---- はかたにっき ----
別名: (なし)

平成30年4月1日作成
平成30年5月27日更新

鎮西探題襲撃を記録した一次史料

「正慶乱離志」の博多日記冒頭部分
「正慶乱離志」 (国立国会図書館より)

データ
博多日記概要
博多日記へGO!(激闘録)


 

■データ

名称 博多日記
はかたにっき
別名 とくにないようだ   −
時期 正慶二年(1333=元弘三年)か、それからほどない頃と推測される。
作者 京都東福寺の僧である良覚(りょうかく)。
分類 古文書
現存 前田育徳会尊経閣文庫に現存する、らしい。(森茂暁氏 「南北朝の動乱」)。
場所  ― 
アクセス  ― 




■博多日記概要
「博多日記」は、鎌倉時代末期の菊池武時による鎮西探題襲撃とその後の出来事を記録した古文書である。筆者は京都の東福寺の僧である良覚。「東福寺領肥前国彼杵荘重書目録」の紙背に二つの文章が書いてあり、前の文章を「楠木合戦注文」、あとの文章は「博多日記」と呼ばれている。佐藤鉄太郎氏によると、「東福寺領肥前国彼杵荘重書目録」と「楠木合戦注文」と「博多日記」は同じ字体で書かれており、「東福寺領肥前国彼杵荘重書目録」の末尾には「嘉暦四年七月三日 良覚(花押)」と書かれており、「楠木合戦注文」の末尾には「正慶二年閏二月二日(花押)」とあって、「博多日記」の所どころに押されている花押はすべて同じだそうだ。(佐藤鉄太郎氏 「元寇後の城郭都市博多」)

それぞれの文章が書かれた年月を確認すると、「東福寺領肥前国彼杵荘重書目録」が書かれた嘉暦四年は1329年であり、この年の八月二十九日に後醍醐天皇によって元徳と改元されている。(森茂暁氏 「皇子たちの南北朝」)  時期としては、正中の変(正中元年=1324)と元弘の変(元弘元年=1331)の間にあたる。
「楠木合戦注文」が書かれた正慶二年は1333年であり、その前年の四月二十八日に光厳天皇、事実上は父親の後伏見上皇によって元弘から正慶に改元されている。(飯倉晴武氏 「地獄を二度も見た天皇 光厳院」)
正慶二年閏二月二日に「楠木合戦注文」を書き終えたのち、約一ヶ月後の正慶二年三月十一日から「博多日記」が始まっている。「日記」とはいっても、「博多日記」は日々の出来事をその日に書いたものではなく、鎮西探題や長門探題をめぐる出来事をあとから時系列にまとめて記録したものだ。「博多日記」は途中で失われていて、おそらく末尾に記されていたであろう年月は残っていない。ただ、正慶二年(1333)六月五日に皇居で自ら玉座についた後醍醐天皇が最初に発した勅令が元号を「元弘」に戻すことであり、自身が隠岐に流されていた間に光厳院が行った諸々のことをすべて無かった事として否定したことから考えると、「博多日記」の書き出しが「正慶二年」で始まっているということは、同年六月より以前に書かれたと考えていいのではないだろうか。

「博多日記」の特徴としては、何と言っても細かい描写が記されていて、まるで目の前で起こったことをその場で記録しているような臨場感があることだろう。しかし、前述したとおり、この文章は色々な出来事を整理して、あとから時系列に並べて書かれたものだ。それにしても、次々に鎮西探題に入ってくる情報をそのまま書いてあるように見えるので、鎮西探題に近しい人物、あるいは鎮西探題に勤めていた人物の情報を基礎にしていると思われる。それが良覚自身かもしれないし、あるいは良覚は京都にいてその情報源の人物(複数かもしれない)からの情報を得て書いたのかもしれない。(佐藤鉄太郎氏 「元寇後の城郭都市博多」)
文の書き方は鎮西探題寄りであり、鎮西探題関係者や北条氏一門の人名には「殿」の敬称をつけることがあり(佐藤鉄太郎氏 「元寇後の城郭都市博多」)、一方、「敵」と書くときには反幕府勢力を指している。このことからも、「博多日記」の書かれた時期は、鎌倉幕府が倒れて新しい世の中になった以降とは思えない。また、情報の出どころを明記しており、単なる噂はキチンと「如風聞者」と書いてあって、事実を正確に記録することを旨としていてビジネス文書のようだ。ニュースソースを明らかにせずシレッと報道する某大手新聞紙とは大違いだ。





隈府城(菊池城) 御船城 隈庄城 宇土古城 浜の館 古麓城 日野江城

■博多日記へGO!(激闘録)
平成30年(2018)4月1日(日)
川添昭二先生 『鎮西探題史料集(下)』 に掲載されている 「博多日記」 を全文掲載します。「原文」の句読点は、『鎮西探題史料集(下)』のママです。
参考までにテキトーな訳文を並べました。

