---- ひらまつじょう ----
別名:平松館 ひらまつやかた
平成18年5月4日作成
平成18年5月5日更新
島津義弘の初期の居城
平松城の長く続く石垣
・データ
・平松城概要
・平松城へGO!(登城記)
・平松城戦歴
名称 | 平松城 |
ひらまつじょう |
別名 | 平松館 |
ひらまつやかた |
築城 | 現地案内板には、天文二十三年(1554)岩剣合戦ののち島津義弘が築いた、ときっぱりと書いてある。 一説に、その前は帖佐平安城主・平山氏一族の持城であったとも。 |
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破却 | はっきりしない。 |
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分類 | 平城 | |
現存 | 石垣 | |
場所 | 鹿児島県姶良郡姶良町(旧大隅国姶良郡) | |
アクセス | 目標は重富小学校だ。 JR鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)から電車通りを北東へ天文館方面に行き、天文館を通り過ぎて、「いづろ」交差点を左折、山形屋を通り過ぎ、市役所も通り過ぎてすぐ、「桟橋通」交差点を左折、すると鶴丸城の堀端へ出るので、「城山入口」交差点を右折しよう。これが国道10号線だ。 あとは国道10号線をひたすら北上しよう。金錦湾沿いのドライブは快適だ。 約15キロ先のJR重富駅ちかくの重富郵便局の交差点を左折するのだ。すると左手前方に、「まんが日本昔ばなし」に出てきそうなトンガリ山が見えてくる。岩剣城だ。 左折してから700mくらいで、重富小学校の看板が出ているので、素直に左折しよう。その正面突き当りが小学校、すなわち平松城跡だ。 駐車場はないが、小学校の校門の両脇には充分なスペースがあるので停める場所には困らないぞ。 |
■平松城概要
薩摩・島津氏の中でももっとも有名な人物といえば、島津義弘(しまづよしひろ)と言っても過言ではないと思う。島津家第十五代・貴久(たかひさ)の二男として天文四年(1535)伊作城(いざくじょう=別名、亀丸城)に生まれ、一生のほとんどを戦場で過ごしたといわれるほど戦いの連続であって、兄の島津義久(しまづよしひさ)を援けて薩摩藩の基礎を作った。
その義弘の初陣は、天文二十三年(1554)の岩剣城合戦だ。
大隅国の国衆・蒲生範清(がもうのりきよ)は、祁答院(けどういん)氏、入来院(いりきいん)氏、菱刈(ひしかり)氏らの支援を受けて、守護・島津氏に対抗していた。この年の九月、祁答院良重(けどういんよししげ)、入来院重嗣(いりきいんしげつぐ)、蒲生範清、菱刈隆秋(ひしかりたかあき)らは島津方の肝属兼演(きもつきかねひろ、兼盛かねもり、とも)を加治木城に攻めた。島津貴久は、加治木城を救援するために出陣、蒲生氏の支城・岩剣城(いわつるぎじょう)を攻めた。このとき、岩剣城は祁答院氏(入来院氏とも)の兵が守っていたというが、断崖の上にある堅城で容易には落ちなかった。貴久の弟・忠将(ただまさ)は鉄砲で攻撃し戦火をあげたが、祁答院方も鉄砲で応戦したという。すでに双方ともに、鉄砲を使っているのだ。
初陣の義弘は、谷山、鹿児島、大隅の兵を兵を率いて白銀坂(しらがねざか)に陣を敷いた。白銀坂の北に伏兵をおいたうえで、岩剣城下を焼き、稲を刈ると、これに誘い出された敵兵を伏兵が討ち取る戦果をあげた。さらに島津勢は岩剣城へ猛攻をかけると、加治木城を攻めていた蒲生範清・西俣盛家(にしまたもりいえ)ら二千の兵が駆けつけてきた。島津方は星原(帖佐)にこれを迎え撃ち、祁答院良重の子・重経(しげつね)や西俣武蔵守盛家を討ち取って退けた。その夜、岩剣城の守兵は闇に紛れて退去し、ここに岩剣城は落城したという。(新人物往来社 『島津義弘のすべて』)
島津貴久は、勲功のあった義弘を岩剣城の城将としたが、岩剣城は断崖絶壁の山上にあるため生活に不便であった。そこで、義弘は麓に居館を築いてそこに住んだ。これが平松城だ。
