平成15年8月13日作成
平成15年11月9日更新
高橋紹運の玉砕で知られる山城です。
中央の台形部分が本丸(手前の赤い橋は浦ノ城橋)
・データ
・岩屋城概要
・岩屋城へGO!(登山記)
・岩屋城戦歴
・岩屋城の素朴な質問
名称 | 岩屋城 | いわやじょう |
別名 | なし | |
築城 | 大友宗麟の家臣、高橋鑑種(たかはしあきたね)の築城といわれる。高橋鑑種が太宰府、宝満城に入ったのは、永禄二年(1559)ころ。岩屋城は宝満城の支城として築かれた。 | |
破却 | 天正十四年(1586)七月、島津軍の猛攻で落城。そのまま放置されたか、または一国一城令で破却されたか、あるいはもっと別の道を辿ったか不明。 | |
分類 | 山城(標高291m)・・・四王寺山の中腹 | |
現存 | 石垣(?)、土塁、堀切 | |
場所 | 太宰府市太宰府(旧筑前国御笠郡) | |
アクセス | 車で本丸近くまで行ける(駐車場はない)。JR博多駅から国道3号線を熊本方面へ約15分、大宰府IC入り口を過ぎたらすぐ、「水城2丁目」交差点を左折する。2キロ行って「関屋交差点」を左折し道なりにまっすぐ進み、西鉄太宰府駅を過ぎ北へ300m、右に直角に曲がるカーブで、右へ行くと天満宮だが、そこを左に曲がり赤い橋を渡り、ひたすら山道を登る。車で5分、徒歩で一時間かな?岩屋城の看板がでている。 |
■岩屋城概要
岩屋城は、四王寺山の中腹に築かれた山城だ。ふつう山城は山の頂上に築かれるが、なぜ中腹なのか、ずっと疑問に思っている(これは後述)。
岩屋城が有名なのは、何と言っても高橋紹運の武士道を貫いて玉砕した天正十四年(1586)の戦いである。落ち目の大友家にあって、立花山城の立花道雪とともに忠義を貫き通した生き様に感動を覚えずにいられない。
圧倒的兵力で攻め寄せる島津軍に対し一歩も引かず、降伏勧告の使者に対しては武士の節義を説いて微動だにしない。紹運の軍勢からは一人の脱出者も出なかったという。
かの名言、「男なら、負けると分かっていても戦わなければならないときがある」byハーロック がピッタリの武将だ!
■岩屋城へGO!(登山記)
平成十五年(2003)四月六日(日)
憧れの岩屋城へ向かう。
途中、太宰府の学校院跡の看板を見つけたので、車を停め立ち寄ってみた。
ここは、古代の役人養成機関があった場所だそうだ。
おや?背後の山の上が台形状になっている。あれは岩屋城ではないか。
思わぬところで岩屋城遠景を拝むことができた。よし先を急ごう。
西鉄太宰府駅を右手に通り過ぎ、県道35号線が直角に右に折れ曲がるところで左折、赤い橋(浦の城橋)を渡る。
ここからは上り坂だ。いくつものカーブを道なりに進む。
だいぶ高くなったところで岩屋城の看板を発見。駐車場はなさそうなので、道路脇の路肩に停める。
山の上が本丸跡、下が二の丸跡だそうだ。
まずは本丸へ上る。
階段がついていて上りやすい。
階段は凹地になっている。「福岡県の城」によると大堀切と書いてある。
なるほど、たしかに人工的な地形だ。ただ規模が随分と小さい。
長い年月に土砂が堆積したのだろうか、と考えながら右折し頂上へ向かう。
人ひとりしか通れない狭い階段で山城らしい。
右下には太宰府の町が一望できる。
頂上に着いた。
有名な「嗚呼壮烈岩屋城」の石碑が目に飛び込む。
本丸跡は意外と狭い。
眼下には水城、都府楼跡、天満宮から宝満山まで一望できて、城を構えるに相応しいことがわかる。
