亀丘城ロゴ
---- かめのおじょう ----
別名:亀尾城 かめのおじょう

平成17年5月22日作成
平成17年5月22日更新

壱岐を制する城

亀丘城本丸跡
亀丘城跡の頂上、本丸跡

データ
亀丘城概要
亀丘城へGO!(登城記)
亀丘城戦歴


 

■データ

名称 亀丘城
かめのおじょう
別名 亀尾城とも。 かめのおじょう
築城 永仁二年(1294)、松浦党の波多宗無(はたそうむ)が築城したと云われている。
破却 明治六年(1873)太政官達により廃城。(火薬庫・兵器庫として取り扱われている)
分類 平山城(標高63m)
現存 石垣
場所 長崎県壱岐市郷ノ浦町本村触683番地(旧壱岐国石田郡)
アクセス 平成十六年(2004)三月一日、壱岐の4町が合併し、壱岐市となった。
その壱岐市役所のすぐ横が亀岡公園、すなわち亀丘城跡だ。
福岡市の博多埠頭から、ジェットフォイル号に乗ろう。約一時間で郷ノ浦港だ。
亀丘城跡には、無料の駐車場もあるので、港でレンタカーを借りよう。少々高いけど便利だ。
壱岐市役所は港から5分、すぐだ。



■亀丘城概要

亀丘城は壱岐の中心となった城である。
松浦党で岸岳城(きしだけじょう・佐賀県東松浦郡北波多村)主であった波多宗無(はたそうむ)が、元寇の頃、築城したと云われている。波多氏は、松浦党の祖・源久(みなもとのひさし)の次男・源持(みなもとのたもつ)が波多郷を与えられて波多氏を名乗ったことに始まる、と現地案内板にある。一字の名は渡辺源氏の特徴だ。

波多氏の第十二代・波多下野守泰(はたしもつけのかみやすし)は、文明四年(1472)、壱岐を分割統治していた同じ松浦党の志佐(しさ)・佐志(さし)・呼子(よぶこ)・鴨内(かもち)・塩津留(しおづる)氏を襲い、壱岐を統一、亀丘城に拠って領有した。
その後、下野守興(こう)、壱岐守盛(さこう)と続いたが、波多氏当主は、本拠地の岸岳城にいて、壱岐・亀丘城へは家臣を置いていたのだろうか。

波多盛が嗣子のないまま死去したことから一族に内紛が起こる。永禄七年(1564)、重臣の日高喜(ひだかこのむ)が謀反、岸岳城を奪い、波多盛の妻を追い出した。しかし、龍造寺・有馬両氏の協力により岸岳城を奪回され、敗れた日高喜は壱岐に渡り亀丘城を奪い、壱岐を押領した。
その後、龍造寺氏に対抗するために松浦氏と誼を結ぶが、元亀二年(1571)、松浦氏に従属した。対馬の宗氏に攻められたのを松浦氏の助勢で撃退したため、ともいう。

以降、壱岐は松浦氏の領地となり、平戸藩成立後もそのまま平戸藩領となった。松浦氏は城代と郡代を亀丘城へ派遣し、壱岐を統治した。
そのため、明治に入って、平戸藩領である壱岐は長崎県になったのだ。




■亀丘城へGO!(登城記)
平成14年(2002)2月9日(土)

壱岐に初めて来た。
妻の仕事で来たので、移動は郷ノ浦港でレンタカーを借りた。予約はしなくても港にレンタカー屋(?)のお姉さん(??)がいっぱいだ。

仕事の途中、亀丘城跡の看板を発見、早々に仕事を切り上げ行ってみた。
亀丘公園として整備されており駐車場も完備されている。道は舗装されていて、その横は土塁跡だろうか。
本丸への道(右が本丸)

本丸への道は本丸を取り囲むようになっていて、城跡らしさを感じる。これは当時の道を整備したものだろうか。そうであってほしいものだ。
本丸への道はぐるぐる

案内板には亀丘城について詳細な説明がなされている。正直言って亀丘城は知らなかったが、これくらい詳しく教えてもらえると本当に助かる。

本丸をくだり裏側へまわると、あっ石垣だ!長さ15m、高さ5mほどの石垣跡が見事に残っている。これは当時のものだと思われる。
これはいいぞ。是非いつまでも残しておいてほしい、と満足な訪問だった。
石垣  石垣は本丸を支えているのだ




■亀丘城戦歴

◆ 文明四年(1472)、肥前の岸岳城主・波多泰(はたやすし)は壱岐を侵略、志佐(しさ)・佐志(さし)・呼子(よぶこ)・鴨内(かもち)・塩津留(しおづる)氏を討って壱岐を統一、亀丘城を修築し壱岐を領有した。(現地案内板) なお、山川出版社「長崎県の歴史」では、これを文明元年(1469)のこととしている。

◆永禄七年(1564)、日高喜(ひだかこのむ)は肥前・岸岳城を龍造寺・有馬勢に攻められ、壱岐へ逃れ、亀丘城を奪って壱岐を押領した。(現地案内板)


以上



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