 原文 拙者のテキトーな訳  備考
正慶二年三月十一日肥後國菊池二郎入道寂阿博
多ニ付畢。同十二日出仕之時、遅参之間、不可
付着到之由、侍所下廣田新左衛門尉問答之間、
及口論畢、同十三日寅時博多中所々ニ付火焼拂、
寂阿カ筑州江州ニ立使者申云、宣旨使ニ罷向候、
総可有御向之由触廻ル、筑後入道殿ハ堅糟ニテ
此使ニ人カ頸ヲ切、十三日夕方被進匠作方、江
州ハ可打止之由、被仰之間、彼使逐電畢、サテ
菊池捧錦旗松原口辻堂ヨリ御所ニ押寄之處、辻
堂ノ在家ニ火付タル間、不及押寄シテ、早良小
路ヲ下リニヲメイテ懸、宣旨ノ御使ヒ人々参テ
可付著到之由、ノゝシリテ櫛田濱口ニ打出、錦
旗一流菊池旗並一門等旗アマタ捧テヒカヘタリ、
爰筑州祗候人饗庭兵庫允相向尋申事子細之處、
即兵庫允並若党一人被討畢、次武蔵四郎殿、武
田八郎以下焼失ハ菊池所行トテ相向息濱、菊池
宿之處、早ク菊池打出タル間、息濱ノスサキヨ
リ廻テ、櫛田濱口ニ菊池引ヘタル處ニ追懸タリ、
即及合戦、武田八郎ハ負手、竹井孫七同舎弟孫
八、並安富左近将監等被討畢、サテ御所ニ押寄、
及合戦、菊池入道子息三郎二人ハ犬射馬場ニテ
被討、菊池舎弟二郎三郎入道覚勝以下若党等打
入御所中、既ニ御壷ニ責入致合戦之間、敵七十
餘人被打止畢、菊池嫡子二郎並阿蘇大宮司ハ落畢、匠作
御方モ或討死、或数輩負手畢、サテ合戦過テ筑州江州以下鎮西
人々被参御所、即菊池入道子息三郎寂阿舎弟覚勝頸以下
若党等頸被懸犬射馬場、寂阿三郎覚勝三人カ頸
ハ、始四五日ハ不被懸、後ニ被懸之、寂阿並子
息三郎覚勝頸ハ、別ニ被懸之、夜ハ取テ被置御
所、十ヶ日計アテ、以釘被打付、札銘ニ云、謀
叛人等頸事、菊池二郎入道寂阿、子息三郎、寂
阿舎弟二郎三郎入道覚勝云々、菊池方手負人等
落行之處、國々ヨリ博多ニ馳上ル勢共行向討取
之、頸ヲ取進之間、大射馬場ニ三重ニ被懸之、
五所ニ木ヲユイワタシテ被懸、其後亦連々ニ自
所々取進落人頸二百餘也、糸田殿即御所ニ御入、
参州殿十三日御登アル處ニ、筑後國横隈ニテ菊
池孫子 児童 並若党十人計行合奉ル間、即被討畢、
頸ハ御持参アリ、同日肥後國菊池城ニ被向打手、
同十五日規矩殿御入
同十六日寅時規矩殿並肥後國地頭御家人ヲ相具、
肥後ニ御向アリ、阿蘇大宮司、菊池ニ一具由、
虜ノ白状アル間、阿蘇ニ御向 注文在別紙 筑州
江州以下大名並御家人等、御所ニ参籠ラル、筑
州ハ前執事周防五郎入道殿跡ニ取陣、江州ハ東
門ニ被取陣、其外大名地頭御家人等四方ニ取陣
被宿、同十六日長門ヨリ早馬到来云、閏二月十
一日上野殿伊豫國 御渡之處ニ、船津ニ兵糧米
ヲ上置、御向アル處ニ、河野土居九郎通益只一
騎、打出申様、此ニ御向悦入候、只ノ大将ニテ
御座ハ、心地アシク存候ハンスルニ、御一門ニ
テ御座ハ、心地能候、又我身モ河野ニテ候ヘハ、
敵ニハヨモ嫌給ハシ、今日ハ日モクレ候又、明
日可入見参ト申テ、引退畢、上野殿御方ニハ明
日ハ勢モ可集、今夜可寄トテ、一千五百餘騎ニ
テ土居九郎ノ城郭ヲ構タル處ニ被寄、其夜上州
御方ニハ勢ヲ所々ニ陣ヲ取リテ被居之處、厚東
以下少々心カワリシテ、ウシロヤヲ可射之由、
聞ヘケル間、豊田カ再三申ニヨテ、即落させ給
畢、馬鞍以下兵糧米、皆悉被捨間、土居九郎取
之、爰長門周防御家人百騎計申云、我等ハ重代
者也、上州ノ御供シテ落ヌル物ナラハ、浮名ヲ
流ヘシトテ、留テ討死ス、
正慶二年三月十一日伊与國水居津ニ付テ、同日
申時ニヤカテ寄テ、同十二日平井城ニテ被討人

