---- くるめじょう ----
別名:篠山城 ささやまじょう

平成17年5月15日作成
平成17年5月15日更新

筑後有馬藩二十一万石の居城

筑後川沿いにある久留米城
久留米城遠景(中央のこんもりが本丸跡、手前は筑後川)

・データ
・久留米城概要
・久留米城へGO!(登城記)
・久留米城戦歴


 

■データ

名称 久留米城 くるめじょう
別名 篠山城 ささやまじょう
築城 永正年間(1504〜1521)ころ在地の土豪により砦が築かれたというが氏名など不明。その後、有馬豊氏が元和六年(1620)近世城郭として大修復した。
破却 明治六年(1873)廃城令により廃城と決定。その前年の明治五年(1872)から大手門などの取り壊しが行われている。(平凡社 「福岡県の地名」)
分類 平山城(標高23m)
現存 石垣、堀
場所 福岡県久留米市篠山町(旧筑後国御井郡)
アクセス JR久留米駅の前、「JR交番目」交差点を左に行こう。道なりにまっすぐ、ブリジストンの工場の横を行くと、約700mで「篠山城南」交差点なので、左折だ。
あとはまっすぐ300mで久留米城に到着。
車の場合は、お城へ入る直前を右折、すぐに左折すると、「蜜柑丸」跡に無料駐車場あり。6台はゆっくりと停められるので、じっくり探索に出かけられるぞ。



■久留米城概要


久留米の地は古代、国府や国分寺が置かれ筑後国の中心地であった。また、高良山(こうらさん)は南北朝期に懐良親王(かねよししんのう)などが本陣をおく重要拠点だった。その中腹に鎮座する高良大社(こうらたいしゃ)は筑後一ノ宮として人々の信望を集め、大友氏など戦国大名もこれを保護した。あるいはそのせいか、戦国時代の筑後国は久留米よりもむしろ柳川を中心に動いていたように思える。

久留米城は永正年間(1504〜21)に在地勢力によって築城されたというが、誰なのか名は不明だ。天正(1573〜92)の初期には高良山座主の弟・麟圭(りんけい)が居城としていたといわれる。

天正十五年(1587)九州を平定した豊臣秀吉は、大規模な国割りを行った。筑後国10郡は分割され、山門郡・三潴郡・下妻郡・三池郡は立花宗茂(柳川城)へ、上妻郡は筑紫広門(福島城)へ、竹野郡・生葉郡は筑前国とともに小早川隆景(名島城)へ、そして御原郡・御井郡・山本郡は小早川秀包(こばやかわひでかね)へそれぞれ与えられた。

小早川秀包は毛利元就の末子で、兄である小早川隆景の養子となったもので、毛利秀包と書かれている場合もある。この秀包が久留米城に入った。三万五千石であったという。また、肥後国人一揆の際は城主・秀包は肥後へ出陣したので、代わって小早川隆景が在城したそうだ。(平凡社 「福岡県の地名」)

このころの久留米城は今よりも狭く、東を正面とした城だったそうだ。
ところが、小早川秀包は関ヶ原の合戦で西軍についたため領地を没収されてしまう。

代わって岡崎城の田中吉政が、石田光成を生捕りにした勲功で、筑後一国三十二万石の領主として柳川城へ入った。このとき、久留米城には二男・則政を、福島城には三男・康政をおいた。
久留米に入った田中則政(のりまさ=吉信とも)は粗暴な性格ですぐに家臣を斬ったそうだ。慶長十年(1605)下人を手討ちにしようとしたが逆に斬られて死去したという。(小学館「城郭と城下町9」)
これについては慶長十九年死去説もあり、その後は家老の坂本和泉が城代となったという。(平凡社「福岡県の地名」)
のちに、元和元年(1615)の一国一城令によって久留米城は廃城となった。

