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---- うとこじょう ----
別名: (なし)

平成17年3月6日作成
平成17年8月20日更新

宇土氏、のちに名和氏の居城


宇土古城遠景(電柱の向こうのこんもりした台形の丘・右のほう復元された物見櫓が見える→見にくいときはここ

データ
宇土古城について
宇土古城概要
宇土古城へGO!(登城記)
宇土古城戦歴


 

■データ

名称 宇土古城
うとこじょう
別名 とくに無さそう
築城 よく分からない。南北朝のころ宇土氏によって築かれたともいう。
破却 よく分からない。小西行長の入国のときに破却されたのだろうか。
分類 平山城
現存 堀跡・土塁跡
場所 熊本県宇土市石橋町(旧肥後国宇土郡)
アクセス 宇土古城は、宇土城のすぐそばだ。
まずは、JR熊本駅から宇土市へ行こう。国道3号線を南下、約12キロで宇土市だ。
「松原」という大きな交差点で右折、JR線を越えて、「市街入口」交差点を左折する。宇土市街を通り抜けると、「光永精肉店」のところで左へカギ型に曲がる。さらにまっすぐ行くと、宇土高校だ。
ここで少し迷いそうになるが、右折、左折と高校グラウンドを回り込むと、民家の一角に「宇土城跡」の標識が建っている。
ここで左折すると宇土城だ。しかし、直進して通り過ぎよう。約200mくらいで四つ角に出る。ここも直進すると、左へ大きくカーブしながらの上り坂になるが、ここが宇土古城だ。左には曲輪跡がある。
さらに直進、今度は右へ折れると、民家の間、道の右手に「宇土城跡」の石碑が建っている。
石碑のあたりは駐車場は無い。さっきの左へ大きくカーブするあたりに駐車できるスペースと公衆トイレがあるのでそこが良いだろう。無料だ。



■宇土古城について
宇土城は、宇土氏・名和氏の中世の城と、小西行長の近世の城があるが、見分けがつかなくなるので、当ホームページでは前者を宇土古城、後者を宇土城と呼ぶことにした。


■宇土古城概要

宇土氏は菊池氏から早く分れた一族といわれている。
南北朝時代の貞和四年(正平三年=1348)、宇土壱岐守高俊(沙弥道光)は、征西将軍宮・懐良親王(かねよししんのう・かねながしんのう)を宇土・綱田の津に出迎えた。(阿蘇品保夫『菊池一族』)
親王は御船を経由して菊池(菊之池城だろうか)へ入り、北朝方と干戈を交えることとなる。

時代は下って、肥後守護・菊池持朝(きくちもちとも)は息子・為光を宇土家へ養子に入れた。これが宇土為光(うとためみつ)である。
菊池本家は持朝のあと、為邦(ためくに)、重朝(しげとも)、武運(たけゆき、のちに能運)と家督が継承されたが、宇土為光は能運(よしゆき、よしかず)の大叔父にあたる。
文亀元年(1501)宇土為光は肥後守護・菊池能運(きくちよしゆき・よしかず)隈府城(わいふじょう)から追い出し、守護の地位についた。これには、宇土為光の野望による守護簒奪(さんだつ=奪い取ること)という説と、隈部上総介が能運を追い出し為光を推戴(すいたい=担ぎ上げること)したという説がある。
島原に亡命した能運だったが、相良氏などの支持を得て文亀三年(1503)復活した。宇土為光は筑後へ逃れたが、立花山城守に捕えられ、隈府へ送還され斬られた。
菊池家督という栄光の地位を得たものの、あっという間に没落、宇土氏は滅びたのだった。

このころ、八代の名和氏と人吉の相良氏が争っていたが、永正元年(1504)相良長毎(さがらながつね)は古麓城(ふるふもとじょう)を陥落させ、八代を領有した。
敗れた名和顕忠(なわあきただ)は宇土へ移った。宇土を強奪したとも、菊池能運が斡旋したともいう。以来、宇土古城は名和氏の本拠地となった。

