平成17年2月13日作成
平成17年8月20日更新
キリシタン大名・小西行長の居城
宇土城遠景(鉄塔の向こうのこんもりしたところ→見にくい場合はここ)
・データ
・宇土城について
・宇土城概要
・宇土城へGO!(登城記)
・宇土城戦歴
名称 | 宇土城 |
うとじょう |
別名 | 鶴の城 | つるのしろ |
築城 | 天正十七年(1589)から小西行長によって築城された。 | |
破却 | 慶長十七年(1612)幕府の命で破却。さらに、寛永十四年(1637)、島原の乱ののち、徹底的に破壊された。 | |
分類 | 平山城 | |
現存 | 石垣 | |
場所 | 熊本県宇土市古城町(旧肥後国宇土郡) | |
アクセス | JR熊本駅から宇土市へ行こう。国道3号線を南下、約12キロで宇土市だ。 「松原」という大きな交差点で右折、JR線を越えて、「市街入口」交差点を左折する。宇土市街を通り抜けると、「光永精肉店」のところで左へカギ型に曲がる。さらにまっすぐ行くと、宇土高校だ。 ここで少し迷いそうになるが、右折、左折と高校グラウンドを回り込むと、民家の一角に「宇土城跡」の標識が建っているので、指示通り左折しよう。細い道を上ると左に駐車場、右にお墓(二の丸墓地)がある。 駐車場は5台分くらいだ。お墓参りの季節はすぐ満杯になるが、さらに進んで左へカーブしたところにも駐車場がある。こっちは広くて20台くらい停められるんじゃないだろうか。どちらも無料だ。 |
■宇土城について
宇土城は、宇土氏・名和氏の中世の城と、小西行長の近世の城があるが、見分けがつかなくなるので、当ホームページでは前者を宇土古城、後者を宇土城と呼ぶことにした。
■宇土城概要
天正十六年(1588)、佐々成政(さっさなりまさ)の自害ののち
肥後南半国(宇土・益城・八代の三郡)十四万石には小西行長(こにしゆきなが)が任命された。
行長は堺の商人の出身で、秀吉に取り立てられ大名となった男だ。またキリシタン大名としても有名である。
肥後半国の領主となった行長は、それまでの宇土古城よりも東の丘に新たに近世城郭を築いた。
これが宇土城だ。
宇土城は、本丸・二の丸・三の丸からなり、五ヶ所の虎口をもち、石垣、水堀で固めた大規模な城だったそうだ。(小学館『城郭と城下町10』)
堀は、本丸まわりの内堀と、二の丸・三の丸のまわりの外堀の二重だったともいう。(現地案内板)
小西行長は、秀吉の唐入りの際、第一軍として渡海、第二軍の加藤清正とともに日本軍の先陣として進攻した。
平壌を陥落させる一方で、明との和平交渉にもあたった。
しかし、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いで行長は西軍として参戦。
敗走ののち捕えられ、石田三成・安国寺恵瓊とともに京・六条河原で処刑された。
その後、肥後国のほとんどは加藤清正へ与えられ、宇土城には城代が派遣された。
清正は、宇土城を隠居所と考え改修を施したが、慶長十七年(1612)幕府の命令で破却され、宇土城の短い歴史は閉じられた。
熊本城の宇土櫓は、宇土城の天守を移築したもの、と一般的にいわれている。
が、定かではないようだ。
■宇土城へGO!(登城記)
平成16年(2004)1月3日(土)
宇土城へ行こう。
宇土市街地を通り抜けると「光永精肉店」の前は左へカギ型に曲がっている。
かつての城下町の名残りだと思うが、これが小西行長時代の名残りなのか、その後の宇土支藩時代のものなのかは、拙者は知らない。
さて、宇土高校の裏の城山公園が宇土城跡だ。
駐車場に車を停め、階段をのぼる。
なんとそこは、広い広い公園になっている。野球が十分にできるくらい広い。
ここが本丸跡だ。
ただ、当時の本丸がこんなに広かったという訳ではないらしい。
この地下2mのところに城の遺構があり、それが小西行長の宇土城のようだ。
宇土城は関ヶ原のおり、加藤清正軍に敗れたが、そののち、清正が盛り土をしたといわれている。
本丸跡には、城主・小西行長の銅像が建っている。
現在の熊本城の宇土櫓もここに建っていたのだろうか。
また、本丸の奥、宇土高校側には、腰曲輪のようなものがあるが、
これも当時のものなのか、公園化したときに作ったものなのか、あるいは清正の盛り土の跡なのか、よくわからない。
その横の坂道をおりると、広い駐車場になっていて、長い石垣が続いている。
が、どう見ても近年、積み上げられたもののようだ。
それとは別に、もう一ヶ所、石垣があった。
なんと!現地案内板によると、こっちは加藤清正時代に築かれた石垣だということだ。
よっしゃぁ!
石垣は高さは2.5mくらい、幅は10mくらいだろうか。
あまり高くはないが、本当は地下に同じくらい埋まっているそうだ。
うんうん、そうだろう。
関ヶ原のとき、宇土城は加藤清正軍に攻められたが、加藤軍は攻めあぐねている。
今はほんの20mくらいの丘だけど、きっと当時は湿地帯に囲まれた要害の地だったのではないだろうか。
そこを埋め立てて、現在の地面があるのだと拙者は思う。
さて、石垣の正面には墓地があるが、二の丸墓地と呼ばれている。
ここは、かつての二の丸の跡だと素直に考えたい。
石垣と墓地との間の道路は、ひょっとしたら水堀だったのだろうか。
三の丸跡はよくわからなかった。
二の丸墓地の南側の住宅街だろうか。
かすかに痕跡を残す宇土城は、小西行長の夢が埋もれた城、という感じがした。
■宇土城戦歴
◆天正十七年(1589)、小西行長は宇土城を築城するために天草の国衆も動員しようとしたが、国衆たちはこれを拒否、戦となった。緒戦に小西軍は志岐麟泉(しきりんせん)を攻めたが大敗。有馬氏や大村氏、加藤氏の協力を受けて志岐、天草氏を攻め、やっと平定した。(天正天草合戦)
◆慶長五年(1600)宇土城主・小西行長は西軍として関ヶ原の戦いに参戦した。隣の熊本城主・加藤清正は上方へは赴かず、九州に留まっていた。清正は、豊後の大友義統との戦いに出陣し、宇土城へは加藤百助を向わせた。宇土城は行長の弟・小西行景(こにしゆきかげ)が守っていた。大友義統は、石垣原の戦いで敗れたが、戦いに間に合わなかった清正は宇土攻めに転じた。宇土城は堅く守って落ちなかったものの、関ヶ原での西軍の敗戦、行長の処刑を知らされ開城。行景は熊本城にて自刃した。
以上
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