蒲生氏との争いはその後も続き、弘治元年(1555)帖佐城(ちょうさじょう)、翌弘治二年(1556)松坂城(まつざかじょう)と蒲生氏の支城を落とし、弘治三年(1557)蒲生範清は本城の蒲生竜ヶ城(がもうりゅうがじょう)を退去した。島津義弘は永禄三年(1560)まで岩剣城の城番だったので、蒲生合戦にもここから出陣したのだろう。
その後の義弘は大隅、日向、肥後、豊後、筑後、筑前と九州各地を転戦した。
天文十五年(1587)豊臣秀吉が九州を進攻、島津氏は薩摩川内(せんだい)の泰平寺(たいへいじ)で秀吉に降伏した。秀吉は島津義久に薩摩国、義弘に大隅国を与えた。その後の朝鮮出兵には島津家として義弘が参加、朝鮮ではその武勇に「鬼石曼子(おにしまづ)」と恐れられた。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いで、有名な敵中突破を成し遂げ、鹿児島へ帰還後も一時期、平松城に滞在している。
その後、居館の帖佐御屋地(ちょうさおやじ)へ戻るが、慶長十一年(1606)三たび居館を平松城に移した。翌年、ここで夫人が没している。(現地案内板では平松城へ移ったのを慶長十年(1605)としている)
慶長十二年(1607)、義弘は加治木館へ居館を移し、元和五年(1619)加治木館にて没した。
江戸時代に入ってからの話であるが、第22代藩主・島津豊継(しまづとよつぐ)は弟の忠紀(ただのり)に越前島津家を再興させ、平松城は越前家の居館となった。その際、越前家の祖地にちなんで、この付近を重富郷と名付けたので、越前家は重富(しげとみ)家ともいわれる。
幕末には、島津久光(しまづひさみつ)も越前家の第二十代当主として、平松城に住んだことがあるという。(現地案内板)
明治になると平松城は重富村の役所がおかれ、今は重富小学校となっている。
小学校の正面には石垣が残っていて、かすかに当時の面影を伝えている。
■平松城へGO!(登城記)
平成17年(2005)8月28日(日)
今日は鹿児島へやってきた。九州新幹線「つばめ」に初めて乗ったぞ、と小学生のような感想を得たところでお城めぐりだ。
JR鹿児島中央駅でレンタカーを借りて、錦江湾を北上、めざすは岩剣城だ。
JR重富駅付近で左折すると、左手に異様な形の山が見えてきた。あれが岩剣城か、険峻な山だな。
岩剣城が近づいてくると、平松城の看板が出ていた。
お、ラッキー、早速行ってみよう。
平松城は、現在の重富小学校だ。
岩剣城の城番となった若き日の島津義弘が、山の上では不便なためふもとに築いたものだそうだ。
ふむふむ、そうだろう、いくら堅固でも日常生活に困るような場所には住めぬものだ。
重富小学校の正門の両側には長い石垣が続いている。野面積みで、力強さを感じる石垣だ。
小学校の敷地はまわりの土地よりやや高くなっていて居館の名残りを感じる。ここに義弘が住んでいたのか。
なお、この校門は明治時代の鹿児島県庁の正門だそうだ。
正門の前は広い直線道路で、「館の馬場」というそうだ。なんだか今にも馬が疾走してきそうだ。
館の馬場に沿って民家が建っているが、古びた門なんかがあって、とても雰囲気が良いぞ。
小学校の裏のほうへ行ってみる。が、とくに何もなかった。
最近、変な事件が多いので小学校の中には入りにくいが、島津忠重(しまづただしげ)公の書による「亡師友碑」という石碑があった。島津忠重は薩摩藩最後の藩主・島津忠義(しまづただよし)の子だ。
平松城は江戸時代には越前島津家の居館となっていて、若き日の島津久光(しまづひさみつ)が越前島津家当主として住んだことがある、と現地の案内板に書いてあった。石碑の忠重公は久光の孫にあたる人物だ。
平松城のすぐ近くに、岩剣城の山塊が聳えている。
しかし盛夏なので山城のぼりには適さない。岩剣城には、またいつの日か挑戦することにしよう。
■平松城戦歴
◆ 天文二十三年(1554)、岩剣城の城番となった島津義弘が平松城を築いた。その後、弘治三年(1557)まで蒲生氏との合戦が続いたので、義弘はここから出陣したものと思われる。
以上
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