名和氏というと、「太平記」好きの人は伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)の名和長年(なわながとし)を連想するだろう。八代の名和氏と関係があるのかな?と拙者も不思議だったが、関係、おお有りだ!
建武元年(1334)、後醍醐政権から名和長年の長子・義高(よしたか)が肥後国八代の地頭職を与えられた。義高の子・顕興(あきおき)は正平十三年(延文三年=1358)、一族を率いて肥後八代へやってきた(山川出版社「熊本県の歴史」)。この移住は正平八年(1353)ころとも云われている(荒木栄司氏「よくわかる熊本の歴史」)。 ということは、肥後の名和氏は嫡流なのだ。南朝勢力の衰微のなか、捲土重来を期して九州へ移り住んだのだろうか。

宇土古城へ移ってからも名和氏(宇土氏とも称した)は、八代奪回のためしばしば相良氏と戦っているが、とうとう果たせなかった。
名和顕孝(なわあきたか)のとき、九州出兵の秀吉に本領を安堵され、大坂へ移住。天正十六年(1588)、筑前国へ国替えとなり小早川氏の家臣となった。(新人物往来社『戦国人名事典』)
このときに宇土古城の歴史も終わったと思われる。



■宇土古城へGO!(登城記)
平成16年(2004)1月3日(土)

さあ宇土古城だ。
宇土城の西の丘をのぼると、昭和五十四年、国の指定史跡「宇土城跡」の石碑が建っている。
石碑

拙者が行ったときは発掘中だったようで、あちこちにブルーシートがかけてある。
正面の最高地は本丸だと思うが、その周りには空堀があったのだろう、見事に発掘されている。
ただ、一部はコンクリートで固めてあって、やや残念な気がした。しかし、風雨から守るための措置だと考えれば納得もいく。
空堀跡 

堀跡の一部には、底にデコボコが施してある。
「堀底仕切り」だろう。
北条氏の山中城(静岡県三島市)が有名だが、宇土にだって、あっておかしくは無いのだ。(ズバリ九州びいき)
堀底仕切り(コンクリートで固めてある)

また、正面玄関(?)と思われるところは柱跡だろうか、何か複雑な形になっている。
門の跡?か

本丸へ行ってみよう。
カギ型に曲がった通路(これは当時のものだろうか、それとも公園化するときに創作したのだろうか?)を抜けると広々とした削平地だ。
片隅には住居跡を模したと思われる建物が建っていて、往時を偲ばせてくれる。
本丸への入り口(凹型通路) 本丸

また、発掘された建物跡がきれいに整備されていて分かりやすい。
本丸からは遠く金峰山まで視界良好だ。
本丸の16号建物跡 本丸からの眺め(正面とんがりは金峰山)

本丸をあとにして少し下ると、「C地区」と名付けられた曲輪跡が整備されている。
掘立柱の跡や、腰曲輪がよく分かる。
C地区の掘立柱跡を示す石柱 C地区の腰曲輪(正面は本丸)
また、ここは宇土古城の東端なので、小西行長の宇土城がよく見える。(→宇土城ページのトップ写真)

宇土古城跡は、これから整備が進んで、ますます分かりやすくなることだろう。
また、改めて来よう。



■宇土古城戦歴

◆永徳元年(弘和元年=1381)、九州探題・今川了俊(いまがわりょうしゅん)の攻撃により菊池本城が陥落。菊池武朝(きくちたけとも)は征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)を奉じ、岳の陣、宇土、八代と逃れた。宇土氏は南朝方として戦っていたので、このとき、親王は宇土古城に入ったのではないかと思う。

◆元中七年(1390)九月、今川了俊は宇土を急襲し、菊池武朝、征西将軍宮良成親王(よしなりしんのう)は敗れ、八代・古麓城の名和顕興(なわあきおき)を頼って逃れた。(荒木栄司氏 『菊池一族の興亡』) これも宇土古城のこととしてよいのではないだろうか。

◆文明十六年(1484)、宇土為光(うとためみつ)と相良為続(さがらためつぐ)は、守護・菊池重朝(きくちしげとも)・名和顕忠(なわあきただ)連合軍と木原山のふもとの赤熊で戦った。この合戦は菊池・名和勢の勝利に終わり、宇土為光は相良領へ亡命した。(赤熊の合戦) 宇土為光にとって菊池重朝は甥にあたるが、重朝は肥後国守護であるので、為光が守護の座を狙って合戦に及んだというのが通説のようだ。しかし、阿蘇品保夫氏は、菊池・名和方が攻め込んでおり、為光に積極性はないとしている。(阿蘇品保夫氏『菊池一族』)

