏は筑後へ転封となり山鹿を離れた。山鹿城も討ち捨てられたようだ。



■山鹿城へGO!(登山記)
平成十六年(2004)五月一日(土)

山鹿城へ行ってみよう。
学生の頃、二度ほど訪れたことがあるが、さて変わっているだろうか。

広い駐車場に車を停め、城山公園(しろやまこうえん)へ取り付く。
登り道は整備されていて、全く苦労なくのぼることができる。
途中、すべり台など遊具のある平坦地に出た。曲輪の跡だと思われる。
曲輪跡と思われる中腹の平坦地


さらに登ると、広い平坦地に出た。二の丸だ。
ここはかなり広い。屋形を構えるに十分の広さだ。二の丸からは遠賀川、芦屋の町並みがすぐ下に見下ろせる。
広い二の丸 二の丸から見下ろす遠賀川と芦屋橋

また、二の丸の端には階段状の地形だ。曲輪跡だと思う。
段々とさがる曲輪跡


そして、本丸へのぼる階段の横に石碑が建っている。
山鹿兵藤次秀遠の石碑
「山鹿兵藤次秀遠之城址(やまが ひょうとうじ ひでとお の しろあと)」と彫ってある。書は、最後の福岡藩主・黒田長知(くろだながとも)の長子で侯爵の黒田長成(くろだながしげ)だ。
ここは、平家の有力与党、山鹿秀遠の居城なのだ。都を落ちた平家一門も、一時、身を寄せたことがあるほど山鹿秀遠は信頼されていたのだろう。
西国を流浪する平家一門はどんな気持ちだったのだろうか。


さて、本丸へ行ってみよう。階段があるので楽々だ。
本丸も意外に広い。立派な御殿を建てることもできそうだ。安徳天皇もここを訪れたのだろうか、と想像は尽きない。
本丸跡 本丸からの眺め・江川と遠賀川の合流点
本丸からは洞海湾と遠賀川をつなぐ江川の合流点も見える。
神功皇后はここを通ったのだろう、と考えると、この場所で大昔から営々と続いてきた人々の暮らしがみえるような気がする。
山鹿城も是非、後世へ残しておきたい城跡だ。



下山すると、駐車場横に「秋月藩・東蓮寺藩貢米蔵跡の碑」が建っていた。遠賀川を使って年貢米を運んだのだろう。
貢米蔵跡の碑
秋月藩は、元和九年(1623)、福岡藩の二代藩主・忠之(ただゆき)が、弟・黒田長興(くろだながおき)に夜須郡(やすぐん)・下座郡(げざぐん)・嘉麻郡(かまぐん)のうち五万石を分知して成立したもので、明治維新まで続いた。
東蓮寺藩(とうれんじはん)は、同じく元和九年(1623)、弟・黒田高政(くろだたかまさ)に旧鷹取城を中心に、鞍手郡(くらてぐん)・嘉麻郡(かまぐん)・御牧郡(みまきぐん=遠賀郡)のうち四万石を分知したものであるが、延宝三年(1675)直方藩(のおがたはん)と改称された。ところが、延宝五年(1677)、直方藩第三代藩主・黒田長寛(くろだながひろ)が福岡藩主・黒田光之(くろだみつゆき)の嫡子となったことから直方藩は廃止された。その後、元禄元年(1688)、長寛の弟・黒田長清(くろだながきよ)に五万石が分知されて直方藩が再興されたが、享保五年(1720)、長清の死去とともに直方藩は廃藩となった。

もう一つ。
駐車場横のヨット屋の屋上に某衆議院議員の看板を発見!
なぜか、とても納得してしまった。。
自民党・麻生太郎先生の看板


■山鹿城戦歴

◆応永年間(1394-1427)、畑城城主の香月備前守盛経(かつきもりつね)が山鹿城を攻めた。城主麻生上総介家見(あそういえはる)は山鹿城を捨て、花房山城に逃れ、さらに岡城へ逃れた。(廣崎篤夫先生 「福岡県の城」・「福岡古城探訪」)


以上

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