平成15年11月9日作成
平成16年3月13日更新
仲哀天皇の皇居にして神功皇后の伝説の地
独特な香椎造りの御本殿(重要文化財)
名称 | 香椎宮(かしいぐう) |
別名 | かしいのみや |
創建 | 仲哀天皇九年、神功皇后が祠を建て仲哀天皇の神霊を祀りたもうたのが起源。その後、養老七年(723)元正天皇が社殿の造営を創め、聖武天皇の神亀元年(724)竣工、香椎廟と称した。 |
分類 | 神社(旧官幣大社) |
御祭神 | 主神=仲哀天皇・神功皇后、 配祀=応神天皇・住吉大神 |
遺跡等 | 橿日宮跡・綾杉・不老水・昭和天皇お手植の松・御召鑑「摂津」主砲 |
場所 | 福岡市東区香椎 |
アクセス | JR博多駅から鹿児島本線で門司方面に行き、「香椎駅」へ。普通でも快速でも良いが、特急はもったいないので止めよう(止まらんのもあるし)。香椎駅から1.5キロくらいなので歩いてもよい。歩きたくなければバスで土井団地方面行きに乗ろう。香椎宮前下車。西鉄なら宮地岳線・香椎宮前から徒歩15分。車なら、JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ約15分、「参道口」交差点を右折、1キロくらい。無料駐車場があるから問題ないが、初詣のときは渋滞で動けません。 |
■香椎宮概要
第十四代仲哀天皇は、倭建命(日本武尊・やまとたけるのみこと)の息子である。
古事記によると、仲哀天皇(帯中日子天皇・たらしなかつひこのすめらみこと)は熊襲平定のため、筑紫(九州)へ親征、ここ訶志比宮(かしひのみや=香椎宮)に皇居を営まれた。帯同していた神功皇后(息長帯日売命・おきながたらしひめのみこと)が神懸りになり、西のほうの宝の国を授けようと託宣を受ける。しかし仲哀天皇は、信じられぬと突っぱねたところ、急に崩御された。古事記の中でもっとも印象深い場面のひとつだ。
その後、神功皇后は御腹に御子を宿したまま神託に従い新羅を平定する。新羅での政務が終わらぬうちに産まれそうになったが、石を腰に当て出産を遅らせ、筑紫に着いてから皇子(応神天皇)が産まれた。産まれた場所が宇美(うみ)である。
日本書紀は、仲哀天皇(足仲彦天皇・たらしなかつひこのすめらみこと)の筑紫入りから三韓征伐までもっと細かく記述してあるが、大意は変わらない。皇居の場所を儺(ナ)の県(あがた)の橿日宮(かしひのみや)としている。ここにもナが出てくる。儺(ナ)は奴(ナ)であると言って良かろう。
神託を信じなかった仲哀天皇は熊襲征伐を強行するが敗れ帰り、急に崩御された。神功皇后(気長足姫尊・おきながたらしひめのみこと)は熊襲征伐のため筑後地方を転戦したのち、新羅へ出陣する。すでに臨月であったので石を腰にはさみ出産を遅らせ、新羅・高麗・百済を平定、帰国後に宇瀰(うみ=宇美)で応神天皇を出産する。
記紀ともに、この後の神功皇后は皇子を連れ大和へ凱旋、いろいろあって政務を執り(紀は摂政)、のちに崩御。応神天皇が即位する。
(ご参考)
神功皇后については、河村哲夫氏の「西日本古代紀行 神功皇后風土記」(西日本新聞社)という素晴らしい本があるのでオススメじゃ。
■香椎宮へGO!(参拝記)
平成十四年(2002)十一月十六日(土)
香椎宮である。
ゲーセン「インベーダ大学」にあれほど通った拙者でも香椎宮はほんの数回目だ。
楼門をくぐると、大きな杉の木が待っている。綾杉(あやすぎ)だ。
神功皇后が海外から凱旋したとき、三種の宝をここに埋め、
鎧の袖に挿していた杉の枝をさし「永遠に本朝を鎮護すべし」と祈りを篭めたところ、
