---- もじじょう ----
別名:門司関山城 もじせきやまじょう・亀城 かめじょう

平成17年4月30日作成
平成21年8月2日更新

関門海峡を見下ろす交通の要衝

門司城遠景(本丸右の平坦地に和布刈山荘、その右にパゴダ)
門司城遠景(城の中腹に関門橋が突き刺さっているようにみえる)

・データ
・門司城概要
・門司城へGO!(登山記)
・門司城戦歴


 

■データ

名称 門司城 もじじょう
別名 門司関山城、亀城 もじせきやまじょう、かめじょう
築城 元暦二年(1185)、平知盛(たいらのとももり)によって築城されたと云われている。(福岡県の城)
破却 元和元年(1615)、一国一城令により廃城となった。(現地案内板、福岡県の城、福岡県の地名)
分類 山城(標高175m)
現存 曲輪跡? 石垣?
場所 北九州市門司区門司(旧豊前国規矩郡)
アクセス JR小倉駅から国道3号線を東へ行こう。約11キロ先の門司区「鎮西町」交差点から3号線は右斜めへ折れるが、そっちへ行くと国道2号線となり、関門トンネルをくぐって本州へ上陸してしまう。だから、ここはまっすぐ進もう。もうすでに門司城は眼前にそびえているはずだ。
関門嬌(かんもんきょう)の巨大な橋が頭上に覆いかぶさってきそうになると、「和布刈公園(めかりこうえん)」の標識が出ているので、素直に従い右折しよう。
上り坂をくねくねのぼっていくと、「めかり山荘」の手前に和布刈公園の駐車場があるので、そこに停めて、あとは徒歩だ。駐車場は無料なので安心して散策に行こう。
駐車場の端の公衆便所ちかくに登山道入り口がある。登山道は舗装されていて広く、歩きやすい。約5分で頂上だ。門司城跡の石碑が建っている。



■門司城概要


九州の北東端は本州へ向ってニュッと半島が突き出している。企救半島(きくはんとう)という。今の門司区だ。
その先端、関門橋(かんもんきょう)の端っこに小山がポコッとある。これが門司城だ。

築城したのは、源平合戦の勇者、平知盛(たいらのとももり)と云われている。実は拙者は平家びいき。かつて、吉川英治の「新・平家物語」を読んだときに、平家の棟梁が宗盛(むねもり)でなくて知盛だったら、ひょっとしたら滅亡せずに済んだのではないか、と何度も歯がゆく思ったことがある。その壇ノ浦を直下に見下ろす位置に、門司城はあるのだ。

鎌倉時代、門司は得宗(とくそう=北条家の家督)の領地となり、被官の下総(しもうさ)氏が下向して治めた。下総氏は土着し、のちに門司(もんじ)氏を称する。門司氏は南北朝のころ、他の豪族同様、南北に分れて争った。貞治三年(1364)七月、武家方で吉志(きし)系門司氏の門司親尚は門司城山に要害を構え、宮方の門司一族と戦い、これを撃退している。(平凡社 「福岡県の地名」)

室町時代には、豊前は大内氏が支配したが門司氏はそれに従属していた。文明十二年(1480)五月、連歌師の飯尾宗祇(いいおそうぎ)は九州を旅し「筑紫道記(つくしのみちのき)」を著したが、そのときの上陸地は門司で、門司城主の門司家親が迎えている。

大内氏滅亡後は、その後継者を自認する毛利氏と、豊後の大友氏との間で激しい門司城争奪戦がくり返された。

永禄元年(1558)六月、毛利氏の小早川隆景は門司城を攻め落とした。城将として、仁保隆慰(にほたかやす)が任ぜられ守備にあたった。これは、大内滅亡後の豊前国は大友氏の支配に委ねる旨の約束を無視するものであったため、大友宗麟は激怒、翌永禄二年(1559)門司城へ田原親宏、親賢の軍勢を派遣して奪回をはかった。これに対し小早川隆景は門司城に入り防戦というよりむしろ積極攻勢に出た。門司と小倉の間に一軍を上陸させ大友陣を急襲、一旦退却した大友勢は巻き返しをはかるが、隆景は豊前と豊後の間に水軍を動員して退路を断ったため、大友勢は退却した。(新人物往来社 「小早川隆景のすべて」)