 長門國分
一 タスキノ三郎父子若党已上四十一人
一 山中七郎兄弟若党以上十一人
一 佐々木八郎入道父子若党已上十人
一 同馬場入道若党已上五人
一 同又九郎若党以上十人
一 厚東彦太郎入道若党已上九人
一 岡崎父子以上四人
一 原以上三人
一 稗田孫四郎入道上下三人
一 兼富又九郎上下三人
一 豊田手人々上下十人
一 光富ノ日野又太郎上下三人      (花押)
一 岡部小六、同孫六上下四人
 周防國分
一 深野彌太郎入道懸出テゝ、昼ノ戦ニ打死、以
  上八人
一 柳井父子親類已上七人
一 右田父子若党親類已上三人
一 中野兄弟三人
周防長門地頭御家人打死 ヲ注トイヘトモ 此外
ハ名字を不知之間、不及注、十七日自肥前國彼
杵早馬到来、去十四日江串三郎入道起謀叛、彌
次刑部房明慶並甥圓林房並了本房等ヲ相具テ、
先帝ノ一宮御座アリ、人々可参由申之、着到ヲ
付云々、著到奉行ハ圓林房也、自去年冬比彼宮
ヲハ了本カ千綿ノヲクノ木庭ニ隠置タテマツル
ト云々、十四日江串甥砥上四郎カ本庄ノ八幡宮
ノ錦ノ戸帳ヲ申ヲロシテ、旗ニ差上テ、本庄今
富大村ヲ馳廻、宮ノ御方ニ可参之由触廻云々、
江串入道ハ遠江守、子息三郎ハ式部太夫ニ任云
々、十七日即被向討手、佐志二郎・値賀二郎・
波多源太・多久太郎・高木伯耆太郎云々、
同十八日平戸峯源藤五不参博多之間、被召之處、
去々年預置大山寺々務律僧覚應ヲ相具テ、閏二
月十七日京上云々、仍為検見自守護御代官被下
使者云々、
同日菊池加江入道三十五騎、宰府ニ隠居タルカ、
降人ニ江州方ニ参、即被召進之間、人々ニ被預
之、
十九日筑後國赤目彌二郎於博多可被召置之由聞
之、逐電之間、仰于筑州方、被向打手、逐電之
由申之云々、
廿日清水又太郎入道父子三人並若党二人被召捕
之、菊池落人籠置云々、若党雖及拷訊、不及白
状、即被預筑州方畢、
同日日田肥前権守入道五百騎ニテ博多ニ参到、
探題ノ御見参ニ可入之由、雖申之、無御對面、
江州同前、同夕方有御對面、江州同前、同夕方
有御對面
一 凡今度合戦ニ不思儀事アリ、炎御所ニ懸リ、
 既アフナク見ケル所ニ、御所中ニ光物出来、
 煙中ニ白鳩ニ飛来ト見ケル程ニ、本ノ風ハ西
 風ニテアリケルカ、ニワカニコチ風ニ吹ナヲ
 リテ、御所不焼、爰菊池旗サシ錦旗ヲウチス
 テ顛畢、菊池モ旗指ヲ失テ仰天ス、其上自櫛
 田濱口打入櫛田宮、此ハ御所カト云テ、二三
 反宮ヲ打廻、既人二人打コロス、サテ御所ニ
 ハ大手ハ寄タルカト人ヲ以テミセケレハ、使
 走返テ、サル事モ候ハスト申ケレハ、腹ヲ立、
 御所ニ押寄ケリ、神罰ヲ蒙カト披露アリ、
廿二日自鎮西関東ニ上ル早馬、雑色ノ五郎三郎
下着、金剛山ハイマタ不被破、赤松入道可打入
京之由、披露云々、
廿三日自長門早馬到来、自与州進使者云、馬物
具ニ事闕候處ニ、給候事悦入候、但来廿二日必
可参ト申間、鎮西ニ一ニ可成由被仰云々、其後
自与州落留下部数輩、送長門畢、自餘残モ又可
送由申之、田スキノ入道イマタ与州ニアリ云々、
同日院宣所持仁八幡弥四郎宗安ト云物、被切頸、
即被懸畢、銘云先帝院宣所持人八幡弥四郎宗安
頸云々、此ハ去廿日御所陣内ニシテ院宣ヲ大友
殿ニ奉付之間、即召捕之云々、院宣六通帯持之、
大友・筑州・菊池・平戸・日田・三窪以上六通
云々、
廿四日如風聞者、比國ヨリ高津道性ヲ大将トシ
テ、十ヶ國兵ヲ相具、長門ト石見ト堺三隅ト云
所ニテ責下云々、
同日弥次刑部房並子息又五郎六郎七郎カ頸到来、
嫡子安藝房ハ並舎弟二人生取シテ進之、去廿日
刑部房逐電シテ大村山ニ追上之處、大村永岡
三郎入道追懸之討留云々、
廿五日刑部房並子息等頸被懸之、残子息二人ハ
幼稚之間、被放之、安藝房ハ後二十日計アテ逐
電畢、
同日長門ヨリ上州御臺以下御内人々女房付筥崎
津畢、
廿六日薩摩國大隅式部小三郎、野辺八郎、渋屋
太郎左衛門尉等、仰松浦党以下、廿六日暁可打
之由被仰之處、逐電之間、不及力、
廿七日自規矩殿早馬到来、頸一持来、去廿五日
大宮司館ニ被寄之、雖付火終以不焼、鷹ニシテ
守護之間、成恐退畢、サテ召取案内者被寄之處、
大宮司領阿蘇内在家等ヲ焼拂、鞍岡山ニ引籠、
其道間ニスゝレコヘ、ハネキヤウ、マメアシ、
此等難所也、日向道ヨリ搦手ノ案内者ヲ被申之
間、仰日向國柴原桑内二人ニ仰テ、進案内者、
同日彼等下人下向云々、域内勢兵五十餘人、以
上ノ勢五百人計也、其外隠レ村ヲ大宮司知行之
