立花山城ロゴ
---- たちばなやまじょう ----
別名:立花城 たちばなじょう

平成15年8月13日作成
平成16年1月17日更新


福岡で最も有名な山城です。立花道雪の居城でした。

立花山遠景(久山より)
「♪立花山の曙に 多々良河畔の夕まぐれ・・・」

・データ
・立花山城概要
・立花山へGO!(登山記)
・立花山城戦歴
・立花山城の素朴な質問
 
Q1:なぜ立花山に城を作ったのか?
 Q2:築城した大友貞載はなぜ立花氏を称したか?
 Q3:立花山西城とはどこか?



■データ

名称 立花山城 たちばなやまじょう
別名 立花城(諸々の書物には立花城とあるので、こっちを表題にすべきかもしれない。だけど当HPでは、拙者の思い(?)で昔から馴染んだ立花山城としたい) たちばなじょう
築城 元徳二年(1330)大友貞載(おおともさだとし)が築城。大友貞載は、豊後守護大友家六代・貞宗(さだむね)の二男で立花姓を名乗った。なお、現地案内板には、建武元年(1334)築城ともある。
破却 慶長六年(1601)黒田長政が筑前太守として入国、その翌年破却されたという。遺構は福岡城築城の際、石垣などを根こそぎ持っていったと言われている。
分類 山城(標高367m)
現存 石垣、土塁、井戸
場所 福岡市東区と糟屋郡新宮町と糟屋郡久山町の境界上(旧筑前国糟屋郡)
アクセス JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ走り、約20分、須川交差点を右折。約2キロで立花小を通り過ぎると、立花山登山道入り口の看板と駐車場がある。行楽シーズンはすぐ満車になるので朝早く行こう。満車なら少し手前の六所宮の駐車場でもいいぞ。登山口から登ること約一時間。拙者は行ったことないけど、下原や白岳からも登れるそうだ。


■立花山城概要
立花山は、遠くから見ると3つのこぶのように見える。この写真は、JR千早駅そばから撮った立花山。3つのこぶは、一番高い右から立花山(またの名を井楼岳せいろうだけ)、松尾岳(まつおだけ)、白岳(しらたけ)という。
立花山遠景(千早より)
モノの本によると、そのほかにも「大つぶら」「小つぶら」「大一足」「小一足」の計7つの峰があるらしい。だけど、福岡ではぜ〜んぶまとめて立花山と呼んでいる。拙者もずっとそう思ってた。ちなみに、国土地理院の地図では立花山の北西を白岳としているけど、これは松尾岳の間違い。標高も843m(どこやねん!)となっててそんなはずがない。
立花山遠景(下原より)
立花山に近づいて麓の下原(しもばる)から見ると、こぶが4つに見える。一番右が井楼岳、ひとつ飛ばして松尾岳、一番左が白岳。ということは右から二番目は何だ?どうやらこれが「大つぶら」らしい。かつては、これら全山が城郭(要塞)だったのだろう。

立花山城は、大友貞載が築城し立花姓を名乗って以来、大友氏の筑前における重要拠点だ。途中、大内氏・毛利氏に占領されたこともあるが、それはこの城が博多支配の要衝であったことの傍証でもある。そのことは山に登ると実によく分かる。博多周辺の陸上交通路と海上交通路を扼すことができる城である。吉川英治の私本太平記では、九州に逃れてきた足利尊氏を大友具簡入道(貞宗)がこの城で出迎えた、となっている(もちろん小説です)



■立花山城へGO!(登山記)
平成十四年(2002年)十一月二十三日(土)

朝9時30分、麓の六所神社横、登山者用駐車場に到着。
まずは、六所神社から訪問。結構いろいろな祠があり、本堂の天井にはなにやら古い絵がかかっていて良い雰囲気だ。
六所神社本殿
ここは立花道雪の尊崇が厚かったという。
ひととおり見て回って、いよいよ登山道へ。