永禄四年(1561)八月、大友宗麟は再び田原親宏ら一万五千の兵で門司城を攻めた。対する毛利方はまたもや小早川隆景が門司城へ入った。(新人物往来社 「小早川隆景のすべて」) 大友勢は十月十日、二十五日、十一月五日と門司城を攻めたが敗れ、十一月五日夜退却した。この突然の退却は、背後の松山城、馬ヶ岳城を毛利方に攻め落とされたためと云う。この戦いの後、松山城は毛利の城番が置かれている。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

翌永禄五年(1562)は大友勢はその松山城を執拗に攻撃した。松山城が敵方にある以上、その向こうの門司城は攻められないためだろう。しかし、松山城を守る天野隆重らの奮戦で戦線は膠着。大友宗麟は、外交による決着をはかり足利将軍家の調停のもと和平交渉が重ねられた。毛利元就は譲歩し松山城を手放したが、門司城は確保して和議が整った。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

永禄十二年(1569)毛利元就は吉川元春・小早川隆景に大軍を授け、門司城を基点に立花山城を攻め、これを陥とした。これに対し、大友宗麟も戸次鑑連(へつぎあきつら=のちの立花道雪)、臼杵鑑速(うすきあきすみ)、吉弘鑑理(よしひろあきさと)らを差し向け、両軍は多々良川を挟んで対峙、十八回にわたり合戦に及んだが、決着はつかなかった。多々良浜の戦いである。ここで大友宗麟は、またも会心の一手を打った。尼子勝久を擁する山中鹿之助を支援する一方、豊後に逃れていた大内輝弘に大内家再興の兵をつけて山口へ逆上陸させた。マッカーサーも真っ青だ。この状況に、毛利元就は九州派遣軍に撤退を指示、十月十五日立花陣から兵を退いた。ただし、このときも門司城は手放していない。(吉永正春氏 「筑前立花城興亡史」、八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

こうして九州進攻の橋頭堡として毛利氏は門司城を重要視していたが、天正十年(1582)門司城を手放したのではないか、という説がある。理由は、来島水軍が毛利を裏切ったため制海権を失い、門司城の確保が困難になったのではないか、という。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

秀吉の九州征伐においても門司城は、赤間関(現下関市)と門司との間の交通確保のため重要視され、秀吉は「丈夫ニ城々相拵」えるよう指示している。

関門を制する門司城も、元和元年(1615)の一国一城令で破却された。



■門司城へGO!(登山記)
平成十六年(2004)五月一日(土)

大型連休の初日、門司城へ向かった。

国民宿舎「めかり山荘」近くの駐車場に停め、いざ出陣。ここは大きな平坦地となっているが、門司城の二の丸、御殿跡といわれる。
広々とした御殿跡

まずは本丸とは逆方向、「平和のパゴダ」へと向おう。学生のころ、意味も無くめかり公園へよくドライブで来たものだが、実はパゴダのほうへは行ったことがない。
ここはビルマ政府仏教会と門司市との合意で建設された寺院だそうだ。異国情緒あふれる尖塔が建っているが、廣崎篤夫先生によれば、「城南砦」の跡だという。
また、めかり山荘とパゴダの間は大きくへこんでいるが、堀切の跡だそうだ(冒頭の遠景写真でも山荘とパゴダの間は窪んでいる)。パゴダ周囲は急なガケになっていて、なるほど曲輪に適しているぞ。
城南砦跡(パゴダ)へは、大きく下ってまた登る 平和のパゴダ

パゴダ内部には、先の戦争でビルマへ派遣された郷土部隊、龍兵団(りゅうへいだん)・菊兵団(きくへいだん)はじめ多くの部隊の位牌が安置されている。
神妙に手を合わせ次へ向おう。