間、其所ニ引退ナハ不可被打之由披露之、
廿九日自肥後早馬到来、阿蘇大宮司並菊池二郎
鞍岡城ヲ落畢、生捕並頸等在之由告申ラル、
同日自長門早馬到来、石見國ヨリ吉見殿ヲ大将
ニテ、三千騎ニテ向間、大峰ト云所ニ豊田厚東
以下勢ヲ被向、廿九日卯尅ニ矢合申告来、
三十日三川守殿、乙隈殿、文字関ニ御向ノタメ
ニ、筥崎マテ御出、四月二日長門ニ御立、
四月分
一日弾正次郎兵衛尉去月廿八日長門ニ越之處、
今日帰参畢、
長門ノ大峰ニテ合戦及度々云々、
同日野辺八郎親父六郎左衛門尉以起請文、無誤
由陳申之間、蒙御免出仕畢、同日自門司関三川
殿ニ告申云、長門國厚東由利大峰地頭伊佐人々与力
高津道性、去一日辰時押寄長門殿御舘畢、堀ヲ
ホリ切カイタテヲカキタル間、無左右不打入、
寄手射シラマサレテ引退、道性子息、厚東子息、
痛手ヲ負畢、敵重寄時ノ聲ヲツクル間、見之告
申云々、同二日参州大隅國御家人日田肥前権守
入道、宗像大宮司、並豊前國宇佐築城上津妻毛
下津毛ノ四郡人々ヲ被向畢、四日雑兵宗九郎自
関東打返、金剛山ヲハ近日可打落、赤松入道京
都七條マテ打入ヲ、自六波羅追返、大勢被打テ
逐電了云々、
備後鞆ニハ自四國打渡之處、被追返畢、平戸峰
源藤五四國ノ勢ニ對面シケル由見シ云々、菊池
若党宮崎太郎兵衛入道鞆ニテ自害、所持文書ハ
焼失畢云々、其下人生取シテ参ル、長門ニハ敵
百餘人打取之畢、自餘ハ逐電畢、昨日三日マテ
ハ無別事云々、同日規矩殿自肥後御返、鞍岡山
ニテ所取頸三十二、生取二人持参、此外比丘尼
一人生取、肥後ニ被預置、此ハ大宮司若党ノ妹
也、規矩殿ヲネライマイラセントスル間、召捕
云々、
同日自長門早馬到来、敵雖押寄、射シラマサレ
引退、敵百餘人打止、切頸被懸畢、城内ハ手負
十三人、死人二人由申之云々、
一 或人ノ従女、去四日懸置頸ヲ見ニ行テ見程ニ、
 身毛ヨタチ覚ケルカ、ヤカテ労ヲ付ケリ、カ
 ゝル程ニ或僧一両人、彼家主許ニ行、對面シ
 ケル時、彼従女労シケルカ、ヲキアカリ、男
 ノ風情シテ、アフキ取ナヲシ、僧ニ向、色代
 シケリ、僧ヲ上ニ請シ、下ニ坐シテ、カシコ
 マリケル間、彼僧アヤシミテ問云、何ナル人
 ニテ御坐スルソト尋ケレハ、答テ云、我ハ菊
 池入道ノ甥ニ左衛門三郎ト申者也、童名菊一
 トテ、有智山ニテ児ニテ候シ、人皆知テ候、
 m菊池ニテ新妻ヲ迎テ十六日ト申時、菊池ヲ
 罷出候シ時、相構今度ノ合戦ニ無別事シテ、
 返テ二度見タテマツラハヤト申候シカハ、彼
 妻モ涙ヲ流シ、ハカマヲキ候シ時、ハカマコ
 シヲアテゝ候シ面景、于今不忘、我ヒタイノ
 カミヲ切テ、彼妻女ニトラセ、彼ノ妻ノ髪ヲ
 ハ、我マホリニ入テ頸ニカケ、犬射馬場ニテ
 死候シ時マテ、持テ候シトカタリ申テ、涙ヲ
 流ケリ、但敵ヲトラテ死タルコソ口惜ケレト
 申ケリ、妻女ノ事ヲ、申出時ハ、哀傷ノ気色
 ヲ顕シテ、涙ヲ流シ、合戦ノ事ヲ申出時ハ
 イカレル色ヲ顕ス、又申云ク、我カ息濱ヲ打
 出シ時、夜フケルマテ、酒ヲノミ、水ノホシ
 ク候シヲ、呑スシテ打出テ死テ候間、水カホ
 シク候トテ、水ヲコヒ、小桶ノ二桶ノミケリ
 又我ハシヤウコニテ候、酒ノミ候ハントテ、
 酒ヲ提ノ一提ノミケリ、水ヲノマスシテ死テ
 候シ間、我ニハ常ニ水ヲマツリテ給候、又後
 世ヲ訪テ給候ヘト、彼僧達ニ語申ケリ、其又
 弐日僧申云、カゝル●弱ノ女性ノ許ニ、御ワ
 タリ候ハ、タカイ候ト申ケレハ、家ヲモタス
 候テ、如此候ト申ケレハ、家ヲツクリテマイ
 ラセ候ハント申テ、率都婆ヲ作テ、松原ニ立
 ニ行ケレハ、御共可仕ト申テ、タフレフシテ、
 シハシアテ、ヲキアカリ、彼労サメ、又殊ニ
 漢字ヲカク時、我名ヲソトハニカゝレ候ハヌ
 ト申ケレハ、ヤカテ名字ヲソトハニカキテ立
 ケリ
六日京都ヨリ下向人申云、去三月十二日赤松入
道京都七条まて打入トイヘトモ、被追返畢、帝
ハ六波羅ノ北殿ニ御入云々、赤松ハ本ノ布引ノ
城ニ籠云々、其後八幡ニ陣ヲ取云々、同日如風
聞者、長門國厚東、秋吉、岩永、由利、伊佐、
アツマツヤ、河越、アサ、皆参先帝御方云々、
七日三川殿自門司御返、長門ニハ敵厚東ヲ始ト
シテ、今月一日押寄テ、至于五日、毎日合戦、
矢戦計ニテ無大刀打、敵大勢被射之處、自鎮西
三川殿御向之由聞之、厚東カ宿所ニ引籠、聞之、
日田入道等相向、厚東城即厚東又逐電云々
(〇以下切レテ字ノ
 半形ヲ存ス)







