---- さがじょう ----
別名:栄城 さかえじょう・亀甲城 きっこうじょう・龍造寺城 りゅうぞうじじょう
平成15年8月13日作成
平成15年11月9日更新
佐賀三十五万石・鍋島藩の居城
佐賀の乱の弾痕残る鯱の門(現存)
・データ
・佐賀城概要
・佐賀城へGO!(登城記)
・佐賀城戦歴
名称 | 佐賀城 | さがじょう |
別名 | 栄城・亀甲城・龍造寺城 | さかえじょう・きっこうじょう・りゅうぞうじじょう |
築城 | 慶長七年(1602)から慶長十六年(1611)にかけて鍋島直茂が築城。 | |
破却 | 明治六年(1873)廃城と決定、その後明治七年(1874)の佐賀の乱で焼失 | |
分類 | 平城 | |
現存 | 櫓門(鯱の門)・石垣・堀 | |
場所 | 佐賀市城内二丁目(旧肥前国佐嘉郡) | |
アクセス | JR佐賀駅下車、バスセンター3番のりばから25番系統でサガテレビ前下車、徒歩5分。車の場合は、駐車場がないので、近くの有料駐車場へどうぞ。 |
■佐賀城概要
天正十二年(1584)龍造寺隆信が島原半島で島津軍と戦い討死すると、鍋島直茂が事実上の国守として戦国末期の肥前を切り盛りする。慶長十二年(1607)龍造寺高房・政家が相次いで死去、鍋島勝茂が佐賀藩初代藩主となった。
これより先、龍造寺家の村中城を拡大強化して佐賀城の築城が始まった。本丸・二の丸・三の丸の四角形の城地を東西南北の堀で囲んだ平城である。現在は東側の堀はほとんど埋め立てられ、また北側の堀はおおよそ半分の幅に狭められている。北堀は筑前黒田藩の協力を得て作られたもので、筑前堀・筑前土居と呼ばれている。ちょうど福岡城の肥前堀のお返しだ。佐賀城で石垣で囲まれたのは本丸の北と西だけで、その他は土塁だったそうだ。
築城当時は五層の天守閣もあったが、享保十一年(1726)火災で全焼、その後再建されていない。天保六年(1835)にも火災に見舞われ、このときは二の丸が全焼している。現存している国の重要文化財「鯱の門」は、このときに建造されたものである。
■佐賀城へGO!(登城記)
平成十三年(2001)ニ月十七日(土)
今日は佐賀へやってきた。目指すは佐賀城だ。
車を停めるところが近くになかったので有料駐車場に入れ、早速むかう。
堀と石垣が良い感じだ。
そして、鯱の門。
立派な櫓門でいかにも重厚な趣きで、門の左には隅櫓が付属している。
近づいてみる。
門扉はもちろん分厚い板なのだが、ところどころに丸く穴があいている。明治七年(1874)、佐賀の乱のときの銃撃の跡だそうだ。
う〜む、こんなのが残っていたとは、、やっぱり来て良かった。
門をくぐって中に入る。とくに何もない。
天守台があるので行ってみる。
天守台の上にはなにやら建物が建っている。天守閣ではない。
御殿か?と思ったが協和館という事務所(?)のようだ。
他にはとくに遺構らしきものはない。
ここ佐賀城も城内は県庁や合同庁舎、佐賀西高などの学校になっていて、遺構はほんの隅の一部分だけだ。
それでも、壊してしまって跡形もないより随分とマシだな、と頷きつつ佐賀城を後にした。
帰りに龍造寺隆信生誕の地を訪れた。
南堀の外側で、水ヶ江城のあったところだ。
現在は隆信公園となっていて石碑が建っている。
小さな公園では小さな子供たちが野球をやっていた。
■佐賀城戦歴
◆明治七年の役(1874)で戦火に見舞われる。鯱の門の扉には当時の弾痕が残っている。
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