---- おおともやかた ----
別名:上原館 うえのはるやかた

平成16年9月20日作成
平成16年9月23日更新

豊後守護・大友氏の居館

大友館跡
大友館跡に残る土塁(白い建物の向こう)

データ
大友館概要
大友館へGO!(登城記)
大友館戦歴


 

■データ

名称 大友館 おおともやかた
別名 上原館 うえのはるやかた
築城 時期、築城者ともに不詳(諸説あり)
破却 慶長二年(1597)福原直高が荷揚城(府内城)を築いたため、廃されたといわれる。
分類 平山城
現存 土塁
場所 大分県大分市上野丘西9丁目(旧豊後国大分郡)
アクセス JR大分駅から上野丘高校へ行こう。歩いてもよいが(20分くらいか)、タクシーが便利。JR大分駅を出て駅前公園を通り過ぎたらすぐ右折。産業通りという大きな道路を約500m進み、「顕徳町一丁目」交差点を右折する。日豊本線の線路を渡り、ひたすらまっすぐ。上り坂に差し掛かったところ(デイリーストア付近)で左へカーブしているが、とにかく道なりに進み、丘を上りきったところが上野丘高校だ。その正門を背にしたら、右の道を高校の敷地沿いに歩こう。1分もせず、大分上野郵便局がある。そのすぐ先を左に曲がり、まっすぐ1分くらいで到着。天満宮の鳥居の奥、または、金池消防分団の建物の裏だ。駐車場はない。


■大友館概要

大友館は鎌倉時代から戦国時代まで豊後守護であった大友氏の居館である。つまり守護所だ。

源頼朝の寵臣・大友能直(おおともよしなお)が豊後守護となって以来、大友義統(よしむね)が秀吉によって追放されるまで、大友氏は豊後、また九州の歴史に影響を与え続けた。(初代豊後守護は能直の孫・頼泰(よりやす)からという説もある。どちらにせよ能直は豊後にずっと住んでいたわけじゃないそうだ。外山幹夫「中世の九州」

さて、大友館については、はっきりしないことが多いようで諸説ある。
小野英治氏は、ここで紹介する「大友館」を大友氏泰(おおともうじやす)が創建したとしている。(「城郭と城下町10」、「日本城郭総覧」) 筑前・立花山城を築いた大友貞載(おおともさだとし)の弟で、太平記にも登場する大友氏第七代だ。
また、渡辺澄夫氏は、豊後国府が平安時代に「高国府」の地に拡大し、大友氏三代・頼泰の入国時からそこに守護所を構えたとしている。(「増訂豊後大友氏の研究」)
他にも、元弘年間(1331〜1334)に上野原に移築されたとか、大友宗麟が上原に館を移したとか、いろいろあるようだが、秦政博氏は府内市街に居館があった可能性を示しながらも、この上野台地の「御屋敷」を大友館とみておおむね間違いないとしている。(「宗麟時代の府内と臼杵」『大友宗麟のすべて』)

ここでは、現地案内板どおり、大友氏の居館が代々置かれていたものとして、話を進めよう。(そのほうが楽しいやん)
地形から言っても、府内を見下ろす高台で、急な崖もあり、居館を構えた地としてふさわしいと思う。
大友館跡からの眺め
しかしながら、残念なことにすっかり住宅地となっていて、わずかに土塁跡があるだけだ。土塁跡には、「西山城大友屋形址」の石碑が建っている。
なお、攻撃を受けた場合の詰の城は、高崎城(おサルさんの高崎山)だったという。


■大友館へGO!(登城記)
平成16年(2004)3月10日(水)

早朝、JR大分駅に降り立つ。駅前には大友宗麟公銅像が遥か遠くを睨んでいる。
JR大分駅前の大友宗麟像
さあ、大友館へ行こう。とタクシーで上野丘高校まで行った。
ところが、ここからが分からない。ガイドブック(「城郭と城下町10」)をみても「上野丘高校の正面左手の高台」とあるだけで、高校へ向って左手なのか、高校を背にして左手なのか判然としない。近所の人に聞いてみても知らないという。

そこで、妙親寺というお寺に聞いてみた。「この辺り全部が大友館のあったところ」と言われピンとこなかったが、
「そこの道を入って右に曲がると石碑がある」と教わり、早速行ってみる。(妙親寺さん、朝早くからありがとうございました)
妙親寺・親切に道を教えてくれた(感謝!)

住宅地をてくてく行くと、あった!
住宅地の奥に土塁と石碑を発見!

まわりより一段と高くなっているところに石碑が建っていた。「西山城大友屋形址」と書いてある。なぜ西山城なのだろう?(後で調べたところ、ここを西山城と呼ぶのは適切ではないそうだ)
大友屋形址の石碑

現地案内板を見て、さきほどのお寺のお嬢さんの言葉がようやく分かった。
大友館のほとんどすべてが住宅地となっているのだ。
この方角に館があったのだろうか(現地案内板より)

そして、居館の端の土塁だけが少し残っているということだった。土塁跡は2mくらいだろうか。
土塁跡

かつては、その外側に空堀があったそうだが、今は埋立てられたのだろう、平坦地になっていて家が建っている。
かつて空堀のあったところ(赤い屋根の家)

また、東側は急な崖となっていて、これが大友時代のままだとすると、守るに適している。
館の東側は急なガケになっている

ここで、「大友二階崩れの変」が起こったのか、と、しばし感慨にふけった。
大友氏第二十代・義鑑(よしあき)は、長男義鎮(よししげ・後の宗麟そうりん)を廃嫡しようとしたところ、家臣に二階の寝所を襲われ死去した。跡を継いだ二十一代・義鎮は、九州六ヶ国の守護を兼ね、大友氏の最盛期を築いた。そして、その次の第二十二代・義統(よしむね)のときに、あっという間に滅ぶのである。


■大友館戦歴

◆大友義鑑(おおともよしあき)は、嫡男義鎮(よししげ)を廃し、三男の塩市丸(しおいちまる)に家督を譲ろうとしたが、重臣四人(斉藤播磨守・小佐井大和守・津久見美作守・田口蔵人佐)は反対であった。そこで義鑑は、天文十九年(1550)二月十日朝、登城中の斉藤播磨守・小佐井大和守を殺害した。これを知った津久見美作守と田口蔵人佐は、その夜、大友館を襲撃し、二階にいた塩市丸とその生母、塩市丸の姉妹および侍女らを斬殺。さらに義鑑にも斬りつけたが絶命には至らず、逆に近臣に討ち取られた。義鑑はこの時の傷が原因で二日後に死去。(二階崩れの変)
このとき、大友義鎮は別府浜脇温泉で湯池中であり、事件には直接関わっていない。しかし、知らせを受けた義鎮の行動が、あまりにも素早く的確なところから、義鎮黒幕説もある。
塩市丸擁立の中心人物であった入田親誠(にゅうたちかざね)は、事件の二日後、急遽本拠地に帰り、津賀牟礼城(つがむれじょう)に籠城した。義鎮は入田征伐を戸次鑑連(へつぎあきつら)らに命じた。入田親誠は、舅の阿蘇大宮司惟豊(あそこれとよ)を頼って肥後へ落ちていったが、惟豊は親誠を討ち、首を府内に届けた。


以上



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