---- ふくおかじょう ----
別名:舞鶴城 まいづるじょう
平成16年3月13日作成
平成16年3月13日更新
筑前黒田藩五十二万石の居城
大手門石垣と潮見櫓
・データ
・福岡城概要
・福岡城へGO!(登城記)
・福岡城戦歴
名称 | 福岡城 | ふくおかじょう |
別名 | 舞鶴城 | まいづるじょう |
築城 | 黒田長政が慶長六年(1601)から七年かけて築城。同十二年(1607)完成。 | |
破却 | 明治六年(1873)存城と決定され、陸軍省管理下に置かれた。破却されてはいないが、相当破壊されている。 | |
分類 | 平山城 | |
現存 | 石垣、堀、潮見櫓、御祈念櫓、南丸多聞櫓、(本丸表門)、((月見櫓、花見櫓)) | |
場所 | 福岡市中央区城内(旧筑前国那珂郡と早良郡にまたがる) | |
アクセス | JR博多駅から地下鉄がベンリ。上の橋なら「赤坂駅」下車、下の橋なら「大濠公園駅」下車。ともに徒歩数分。車なら平和台陸上競技場ヨコの駐車場、または市美術館の駐車場へどうぞ(有料です)。 |
■福岡城概要
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの功績により、黒田長政が豊前・中津から筑前へ、それまでの筑前太守・小早川秀秋は備前へと移った。
黒田長政は小早川の居城・名島城へ入ったが、城域が狭かったことから居城を移すことになる。
土地選定にはいろいろ案があったようだが、那珂郡警固村福崎のちょっと高くなっているところに新たに城を築いた。
これが福岡城である。
黒田家の出身地、備前國邑久郡(おくぐん)福岡にちなみ、その地を「福崎」から「福岡」へ改称した。
近代に入り、この場所がいにしえの昔「鴻濾館こうろかん」があったところとされたが、
築城当時それを知っていたかとなると、おそらくは知らなかったのではないかと考えられる。
知っていたら記録に残ってもよさそうだし、江戸時代を通じて鴻臚館は博多のあたりと考えられていたそうだ。
おそらくは当時なにもないところだったのだろう。
それでも築城の際、土器やら何やら出てきたと思われるが、そういうのは何処でだって出てくるものだったと考えられる。
福岡城は、本丸、二の丸、三の丸を内堀で囲み、海に向かって北に大手門を構えた。内堀には大手門を含め計三つの橋を架けている。西には湖(湿地帯だったか?)を天然の堀とし「大堀」と呼んだ。今の大濠公園であるが、「大きな堀」の面積は現在よりかなり広かった。
南側の高台は、本丸よりも高かったので削り、城地との間を掘り切ったといわれている。今の国体道路だ。
また、東には那珂川に至るまで堀(中堀、肥前堀)を築き防備を固めたが、明治〜大正にかけ埋められてしまった。那珂川を外堀と見なしていたと考えられる。那珂川の向こうは商人の町・博多だ。
城下町は、城の北側に東西に長く作られた。福岡の町である。
本丸に天守台は築かれたが、天守閣は最初からなかった。
・・・というのが定説となっていたが、最近は「実はあったのだ」という新説もある。
櫓は四十七もあったという。
地元の人にとっても意外かもしれないが、随分と規模の大きな城郭だったのだ。
筑前五十二万石を領する黒田藩は、関ヶ原直後から明治維新まで約270年、ここ福岡城に続いた。
明治以降、歩兵第二十四聯隊が城内に置かれた。
終戦後は、三の丸部分に平和台球場、陸上競技場などが築かれ、舞鶴公園・大濠公園として市民の憩い(花見?花火?)の場だ。
昭和六十二年、平和台球場外野席から鴻臚館跡が発掘され、展示館が建てられている。
■福岡城へGO!(登城記)
平成十五年(2003年)三月三十日(日)ほか
福岡城は城址としては地味かもしれない。
天守閣はない、大きな城門もない、櫓もポツンポツンしかない。
しかし、実際は見どころ満載なのだ!(ズバリ地元びいき)
拙者が余すところ無く(?)、案内しんぜよう。
(絵図の中をクリックすると画像が表示されます)
■福岡城戦歴
◆明治六年(1873)六月、筑前竹槍一揆がおこり、福岡城内に乱入して県庁が焼かれている。(荻野忠行氏 『福岡城祈念櫓・月見櫓・大手門のなぞ』)
◆明治十年(1877)三月二十八日、福岡の変。西南戦争の最中、福岡士族が福岡城を攻撃、敗退した。(『福岡地方史研究』第42号)