---- あらひらじょう ----
別名:荒平城 あらひらじょう
平成15年8月13日作成
平成16年11月28日更新
大友方の武将・小田部紹叱の居城でした。巨石の山城です。
次郎丸からの安楽平城遠景(写真中央が城跡。左に続く尾根は油山。)
・データ
・安楽平城概要
・安楽平城へGO!(登山記)
・安楽平城戦歴
名称 | 安楽平城 | あらひらじょう |
別名 | 荒平城とも。 | あらひらじょう |
築城 | 現地案内板によれば、寛正三年(1462)大内政弘の家臣・飯田幸松丸が築城したとのこと。 | |
破却 | 天正七年(1579)龍造寺隆信軍の攻撃により落城。そのまま放置されたか? | |
分類 | 山城(標高395m) | |
現存 | 土塁・石垣・堀切 | |
場所 | 福岡市早良区東入部と内野の境(旧筑前国早良郡)。荒平山の山頂。 | |
アクセス | 安楽平城への道は分かりにくい。JR博多駅から大博通りを北東へ向かい、1キロ先の「呉服町」交差点を左折、まっすぐ進もう。3キロで福岡城大手門だ。水堀を横目に見ながら通り過ぎて2.5キロ、西新の「脇山口」交差点を左折、南へ(早良街道・途中から国道263号線と名前が変わる)ズンズン進もう。辺りが寂しくなってきた8.4キロ先「早良平尾」交差点から左折し県道136号・入部中原線に入り、1.5キロ走って「谷」バス停のすぐ次の信号をまた左折、狭い道だけど気にせず進み、「脇山一丁目14番地」の小さな三叉路を左折、納骨堂を過ぎると山道になるが、舗装されているのでドンドン進むと、約1キロ先に駐車場あり。車3台分くらい。そこからは徒歩で1時間くらい。 |
■安楽平城概要
福岡市民にとっておなじみの油山。福岡ドームから眺めると、油山の右横に稜線続きで一段低い山が見える。別にドームからじゃなくても見えるので、ちょっと見てほしい。頂上が平らなのですぐに山城だと分かる。これが安楽平城だ。
安楽平城は、大友家の筑前支配の拠点の一つで、早良郡方面を治めていた。天正七年(1579)、肥前の龍造寺軍が三瀬峠などを山越えして安楽平城を攻撃、約半年間の籠城戦ののち落城。城主小田部紹叱(こたべじょうしつ)も討死した。
このときの安楽平城の落ち武者を「安楽平くずれ」というが、その中のひとり中牟田紀伊守元正の子孫が、福岡・天神のデパート・岩田屋を開いた。(「福岡歴史探訪 早良区編」)
■安楽平城へGO!(登山記)
平成十五年(2003)八月十日(日)
荒平城へ行ってみた。国道263号を南下、早良平尾交差点で左の県道に入る。
谷バス停のすぐ先を左の細い道に入っていくのだが、分かりにくく通り過ぎてしまった。
改めて細い道に入り、脇山1丁目14番のT字路からさらに上へ入る。
納骨堂を過ぎると車1台がやっとの舗装道路を上がっていく。
砂防ダムの工事中となっていたが、ちょうど日曜日なので誰もいない。
どこまで車で行けるか分からなかったので、そこで車を停め、そこから歩いた。
すぐに両脇に石垣に手ごろな石が散見されるようになった。ときどき大石もある。
明らかにノミの跡がついているので石積みの跡だと思う。
さらに上ると、分かれ道があり右手にも行ける。
しかもそっちの方が急勾配でいかにも頂上へ行けそうな感じだ。
標識がないので迷ったが、ここで右に行くとなると山道の作り方として明らかに不自然なので、ここは道なりにまっすぐ行く。
どこからか祭囃子のような音が聞こえてくる。何かやってるのかな?
しばらく歩くと「荒平城主小田部鎮元自刃の地」の石碑が立っていた。
落城の際、ここまで落ち延びてきて切腹して果てたのだ、無念だったろう。
石碑の右手には整然とした墓があり花も手向けてある。
手を合わせ写真を撮らせてもらった。
さらに舗装道路を登っていく。
太鼓の音がはっきりとしてきた。
祭りの練習だろうか、と考えながら歩いていると、バーベキューをしている人たちと出会った。
太鼓の練習をしている。車も3台停めてある。
そうか、ここまで車で来れたのだ。たしかにUターンできるスペースもある。
挨拶して通り過ぎると舗装道路がなくなった。
と、そのとき、巨大なトンボが顔の横をかすめ飛んだ。
おおっ、あれはオニヤンマか!はたまたムカシトンボか。
体長15センチ以上、鮮やかな緑色の体。羽を伸ばして30センチくらいあるんじゃないか。
すごいのがいるな。さすが山ん中だ。
そしていよいよ山道だ。
道というより小川を歩いていく。
一昨日の台風10号の雨のせいか、さらさらと流れている。
そうか、山道は雨が降れば小川になるのだな、と気づいた。
そういえば、柑子岳城のときも道が凹状になっていた。
敵を防ぐだけでなく、雨が降ったときに川となり、余計に敵の侵入を防げるわけだ。
古戦記に雨で作戦が中止になるというのは、こういう要素もあるのだな、と気がついた。
そんなことを考えながら、険しさを増した道を登っていく。
道は階段が設置してあり登りやすい。
石積みの崩れた跡があちこちにある。
やぶ蚊が増えてきたようだ。
ふと前方右手に綺麗な石垣を発見!