しかし田中氏は長くは続かなかった。柳川藩の二代目・田中忠政(たなかただまさ)は嗣子がないまま元和六年(1620)死去、田中氏は断絶してしまう。筑後国は再び分割され、立花宗茂が柳川藩十二万石に復活、立花種次が三池藩一万石、そして丹波国福知山城の有馬豊氏(ありまとようじ)が二十一万石で久留米藩の藩祖となった。

久留米に入った有馬豊氏は、廃城となり荒れていた久留米城を大改修した。今に残るお城はこのときのものだ。北から本丸、二の丸、三の丸と並び、その外側を外郭がとりまく南向きの城に改造された。城の西側は筑後川が天然の大堀となっていたが、当時の筑後川は今と流れが違っていた。今は、久留米城の北東から北西へ東西に流れ、そして90度曲がって南へ向かって流れているが、江戸時代の絵図をみると、お城の北西から南西へ南北に流れている。そのため、城の北側にも防御のための堀が掘られている。肥前堀という名がついているので、佐賀藩の支援を受けたものだろう。今は川になってしまったので残っていない。

久留米藩の有馬氏は、島原に長く続いた有馬氏とは関係ない。秀吉が好んだという摂津・有馬温泉の有馬だ。
本丸に建つ有馬記念館の系図によれば、第六十二代村上天皇の子・具平親王(ともひらしんのう)が始祖で、その子孫が「源義親(みなもとのよしちか)ノ事」に関わって播磨国へ流され、赤松村に土着、白幡城を築き赤松氏を称したそうだ。太平記で活躍する赤松則村(あかまつのりむら)はその後裔だ。赤松氏の嫡流は、則村から則祐(のりすけ)、義則(よしのり)と続き、室町幕府の四職となって、嘉吉の乱の首謀者・赤松満祐(あかまつみつすけ)と続くが、有馬氏のほうは赤松則祐の三男・義祐(よしすけ)の子孫で、本家・赤松氏を介さずに幕府に直勤し、嘉吉の乱でも別行動をとったという。(新人物往来社 「鎌倉室町人物事典」)  
その後も代々、摂津国有馬郡に居住し有馬氏を称した。有馬則頼のときに関ヶ原の合戦で軍功あり摂津有馬郡に二万石を領した。則頼の二男が豊氏で、豊臣秀吉に仕え、遠江国城飼郡の横須賀城に三万石の城主となり、関ヶ原の功績で丹波国天田郡福知山城に六万石で移った。その後八万石に加増ののち、大坂の陣の戦勲が大きかったので筑後国八郡に二十一万石を与えられた、という。(有馬記念館資料)

以降、明治維新まで久留米城は有馬氏の居城となった。明治六年(1873)の廃城令で廃止が決定。
その後、明治三十八年(1905)歩兵第五十六聯隊(菊兵団)が創設された。歩56聯隊は、大正十四年(1925)の4個師団軍縮にともなって廃止されたが、昭和十二年(1937)日華事変とともに復活、中・南支へ遠征した。昭和十六年(1941)シンガポール攻略、さらにビルマへ侵攻し、終戦を迎えた。
また、昭和十六年(1941)久留米に第五十六師団の創設とともに、捜索第五十六聯隊(龍兵団)が創設された。捜索56聯隊は昭和十七年(1942)ビルマ国ラングーンに上陸、終戦までビルマ国内を転戦した。
現在、菊兵団、龍兵団ともに、門司城跡のパゴダでも祀られている。




■久留米城へGO!(登城記)
平成17年(2005)5月29日(日)

今日は久留米城だ。
駐車場に車を停めて、いざ出陣。
この駐車場あたりは、腰曲輪の跡で「蜜柑丸(みかんまる)」と呼ばれていたそうだ。

駐車場の北には城内へ入る階段がある。
石垣の格好からして、たぶん昔の江戸時代からあった階段だと思う。

階段をのぼると本丸跡だ。今は篠山神社となっている。美しい神殿だ。
その一角には、小さな祠があって、小早川神社と説明があった。秀吉によって久留米城主に封じられた毛利秀包(もうりひでかね)が小早川隆景の養子であったことからこの名がついたという。

