---- つるまるじょう ----
別名:鹿児島城 かごしまじょう
平成16年10月31日作成
平成16年11月3日更新
薩摩島津藩七十七万石の居城
本丸の石垣(カドが二重になっているのは鬼門よけ)
・データ
・鶴丸城概要
・鶴丸城へGO!(登城記)
・鶴丸城戦歴
名称 | 鶴丸城 | つるまるじょう |
別名 | 鹿児島城 | かごしまじょう |
築城 | 慶長七年(1602)、初代薩摩藩主・島津家久(いえひさ)が築城開始、完成時期は不明。 | |
破却 | 明治六年(1873)存城と決定されたが、同年火災で本丸が焼失。さらに明治十年(1877)、西南戦争で二の丸も炎上した。その後、明治三十四年(1901)、第七高等学校造士館(七高)が置かれた。 | |
分類 | 平城 | |
現存 | 堀・石垣 | |
場所 | 鹿児島県鹿児島市城山町(旧薩摩国鹿児島郡) | |
アクセス | JR鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)の正面から左のほうへ市電(路面電車)沿いに進む。「高見馬場」といういかにも城下町らしい交差点を過ぎると、鹿児島一の繁華街「天文館」だ。 市電、バスの場合はここで下車して、左のアーケード「天文館通り」へ入り、アーケードが終っても気にせずまっすぐ進むと大きな交差店に出るので斜めに渡れば中央公園(昔、造士館・演武館)なので、それも斜めに突っ切ると、西郷さんの銅像に出る。そこは鶴丸城の二の丸の跡なのだけど、昔を偲ぶものはない。銅像を左に見ながら国道10号線(磯街道)を進むと、県立図書館(これも二の丸跡)を過ぎ、水堀が現われ、鶴丸城の大手門「御楼門跡」に到着する。 車の場合は、天文館の次の交差店(三越がある)を左折し(照国通り)、400mくらい行くと、中央公園が右手に見えるので、ここの駐車場に停めて、あとは歩こう。鶴丸城には駐車場はなかったと思う。 |
■鶴丸城概要
鶴丸城とは鹿児島城のことで、江戸時代の薩摩藩主の居城だ。
薩摩藩主とは言わずも知れた名門・島津家のことで、鎌倉時代の地頭職、守護職から始まり、守護大名、戦国大名、そして徳川時代の近世大名と、代々薩摩大隅地方に連綿と続いた家柄である。拙者はよく知らないのだけれど、鎌倉初期の守護が明治維新のときまで大名として続いた例は、他にあるのだろうか?
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍となった島津家は、史上名高い前進退却戦(島津の退き口)で当主・島津義弘(しまづよしひろ)が辛うじて薩摩へ帰還した。当然、激怒したであろう徳川家康と全面戦争になりそうになったが、なぜか旧領安堵のうえ、戦争は回避された。(このあたり、拙者が大好きなところじゃ)
その後、義弘の跡を継いだ家久(いえひさ)は、徳川幕府に認められ薩摩藩初代藩主となった。島津家で「家久」という名前は何人かいて、ややこしい。初代藩主・家久は、忠恒(ただつね)という名であったが、徳川家康の偏諱(へんき・この場合は家の字)をもらって家久と改名した。
さて、その家久は、それまでの居城であった「内城(うちじょう)」から新たに城を築いて移った。それが鶴丸城(鹿児島城)だ。この転居に父・義弘は反対した。それは鶴丸城が海に近く、海上からの攻撃に弱い、という理由からだった。そのことは家久も歴代藩主も承知していたのだろう、鶴丸城全面の海はどんどん埋立てられたそうだ。(豊増哲雄氏『古地図に見るかごしまの町』)
なお、鶴丸城というのは、島津義弘の本拠地・伊作城(いざくじょう)の別称「亀丸城(かめまるじょう)」に対して呼ばれたものといわれている。
鶴丸城は大藩の居城にしては、ずいぶんと小さく、質素である。それは、徳川幕府に遠慮したためだとも、九州最南端で籠城戦となってもどうせ勝ち目がないためだとも言われている。拙者は、後者の理由が理にかなっていると思う。薩摩の外城制度(とじょうせいど)は、そのことも考えてあったんじゃないだろうか。
また背後の山(城山しろやま)と一体化しており、有事の際は城山に立て籠もって戦う意図があった。したがって、中世城郭の戦術思想をもった城といえるだろう。
古写真をみると、本丸の大手門は櫓門で、北へ向って二階建ての多聞櫓が続き、一方、南の端っこに単層の櫓が一基ある。重層の石垣や並び立つ櫓といったものはない。もちろん天守閣もない。実にさっぱりとした城なのだ。
幕末には、きっと西郷隆盛や大久保利通らがここを出入りしていたのだろう。そして、西南戦争で傷ついた西郷軍は城山を最後の拠点として戦い、散っていったのだ。
■鶴丸城へGO!(登城記)
平成15年(2003)11月12日(水)
鶴丸城はずいぶんと小さい。小学生のころ行ったけど、何もなかったという印象が残っている。
しかし、ここは薩摩島津藩七十七万石の本城なのだ。
市役所から城跡へ向かう。
国道10号線(磯街道)の向こう石垣と堀が約400m続いている。
石垣に一箇所、アコウの木というのがへばりついている。
なにやら不気味だ。
堀の端っこ、石垣の組み方が変だ。(これについては後ほど理由が分かる)
堀を左に見て大手門へ向かう。
門へは石橋が架かっている。
これは現存しているものだ、と何かで読んだような気がするがはっきりしない。
ともかく橋を渡る。
ここには往時、櫓門があった。御楼門(ごろうもん)という。
今は礎石だけが残っている。御楼門の内側は、もちろん枡形だ。
そして、正面にはおびただしい弾痕だ!