みかん畑にはたわわの実がなっている。
登山道入口には杖の貸し出しがあった。なんとすでに疲れている(情けなか)。
登山道は2人横になるのは難しいほどの道で結構きつい。息が切れる。
子供がスイスイ登っているというのに、なんてこった。
鬱蒼とした木々の中をひたすら登る。
この道を道雪も登ったのだろうか、島津兵もここを迫っていったのだろうか、などと思いつつ登る。
立花口からの登山道

途中、階段が設えてある急勾配の箇所あり。
ふと左を見ると、、石積みだ!
崩れかかっているが、明らかに人の手によるものだ。
すかさず写真を撮る。
石積み

妻はどんどん先へ登っていく。
急いで追うと、彼女はベンチで休んでいた。
これはいい、と一緒に休む。すでに汗びっしょりだ。
ペットボトルの水を買っててよかった。
さらに登る。ときどき眺望が開ける。素晴らしい。
大楠の木がある。たしかにデカイ。
これがクスノキなのか、今まで知らんかった、、と思いつつまた登る。

途中分かれ道がある。左は樟の原始林、右は本城。
もちろん右へ行く。
分岐点の正面には大きな岩がある。屏風岩というそうだ。
天然の城壁だな、、と思いながらまた登る。
坂はキツイが、ときどき標識があり励みになる。

頂上近く、古井戸への分岐点があった。
もちろん行く!
井戸は今でも水をたたえていた。けっこう小さい。
この水を飲んで戦ったのだろうな、ちゃんと賄えたのかな、と写真を撮る。
こういう井戸が何箇所もあったんだろう。
古井戸

道を引き返し、頂上を目指す。
あともう少しだ。
石垣の名残と思われる岩がだんだん多くなってきた。
福岡城築城の際、置いていかれたのだろう。
空が見えてきた。いよいよ頂上だ。
その直前、、おっここにも石垣の跡が。。
その横は虎口と思われる。
一気に上る。やった頂上だ!
立花山城の本城だ!(やっと着いた)
本丸その1

ここからの眺めはどうだろう、と端へ近づく。
な、なんと!これは絶景だ!
北は宗像城山から大島、海ノ中道、箱崎、博多、糸島の小富士、福岡ドームも手にとるように見える。
次々にシャッターを押す。
本丸より海ノ中道を望む⇒(拡大)

しかし、残念なことに霞んでいて、遠くがなかなか見えない。
沖ノ島も見えるような表示があるが、全然見えない。
また東から南側は木が茂っていて、まったく眺望が効かない。
城があった当時は、当然木々を切り払って360度の視界を確保していただろう。
わざわざ死角を作っても無意味だし。

今立っているところは、立花山の中で一番高く立花山城本城があったところだ。
しかしそんなに広くはない。モノの本にはここに東城と西城があったと書いてあるが、ふたつも建てられるか?
学校の校舎1つ分くらいだぞ(もっとあるか)。喧嘩にならんのかな?
(後で知ったことだが、東城は東の一段下の二の丸にあたるところだそうだ。と、吉永正春氏の本に書いてあった)
本丸2

それにしても、松尾岳、白岳が近く見える。それに意外とその間は深い。
よし、松尾岳にも行こう。
妻は行きたくなさそうだったが、とにかく行くことになった。
ところが、井楼岳から松尾岳への道は悪い。とにかく滑るのだ。
大丈夫かな?と思うと「石垣跡」の標識があった。
おお、いままでの崩れた石積みと違い、しっかりと石垣が残っている!
石垣2

さらに先へ進む。しかし、標識も何もなく、どっちに行っていいか分からない。
引き返そうか、と思っているときに、前方からおじさんがやってきた。
聞いてみると、この先にも石垣跡がありそこから下原(しもばる・地名)へ降りる道があるらしい。
何?石垣跡?
これは行かねばならない。勇気百倍で先を進む。
道の左側にあった!石垣だ。結構大きく残っている。
すると、妻がこっちにもある、という。
道の右側だ。行ってみると、おおっ!これは凄い。
長さ10メートル、高さ2mくらいの石垣が綺麗に残っている。
石垣3
なるほど、こうやって山のあちこちの要所に石垣を築いていたんだな。
と感慨深く進むと道はまた登りになった。松尾岳が近い。

