---- ひらさじょう ----
別名:諏訪之尾城 すわのおじょう

平成16年11月14日作成
平成17年1月15日更新

秀吉に最後まで抵抗した硬骨の城

平佐西小学校
平佐城跡の平佐西小学校

データ
平佐城概要
平佐城へGO!(登城記)
平佐城戦歴


 

■データ

名称 平佐城 ひらさじょう
別名 諏訪之尾城 すわのおじょう
築城 薩摩太郎忠友(さつまたろうただとも)が築城したといわれる。年代はよく分からない。
破却 よく分からない。平佐城は江戸時代も外城のひとつであったので、明治期に破却されたのだろうか?
分類 平城
現存 なし
場所 鹿児島県川内市平佐町(旧薩摩国薩摩郡)
アクセス JR川内駅(せんだいえき)を背にして立ち、目の前のロータリーから左の細い道に入る。150mくらいで信号に出るので左折、JR線の高架をくぐると、すぐに左に平佐西小学校が見える。歩いても3分くらい。駐車場はない。


■平佐城概要

平佐城は、九州新幹線の川内駅(せんだいえき)の裏側(西側)一帯にあったという。
今は、全く跡を残しておらず、平佐西小学校(ひらさにししょうがっこう)の一角に「平佐城址」の石碑があるくらいだ。

この城は、豊臣秀吉の九州平定戦で、最後の最後まで豊臣軍と戦い、島津軍の意地をみせたことで知られている。
秀吉が本陣を置いた「泰平寺(たいへいじ)」からわずか1.5キロしか離れておらず、大軍に取り囲まれたことだろう。

その後は、平佐外城が置かれ、北郷氏がこの一帯を治め明治を迎えた。

■平佐城へGO!(登城記)
平成13年(2001)1月8日(月)

何を隠そう拙者、学童の頃、鹿児島県川内市(せんだいし)に住んでおった。
小学生のとき、平佐西小には昔お城があった、という話を先生から聞いたことがある。
たしか社会の授業か何かで行ったことあったと思うが、全然覚えていない。

ということで、行ってみた。
小学校の敷地は平佐城のニの丸にあたるそうだ。
本丸は、住宅地となって削り取られて跡形もない。
ついでに三の丸はJR川内駅あたりだそうだ。

平佐西小学校の校庭はまわりより少し高くなっているけど、
これはお城の名残なんだろうか?そうだといいんだけどな。
車より高い小学校の校庭

校舎裏に「平佐城址」の石碑がポツンと立っている。
これだけが激戦の様子を後世に伝えていくのだろうな、と思った。
城跡を示す石碑


■平佐城戦歴

◆島津家第五代・貞久(さだひさ)は、薩摩国守護職を三男師久(もろひさ)に、大隅国守護職を四男氏久(うじひさ)にそれぞれ譲った。そのため、師久・氏久とも系図で第六代となっている。当初は協力して、九州探題・今川了俊(いまがわりょうしゅん)の軍勢と戦っていたが、了俊が失脚し九州からいなくなると、両家は対立するようになった。そして、師久の子・伊久(これひさ=総州家)と、氏久の子・元久(もとひさ=奥州家)はついに戦火を交えた。そして、応永十四年(1407)、総州家・伊久が平佐城で亡くなると、奥州家・元久は同城を占領した。(尚古集成館 『島津家おもしろ歴史館』) この争いに幕府は伊久側を擁護、伊久死後は子・守久に薩摩国を委ねたが、薩摩国内に守久の支配はおよばないため、幕府も既成事実を追認し、応永十六年(1409)、島津元久を薩摩国守護に任じた。(山川出版社 『鹿児島県の歴史』)

◆天正十五年(1587)、九州征伐を進める豊臣秀吉は肥後国から薩摩へ入った。四月二十八日、秀吉軍の小西行長(こにしゆきなが)・脇坂安治(わきさかやすはる)・九鬼嘉隆(くきよしたか)ら兵八千余が平佐城を攻めた。守るは、桂忠ム(かつらただあき)とわずか三百の兵。しかし大軍を前に桂は一歩も引かず激戦、一日戦っても城は落ちなかった。なおも桂は戦意旺盛だったが、このとき島津義久(しまづよしひさ)はすでに降伏を決意しており、なんとか桂を説得し、開城させた。のちに秀吉に拝謁した桂忠ムは、その武勇を称えられ宝寿の短刀一振りを与えられたという。

以上



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