---- ひじじょう ----
別名:暘谷城 ようこくじょう
平成19年7月29日作成
平成19年7月29日更新
豊後日出藩・三万石の居城
本丸の空堀と石垣(正面ななめの道は搦め手門)
・データ
・日出城概要
・日出城へGO!(登城記)
・日出城戦歴
名称 | 日出城 |
ひじじょう |
別名 | 暘谷城 |
ようこくじょう |
築城 | 日出藩初代藩主・木下延俊により慶長六年(1601)から築城、翌年にはだいたい完成。 |
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破却 | 明治六年(1873)廃城。 | |
分類 | 平山城 | |
現存 | 石垣、堀。 | |
場所 | 大分県速見郡日出町(旧豊後國速見郡) | |
アクセス | 日出城への道順は単純だ。JR大分駅から国道10号線を北へ北へとひたすらまっすぐ行くのだ。別府湾を右に見ながら、まっすぐ行こう。別府の温泉地帯を通り過ぎると、その隣町はもう日出町だ。 JR大分駅からは約25キロ、豊後豊岡駅からは約2キロ、「八日市」交差点で右斜めの道へ入ろう。500mで道路右に日出郵便局があるが、それを通り過ぎて100mで次の横道があるので右折しよう。「暘谷城跡」の標識が出ているので迷うことはないはずだ。50mくらいでまた看板が出ているので左折する。すでにそこは日出城の二の丸だ。100mくらいで日出小学校の校門があり、その横に日出城の案内板がでている。駐車場は無いが、小学校の横は少しスペースがあるので停めることができるぞ。 日出小学校の周りに石垣、堀が残っているので、あとは歩いて散策だ。 |
■日出城概要
日出(ひじ)は別府湾の北岸にある。ちょうど大分(府内)からみて別府湾の対岸だ。
豊後国(現在の大分県)は江戸時代、小さな藩がいくつも置かれたが、この日出にも独立した藩があった。藩主は木下氏だ。
慶長六年(1601)、木下延俊(きのしたのぶとし)が三万石で日出に入部した。前年の関ヶ原の戦いの結果というが、どういった勲功によるものか、今ひとつはっきりしない。関ヶ原合戦の直後、細川忠興(ほそかわただおき)が田辺城を攻められたお返しに福知山城の小野木重次(おのぎしげつぐ=公郷とも)を切腹に追い込んでいるが、この福知山城攻めに木下延俊がかけつけているので、そのことだろうか。(戸田敏夫氏 「戦国細川一族」)
木下延俊は、豊臣秀吉の正室・北の政所(きたのまんどころ)の兄・木下家定(きのしたいえさだ)の三男(一説に四男)だ。つまり秀吉の甥にあたるわけだが、豊後日出を与えられたのは、妻が細川忠興の妹だったため大名に取り立てられて、忠興(豊前中津)の近くに領地を与えられたものだろうか。日出はそれまで細川氏の預かり地だったそうだ。(山川出版社 「大分県の歴史」)
日出には元々、大神氏(おおがみし)によって南北朝時代に築かれた城があったともいうが、よく分からない。(学研 「よみがえる日本の城20」)
そういう旧蹟があったとしても、今に残る日出城は、木下延俊が日出に入部して築いたものだ。別府湾を臨む断崖の上に日出城はある。本丸の南が海に面しており、その周り、東、北、西を二の丸が囲み、さらにその東側に三の丸、北側には城下町が取り囲む。本丸には三重の天守閣があがり、三万石にしては規模の大きな城といわれているが、これは義兄の細川忠興が当時中津城主で、縄張りは忠興が自ら行ない、また石垣普請には家臣の穴太理右衛門(あのうりえもん)を派遣し、忠興の支援のもとに築かれたものだからだという。
日出城には、国松伝説がある。慶長二十年(1615)五月八日、大坂夏の陣で淀殿と豊臣秀頼は自害。秀頼には国松(くにまつ)という男子があったが五月二十三日に六条河原で斬られた。(新人物往来社 「図録日本の合戦総覧」) この国松が実は生きていて、縁戚の日出藩を頼って移り、天寿を全うしたというものだ。もちろん、真偽のほどは定かでない。
話は変わるが、本丸の直下の海に棲むマコガレイは、ことのほか美味で、城下カレイ(しろしたかれい)と呼ばれていることは、森高千里の「ロックンロール県庁所在地」にも歌われているとおりだ。
木下氏は小藩ながら明治まで日出にあって、延俊のあと、俊治(としはる)、俊長(としなが)、俊量(としかず)、俊在(としあり)、長保(ながやす)、長監(ながてる)、俊能(としよし)、俊泰(としやす)、俊胤(としたね)、俊マサ(としまさ・マサは林の中に矛、下に心)、俊良(としよし)、俊敦(としあつ)、俊方(としかた)、俊程(としのり)、俊ヨシ(としよし・ヨシは原の下に心)と十六代つづいた。(学研 「よみがえる日本の城20」)
三代藩主・俊長は中国の古書「淮南子(えなんじ)」から引用して、日出城を暘谷城(ようこくじょう)と名付けた。(現地案内板)