しかし、更なる悪路だ。
やっぱり本格的な登山靴じゃないとダメだったかな、と思いながら全身を使って登る。
頂上が近い。土塁跡のようなものがある。
もう一息、と登りきる。頂上だ!案外狭い。
小さな建物くらいしか建てられないような狭さだ。
松尾岳山頂
ここにも松尾城という城があり、宗像氏貞(むなかたうじさだ)の妹、お色がいたという。
しかしそれにしても狭い。やはり日常生活は麓でしていたんだろう。
木が生い茂っていて眺望はほとんど効かない。
わずかに、津屋崎方面が見える程度だ。残念。
勿論、城があった頃は360度の視界が効いただろう。

ここからさらに白岳へ続く尾根道がある。
が、どうみても悪路だ。
われわれは引き返すことにした。

井楼岳へ引き返し、さらに立花口へ下山した。
宗像方面への視界は、みかん畑ちかくまで下らないと見えなかった。
まあいいか、と写真を撮る。
中腹より飯盛山を望む⇒(拡大)
宗像側の飯盛山がおむすびのように見える。
許斐岳城の前衛に、まるで将棋の「歩」のような感じだ。

麓の農家で白菜とみかんを買って帰った。
最後に、立花道雪の墓(写真右奥)を参った。
道雪墓
とにかく、憧れの立花山登山を終え、大満足な一日だった。


■立花山城戦歴
◆永享三年(1431)四月二十九日、大内盛見(もりはる)が立花山城を攻め陥落させている(「満済准后日記」)。戦闘の詳細は不明だが、「歴代鎮西志」によれば、盛見が上意であると称したので大友親繁(ちかしげ・大友家十五代)が開城した、となっている。同年六月十六日、大友方が奪還を図るが撃退された(「小早川文書」)。しかし、その直後同年六月二十八日、大内盛見は大友持直(もちなお)・少弐満貞(みつさだ)連合軍と筑前怡土郡萩原(糸島郡二丈町福井)で戦い、敗死する。これにより立花氏が立花山城を回復したと思われる。

◆嘉吉の変の首謀者・赤松満祐(みつすけ)討伐の幕命に少弐教頼(のりより)が遅参する。失態した少弐を討つという口実で文安二年(1445)八月、大内教弘(のりひろ)が大軍を率い立花山城を包囲、攻略した(「筑前立花城興亡史」)。これにより博多は大内の支配下となったと思われる。戦闘の詳細は不明。しかし、なんで少弐討伐で大友の立花山を攻めたんだろうか?当時、少弐教頼は太宰府に復帰したばかりだったので、太宰府攻略の途中同盟者の立花を攻めた・・ということかな?

◆応仁二年(1468)十月、応仁の乱で西軍についた大内政弘(まさひろ)が京へ出陣中、将軍足利義政(よしまさ)が九州有力諸氏に対し、大内氏討伐を命ずる。大友親繁・政親父子はこれに応じ、翌文明元年(1469)五月豊前・筑前へ出陣、その後立花山を奪回した(戦闘詳細および時期は不明)。これより先の同年正月、少弐頼忠(よりただ)は対馬から太宰府へ進撃、これを奪回している(「筑前立花城興亡史」)。