本丸からは、筑後川と筑後平野が一望のもとに見渡せる。要地であることがよくわかる。

正面へ行ってみよう。
入口はカギ型の道路になっている。昔のお城の名残りだろうか。

そのすぐ横には巽櫓(たつみやぐら)の石垣が残っている。
久留米城は西側を南北に筑後川が流れていたので、防御の要所は東南方向にあったのだろう。
この巽櫓(東南にある櫓)は、久留米城の櫓の中でもとりわけ大きく頑丈な三層櫓だったそうだ。(小学館 「城郭と城下町9北九州」)

本丸から出てみよう。
両側に内堀が残っている。東側の内堀は、埋め立てられて小さなプールのようになっている。西側は、なかなか立派な堀が残っている。
ここからみる本丸石垣は綺麗な曲線を描いていて、美しい。

ぐるっと一周してみる。北側にも本丸の高石垣が残っているが、竹林に覆われていてよくみえない。
その向こうは筑後川だ。
江戸時代の筑後川は、今とは流れが違っていて南北に流れていた。今は城の北から西側へL字型に筑後川が流れているので、城の北側は何もしなくても川が天然の堀になっているように見えるが、当時は城の北側にも大きな水堀を掘っていた。肥後堀だ。堀のさらに北は、昔の絵図をみると低湿地だったように思われる。

また、絵図からは今にのこる内堀のさらに東や南に堀が二重、三重に取り囲んでいて、相当な防御力だったことが分かるが、市街化にともなって今ではかすかに痕跡が認められる程度だ。
筑後の中心地・久留米のお城は、すっかり忘れ去られて、町の中に溶け込んでいるようだ。
久留米城絵図(天保ころ)   現在の久留米市
 (左)天保年間の久留米城下・・上から本丸、二の丸、三の丸、外曲輪。外曲輪の右端の堀は今も裁判所よこに残っている。
 (右)現在の久留米市・・中央上、篠山神社が本丸跡。ブリジストン工場よこのカギ型の道(赤丸)は三の丸の門の名残りだ。


■その他みどころ

東郷元帥書斎
日本海海戦の立役者、東郷平八郎元帥が大佐のころ使用していたという書斎が、本丸に移築されている。東郷元帥と久留米、、、、関係ないように思うが、現地案内板を読むと、やはり関係はない。
久留米市出身の実業家、小倉敬止氏が元帥にお願いしてもらい受け、ブリジストンタイヤの石橋正二郎氏が篠山城本丸へ移したのだそうだ。

菊兵団記念碑
歩兵第56聯隊、通称「菊」兵団は久留米で編成された。大東亜戦争の開戦とともに、コタバル飛行場の正面へ上陸し、怒涛の如くマレー半島を南下、英国の東洋における中心拠点・シンガポールを陥落せしめた。その後ビルマへ転戦し、その地で終戦を迎えた。

龍兵団記念碑
捜索第56聯隊、通称「龍」兵団も久留米で編成された。大東亜戦争では南西諸島攻略ののち、ビルマのラングーンに上陸、以来、ビルマにおいて奮戦、泰緬(たいめん)国境において終戦を迎えた。

有馬記念館
ブリジストン石橋会長によって建てられた。(ブリジストンは久留米の会社です)
久留米藩主・有馬家ゆかりの鎧、道具類、など展示している。






■久留米城戦歴

◆天文二年(1533)から翌年にかけて大内勢が筑後へ侵攻し、大友方と戦闘を交えた。大内軍の杉興房(すぎおきふさ)が久留米城を攻撃、城将・豊饒永源(ぶにょうえいげん)は支えきれず敗走した。(吉永正春氏 「筑後戦国史」)

◆天正元年(1573)高良山座主良寛(りょうかん)は、弟の麟圭(りんけい)を笹山城(久留米城)の城主とした。(吉永正春氏 「筑後戦国史」)

以上

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