正慶二年(1333)三月十一日、肥後の国の菊池二郎武時、出家して法名を寂阿(じゃくあ)が博多に到着した。翌十二日、鎮西探題である北条英時の館にに出仕したところ、「来るのが遅すぎる、到着者名簿に名前を載せることはできない!」と侍所の下廣田新左衛門尉(しもひろたしんざえもんのじょう)が言うので、「なしか?」と口論になった。その翌日十三日の明け方、菊池寂阿は博多のあちこちに放火した。菊池寂阿は、筑前守少弐貞経妙恵(しょうにさだつねみょうえ)と近江守大友貞宗具簡(おおともさだむねぐかん)に使者を送り、「後醍醐天皇の命令に従って援軍を出してくれ」と言わせた。しかし、少弐貞経は博多の東の堅糟(かたかす)という所にいたが、菊池の使者二人の首を刎ね、その日の夕方、匠作(しょうさく)、すなはち修理亮である鎮西探題・北条英時のもとに送り届けた。大友貞宗のほうは、「やめとけ」と言ったので、菊池の使者は怖くなって行方をくらましてしまった。さて、菊池寂阿は錦の御旗を掲げて松原口辻の堂から鎮西探題に押し寄せようとしたが、辻の堂の民家につけた火の勢いが強く、突入することができなかったので、早良小路をくだりながら大声で、「後醍醐天皇のお使いが来ているぞ!みんな、こっちに加わって後醍醐天皇への到着名簿に名を載せよう!」とわめきながら櫛田浜口に出て、錦の御旗が一流、菊池と一門たちの旗はたくさん立てて陣を整えた。ここで、少弐貞経の部下である饗庭兵庫允(あえばひょうごのいん)という者が菊池のところへやってきて、「これはどういうことか」と言ってきたので、先に少弐に送った使者が帰ってこないことから少弐は敵に回ったものと判断した菊池勢により兵庫允と若衆ひとりは討たれ、血祭りにあげられてしまった。ところで、武蔵四郎や武田八郎たち鎮西探題の被官一行が、「博多が火事になったのは菊池寂阿の仕業だ」と断定して沖の浜の菊池の宿泊所に追捕に向かったところ、すでに菊池の姿はなく、沖の浜の須崎を通って櫛田浜口の菊池の陣へ追いかけて来た。たちまちに合戦となり、武田八郎は負傷し、竹井孫七とその弟の孫八、ならびに鎮西探題の引付衆である安富左近将監貞泰たちは討死した。菊池寂阿勢は鎮西探題館に押し寄せて合戦となったが、菊池寂阿と息子の三郎赤星頼隆の二人は犬射馬場というところで討死した。寂阿の弟、二郎三郎入道覚勝(じろうさぶろうにゅうどうかくしょう)と若衆は鎮西探題の敷地に打ち入り、御壷という探題が私生活をおくる建物の中にまで攻め込んだものの七十人あまり全員が討死した。菊池寂阿の嫡男二郎武重と阿蘇大宮司惟直は戦線を離脱、落ち延びた。修理亮である北条英時の味方、すなはち鎮西探題に勤める人々もあるいは討死、あるいは負傷するものが出た。さて、合戦が終わったのちに少弐貞経や大友貞宗、そのほか九州の武士たちがようやく鎮西探題にやってきた。すぐに菊池寂阿とその子三郎頼隆、寂阿の弟の覚勝の首や若衆の首が犬射馬場に晒された。寂阿と三郎頼隆、覚勝の三人の首は、始めの四〜五日の間は梟首されず、後に他の者たちとは別に梟首され、夜になると建物の中に保管された。十日くらい経って、三人の首は釘で打ち付けられ、「謀叛人たちの首、菊池二郎寂阿、子の三郎、弟の二郎三郎覚勝」と説明板が置かれた。戦に敗れた菊池勢の負傷者たちは、落ち延びたところに各国から博多に向かっていた探題方の軍勢に討ち取られ、その首は鎮西探題に送られ、犬射馬場に二重、三重に晒された。そこでは木と木の間に紐をかけた五ヶ所に首をかけ、後にまた各所から送られてきた二百あまりの首がかけられた。糸田貞義殿は鎮西探題館にお入りになり、三河守桜田師頼殿は三月十三日に鎮西探題に来られたところ、ここに来る間に筑後の国の横隈というところで菊池勢と出会い、菊池寂阿の孫や童、若衆たち十人ほどを討ち取り、その首を持ってきたということであった。同日である三月十三日、鎮西探題は肥後の国の菊池城に討伐軍を派遣した。
三月十五日には規矩高政殿が鎮西探題にやってきた。
翌三月十六日の明け方、規矩高政殿と肥後の国の地頭が御家人を引き連れ、肥後に向かった。阿蘇大宮司は菊池に加勢していると捕虜の証言があったので阿蘇に向かったのだ。少弐貞経や大友貞宗ら大名や御家人たちは鎮西探題に籠城した。少弐貞経は前の執事である周防五郎入道政国殿の館に陣取り、大友貞宗は鎮西探題の東門のところに陣取り、その他の大名や地頭、御家人たちは鎮西探題の敷地の四方に陣取り、それぞれ泊まり込んだ。
十六日に長門の国から早馬がやってきた。それによると、前月である閏二月の十一日に長門探題の上野介である北条時直様が伊予の国に渡海し、越智郡石井浜(現今治市)の港に兵糧米を荷揚げしたのち進軍していたところに河野氏の土居九郎通増という者がただ一騎で近づき、「こんな所にまでお越しになり嬉しく思います。これがただの大将なら気分も悪いが、北条家の一門の方が来られたので気分がいい。また私も河野氏という有名な一族なので、敵も嫌な思いはしないでしょう。今日は陽も暮れてきたので明日また参りましょう」と言って、つまり喧嘩を売って、去っていった。上野介北条時直様の味方の者が、「明日になれば土居通増のもとに軍勢が集まってくるはずなので今夜のうちに攻めてしまいましょう」と言うので、千五百騎で土居通増の城に攻め寄せた。その夜、上野介北条時直様の軍勢はあちこちに陣を構えていたのだが、厚東武実らが裏切って北条時直の背後から矢を射てくるのではないか、との噂がたったので、豊田種長が北条時直に対して、「退避しましょう」と再三言ったことから北条時直はただちに撤退した。長門探題勢は軍事物資を全部置いたまま撤退したので、土居通増はこれを鹵獲した。ここに長門の国や周防の国の御家人およそ百騎くらいの軍勢が、「俺たちは先祖代々の御家人だ!北条時直と一緒に逃げてしまったら後の世の物笑いになってしまうぞ!」と撤退せずに戦い、そして討死した。
一ヶ月後の正慶二年(1333)三月十一日にも北条時直様は再び伊予国に攻め込んだ。伊予の国の水居の津というところ(現松山市三津浜)に上陸し、その日の夕方に土居通増の平井城(現松山市内、星岡の東の地)を攻め、翌日の三月十二日に敗退したのであるが、その戦いにおいて討たれた人々の名は以下のとおり。
 長門の国の人
  一 タスキの三郎親子と若衆、合計四十一人
  一 山中七郎兄弟と若衆、合計十一人
  一 佐々木八郎入道親子と若衆、合計十人
  一 佐々木馬場入道と若衆、合計五人
  一 佐々木又九郎と若衆、合計十人
  一 厚東彦太郎入道と若衆、合計九人
  一 岡崎親子たち合計四人
  一 原という者たち合計三人
  一 稗田孫四郎入道たち合計三人
  一 兼富又九郎たち合計三人
  一 豊田の人々、合計十人
  一 光富の日野又太郎たち合計三人
  一 岡部小六、岡部孫六、合計四人
 周防の国の人々
  一 深野弥太郎入道は日中に突撃して討死、合計八人
  一 柳井親子とその親類、合計七人
  一 右田親子と親類である若衆、合計三人
  一 中野兄弟、合計三人