◆応仁の乱は決着がつかないまま文明九年(1477)終息したが、大内政弘は幕府に許され改めて豊前・筑前の守護となった。翌文明十年(1478)九月、留守の間奪われていた所領を奪還するために九州へ出陣、同月二十五日、太宰府で少弐政資(まさすけ・頼忠の改名)を破り筑前を回復した。このときに立花山城も開城あるいは降伏しただろう、と吉永正春氏の「筑前立花城興亡史」にある。この後、筑前および博多は再び大内氏のものとなっているからだ。しかしながら、立花山城が大内氏のものになったというわけではない。明応五年(1496)五月二十日、大友義右(よしすけ・大友氏十七代)が死去。父・政親(まさちか・大友氏十六代)による毒殺といわれているが、その政親は筑前・立花氏を頼って落ち行く途中、赤間関(下関)で大内氏に捕らえられ自殺させられている。立花山城は大内氏支配の筑前にありながら、やはり大友氏(立花山城主親直・ちかなお)が居たことがわかる。これについて吉永氏は、立花氏はこのころ大内氏に従属していたのだとしている。拙者もそう思う。

◆天文元年(1532)少弐資元(すけもと)は太宰府を取り戻すため筑前へ侵攻する。大友氏はこれに協力し、資元は立花山城に入った。大内軍はこれを包囲、三月二十二日大内の部将・温科盛長(ぬくしなもりなが)らの猛攻で立花山城は陥落した(「児玉オサム採集文書」)。また吉永正春氏によると「歴代鎮西要略」に、「天文元年壬辰(みずのえたつ)冬十月、大友と多々良浜に於て相戦い、大友敗れて立花城を去る」とあるという。ということは、これ以後立花山城には大内方武将が入ったのだろうか。それとも、立花山城には立花氏が変わらず在って再び大内氏に従属したのだろうか、よくわからない。天文七年(1538)大内義隆は筑前の旧領返還を条件に大友義鑑と和睦しているが、このときに立花山城も返還したとも考えられなくはない。拙者は立花氏が大内氏に従属したのではないかと考えているが、別段根拠はない。ハハ。

◆永禄八年(1565)六月、立花山城主・立花鑑載(あきとし・弥十郎、鑑俊とも)が大友宗麟に叛旗を翻す。宗麟は戸次鑑連(へつぎあきつら・後の立花道雪)、吉弘鑑理(よしひろあきさと)に大軍を授け立花山城を攻めさせた。同年七月四日、鑑載は降伏した。一説には永禄十一年(1568)ともいう。この叛乱の後、なぜか鑑載は許されて立花山城本城に復帰したといわれる。また、豊後から怒留湯融泉(ぬるゆゆうせん)が立花山城白岳に在城した(『立花城興亡史』)。この永禄八年の立花鑑載謀叛についてはよくわからないところがある。前後の関係から怒留湯が立花山に入るきっかけがこの頃あったと思われるが、鑑載謀叛の出典元は何だろうか。

◆永禄十年(1567)七月、宝満城主・高橋鑑種(たかはしあきたね)が大友宗麟に叛旗を翻す。宗麟は、戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速(うすきあきすみ)・斎藤鎮実(さいとうしげざね)・吉岡宗歓(よしおかそうかん)ら兵二万で鎮圧を図った。翌永禄十一年(1568)二月、立花鑑載は鑑種に呼応し、再び大友に叛乱。薦野河内守・米多比(ねたび)大学らを井楼岳へ呼び出し謀殺、次いで白岳の怒留湯融泉を攻め、怒留湯を筑後へ追い出して立花山城を占拠した。安芸の毛利元就は清水左近将監ら八千を立花山の援軍として送り四月六日入城した。戸次・臼杵・吉弘らは宝満攻めから立花山へ転進、四月二十四日から立花山攻城戦が始まった。兵一万で守る立花山はなかなか陥ちなかったが、鑑連の調略により野田右衛門大夫が内通し、遂に七月二十三日落城した。立花鑑載は脱出し、青柳村(古賀市)にある古子(ふるこ)の城で再起を図る。しかし兵が集まらず新宮湊へ落ち行く途中、どうしたわけか野田右衛門がこれを知り戸次鑑連が追い詰める。観念した鑑載は青柳の松林で自害した。この後、立花山城には津留原掃部介(つるはらかもんのすけ・鶴原とも)・臼杵進士兵衛(うすきしんしひょうえ)・田北民部丞(たきたみんぶのじょう)の三名が城代となり守った。援軍として立花山に入っていた中国の清水左近将監、怡土の原田親種、高橋鑑種の将・衛藤尾張守は、同年八月に立花山奪回を図り合戦に及ぶが敗れ、衛藤は討死、清水・原田はそれぞれ自領へ引き上げた。