ただ、ここは四王寺山の中腹で、先の自動車道をさらに上ると山頂(大野城跡)へ続いている。
普通、山城は山頂に築かれるが、なぜ岩屋城は中腹に造られたのだろう、と前々から疑問に思っていた。今も疑問だ。
本丸跡をうろつくと、北の一角がさらに2mくらいの高台になっている。
「福岡県の城」によると櫓台とのことだ。
たしかに人が住めるような建物を建てる余地はないので、櫓が適当だろう。
いつの間にか本丸中央で花見の宴が始まっていた。ちょうど桜の季節なのだ。
ここが潮時と本丸を降り、二の丸跡へと向かう。
自動車道から下へくだると本丸よりもふた廻りほど広い平地があった。
その一角に高橋紹運はじめ戦没者の墓がある。
手を合わせて墓の向こうへいくと段々状の曲輪跡がよく残っている。
さらに狭い山道を下っていくと土塁が残っている。
右手のくぼ地(竪堀?)には石積みだ。
なんとなく城の攻めにくさが実感できる場所だ。
下山せずに二の丸へ戻る。
今度は本丸裏手に行ってみる。
例の堀切の本丸と反対側へ上ると道が凸凹になっている。
廣崎篤夫先生のいう畝状阻塞だろうか。
さらに進むと左手土塁上に石積みがあった。
太宰府観光案内板によると礎石群となっている。礎石というより石が積まれているんだけどナ。
古代大野城の遺構だろうか、岩屋城の遺構だろうか、それとも大野城遺構を岩屋城で活用したのだろうか、よく分からないが、岩屋城防衛の拠点のひとつだったに違いない。
ひとしきりウロウロして下山した。
初めて行ったが満足のいく城跡であった。
ホントは、宇美から太宰府へと毎年の高校の遠足コースだったのだが、当時は岩屋城の存在も知らず、立ち寄ることもなかった。
今思えば勿体無かったのだな、と感じた。
■岩屋城戦歴
◆大友宗麟を耳川に破り、竜造寺隆信を島原に討った島津軍が、いよいよ九州統一とばかりに大挙北部九州を攻める。筑前における大友方の拠点、宝満城、岩屋城には高橋紹運(たかはし じょううん)、立花山城には立花統虎(たちばな むねとら)がいた。「筑前國続風土記」によれば、天正十四年(1586)七月八日、薩摩軍は筑紫広門を降伏させ、岩屋城へ転進。紹運は、家臣から要害の地である宝満城へ移るよう進言され、また立花統虎からも宝満城もしくは立花山城で戦ってはどうかと提案あるもそれを却下、宝満城へは息子の統増(むねます)夫妻に若干の兵をつけ篭め置き、居城の岩屋城に敵を吸い寄せるために籠城した。七月十四日、島津軍は薩摩、大隅のほか、肥後、筑後、肥前の兵5〜6万で攻め寄せる。(秋月種実・種長は豊後からの援軍に備え秋月に留まり、この戦には参加していない)圧倒的兵力の島津軍に対し、城兵は一歩も退かず鉄砲、石弓、大岩あるいは組み討ちにして防ぐ。しかしながら討っても討っても島津軍は新手を投入し拠点を落としていく。薩軍は降伏勧告の使者を送るが、紹運に節をまげぬのが武士の道と返され頓挫、力攻めに転じる。島津軍は宇美からの小荷駄隊を打ち破り補給を遮断し、二十七日から総攻撃をかける。城兵は次々と討たれるが落伍者は出ない。本丸に追い詰められたところで紹運も今はこれまで、と櫓に上り自刃した。籠城の士600余人、島津軍は3000余人が戦死、1500人余りが戦傷した。現地案内板によると、島津軍5万に対し、守る城兵は高橋紹運以下763名。全員が玉砕した。
■岩屋城の素朴な質問(工事中)
Q1.なぜ中腹の岩屋山に城を作ったの?
A1.
このページの先頭に戻る