おおっ、すごい!
横10m高さ2mくらいだろうか。
よく残ってたな、と思うくらい状態が良い。立花山の石垣に雰囲気が似ている。
これは良いものを見られたぞ、勇気百倍で登っていく。
空が見えてきた、頂上も近いはずだ。
周りは巨石が増えてきた。
高さ3mくらいの巨石を使った石積みもある。
丸みを帯びている岩が多い。
上からおじさんが降りてきた。
聞くと、荒平山、油山によく登るのだという。
ちょうどそこにあった丸いくぼみは昔の炭焼きの跡だと教えてくれた。
戦後間もない頃のものだという。こういうのが全部で11個くらいあるそうだ。
鉄塔建設の九電の社員が荷物を背負い、ロープを滑ってあっという間に下山することも教えてくれた。
荒平城のこともイロイロ教えてくれた。
礼を述べおじさんと別れ頂上を目指す。
虫除けスプレーをモノともせず、次々とやぶ蚊が襲ってくる。
しかし肌に取り付くことはない。
さすが日本の虫除けスプレーだ。
おっ堀切だ。はっきりと痕跡が残っている。
小さな標識があり右に上ると頂上らしい。
しかし、左の土塁のほうへ行ってみる。
鉄塔が建っている小さな平地だ。
廣崎篤夫先生の縄張図にあった出丸だと分かった。
写真を撮り、いよいよ頂上へ向かう。
な、なんだこれは!おびただしい巨石群だ。
2〜3mの岩が積んである。
ほとんど崩れているが、当時はこれらが圧迫感をもって行く手を阻んでいたのだろう。
これは攻めるに困難な城だったに違いない。
それにしても丸みを帯びた巨石だ。これが荒平城の特徴かもしれない。
空が近い、もう少しだ。
道が急角度で右に曲がった。
虎口だ。これは分かりやすい。
そして頂上、本丸跡だ。
以外にも広い。30m×15mくらいだろうか。
汗ダクダクだが心はウキウキだ。
廣崎篤夫先生の縄張図が表示してある。先生、こんなところにまで活躍されている。
荒平城は本丸を中心に二の丸と三の丸が二本の腕を伸ばしたように北に伸びている。
水分補給し一息入れ、三の丸へ降りてみた。
ここも広い。しかも奥が深い。
100mくらいあるんじゃないか。
この奥深い段々状の曲輪を攻めるには、相当な戦力を消耗しただろう。
一旦本丸へ戻り、今度は二の丸へ下る。
堀切を横切ると、これはまた広い空間だ。
縄張図では武者走りとなっている。
その向こうは大きな土塁だ。
これが二の丸か、と上ると、おおっこりゃ広いぞ。
それにこっちも奥が深い。
例の巨石を使った石積みも散見される。
相変わらずのやぶ蚊、アブ、巨大クモの巣の波状攻撃だが、そんなのに戦国武者は負けんのだ、と先端まで進む。
その向こうは急な崖だ。
なるほど、堅固な城のありようが見事に残っていて、とても良い。
こっちのほうからは尾根伝いに油山へ行けるらしい。
ということは、二の丸、三の丸は油山方面から来る敵に備えていると思われる。
ということは、さっき登ってきたのは裏口、搦め手だったのだろうか。
本格的山城を満喫したので本丸へ戻り、さらに下山することにした。
こっちが搦め手だとすると、小田部鎮元は龍造寺の猛攻に支えきれず、搦め手から脱出したのだろうか。
あるいは、攻城軍へ打って出て血路を開こうとしたが、大軍を相手に力尽き、
先ほどの地で自刃したのだろうか、と想像も膨らむ。
山の構造上、曲輪は北方に作られたのだろうが、それは荒平山よりも高い油山に敵が陣を構えた場合に強さを発揮できるから、ちょうど良かったのだろう。
城を構えるときの第一条件は守りに固いことのはずだ。
そういうことも含め総合的に勘案して、油山ではなく、一段低いここ荒平山に築城したのだな、と考える。
とても勉強になる山城であった。大満足で山を後にした。
■安楽平城戦歴
◆天正七年(1579)三月、龍造寺家の家老・執行越前守種兼(しぎょう たねかね)が五千の兵を率いて背振連山を越えて早良郡に侵攻、城下を焼き安楽平城を取り巻いた。天文二十二年(1553)から城主となっていた小田部鎮元(こたべしげもと・法名紹叱)は降伏勧告を拒否、約千の兵と共に籠城した。龍造寺軍は兵糧攻めを選択した。約半年の攻囲戦ののち、九月十一日早暁、立花山城からの援軍を頼んで小田部軍が打って出たが多勢に無勢、小田部紹叱は討死、安楽平城は落城した。龍造寺軍は安楽平城を落とすと佐賀へ帰還した。
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