◆永禄十二年(1569)四月二十四日、吉川元春・小早川隆景に率いられた毛利勢四万は豊前から筑前へ侵攻した。やがて立花山城を包囲し、さらに筑後方面から来る大友軍に備え防御陣地を構築した。立花山城では籠城を決め、肥前竜造寺を攻めていた戸次・臼杵・吉弘らは立花山城解放のため箱崎近辺に陣を敷き、毛利勢と合戦に及んだ。毛利軍は大友軍と戦いつつ、立花山城は力攻せずに兵糧攻めとし、金堀を使い水の手を絶った。水を絶たれた城中の三将は宗麟の命を仰いだが、宗麟から開城せよとの指示があり毛利軍に対し降伏した。毛利軍はこのとき、城中の将兵を処刑することなく護衛をつけて大友陣へ送りとどけている。こうして立花山城は毛利方となった。大友軍はなおも奪回を目指し同年五月十八日、多々良川において大激戦となった。両軍多くの死傷者を出したが決着はつかなかった。そのまま対峙が続いていたが、大友宗麟が豊後に逃れていた大内輝弘(てるひろ)に大内家再興の軍を授け周防へ逆攻勢をかけさせ、また尼子家再興を図る山中鹿之助が出雲で挙兵したため、毛利元就は同年十月十四日、筑前出征軍に撤退を命じた。翌十五日、毛利勢は中国へ向け撤退を開始した。このときに毛利勢は多く討たれている。立花山城には、乃美兵部宗勝(のみひょうぶむねかつ・浦宗勝とも)・桂左衛門尉(かつらさえもんのじょう)・坂田新五左衛門(さかたしんござえもん)が残り後を守った。『宗像記追考』によると同年十一月九日、守将は降伏、大友方は先日の御礼として彼らに護衛をつけ芦屋まで送り無事本国へ帰している(『筑前國続風土記』では元亀元年(1570)としている)。こうして立花山は再び大友家に戻り、吉弘鑑理の子・吉弘新介入道鎮道(高橋紹運の兄)が城督代行となった。

◆元亀二年(1571)五月、大友宗麟は戸次鑑連(道雪どうせつ)に対し、立花山西城督を命じた。西城というのは白岳のことではなく、井楼山の本城に東西ふたつの城があったことを示すとされている。嘉永四年(1851)の『立花山古城図』にも本城の中に東西の二城がある。吉永正春氏によれば、わたしたちが頂上と考えているところが西城で、東方に一段下がった平坦なところが東城であるという。ということは東城とは二の丸のようなものだったのだろうか。

◆天正三年(1575)五月二十八日、道雪は一人娘のァ千代に立花城督を譲る。

◆天正九年(1581)八月十八日、高橋紹運の長男・統虎が道雪の養子となる。

◆天正十三年(1585)三月、秋月種実は立花道雪が筑後へ出陣中の隙を突いて立花山城を攻めるが、立花統虎(むねとら・後の宗茂)これを撃退する(「立花城興亡史」)。同年九月十九日、道雪筑後北野において陣没。

◆天正十四年(1586)七月二十七日、九州統一を目指す島津軍は高橋紹運が守る岩屋城を陥とし紹運以下七百人余りが玉砕した。博多へ進出した島津軍の次なる目標は、立花統虎(宗茂)の守る立花山城だ。詳しくは分からないが、島津軍は立花山を包囲したものの全面攻撃はしていないらしい。『上井覚兼日記』によると、島津軍は秋月種実を仲介し宗茂へ対し降伏勧告しているが、宗茂はこれを拒絶。しかしながら、島津軍は秀吉の九州討伐軍が来る前に薩摩へ撤退した。このとき博多の町と香椎宮は焼かれている。

