寒竹城(別名 吉志城)ロゴ
---- かんちくじょう ----
別名:吉志城 きしじょう

平成17年5月15日作成
平成17年5月15日更新

パーキングエリアとなってしまった門司城の支城

吉志PAは今日もドライバーの憩いの場だ
寒竹城の現在の姿

・データ
・寒竹城概要
・寒竹城へGO!(登山記)
・寒竹城戦歴


 

■データ

名称 寒竹城 かんちくじょう
別名 吉志城 きしじょう
築城 文治年間(1185〜90)、下総前司親房が築いた。(福岡県の城)
また、現地石碑には、康元正嘉(1256〜1259)ころの築城とある。
破却 不明。
分類 山城(標高60m)
現存 なし。
場所 北九州市門司区吉志(旧豊前国規矩郡)
アクセス JR博多駅から九州自動車道(高速道路)へ向おう。福岡インターチェンジから小倉・山口方面へ走る。約30分くらいで、「吉志(きし)パーキングエリア」があるので、迷わず入る。「小倉東インター」を過ぎるとすぐなので、左車線へ入っておこう。
パーキングエリアの売店のちょうど裏に「寒竹城址」の石碑が建っている。石碑への行きかたは、売店へ向って左側から売店をまわりこむように雑草の中を歩いていくのだ。分からないときは、売店の人へ聞いてみよう。知っている人がいるはずだ。
なお、高速以外にこの石碑へは行けないので、お金はかかるが高速を走ろう。下り線じゃないよ。上りのパーキングエリアなので、コースをよく考えて高速へ入ろう。



■寒竹城概要


九州の北西端、「門司城」には五つの支城があったと云われる。三角城、金山城、寒竹城、足立城、若王子城だ。(廣崎篤夫先生「福岡県の城」)
ここで紹介する寒竹城は、別名「吉志城(きしじょう)」ともいう。吉志というのは、寒竹城のすぐふもとの町の名前である。

門司城の城主・門司氏(もんじし)は、南北朝のころ、一族が南北に分かれて争ったが、武家方として吉志系門司氏という名前がみえる。(平凡社「福岡県の地名」)
この寒竹城を本拠とした一族であると思われる。

また同書には、応仁の乱後の大内氏家督争いの際、吉志系の門司親常(もんじちかつね)が大内盛見(おおうちもりはる)方に馳せ参じたと考えられること、
永禄五年(1562)には吉志系の門司親胤(もんじちかたね)が毛利氏より吉志郷の安堵をうけていること、があり吉志系門司氏は大内、毛利氏に従属していたことがわかる。

しかし、その後の門司氏についてはよく分からない。
今でも九州には、門司と書いて「もんじ」と読む苗字の人がいるので、何か関係があるのかもしれない。

吉志城(寒竹城)は、昭和五十年ころまでは遺構らしきものが残っていたようだが、
現在では高速道路のパーキングエリアとなってしまって、全く面影はない。(廣崎篤夫先生「福岡県の城」)




■寒竹城へGO!(登山記)
平成十六年(2004)五月一日(土)

大型連休の初日、門司城へ向かうために高速道路に乗った。
ついでに、九州自動車道の「吉志(きし)」パーキングエリアに行くためでもある。

海沿いのパーキングエリアかと思っていたが、着いてみると山の中だ。
さて、廣崎篤夫先生の「福岡県の城」によると、売店の裏に石碑が建っているという。
吉志PAの売店

売店の周りをウロウロしてみたが、草深く、見当たらない。
しかたないので、売店のお姉さんに聞いてみたが、知らない、という。
これこれこういう字を書くのですよ、と説明していたら、奥から出てきた別のお姉さん(?)が、あぁそれなら売店を出て右に行ったら草の中に小道があるけんそれを行けばあるよ、と教えてくれた。
なんでも、時おり、石碑を訪ねてくる人があるのだという。
さすが年の功だ、と思いつつ、お礼を行って早速むかう。

たしかに草むらのなか、人の踏みあとのようなものがかすかにある。
この奥に石碑があるのだ
草を掻き分け進むと、ちょうど売店の真裏、1.5mほどの石碑が建っていた。
ひっそりと建つ石碑
それによると、寒竹城は代々、吉志系門司氏の居城とある。

しかし、今ではその痕跡はどこにも見当たらず、この草に埋もれた石碑だけが後世への語り部となるのだろう。



■寒竹城戦歴

◆寒竹城に関する戦は、今のところ不明なり。
関連事項として、
◆貞治三年(1364)七月、武家方の吉志系門司氏、門司親尚(もんじちかなお)が門司城山(門司城)に要害を構え、宮方と合戦し、これを追い返した。(平凡社 「福岡県の地名」)


以上

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