俊ヨシ(としよし、または、としまさ)のときに明治維新を迎え、明治二年(1869)の版籍奉還で藩知事となる。明治四年(1871)七月十四日、廃藩置県により日出藩は廃せられ日出県となり、同年十一月十四日、大分県に編入された。(新人物往来社 「徳川300藩最後の藩主」)
日出城は明治六年(1873)正式に廃城が決定し(森山英一氏 「名城と維新」)、明治七年(1874)建物は競売にかけられた。(現地案内板)
この競売のときではないが、鬼門櫓が大正十年(1921)に城外へ移築されて、現存する。
木下家は、俊ヨシ(としよし、または、としまさ)の後は、俊哲(としあき)、俊煕(としひろ)、崇俊(たかとし)と続いたが、明治十七年七月八日に子爵を授けられている。俊哲(としあき)のときだと思う。昭和時代の当主・俊煕(としひろ)は、自ら国松の血を引いていると主張していたそうだ。(新人物往来社 「日本の名家・名門人物系譜総覧」)
日出城は現在、本丸は日出小学校(ひじしょうがっこう)、二の丸は日出中学校(ひじちゅうがっこう)となっているが、立派な石垣と堀が残っている。
■日出城へGO!(登城記)
平成17年(2005)7月23日(土)
今日は大分へやってきた。目指すは安心院町のアフリカンサファリだ。
でもちょっと待ってくれ。朝も早いのだから、日出城に寄ってもいいだろうか。
と、妻の決裁を仰ぎ、日出城へやってきた。妻から与えられた時間は30分だ。き、厳しいな。。
日出小学校の正門近くに車を停め、さあ探訪だ。
正門横に、「暘谷城跡」の石碑がたっているが、その背後の石垣はてっぺんが「かまぼこ」型になっている。
時計回りに本丸をまわってみよう。
本丸東の石垣は高くて立派だ。ほほう、二段になっているな。
搦め手門のあったところは小学校の裏門になっている。当時の名残りだな。
車がたくさん停まっているのは、子供たちの早朝野球のためだろう。最近、学校にはとても入りにくいが、行ってみよう。
裏門横に鐘楼が建っているが、この鐘は三代藩主・木下俊長が鋳造させたものだそうだ。戦時供出をまぬがれたのだろう、よく残っていたものだ。
つぎは天守台へ行ってみよう。子供たちにジロジロ見られながら校庭を歩く。
天守台は校庭から見るとせいぜい3mくらいしか高低差がないが、下の海岸から見上げると、さすがに天守閣だなと感じるくらいに高い。
本丸はまるごと小学校になっていて、建物は全然残っていない。
しかし、よく見ると、そこかしこにお城の名残りがある。となりの二の丸は日出中学校だ。
さあ、海岸へおりてみよう。護岸工事が施されていて、波が直接、石垣を洗うことはないが、古図をみると海にじかに接していたようだ。
下の写真の中央やや下に、右上がりに斜めに石垣が組んであるが、ここは階段になっていて、しっかり古図にも載っていた。
海沿いの石垣の横に、軍艦「海鷹(かいよう)」の石碑があった。昭和二十年(1945)七月二十四日、豊後水道で機雷に触れ、城下海岸に係留されたが、連日の空襲を受け大破、放棄されたそうだ。
「海鷹」は、もともと豪華客船「あるぜんちな丸」だったが、昭和十七年(1942)、海軍に徴用され空母に改造された。排水量13,600トン、23ノット、12.7センチ高角砲が8門、24機を搭載した小型空母だ。大戦末期は特攻機などの標的艦になったという。鮮やかな緑色の塗装だったそうだ。(光人社 「聨合艦隊軍艦銘銘伝」)
石碑の揮毫は、第三代「海鷹」艦長の有田雄三大佐だ。
本丸の南端には、「望海櫓」という二層櫓があったが、そこは今でも複雑な石垣が組まれている。
海沿いの一番南西隅には、人柱祠(ひとばしらのほこら)が祀ってあった。築城時に人柱を立てたのだそうだ。これは手を合わせるしかない。
本丸の石垣と道をはさんで西側にも、石垣が続いている。たぶん、これが古図にある二の丸海沿いの石垣だと思う。
本丸の西側はカクカクと折れて北へ続く。現在、校舎が建っているあたり、ここは昔は多聞櫓があって北と南に二層櫓があがっていた。
その向かいにも石垣が残っているが、これは古図にははっきりしないが堀の石垣だ。
さらにのぼると、「致道館(ちどうかん)」があった。第十五代藩主・木下俊程(きのしたとしのり)が安政五年(1858)に建てた藩校で、移築したものだそうだ。
中に入ると、係りの方が丁寧に対応してくれた。ありがたい。
本丸のまわりの堀は、古図をみると当時も大半が空堀だったようだ。今でも水は張っておらず、北東側の一部が池のようになっているだけで、あとはひまわりなどが咲いている。
さあ、戻ろう。。おっと、いかん!いつの間にか1時間を越えているぞ!!
お屋形さま(妻)の怒っている顔が浮かぶ、、戻るのが恐ろしい、、いや戦国武者たるもの、そんなことでどうする、堂々と戻ろうではないか。。
(ここから先は、書けないので、今回はこれで終了します。。。。合掌)
■日出城戦歴
※日出城には、とくに戦歴というほどのものは無いようだ。
以上
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