◆天正十五年(1587)、秀吉により立花統虎は筑後四郡の領主として柳川城へ移る。筑前は小早川隆景が太守となり、名島城へ入った。立花山城へは、乃美宗勝を城代とした。永禄十二年の合戦で中国へ引き上げる毛利勢の中で立花山に残り守将となった武将である。





■立花山城の素朴な質問
Q1.なぜ立花山に城を作ったのか?
A1.大友貞載が立花山に築城した理由についてはいろいろ調べてみたが、どの本にも大友貞載築城とはあるが、なぜそこに城を築いたか、についてはあまりはっきりとしない。どうやら定説はないようだ。
たしかに、豊後守護・大友氏の拠点がなぜ博多支配の一等地にあるのか、という問題に答えるのは難しいと思われる。すなわち、なぜ大友氏が立花山に築城できるのか、博多支配の要地であるなら他勢力(例えば少弐氏)はなぜ立花山に築城しなかったのか、の両方の疑問に答える必要があるからだ。

一般にいわれている主な説を挙げると、
(イ)=立花山が商都博多を押さえる要地であることに着目し、築城した
(ロ)=元寇の石築地(元寇防塁)建設で香椎担当であった大友氏は、香椎にそのための所領をもらい、蒙古から香椎地区を防衛するための拠点として立花山に築城した
(ハ)=元寇の恩賞として博多周辺に所領をもらった大友氏が、博多支配を目指し、要害の立花山に築城した
といったところだろう。

拙者の推測意見を加えてみよう。
(ニ)=もともと鎌倉時代初期から香椎周辺に地頭職をもっていた大友氏が、幕末の戦乱を予感させる時期に所領を守るために近く(裏山?)の立花山に築城した
まぁ文献的根拠がある訳じゃないんだけど・・・(^^;
自由な発想ということで大目にみておくれ。

簡単にまとめると、

なぜ大友氏が築城できたか? なぜ他勢力は築城しなかったか? 築城目的
(イ) よくわからない(?) 立花山の有効性に気付かなかったため(?) 博多支配のため
(ロ) 所領が近くにあったから 香椎防衛担当が大友氏だったから 蒙古防衛のため
(ハ) 所領が近くにあったから 大友氏に先を越されたため(?) 博多支配のため
(ニ) 所領が近くにあったから 大友氏の所領のすぐ裏だったから 所領防衛のため


拙者の関心事として、最初から博多支配をもくろんで築城した、というのは話が出来すぎている、と思う。(イ)と(ハ)だ。博多をトルために立花山城の攻防があったのは確かだけど、それはずっと後世の話だ。築城されたといわれる元徳二年(1330)は、博多にはしっかりと鎮西探題・北条英時がいるのだし。
また、元寇の恩賞として大友氏に与えられたものではっきり分かっているのは、筑前國怡土荘志摩方三〇〇町惣地頭職で、博多よりずっと西方だ。

(ロ)は、築城の目的を蒙古防衛においていて納得できる。香椎防塁を守る大友氏が立花山に観測点を置けば、敵の動きは一目瞭然だ。築城時期の元徳二年(1330)頃は蒙古の脅威は無くなっているように感じられるが、それはわれわれがその後の歴史を知っているからであって、実際は国防体勢があったそうだ。ただそうなると、石築地建築の建治二年(1276)ころに築城しなかった理由が分からなくなる。実際、そのあと弘安の役が起こっているのである。

では(ニ)はどうか。まず大友氏が立花山に築城できたということは、その近くに所領をもっていたはずだ。戦国時代のように他人の土地に勝手に築城して実効支配する、という時代ではないからだ。(ロ)のように、蒙古防衛を機に所領を手に入れたというのも分からなくはない。しかし、大友氏以外の例えば島津氏が担当区域の箱崎に所領があるかというと、そういう話も聞かない。