周防の国、長門の国の地頭や御家人で討死した者の名を記してきたが、この他の人々は名前の情報が無いため記すことができない。
三月十七日、肥前の国の彼杵郡から早馬がやってきた。去る三月十四日、江串三郎入道が謀叛をおこし、弥次刑部房明慶ならびに甥の円林房ならびに了本房たちを引き連れて、「先帝すなはち後醍醐天皇の一の宮、尊良親王
(たかよししんのう)がいるぞ、みんな集まれ!」と言って、到着名簿に集まってきた人々の名前を載せているということだ。着到奉行は円林房が務めている。さらに、「尊良親王は去年の三月に元弘の変のため土佐に流されたはずだと皆思っているだろうが、実はその年の冬からその宮様、つまり尊良親王を了本房の所領である千綿(現在の長崎県東彼杵郡のJR千綿駅近辺か)という場所の奥の木庭というところに密かに匿っていたのさ」ということだ。三月十四日江串三郎入道の甥である砥上四郎が本庄八幡宮の錦の帳を旗に作り変えて、本庄から今富、大村を駆け巡って、「宮様、つまり尊良親王の味方に集まれ!尊良親王によって、江串三郎入道は遠江守に、子の三郎は式部太夫に任命されたぞ!いいだろ!」と触れ回った。以上が早馬の情報であった。
早馬の情報を得た同日である十七日に、鎮西探題は江串討伐軍を派遣したが、その面々は佐志二郎、値賀二郎、波多源太、多久太郎、高木伯耆守太郎といった松浦党をはじめとする人々であった。翌十八日、同じ松浦党である平戸の峯源藤五が博多に来ないので過日呼び出したのであったが、「峯は、一昨年に大山寺の寺務に預けた覚応という律宗の坊さんを連れて、先月である閏二月十七日に博多ではなく京に向かった、つまり後醍醐天皇側に加担するつもりだ」と肥前国守護から実際に調べるために派遣された代官が使者を寄こしてきた。(このように、あっちでもこっちでも鎌倉幕府に歯向かう人が出てきたのだ。)
同日である三月十八日、菊池加江入道という者たち三十五騎が大宰府に隠れていたのだが、大友貞宗のもとに降参してきたので、鎮西探題はすぐにこれを逮捕し、何人かの御家人に身柄を預けた。
三月十九日、筑後の国の赤目弥次郎という者が、「博多に行くと逮捕されるぞ」という情報を得たため逐電した。鎮西探題は少弐貞経に命じて討手を差し向けたのだが、逃げられてしまったということであった。
三月二十日、清水又太郎入道の親子三人と若衆二人が逮捕された。菊池勢の逃亡者をかくまった疑いで若衆は拷問を受けたが白状しなかったので、彼らの身柄は少弐貞経に預けられた。
同日、日田肥前権守入道が五百騎で博多に到着し、鎮西探題に挨拶したいと申し入れたが、後に記すように探題北条英時は後醍醐天皇の密書が日田入道にも送られていたということを知ったばかりであったので、会わなかった。日田入道は大友貞宗にも挨拶したいと申し入れたところ、この日の夕方大友貞宗は対面した。
 エピソードとして一つ。 およそ今回の合戦で不思議なことがあった。放火の炎が鎮西探題の館に近づき、もはや危うい!というときに探題館の中に光るものが現われ、煙の中に白い鳩が飛んできたと思いきや、元々の風向きは西風だったのが急に東風に変わり、探題館には燃え移らなかった。これを見た菊池の旗持ちの者は錦の御旗を手放して昏倒してしまった。菊池勢は旗が見えなくなったので驚き、そのうえ櫛田浜口から櫛田神社に討ち入り、ここは探題館か?と言って二〜三回櫛田神社の周りをまわって神社の神官を二人打ち殺した。ところで、菊池寂阿は鎮西探題館の正門には攻め寄せたのか?と人をやって確認したところ、「まだです」ということだったので菊池寂阿は腹を立てて自ら鎮西探題館に攻め寄せた。その結果、討死してしまったのは櫛田神社に放火した神罰を受けたのだという。
三月二十二日、鎮西探題から鎌倉に遣わしていた早馬、雑色の五郎三郎が戻ってきた。楠木正成の金剛山は今だ陥落しておらず、赤松円心入道にいたっては逆に京に打ち入るのではないか、との報告であった。
三月二十三日、長門国から早馬がやってきた。それによると、伊予国からの使者が来て言うには、軍事物資が不足していたのだが鎮西探題からの補給を受けて助かった、来たる三月二十二日には必ず伺い、鎮西探題と合流しますとのこと。その後の情報では、伊予の国から数人の捕虜を長門探題に送還すること、残りの捕虜も追って送還すること、タスキの入道は未だに伊予の国にいることなどを伝えてきた。
同じ三月二十三日、後醍醐天皇の密書を携えた八幡弥四郎宗安という者が首を斬られ、その首が晒された。その案内板によると、後醍醐天皇の秘密書簡を隠し持っていた八幡弥四郎宗安の首であり、この者は去る三月二十日に鎮西探題の敷地内に陣取っている大友貞宗殿にこの密書を渡そうとしたので、その場で逮捕されたのだが、密書を六通ももっており、それらは大友貞宗、少弐貞経、菊池武時、平戸(峯氏だろう)、日田(肥前権守だろう)、三窪(誰?)の六人に宛てたものだったそうだ。
三月二十四日、以下の噂があった。石見国の豪族吉見頼行の七男である高津長幸入道道性が大将として石見の国から十ヶ国もの兵卒を率いて進軍し、長門国と石見国との国境の三隅(現長門市、旧大津郡三隅)というところで長門探題北条時直の軍勢を撃破したということである。
同じ日、三月十四日に謀叛を起こした肥前の国の彼杵郡の弥次刑部房明慶と子の又五郎、六郎、七郎の首が博多に到着した。弥次刑部房明慶の嫡子である安芸房とその弟ふたりは生け捕りとなって送られてきた。去る三月二十日、弥次刑部房明慶は行方をくらましたので、大村山に追い詰めたところ、大村の永岡三郎入道という者がこれを討ちとめたのだそうだ。ということは、江串入道には逃げられたということだ。また、尊良親王に関する情報は得られていない。
三月二十五日、弥次刑部房明慶と子供らの首が晒された。残る二人の子供は幼いため赦免され釈放された。安芸房は二十日ほど後に逃げ出し行方不明になった。
同じ日、長門の国から長門探題・上野守北条時直殿の奥方と御内人、それに女房たちが鎮西探題に避難するため箱崎の港に到着した。
三月二十六日、薩摩の国の大隅式部小三郎、野辺八郎、渋谷太郎左衛門尉らが行方をくらました。鎮西探題が松浦党らに対し、「二十六日の明け方、これらの者を討つべし」と命じていたのだが、なし得なかったということだ。
三月二十七日、過日阿蘇討伐に向かっていた規矩高政殿から早馬が来て、首を一つ持ってきたのだが、この顛末は以下のとおりである。去る三月二十五日に阿蘇大宮司惟直の館に攻め寄せ、火を放ったものの、なぜか燃え広がらなかった。阿蘇勢は悠然と守りを固めていたので、あるいは二羽の鷹が館を守っていたので、すなはち阿蘇家の家紋は鷹の羽根がX字に交わっている「違い鷹の羽」なので阿蘇家の神威が館を守っているということに対して、我々は恐れをなして一旦兵を退いた。地元に詳しい者を召し取って道案内をさせて再び阿蘇大宮司館に攻め寄せたところ、阿蘇勢は自分の領内にもかかわらず家々に火をつけて焼き払い、日向国境の鞍岡山に退却した。その鞍岡山への道は途中にスズレ越え、ハネキョウ、マメアシと呼ばれる難所が続く悪路で容易に攻め込めない。「日向道から鞍岡山の裏手に通じる経路を案内できる」という者が現われ、日向の国の柴原と桑内という二人に命じて道案内する者を鞍岡山に送ったところ、その日のうちに彼らの下人が鞍岡山から下山してきて言うには、このあたりには兵士が五十人あまり、鞍岡山全体には五百人くらいいるよ、そのほか大宮司は隠し村を持っているから、そこに退却すると討ち取ることはできないよ、ということであった。