御楼門は明治6年12月焼失していると案内板にあるので、この弾痕は西南戦争時のものだ。
枡形を過ぎると本丸跡だ。
結構広い。
歴史資料館「黎明館」が建っているが、
訪問するのは後回しにして本丸内を歩いてみる。
まず北側の北御門(きたごもん)へ行ってみる。
バスの入口となっていて頑丈に作られている。
当時の面影は全く無い。幅も数倍になっているだろう。
ちょっと城外へ出る。
ずっと不思議に思っていたが、鶴丸城の堀はどこからどこまであったのだろうか。
どうやら現地案内板のとおり、北の端は薩摩義士碑のあたりまでのようだ。
その向こうは城山(しろやま)だ。
鶴丸城は、背後の城山という山城と、ふもとの館づくりの本丸・二の丸というセットの構造だった。
本丸跡へ戻ってみよう。
あちこちに旧制七高のゆかりの品がある。
七高生久遠の像の横には大正天皇、昭和天皇が
それぞれ皇太子時代にお手植えになった樹(の碑)が並んでいる。
でも、どれがお手植えの樹かよく分からない。
本丸の南東隅には、御角櫓(おすみやぐら)の基礎部分が残っている。
鶴丸城の櫓はこの御角櫓のほかには、兵具櫓という多聞櫓があるくらいで、
ずいぶんと質素である。
本丸跡から県立図書館へ階段を下りるとそこは二の丸跡だ。
先ほど、堀の端っこの石垣が変な組み方をしていた謎がここで解けた!
現地案内板によると、往時、本丸と二の丸は水堀で仕切られていたという。
つまり鶴丸城の堀は、現在ではL字型だが、
もともとはU字型(といっても角張ったU)だったのだ。
今は埋め立てられて、芝生が当時の形状を偲ばせるだけだが、
不自然な石垣は堀の途中から埋め立てた跡なのだ。
時代の流れで仕方ないのかもしれないが、なんとも勿体無い。
いつの日か、掘り起こされて復元されてほしいものだ。
二の丸の痕跡を感じさせるものは、他にはない。
県立図書館の平坦地だけだが、
もともとは、図書館から美術館、博物館、西郷像あたりまで、ずっと二の丸だったそうだ。
要するに城山の前面全部が城地だったということだ。
図書館正面の入り口は、二の丸御門(天明五年(1785)以降は矢来御門と改称)の跡だ。
枡形になっているのは、当時の名残だろうか?
門柱は旧七高のものだそうだ。
二の丸は、明治十年(1877)9月24日、西南戦争最終日に焼失した。
お城としての面影は、どうしても薄くなっている感があるが、地名は残っていくのだろうか。
鶴丸城南東あたりに、館の馬場(やかたんばあ)の石碑がひっそりと建っている。
■鶴丸城戦歴
◆明治十年(1877)二月十五日、鹿児島へ帰郷していた西郷隆盛がついに挙兵、西南戦争が始まった。しかし西郷軍は熊本城攻略に失敗、退却を続け、ついに故郷・鹿児島へ帰りついた。最後は城山へ籠ったが、そのときに鶴丸城にも拠点を置いたのだろう。鶴丸城の大手門周辺や隣接する「私学校」の石垣にはおびただしい銃弾の痕が残っている。同年九月二十四日、西郷隆盛自決、維新後最大の内乱は終った。
以上
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