それよりも大友氏は少弐氏とともに守護の中でもやや特殊な家柄であることが気になる。外山幹夫氏によれば、鎌倉時代初期の建久六年(1195)頃、武藤資頼(むとうすけより)が鎮西奉行に任ぜられたと同じころ(あるいは同時に)、大友能直(よしなお)も鎮西奉行に任ぜられ、それぞれ西方、東方と分担していたとのことだ。この西、東というのは、九州全体を東西に分けたものと思われる。奉行所の場所は不詳だが、のちの鎮西探題にいたる経緯から考えて博多にあったのではないだろうか。とすると、大友氏は元寇より前に博多にも「職場」があったということだ。そこで、博多に「事務所」を構えるよう幕府から指示され、その見返りというか、近くの糟屋郡香椎あたりに地頭職を与えられた、という想像をしてみたのである。ただし記録はない。

築城の動機を所領を守るため、と考えたのは、築城年といわれる元徳二年(1330)が、正中の変より六年後、後醍醐天皇が笠置山に挙兵する前年にあたることから、全国に不穏な雰囲気が広まりつつある時期と思われたからだ。築城したといっても、その三年後の鎮西探題襲撃を予見していた、と考える必要はないと思う。当時の城は、有事の際だけ山に篭もって戦う一時的な施設である。敵が攻めてきたときの用心に築いたものと考えた。もちろん、元寇時の観測拠点のような存在を否定はしない。無いと考えるほうが不自然だからだ。
最後に、その大友氏の所領はどこか、と考えると、それはやはり立花氏の屋敷があったという立花口あたりと考えるのが自然だろう。

まぁそうはいっても、素人の勝手気ままな想像の域を出ないので、このへんで止めとこうっと。(もう充分長いけど)


Q2.築城した大友貞載は、なぜ立花氏を称したのか?
A2.ずばり、立花という土地の名を姓にしたのである!
当り前じゃないか、と叱られそうだが、ここではもう少し考えてみたい。

大友貞載(さだとし)について寸評すると、「豊後守護・大友貞宗の二男。左近将監。元徳二年(1330)、筑前に立花山城を築き立花姓を名乗った。」といった感じだろうか。さっと読んでしまえば、ただそれだけのことで別に何ともない。

ところで、父の大友貞宗(さだむね)は嫡子単独相続制へ移行したことで知られている。一般に鎌倉時代の相続は子供たち全員(女子も)への分割相続であった。しかし、それを繰り返すと所領が小さくなっていき代が下るほど貧窮化する。そのため分割相続から嫡子単独相続へと世の中が大きく移っていくことになるが、大友家の場合は六代・貞宗が転換点となったようだ。貞宗は元弘三年(1333)三月、鎮西探題を攻める直前に、五男(四男とも)千代松丸(後の氏泰うじやす)を嫡子と決め所職所領のすべてを千代松丸に継ぐことを決める。長男・貞順(さだより)、二男・貞載は父と共に戦場に赴くのでいつ戦死するか分からないことが理由といわれる。父・貞宗がいつ亡くなったか判然としないのだが、この年の暮れ、病死したといわれている。ここではこの説に従う。

ところで、長男・貞順はこの相続に不満をもち家を出たようだ。グレてしまった長男に代わり、幼い(年齢ははっきりしない)当主・千代松丸を支えたのは二男・貞載であった。
建武元年(1334)、九州における北条氏残党が挙兵、貞載は筑後国三池郡堀口城に篭もる豊前守護・糸田貞義(探題北条英時の甥)を討った。また、建武二年(1335)十二月には後醍醐天皇の命で箱根・竹ノ下合戦に参加している。この合戦で貞載は足利方へ寝返り、それがきっかけとなって足利軍の勝利となった。そのまま足利尊氏は京へ進軍、貞載も従った。
足利家にとっては貞載は功労者であるが、天皇方にとっては許すべからざる裏切り者である。太平記にも、「尊氏が不義は是非に及ばず、大友ほど悪(にく)き物なし」と後醍醐天皇の言葉がある。そのため貞載は、翌建武三年(1336)正月、京・揚梅(やまもも)東ノ洞院において結城親光(ゆうきちかみつ)に斬られ落命する。

