府内城(別名 大分城、荷揚城、白雉城)ロゴ
---- ふないじょう ----
別名:大分城 おおいたじょう・荷揚城 にあげじょう・白雉城 はくちじょう

平成16年9月19日作成
平成16年9月23日更新

豊後府内藩主の居城

府内城の隅櫓と堀
府内城・西の丸隅櫓と内堀

データ
府内城概要
府内城へGO!(登城記)
府内城戦歴
府内城の素朴な質問

 

■データ

名称 府内城 ふないじょう
別名 大分城・荷揚城・白雉城 おおいたじょう・にあげじょう・はくちじょう
築城 慶長二年(1597)福原直高が築城を始め、早川長敏が引継ぎ、さらに竹中重利が引き継いで、慶長七年(1602)完成。
破却 明治六年(1873)正院通達により廃城と決定。その後、県庁として使用された。
分類 平城
現存 内堀、石垣、土塀、宗門櫓、人質櫓、天守台(県指定文化財)
場所 大分県大分市荷揚町73(旧豊後国大分郡)
アクセス JR大分駅から徒歩15分くらい。大友宗麟像の駅前広場を通り、「大分駅前」交差点を渡り、まっすぐ(というか、左斜め前)の中央通りを進んで、500m先の「昭和通り」という歩道橋のある大きな交差点を右折、約200mくらいで内堀に到着。車の場合は城内に駐車場があるので、昭和通り(国道197号線)から大分市役所とお堀の間の道へ入って右折する。


■府内城概要

大分市の中心部、夜間になるとライトアップが美しい城、それが府内城だ。
文禄二年(1593)大友義統(おおともよしむね)が秀吉により国を追放された。豊後は細かく分割され、府内(ふない・現大分市)は早川長敏(はやかわながとし)に与えられた。しかし、慶長ニ年(1597)早川長敏は豊後・木付(きつき=杵築)に移り、代って福原直高(ふくはらなおたか)が入府した。
直高ははじめ、大友館へ入ったが、秀吉に許され新たに大分川河口に城を築きはじめた。そこは船荷を積み降ろす船着場で、「荷落におち」と呼ばれていたが、忌避し、「荷揚にあげ」と改称されたといわれる。ところが、秀吉没後、直高は家康によって領知を没収され、後には再び早川長敏が入った。
しかし、長敏は関ヶ原で西軍についたため取り潰され、代って竹中重利(たけなかしげとし)が三万五千石の領主として府内に入った。この重利のときに府内城を大改修し、完成したといわれている。その後、重利の嗣子重義(しげよし)は咎を受け切腹、竹中家は断絶した。
その後に日根野吉明(ひねのよしあきら)が城主となるが、跡継ぎがなく、またもや断絶。
しばらく城番が置かれたのち、万治元年(1658)、松平忠昭(まつだいらただあき)が城主となり、ようやく落ち着いた。領主がコロコロ代った府内は、二万二千石の大名として明治まで松平家が続く。この松平忠昭は、大給(おぎゅう)系松平家の分家の五代目で、要するに徳川家康の遠い遠い親戚(一族)にあたる。明治維新後は、松平姓を大給姓に改めたということだ。
府内城は海に接する城で、内堀と海とを分断する「帯曲輪(おびくるわ)」が今でも鮮やかに残っている。



■府内城へGO!(登城記)
平成15年(2003)11月21日(金)

早朝、JR大分駅に降り立つ。
府内城までは歩いて15分くらいだ、よし歩いていこう。
ゆったり歩いて西の丸に到達、隅櫓(すみやぐら)が出迎えてくれた。綺麗な二重櫓だ。
西の丸隅櫓

堀に沿って大手門方向へ歩く。
さきほどの隅櫓と大手門との中間に宗門櫓(しゅうもんやぐら)がある。
宗門櫓 宗門櫓アップ
これは目立たないが、現存の平櫓だそうだ。
まわりの石垣の色が変わっているのは、そこだけ空襲で焼け残ったからだろうか。

