---- なごやじょう ----
別名:肥前名護屋城 ひぜんなごやじょう
平成15年8月13日作成
平成15年11月9日更新
秀吉の唐入りのための本拠地です。
大手門付近の大土塁と石垣
・データ
・名護屋城概要
・名護屋城へGO!(登城記)
・名護屋城戦歴
名称 | 名護屋城 | なごやじょう |
別名 | 別名という訳ではないが、尾張の那古屋城と区別するために、肥前名護屋城ともいう。 | ひぜんなごやじょう |
築城 | 天正十九年(1591)から文禄元年(1592)にかけて豊臣秀吉が築城。 | |
破却 | 秀吉の死(慶長三年1598)の後、寺沢広高により破却され、唐津城築城に使われたという | |
分類 | 平山城(標高約80m) | |
現存 | 石垣・土塁 | |
場所 | 佐賀県東松浦郡鎮西町大字名護屋(旧肥前国松浦郡) | |
アクセス | 呼子から国道204号線を西(伊万里方面)へ走らせて10分くらい。名護屋大橋を渡ると、大きな看板に沿って行くだけ。JRなら唐津駅からバス、名護屋城博物館方面行に乗り、名護屋城博物館入口で下車、徒歩5分。 |
■名護屋城概要
天正十八年(1590)相模・小田原城が豊臣秀吉軍によって落城。秀吉の次なる目標は中国(明)であった。これについては、秀吉の誇大妄想だとか、大悪人だとか、失業対策だとか、気が触れたとか、イロイロ言われているけれども、ともかくそうだったのだ。気宇壮大には違いあるまい。
天正十九年(1591)八月に名護屋の地に起工、翌年三月下旬にはおおかた構築されたそうだ。普請奉行は加藤清正と寺沢広高。秀吉も淀殿と共にここに滞在している。滞在期間は通算で1年3ヶ月とのこと。五層七階の天守閣も築かれていたそうだが、現在は建物は全くない。それでも広大な石垣が残っていて、壮大な城であったことがわかる。
各大名の陣営も周囲の広範囲に作られ、百二十箇所とも百六十六箇所とも言われている。それまでは、松浦党の垣添城があった(「日本城郭総覧」)だけの寒村が、一躍大都市となったのだ。いや秀吉がいるから、首都と言っても良かろう。滞在した大名の顔ぶれをみると、まさしく戦国の紅白歌合戦だ!
しかし、わずか七年、秀吉の逝去とともに無用の城となってしまった。まさに、夢のまた夢だ。
■名護屋城へGO!(登城記)
平成十三年(2001)ニ月九日(金)
呼子にイカを食べ行った。
いや違う、イカは妻に対する口実で、本当の目的は名護屋城なのだ!
名護屋城を訪れるのは、今回で2度目だ。
最近きれいに整備され、駐車場や資料館がある。
駐車場からでも大規模な石垣が見える。
朝鮮出兵のため急ごしらえで造った城というイメージがあったが、どっから見ても本格的な山城だ。
大手門跡と言われているところから上る。
まわりの石垣は雑多な大きさの積み重ねで、いかにも古そうで良い。
ところどころ崩れているのがまた良い。
天守台へのぼってみる。眺望はまさに絶景だ。
天気が良い日は壱岐も見えるらしい。
秀吉もここから遠く明(ミン)に思いを馳せたのだろう。
本丸の下の曲輪は右が遊撃丸、左の広いところが二の丸だ。
二の丸ではクレーン車を使った工事を行っている。
どうやら崩れた石垣を修復しているらしい。
本丸にも大きな石がゴロゴロしている。
崩れた石垣かな、礎石にしては細工されてるようだし。
それにずいぶんと広い。
ほんとうにここは、長い間忘れられていた(?)城だったのだろう。
あるいは、徳川時代には幕府に気兼ねして整備できなかったのだろうか。
いやいやそうではあるまい。
江戸時代の近くに住む人々にとっては別に整備する必要もないし、
ただあるがままに放置されていたのじゃなかろうか、そのほうが日本人らしいしナ、
などと思いながら城内を歩きまわった。
とてもじゃないが廻りきれない。
現在の城跡だけでなく、むこうの丘やそのむこうまで大名屋敷(駐屯地といった感じではなく本格的な町だったらしい)が続いていたそうだ。
資料館内部の名護屋城模型を見ると、なんとも大規模なのに驚かされる(もちろん想像されたものだけど)。
せっかく田舎(失礼?)にあって当時の雰囲気を感じられるのだから、修復は最小限に留めてほしい、とイカをかじりながら、
いや、クレーンを見ながら強く思った。
■名護屋城戦歴
◆名護屋城自体が戦火に遭ったことはない。というと怒る人もいるので、一応関連事項として。。文禄の役、慶長の役。以上。
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