---- くばらじょう ----
別名: (なし)

平成22年1月9日作成
平成22年1月9日更新

大村氏の最初の居城、といわれる城

久原城のあった場所は民家になっている
久原城のあった場所(突き当たりに標識が立っている)

データ
久原城概要
久原城へGO!(登城記)
久原城戦歴


 

■データ

名称 久原城
くばらじょう
別名 とくになし。
築城 築城についてははっきりしないが、正暦五年(994)に藤原直澄が居城とした、と云われる。(現地案内板)
破却 不明。
分類 平城(標高8m)
現存 とくになし。
場所 長崎県大村市久原郷(旧肥前國彼杵郡)
アクセス 久原城は、玖島城(大村城)の近くにある。
まずは玖島城の入口、「大村公園前」交差点まで行ってみよう。行き方は玖島城のページに記したとおりだが、ここでもう一度記してみよう。
JR長崎駅前から高速長崎自動車道へ乗り、福岡方面へ30分くらい走ると「大村インターチェンジ」なので、ここで降りよう。道なりに大村市街方面へ行くと、2キロくらいで「桜馬場町」交差点なので左折だ。すると国道34号線になるので、あとはまっすぐ4キロくらいで「大村公園前」交差点だ。

ここをを右折すれば大村公園だが、久原城へ行くには、「大村公園前」交差点を左折するのだ。その道は、本小路武家屋敷跡の通りであり、道の左側、大村小学校よこに案内板が出ている。案内板を過ぎ、100mくらいで右折する。この右折する地点は信号も交差点名も何もない。目印としては、JR大村線の高架の手前、吉田歯科のあたりで右に曲がるのだ。
そうすると100mくらいで道が左、またすぐ右へとカギ型に折れている。この左へ折れるあたりに「久原城跡」の標識が立っている。ここが久原城だが、現在は民家になっている。位置としては大村高校の北側だ。
駐車場も何もないので、大村公園に駐車して、歩いていくのが良いと思うぞ。






■久原城概要
久原城(くばらじょう)は、大村氏発祥の地、といわれる。
大村氏の祖は、「大村家譜」などによれば藤原純友(ふじわらのすみとも)の孫・直澄(なおずみ)である、とされる。純友の乱によって藤原純友は勅勘を蒙ったが、永延二年(988)純友の霊を慰めるために勅勘が許され、純友の孫・直澄が伊予国から名乗り出て肥前国の藤津郡(ふじつぐん)・彼杵郡(そのぎぐん)・高来郡(たかきぐん)を与えられた、という。のち正暦五年(994)直澄が伊予国大洲(おおず)から肥前彼杵郡に下向し、大村氏を名乗ったのが大村氏のはじめとされる。藤原直澄(大村直澄)は入部後すぐに久原城に入ったという。(新人物往来社 「日本城郭大系17」、同 「戦国人名事典」)

しかし外山幹夫氏によれば、藤原直澄なる人物は藤原氏の系図に確認できず、また当時は朝廷から所職を受けることが通例であって、所領を与えられるなどということがあるはずもなく、大村氏が藤原純友の後胤であるという説は信じられないという。むしろ、肥前国藤津荘司・平清澄の子に直澄という人物がおり、このほうが可能性が高いようだ。平清澄は元永二年(1119)十二月、何らかの理由で荘司を解任されて京に抑留され、その子・直澄は新たな荘司・僧範誉と争ったため、直澄は平正盛(たいらのまさもり)の追討を受けて斬首された。
大村氏は徳川幕藩時代に大村藩主として明治まで続くことになるが、その家譜をつくるにあたって、先祖の直澄が斬首されたことを隠すために、藤原純友の名を借りたのではないか、と外山幹夫氏は考えている。(新人物往来社 「日本城郭大系17」)

そうなると、久原城が大村氏発祥のときからの居城である、という伝承はどうなるのだろうか。
久原城の現地標識には、正暦五年(994)に藤原直澄が居城とし、以後五百年にわたって大村氏の居城であった、といわれる旨が書いてある。(「現地案内板」)
一方、大村純忠(おおむらすみただ)が三城(さんじょう)を築くより前の大村氏は、もっと北の郡川(こおりかわ)に沿って好武城(よしたけじょう)・今富城(いまとみじょう)などを築いており、大村氏はこの川沿いを本拠としていたのは間違いなさそうだ。(新人物往来社 「日本城郭大系17」)
すると、藤原直澄の存在はなかったことと同時に、久原城が大村氏の代々の居城であったということは否定されるようである。なお、久原城自体があったか、なかったか、については、外山幹夫氏は何とも言えないが大村氏の出城の一つであったことは確かだろう、と推測している。(新人物往来社 「日本城郭大系17」)

久原城は、玖島城(大村城)の近く、玖島城が海に向かって突き出している地形の根元のあたりのやや小高くなっている場所にある。地形としては決して峻厳ではなく、なだらかな丘だったと思われる。イメージとしては、五島福江の江川城のような感じだ。拙者の意見としては、出城というより、平時の館が置かれていたような地形だと思う。ひょっとしたら、中世の別荘だろうか。

ということで、当ホームページでは久原城が大村氏発祥の地であるという伝承を紹介するとともに、その可能性は低いことを併記するに留めよう。
久原城は、大村公園から歩いて五分程度なので、玖島城(大村城)を訪問した際に少し足を伸ばしてみるのも、いいと思う。




三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■久原城へGO!(登城記)
平成19年(2007)12月16日(日)

今日は大村散策だ。玖島城(大村城)へ行ったついでに久原城へも行ってみよう。
大村公園からは歩いていけるぞ。

大村市役所ホームページから印刷した地図を頼りに、こっちかなと歩いていく。
なだらかな坂をのぼっていくと道は90度左へ曲がっているが、その曲がり角に標識が立っていた。「久原城跡」と書いてある。
久原城跡の標識

おお、ここか。と言っても、そこは民家だ。民家の塀が石垣風に石を積んでいるが、もちろん城跡とは無関係だろう。
何か痕跡はないか、とあたりを見回してみるが、とくになさそうだ。しいて言えば、ここがこのあたりの最高地であることくらいか。

カギ型に曲がっている道を進むと、久原城の向こう側に出る。この方向が高低差が分かりやすい。
大村高校の一角に、「動員学徒之碑」が建っていた。
久原城から南方向をみる 動員学徒の碑

一本の標識以外、お城を偲ばせるものは何もないようだ。
少し淋しい気もするが、民家だから仕方がない、と思った。




■久原城戦歴
  ※久原城には、とくに戦歴というほどのものは無いようだ。

以上



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