大手門へは廊下橋がかかっていたらしい。今は太い舗装道となっている。
古写真を見ると、かつて大手門の上には鐘楼が乗っかっていた。だけど今はない。
櫓門の側面は花頭窓(軍艦の砲弾のような形の窓)だ。
大手門

大手門の向かい側は着到櫓(ちゃくとうやぐら)だ。
着到櫓

大手門をくぐる。
と、正面に文化会館、右に広大な駐車場だ。
枡形も何もない。

おや、あれは渡辺徹ではないか。(思ったよりスマートだ!)
なんでもこの日、文化会館で何かの表彰式があるとのことで、撮影が行われていた。隣の美人は奈美悦子か?

おっと見とれてしまった。さあ、探索を続けよう。
古図によると、ここは、西の丸、本丸、東の丸と分かれており、水堀で区切られていたという。

曲輪と堀があったことを思えば、そんなに広くはない。
ということは、それだけに攻城側にとっては攻めにくい構造で、ここからが正念場となったことだろう。
残念だが、すっかり埋め立てられていて、その面影はない。

駐車場はずれに東の丸と本丸の境目の石垣が残っている。
東丸の名残り
外を覗くと、府内城の最大の特徴・帯曲輪(おびくるわ)が良く見える。(ここは後ほど訪れよう)

天守台へ行く。
往時にはここに四層の天守閣がそびえ、続櫓(つづきやぐら)が二つあったという。
天守台からは大分の町が見下ろせる。(かつては海の中だったんだろな)
続櫓跡の石垣もちゃんと残っている。
天守台 天守台の西に続く櫓台

西の丸へ行く。
といっても埋め立てられているので、本丸との境目は判然としない。
わずかに内堀跡の標識と堀を示す芝生が在りし日を偲ばせる。
内堀の西北端部分

西の丸から外へ、堀を横切って駐車場の入口がある。
あれ?古図にはこんな橋はないぞ。
現代になって車道用に作られたのだろうと想像はつく。
しかし、それにしても車道脇の石垣は整然としているではないか。
江戸城の竹橋のように崩れていない。
駐車場入り口の石垣(門の跡ではなく櫓台跡)
なにも無いところに橋を架けたという事は、石垣を取り除いたということに他ならない。
そこで古図をもう一度みると、そこには櫓があったことになっている。
なるほど、櫓台を境に石垣を取り壊したのだな、と納得する。

西の丸から山里丸へは廊下橋が再現されている。
その手前、冠木門(かぶきもん)の礎石付近には枡形が残っている。
うん、これこれ。
西の丸と山里丸をつなぐ廊下橋 冠木門の枡形

廊下橋を渡るとそこは山里丸だ。
今は松栄神社になっている。
廊下橋の脇、かつて山里丸と北小丸の境目にあたるところに「慶長の石垣」が保存されている。
慶長時代の石垣が現存している
堅牢な石垣も時々補修しないと崩れてしまうので、府内城に限ったことではないけど、
今われわれが目にする石垣が江戸初期のままに残っているわけではない。
だから、「慶長の」石垣と注釈しているということは、紛れもなく当時のままの石垣ということなんだろう。
これはいいものを拝めたぞ。


北里丸の対岸には二重櫓が見える。
人質櫓(ひとじちやぐら)だ。宗門櫓と共に府内城に現存している櫓である。
現存する人質櫓
かつて人質はここに住まわせられたのだろうか。
たしかにここから逃げ出すには、天守台よこから本丸を横切る必要がある。
あるいは、そういう立地から名づけられただけだろうか。
それはともかく、物騒な名前と対照的に戦災に遭わずに幸いだった。

さて、いよいよ帯曲輪へ進もう。
松栄神社脇のお稲荷さんの横から内堀をぐるりと取り囲むような散歩道が続いている。
これが帯曲輪だ。
松栄神社よこから延びる帯曲輪・しかしここは埋立てた跡だ
府内城は、今では大分市の中心部に位置しているが、
築城当時ここは海に面した城だったのだ。
潮の干満が堀の水位に影響を与えるのを防ぐために海と内堀の間に土手を築いたそうだ。帯曲輪と呼ばれている。
幅は約10mくらいか、桜並木になっている。
桜並木になっている帯曲輪
帯曲輪の両側は石垣づくりだ。一部、明らかに現代のものがあり埋め立てたことが分かるが、
昔はもっと海側に(北へ)折れ曲がっていたことが古図で確かめられる。
写真中央が埋立てられた部分