大木に成長したという。
香椎宮は過去幾たびか火災に遭っているが、
この綾杉は焼けても枯れることなく今に至っている。驚きじゃ。
御本殿は、香椎造りといい、日本で唯一の様式だそうだ。
現在の御本殿は、享和元年(1801)筑前藩主・黒田長順の再建である。
古宮(ふるみや)へ行ってみよう。
香椎宮裏門(?)から出て約100m、「古宮跡」の標識が出ている。
ここは、仲哀天皇の皇居・橿日宮(かしひのみや)の跡だ。
玉垣の中に椎の木が立っている。
神功皇后が仲哀天皇の棺をこの木に立てかけたところ、薫香があたりに立ち込めた。
そこで、香椎の名がついた、という地名伝説のもととなった椎の木だ。
さらに鬱蒼とした小道を進む。
と、やや広い場所に突き当たった。
「仲哀天皇大本営御旧蹟」の石碑が建っている。
仲哀天皇は、ここで神々のお告げを聞いたそうだ。
すなわち沙庭(さにわ)である。
ということは、ここが仲哀天皇崩御の場所であろうか。
身が引き締まるゾ。
大本営というのは、ここが天皇御臨席のもと熊襲征伐の軍議(神託を受けることか)を開いた場所であるからだろう。
近代につけた名で、古代の言葉ではないと思う。
次に「不老水」へ行く。
このあたりは最近新興住宅地になっていて、きれいな家が並んでいる。
道に迷いながら、たどり着いた。
不老水は、功臣・建内宿禰(武内宿禰・たけのうちのすくね)が掘った霊泉である。
武内宿禰は、成務天皇から仁徳天皇まで(紀では景行天皇から仁徳天皇)お仕えした大臣で、300歳まで生きたという人物だ。
てっきり伝説の人と思っていたが、不老水のすぐそばに子孫が住んでいるという。
たしかに「武内」の表札がある大きな屋敷があった。な、なんと・・・。
すごいもんだ、と、ありがたく不老水をいただいた。
うむ、なんとなく健康になった気がしたぞ。
■神功皇后伝説について(拙者の独り言)
現在、神功皇后についての一般的な評価は、2つあるようだ。
@神功皇后は架空の人物である。八世紀の天皇家が自らの権威を高めるためにでっち上げた人物で、デタラメである。それを戦前の軍部が国民をだます手段に使ったのだ。したがって、研究する価値もないし、皇后の名前を口にすることすらイケナイことだ。
A三韓征伐はフィクションである。朝鮮半島から文物を取り入れつづけてきたことにコンプレックスを持っている八世紀の天皇家が創作した話で、それを正史として日本人に無理やり信じ込ませたものだ。日本の遅れた文明で朝鮮半島を制圧できるはずがない。
@のように考えることが歴史に対する科学的な正しい姿勢であり、Aのように考えることが近隣諸国に配慮した公正で優しい態度である。ということになっているらしい。
拙者はこの両説に全く興味をもてない。
そんなことより、千年以上もの間、神功皇后伝説が言い伝えられてきたという事実に心が惹かれる。その長い間には、戦乱に巻き込まれたり、明日食べるものがなかったり、という世代がいくつもいくつもあっただろう。それにもかかわらず、一文の足しにもならぬ伝説が親から子へ、そのまた子へ、と伝えられてきたのは何故だろうか?@Aのようなものなら、子供でも疑問を持つ程度のウソ見え見えな話を代々伝えるか?
他地方の方には意外かもしれぬが、北部九州には驚くほど豊富な伝説が残っているのだ。そのことに、なにやら日本人の特質のようなものを感ずるのじゃ。
念のために、拙者は○翼でも●翼でもないぞ。単なる独り言じゃよ。ふぉっふぉっふぉ。
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