三月二十九日、肥後から早馬が来た。阿蘇大宮司惟直と菊池二郎武重が鞍岡城を脱出した、捕虜にした者や討ち取った首があります、ということであった。つまり阿蘇大宮司と菊池武重自体は取り逃がしたということだ。
同じ日、長門から早馬が来た。石見の国から吉見殿、すなはち高津道性を大将として三千騎が進軍しているので、長門探題北条時直は、配下の豊田種長や厚東武実の軍勢を大峰というところへ差し向けて三月二十九日の早朝に戦に臨む予定だ、ということであった。
三月三十日、三河守桜田師頼殿、乙隈殿(誰だろ?)が門司ヶ関に向かうため、つまり長門探題への援軍として、港のある箱崎まで移動し、四月二日に船に乗って長門へと出発した。
この年の三月は三十日で終わりの大の月なので、これより以後は四月分である。
四月一日、弾正次郎兵衛尉という者が三月二十八日に長門に入り、今日戻ってきた。その者が言うには、長門では大峰という所で度々合戦が起こっているとのことだ。
同日、野辺八郎(三月二十六日に鎮西探題から行方をくらましている)の父親である六郎左衛門尉が起請文をもって、「裏切ることは決してございません」と詫びを述べたところ、許しを得て鎮西探題に出仕することになった。
同日、門司ヶ関より箱崎港にいる三河守桜田師頼殿に報告があったことは、長門の国の厚東氏・由利氏・大峰の地頭、および伊佐の人々が高津道性に加担し、今朝(三月一日の朝では情報が古すぎるので四月一日のホットニュースという意味だろう)、長門探題館に押し寄せてきた。つまり、厚東武実らが大峰の合戦のさなか後醍醐天皇方に寝返り、高津道性とともに長門探題を攻めてきたのだ。長門探題では堀を深く掘り下げ、掻盾を並べて防御を固めていたところ、あっちでもこっちでも敵の侵入を許さず、攻撃側の高津道性勢は弓矢攻撃を受けて退却した。道性の息子と厚東武実の息子武村は負傷した。高津道性勢は再び攻撃する態勢をとり、トキの声を上げていたのを見た、つまり決着はついていない、とのことであった。
四月二日、三河守桜田師頼殿は大隅の国の御家人、日田肥前権守入道、宗像大宮司、並びに豊前の国の宇佐・築城・上毛・下毛の四郡の人々を援軍として長門に向かわせた。
四月四日、雑兵の宗九郎という者が関東から戻ってきた。金剛山は数日のうちに落城するだろう、一方、赤松円心入道は京都の七条まで攻め込んだが、六波羅探題によって撃退され、大勢が討たれて行方をくらましたそうだ。また、四国勢(土居通増か?)が備後国の鞆の浦に攻め込んできたが、撃退された。平戸の峯源藤五は四国の軍勢と接触したらしい、菊池の若衆である宮崎太郎兵衛入道は鞆で自害し、その持っていた文書は焼失してしまった。ということは、宮崎太郎兵衛入道は四国勢に加わっていたということだ。その宮崎太郎兵衛入道の下僕を生捕りにして連れてきた、一方、長門探題は反幕府軍を百人余り討ち取った、その他の反幕府軍は逐電してしまった、昨日の四月三日までは特に変わったところはなかった、ということであった。
同じ四月四日、規矩高政殿が討ち入っていた肥後から帰還し、鞍岡山で討ち取った首が三十二、生捕ったもの二人を持参した。このほか、尼僧を一人生捕ったが、肥後に預け置いてきた。これは阿蘇大宮司の若衆の妹であり、規矩高政殿を暗殺しようとしたので逮捕したのだとか。
同じ四月四日、長門から早馬が来た。敵が押し寄せてきたが弓矢で撃退し、百人余りの敵を討ち取り、首を切って梟首した。長門探題の城内は負傷者十三人、討死したものは二人であったということだ。つまり、高津道性らの長門探題攻撃は失敗に終わったということだ。
 エピソードとして一つ。 ある人の侍女が、去る四月四日に犬射馬場に懸けられている菊池勢の首を見物にいったところ、身の毛がよだち、やがて霊に憑りつかれて寝込んでしまった。そうしていたところに、ある僧二人がその侍女の主のもとに行き、侍女の様子を見ていたところ、その憑りつかれた侍女が起き上がり、男のような感じで扇を持ちかえ、僧に向かって感情を露わにして、僧を上座に招き自らは下座に座ってかしこまっていた。僧は不思議に思って、「おまえは誰だ?」と尋ねたところ、侍女は「俺は菊池入道寂阿の甥の左衛門三郎というものだ、子供の頃は菊一という名であり大宰府の有智山で稚児として仕えていたので皆が俺のことを知っている。菊池で新妻を迎え、まだ十六日しか経っていなかったが、菊池入道寂阿に従って博多へと旅立つことになり、その出発のときに、『今度の合戦では無事に戻り、またお前に会いたい』と言うと、妻も泣きながら、俺が袴を着るときに俺に袴腰という厚板を当てていたその面影が忘れられないのだ。俺は自分の前髪を切って妻に渡し、逆に妻の髪を切ってお守りに入れて俺の首にかけ、そうして出陣したが、犬射馬場で討死するときまでそのお守りを持ち続けていたのだよ」と語って涙を流した。「ただ、敵を討ち取ることなく死んでしまったことは悔しくてたまらない」といった。妻のことを話すときは哀惜の情が顔にあらわれ涙を流し、また合戦のことを話すときは荒々しい表情を浮かべていた。また言うには、「俺が沖の浜の宿所を出陣するとき、夜遅くまで酒を飲んでいたので喉が渇いて水がほしかったのだが、水を飲まずに出陣し、そのまま討死してしまったので、水がほしいのだ」と言って水を求めたので小さな桶で差し出したところ、二回も飲んだ。また、「俺は酒飲みなので、ついでに酒も欲しい」と言ったので、柄杓で差し出したところ一気に飲み干した。「水を飲まないまま死んでしまったので、俺には常に水を手向けてほしい、またのちの世まで祭祀を続けてほしい」と僧たちに話した。その二日後、僧がこの侍女を訪ねてきて言うには、「左衛門三郎よ、こんなか弱い女性に憑りつくのは間違っていますぞ」と言ったところ、「俺は家を持たないのでこうなってしまった」と言うので、僧たちは、「家を作ってあげましょう」と言って卒塔婆をつくり、博多の松原に立てに行こうとすると、侍女は「わたしも一緒に行きます」と言ったかと思うとバタッと倒れ、しばらくして起き上がると、憑りついていた霊がいなくなって正気に戻った。また、卒塔婆に名を記入しようとしたときに、「俺が名を卒塔婆に書いてほしい」と侍女が言ったので、卒塔婆に菊池の苗字を書いて、松原に立てたのだという。
四月六日、京都からやって来た人が言うには、去る三月十二日赤松円心入道が京都の七条まで攻め込んだが、撃退された。光厳天皇は六波羅探題北方にお入りになった。赤松は元のとおり布引城に籠城した。その後、男山の石清水八幡に進出し陣を構えた、とのことである。
同じ四月六日、噂によると、長門の国では厚東・秋吉・岩永・由利・伊佐・アツマツヤ・河越・厚狭の各氏が皆、後醍醐天皇側についたということだ。
四月七日、三河守桜田師頼殿が門司から帰還した。それによると、長門では厚東氏をはじめとする敵勢が四月一日に攻めてきて、四月五日まで毎日合戦があったが、お互いに遠くから矢を射る矢戦ばかりであり白兵戦には至らず、敵は大勢、矢の攻撃を受けていたところ、三河守桜田師頼殿が長門探題の援軍としてに出陣したとの情報を得た厚東氏は宿所(本拠の棚井か?)に退却したが、これを知った桜田師頼殿は日田入道らを差し向けた。すると厚東武実は居城の霜降山城から逃げ散ったということであった。