◆文明十七年(1485)、馬門原(まかどばる=幕の平まくのひら)合戦。南北に分れていた阿蘇大宮司家は、北朝方の阿蘇惟忠(あそこれただ)が南朝方の阿蘇惟兼(あそこれかね)の子・惟歳(これとし)を養子とすることで和平が成立。しかし、惟忠は惟歳、さらに惟歳の子(弟とも)惟家(これいえ)に大宮司職を譲った後も実権を手放さなかった。惟歳・惟家は守護・菊池重朝、名和氏と組み、一方の惟忠および跡継ぎの惟憲(惟乗・これのり)は相良氏、宇土氏と結んだ。この合戦は、菊池方が「宗たる面々」数十人が討ち取られるほどの敗戦に終わった。その結果、宇土為光は宇土古城へ復帰したものと思われる。また、相良氏は八代・豊福を得た。なお、戦国人名事典はこれを文明十六年(1484)のこととしている。

◆文亀元年(1501)、肥後守護・菊池能運(きくちよしゆき・よしかず)は直臣の隈部氏に叛かれ、肥前国高来郡(島原)へ逃亡。能運の大叔父・宇土為光が隈府城へ入り肥後守護職に就いた。

◆文亀三年(1503)、どういう経緯かよく分からないが、肥前へ逃れていた菊池能運は、相良長毎(さがらながつね)の協力を得て隈府城に復活、宇土為光は筑後へ亡命した。しかし、立花山城守(誰だろう?)が為光らを拘束、隈府へ送還された為光・重光・宮満丸は斬られ、宇土氏は滅びた。相良長毎は能運の支持を得て八代に名和顕忠を攻め、古麓城を落とした。これ以来、八代は相良領となり、敗れた名和顕忠は菊池能運死去の混乱に乗じ宇土古城を奪取した。(新人物往来社『戦国人名事典』) 一説に菊池能運の斡旋で名和顕忠は宇土に移ったともいう。(荒木栄司氏『よくわかる熊本の歴史(1)』) 以来、宇土古城は名和氏の居城となった。

◆天文十九年(1550)、名和行興(なわゆきおき)のとき、菊池義武(きくちよしたけ)に呼応し隈庄城を攻めたが、その間に、一族の豊福城主・皆吉武真(みなよしたけざね)に宇土古城を占拠された。武真は名和の家督と称したが、六日間で没落し、八代の相良氏を頼って逃亡した。その後、武真は再度宇土古城を攻め、戦死した。(新人物往来社『戦国人名事典』)

◆永禄七年(1564)、名和家督の行憲(ゆきのり)が死去。この機に、行興(ゆきおき)の弟の行直(ゆきなお)が宇土古城を攻めた。宇土古城は行憲の後見役であった内河備後守忠真が守っていたが、支えきれずに堅志田へ落ちた。これにより、行直が名和家督を継いだ。(荒木栄司氏 『肥後古城物語』)

◆天正八年(1580)三月、御船城の甲斐宗運(かいそううん)は、隈庄城・甲斐守昌(かいもりまさ)を攻撃。このとき、宇土古城の名和顕孝(なわあきたか)は隈庄を援護すべく兵を出した。名和勢は、甲斐宗運方の早川・渡辺勢を撃破したものの、宗運の攻撃を受け退却した。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆天正十六年(1588)名和顕孝は大坂へ出向いた。この前年に起こった肥後国衆一揆には顕孝は参加しなかったので、領土保全を申し立てるためだという。しかし、顕孝の留守の間に、豊臣方からの城の明け渡し要求に対して顕孝の弟・顕輝が反抗したために攻めこまれた。顕輝は逃れたが、出水で島津義弘に討たれた。このため、名和顕孝は所領を失い、小早川家の食客となった。(荒木栄司氏 『肥後古城物語』)

◆天正十六年(1588)、秀吉は、国人一揆の鎮圧後の肥後に警護の諸将を派遣、宇土古城には加藤清正が入った。(隈部親養氏 『隈部家代々物語』)

以上



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