櫓台のようなものはなく、まさしく帯状の曲輪だ。
土塀くらいはあったのだろうか。
いざ合戦となったとき、ここには兵を篭め置いたのだろうか、と想像してみる。
帯曲輪石垣・水路から右側がかつて海だった
想像だが、ここには兵を置く必要はあるまい。
海側から攻められ、帯曲輪にあっさり上陸を許したとしても、
そこから進軍するには細い曲輪を東南、あるいは北西へ進むしかない。
そうすると、PCゲーム「信長の野望」のように、内堀の内側から射撃の格好の的となってしまう。
今では、帯曲輪は山里丸へと続いているが、これは後世、埋め立てられたためで、
当時の帯曲輪は北方へ折れ曲っていた。
ムリをして進軍しても城本体には取り付けないのだ。
帯曲輪がかつて北へ折れ曲がっていたことの名残りの石垣
すると、土塀すら必要ない、というよりも無いほうが守りやすい。
それに、曲輪の高さもあまり高すぎると、死角ができそこに隠れて敵兵が移動できるので、
そう考えると、曲輪の高さ(喫水というか)もよく考えられた、ほど良いものなのかもしれない。
と思いを巡らせながら堀を一回りする。

東の丸隅櫓付近は、ずいぶんと広くなっていて帯状とは言えない。
これは内堀を一部埋めてあるためだ。
もともとの帯曲輪は芝生で表現されていて境界線には石垣の頂部がわずかに見える。
芝生部分が往時の帯曲輪・土の部分は埋立地 複雑な形の石垣と東丸隅櫓(北側)

幼稚園児たちが堀の中へ向かって大声で何か叫んでいる。
なんともほのぼのして、平和な光景だ。



■府内城戦歴

◆明治十年(1877)二月、西南戦争勃発。西郷軍が大分城(府内城の明治以降の呼び名)を攻めるとの情報に、大分県権令香川真一は兵を大分城へ動員したが、西郷軍到らず、三月七日兵を解いた。ところが、旧中津藩士の増田栄太郎(「日本城郭総覧」では増田宗太郎となっている)が挙兵、四月二日大分城を攻撃した。しかし警視隊に撃退され、中津隊は退いた。土塀に二段になっている銃眼が威力を発揮したといわれる。(上の宗門櫓の写真をご覧ください)

◆明治十年(1877)四月十五日、西郷軍は熊本城を攻めきれず退却した。その後、野村忍助に率いられた一隊、兵二千は豊後攻略を目指し、五月十三日竹田を占領。さらに大分城へ進撃したが、官軍に反撃され退却した。その後、西郷軍は臼杵城を占領したが、六月九日、大分城から進撃した陸軍、警視隊によって奪回された。(森山英一氏「名城と維新」)

以上


■府内城の素朴な質問
Q1.府内城は大友宗麟の城か?
A1. 拙者もずっと誤解していたのだけど、府内城と大友宗麟とは何の関係もない。
    それどころか、大友氏とさえ関係ない。
    上で説明したように、府内城は大友氏の除国後に築かれたお城だ。
    「え〜っ、だって『信長の野望』でも宗麟の居城は府内城じゃん!」・・と言いたいところだが、ゲーム上のフィクションだ。
    なんたって、ゲーム中の立花山城には立派な天守があるくらいだからね。
    まぁ府内の大友氏の館を府内城と呼んでも構わんが、今の大分城のことではないのじゃ。
    「え〜っ、だって城内に宗麟像があるじゃん!」・・まぁ良いではないか。
     天守台脇の宗麟像
    では、大友宗麟の居城はどこだったか? ズバリ、大友館と丹生島城(臼杵城)であります。


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