さて、立花家であるが、拙者は立花山付近に大友家の所領があったと考えている。その所領を貞載が得たとすれば、上記事情から父・貞宗が亡くなった後と考えられる。貞載が実質的な大友家当主として活躍していた時期である。ここがポイントのように思えるのだ。
貞載の働きをみて、このまま大友本家を乗っ取る気では、と危ぶむ人もいたであろう。その意志がないことを明らかにするために、遠く離れた筑前の所領を弟当主から譲り受け、立花貞載と改め自ら庶家に落ち着こうとしたのではないだろうか?

「立花山城を築き立花姓を名乗った」と聞くと、元徳二年(1330)に築城、そのままそこに居住して姓を変えた、といった印象を受けるが、拙者は以上のように考えている。ちょっと貞載がカッコよすぎるかな。
例によってこれも、文献的資料はなくて単なる想像に過ぎないのだけど、まぁ良いではないか。(^^;
貞載のあと、立花氏は弟の宗匡(むねまさ、むねくに、貞宗の三男)が二代目を継いだ。


Q3.立花山西城とはどこか?
A3.立花山城主でもっとも有名なのは立花道雪(たちばなどうせつ)だ。その役職名は「立花西城督(たちばなにしじょうとく)」と言われる。城督とは城のリーダー、城主のことだ。(大友家の場合は、ただの城主ではなく守護代職を兼ねているともいう。「支店長」といったところだろうか。)

では立花の西城とはどこだろうか?
吉永正春氏「筑前立花城興亡史」によれば、白岳が西城と呼ばれることもあったが、この場合は白岳のことではなく、本城(井楼岳)に東西ふたつの城があり、そのうちの西城である、とのことだ。

その根拠として、
@「立花文書」のギン千代に城督を譲った際の譲状の中で、「立花東西松尾白岳御城督御城領等」とあり、立花山に東・西・松尾・白岳の4つの城があったこと
A「立花山古城図」に井楼岳の中に東西ふたつの城が描かれていること
を挙げている。

そこで、西城とは本城(井楼岳)本丸のことで、東に一段下がった二の丸にあたるところが東城としている。また、「三苫文書」の立花城督就任祝いの礼状にある「立花西御城督」についても「立花山の本城並びに全城域を指し、西の守護代の城と解すべきであろう」と解釈している。

しかしながら、同書126頁には永禄八年(1565)〜十一年(1568)のこととして、「立花山上には本城(当時は東城とも呼ばれていた)と、それより小さい出城の白岳の二城が並立するようになる」、同じく141頁に「峰続きの白岳の城(このころまで西城といっていた)を攻め」ともあって、どうにも分かりにくい。道雪の立花山城督就任が元亀二年(1571)だから3年〜6年ほどの間に「西城」の呼び名が白岳から井楼岳に移ったということになる。それも東城が急に西城になったというのはどうだろうか。JRの駅だって、東口が急に西口に名称変更になったら困りますよ。

どうも検討の余地があるようなので、ここで拙者の意見を述べておくと、立花山西城はもっと素直に考えて良いように思われる。平凡な意見だが、井楼岳(せいろうだけ)の「井」は「西」に通じるので、井楼岳(西楼岳)にある城を単に「西の御城」と呼んだのではないだろうか。松田優作を「松の旦那」と呼ぶようなものだ(ホントか?)。つまり東城に対する西城ではなく、立花山の峰々の中で西に位置するのでもなく、単に山の名前から取ったと考えることができると思う。
ただそうなると、先の@Aの説明が難しい。Aの「立花山古城図」は嘉永四年(1851)製作でペリー来航の頃だから説明できると思うが、「立花文書」のほうは困難だ。そのあたり、拙者も研究中なのじゃ。う〜む、やっぱり定説どおりなんかな。。ここまで読んだ人にとっては、「なんじゃこりゃぁ!!」だな。


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