 *この頃には既に「博多」と呼ばれていることが分かる。



 *菊池寂阿から少弐貞経に遣わされた使者の名を「太平記」は八幡弥四郎宗安とするが、彼は下記にあるとおり、三月二十三日に後醍醐天皇の密書を保持して首を斬られているので、太平記の記述は誤り。しかしながら、密使の名を把握しているというのは、「太平記」作者の力量はなかなかのものだと思う。







 *「御壷」については、中庭との解釈が多いようだが、ここでは「建物の中」とする佐藤鉄太郎氏「元寇後の城郭都市博多」の解釈を採った。





















































































































 *「比國」は『鎮西探題史料集(下)』によるが、それだと高津道性は筑前から出発したことになるので、「北国」の誤りだろう。



































 *「吉見殿」について、殿の尊称がついているということは、幕府方のように思えるが、ここは前後の文脈から高津道性としか考えられない。その父が石見国守護だったことから尊称をつけたのだろうか。


 *「上津妻毛」について、川添昭二先生は、「ママ」の註を入れている。良覚の筆の誤りだろう。






































 *「酒ヲ提」の「提」は、木ヘンに是、に見える。

 *●は、Πに王。



















 *(〇以下切レテ字ノ 半形ヲ存ス)は、『鎮西探題史料集(下)』による。川添昭二先生の註。


















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