本丸への登山道は舗装されていて歩きやすい。したがって、昔の面影はない。
本丸への道

本丸まで約五分。
頂上に立つと、門司城跡の石碑も目に入るが、それよりも眼下に見下ろす関門海峡(壇ノ浦)の眺めが素晴らしい!
本丸の石碑と真下に見下ろす関門嬌

かつてここで大海戦が行われ、源義経(みなもとのよしつね)の大活躍で、哀れ平家はここに滅んだのだ。無念であったろう。
ちなみに拙者は、義経の八艘跳び(はっそうとび)については、たしかに勝利するには有効な手段だったかもしれないが、非戦闘員の水夫を殺してまわるというのは戦いの約束事を破るもので、卑怯な戦法だと思う。だから正直言って、義経をあまり好きではない。

まぁそんな感想はともかく、本丸を見てまわろう。
おや?と思うのは石碑横の円形のコンクリート構造物だ。これが何なのか、何の説明もないが、ここ古城山頂には旧軍の砲台があったというので、その名残りだと思う。廣崎篤夫先生の「福岡古城探訪」によると、海軍の高射砲の台座だということだ。
山頂の砲座跡 山頂の砲座跡の階段

また、山頂から少しくだると、これも要塞の跡だろうか、頑丈な建物が建っている。弾薬庫だろうか?
これも要塞の跡だろうか

さて、中世山城の面影はないか、と探してみる。
明治時代の要塞建造に、ついでにNTTドコモの無線中継所まで建っていて、もう何も残ってないのだろうか。
その無線中継所と砲台の間が段々状の地形になっている。これが山城の名残りだったらいいなぁ。
本丸の段々状の地形

また、本丸下には古そうな石垣が崩れている。さっきの砲台の石塁とは明らかに違うので、門司城の遺構だろうか。
本丸の石塁

あとは、登山道をくだる途中にちょっとした平坦地があった。曲輪かな?
曲輪の跡だろうか?


今日は天気は良いのだが、空気が霞んでいる。
門司城の中腹からは遠くに満珠(まんじゅ)、干珠(かんじゅ)の二島と櫛崎城(くしざきじょう)が横に一直線に並んで見える。
大内、毛利氏にとっては味方の安心できる城、大友氏にとっては不倶戴天の敵の城だ。
海峡の向こうに櫛崎城と干珠島、満珠島

その間の壇ノ浦(だんのうら)は、別名・早鞆ノ瀬戸(はやとものせと)というが、その名のとおり、まるで河のように潮が流れていた。
門司城から壇ノ浦と火の山城を望む





■門司城戦歴

◆貞治三年(1364)七月、武家方の門司親尚が門司城山に要害を構え、宮方と合戦し、これを追い返した。(平凡社 「福岡県の地名」)

◆永享二年(1430)、秋月春種(あきづきはるたね)、原田信朝(はらだのぶとも)らが大内盛見(おおうちもりはる)に叛旗を翻し、香春岳城・門司城を攻略し、長門へ渡り火の山城、南部山城へ攻め込んだ。(吉永正春 「筑前戦国争乱」)

◆永禄元年(1558)六月、毛利勢は大友方の門司城を攻めた。城将・怒留湯主水(ぬるゆもんど)は落ちのび、城は陥ちた。毛利勢は門司城に仁保隆康(にほたかやす)を城将として入れた。(廣崎篤夫先生 「福岡古城探訪」)

◆永禄ニ年(1559)、大友氏は豊前へ出兵し、九月末には門司城を攻略した。(平凡社 「福岡県の地名」) しかし、下にあるように永禄四年(1561)には再び、大友氏が門司城を攻めているので、それまでの間に門司城は再度、毛利氏が攻略したものと思われる。

◆永禄四年(1561)、毛利方の門司城へ大友宗麟の軍勢が攻め寄せた。大友の戸次鑑連(べつきあきつら)・田原親堅(たばるちかかた)・臼杵鑑速(うすきあきすみ)ら一万五千の軍勢が門司城へ猛攻をかけたが、陥とすことはできず、門司奪還はならなかった。(廣崎篤夫先生 「福岡古城探訪」)


◆慶長五年(1600)、細川氏が豊前へ入国した際、門司城を修復し、長岡勘解由を城代とした。(平凡社 「福岡県の地名」)


以上

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