ひらどじょう、かめおかじょう、げんぶじょう、あさひだけじょう
---- ひらどじょう ----
別名:亀岡城 かめおかじょう・玄武城 げんぶじょう・朝日嶽城 あさひだけじょう

平成21年6月20日作成
平成21年6月20日更新

平戸松浦藩六万石の居城

平戸城遠景
平戸城遠景(正面が天守閣、右下に狸櫓と北虎口門)

データ
平戸城概要
平戸城へGO!(登城記)
平戸城戦歴


 

■データ

名称 平戸城
ひらどじょう
別名 亀岡城、玄武城、朝日嶽城
かめおかじょう、げんぶじょう、あさひだけじょう
築城 宝永元年(1704)、松浦棟(まつらたかし)が築城、享保三年(1718)完成した。(史都平戸)
破却 明治六年(1873)、太政官達により廃城と決定された。(名城と維新)
分類 平山城(標高50m)
現存 狸櫓、北虎口、石垣、曲輪。
場所 長崎県平戸市(旧肥前國松浦郡)
アクセス 平戸城は、平戸市役所のそばにある。今では橋でつながっているが、平戸は平戸島という立派な島だ。平戸のおおまかな場所は、長崎県の北の端、あるいは九州の北西の端っこだ。

ということで、平戸城へ行くには、とにかく平戸大橋で島へ渡らなければならない。橋は有料で片道100円だ。
橋を渡ったら、道なりに進もう。約1.8キロくらい先に右に入る道があるので、ここを右折だ。信号はあるが、交差点名はないので迷いそうな感じがするが、平戸城の標識が出ているので大丈夫だろう。よく分からなければ、平戸市役所を目指せばよい。

さて、右折すると、約300mで平戸市役所が左にあるが、真っ直ぐ進むのだ。市役所を通り過ぎて、さらに300m行くと右へ上っていく道を行こう。平戸城の標識に従って進むので、間違わないだろう。
すると100mくらいで大きな駐車場がある。
無料なので、安心して停めよう。あとは歩いて散策だ。






■平戸城概要

平戸城は、肥前松浦藩六万石の居城だ。現在は「まつうら」と読むが、昔は「まつら」といった。

まずは松浦の地名の由来をみてみよう。大昔、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が新羅征伐に出征するまえ、このあたりに来られて玉島の小河のほとりで年魚(あゆ=鮎)を釣りあげ、「めづらし」と仰せになった。そこで、希見国(めづらのくに)といったが、それが訛って松浦(まつら)になったという。(肥前国風土記)
「古事記」には、この挿話は「筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)のことだとある。これは今の佐賀県唐津市、虹ノ松原の東の浜玉町(はまたままち)を流れる玉島川(たましまがわ)のこととされる。
地名に関してもうひとつ。魏志倭人伝(ぎしわじんでん)では、日本(倭)に上陸する場所が「末盧国」だ。「まつろこく」あるいは「まつらこく」と読むのだろう。これが、松浦のことだとする説がある。これについては、邪馬台国大和説を信じる方々は賛成しないかもしれないが、冷静に考えて松浦のことだと拙者は思うぞ。

次に松浦氏について。松浦氏の出自に関しては、従来より二つの説があるという。「安倍宗任末孫説」と「嵯峨天皇末孫説」だ。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

「安倍宗任末孫説」を概説しよう。永承六年(1051)から康平五年(1062)の前九年の役(ぜんくねんのえき)で源頼義(みなもとのよりよし)に敗れた安倍宗任(あべのむねとう)が、頼義の領地・伊予国(いよのくに=愛媛県)に流されたのち、逃亡の気配があるということで治暦三年(1067)さらに筑紫・大宰府(だざいふ)へ流された。大宰府では離島の大島(現在の宗像市大島)に宗任を置いた。このとき、宗任は長男・宗良、二男・仲任、三男・季任とともに大島に上陸した。宗任は天仁元年(1108)大島で死去、墓は大島の安昌院にある。三人の子は、長男・宗良は大島太郎安倍権頭(おおしまたろうあべごんのかみ)として大島の統領となり、その子孫は宗像社の神職などについたそうだ。二男・仲任は薩摩国へ行ったというが詳細は分からない。そして、三男・季任は松浦へ行き、松浦三郎大夫実任(まつらさぶろうたゆうさねとう)と名乗った。実任(季任)はのちに豊後国宇佐郡へ行くが、その子孫は松浦に残った。これが松浦氏になったという。この「安倍宗任末孫説」については、古く鎌倉時代後期に成立した「平家物語」の写本のひとつ、屋代本にあるという。ずいぶんと古くからある説だ。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」、安川浄生氏 「宗像の歴史」、伊藤篤氏 「福岡の怨霊伝説」) なお、季任の子孫・安倍高俊(あべのたかとし)は宗任五世の孫であり、平清盛(たいらのきよもり)の側近となったが壇ノ浦で敗れ、今の山口県大津郡油谷町に流されたそうだ。そこで娘をもうけ、娘は平知貞(たいらのともさだ=平知盛の庶子)に嫁いだ。その子孫、宗任から四十四代目が安倍晋三(あべしんぞう)元首相だそうだ。(安川浄生氏 「宗像の歴史」)

もう一つの「嵯峨天皇末孫説」について、松浦史料博物館発行の「史都平戸」でみてみよう。第五十二代嵯峨天皇(さがてんのう)の第十八皇子・融(とほる)は源姓を賜って源融(みなもとのとおる)と名乗った。嵯峨天皇には五十人の皇子女がいたという(吉川弘文館 「歴代天皇年号事典」)。源融は左大臣まで昇りつめた人物で、また「源氏物語」の光源氏のモデルともいわれる。その第二子・昇(のぼる)も大納言となり廟堂に列したが、昇の第二子・仕(つかう)は武人となり平将門の乱、藤原純友の乱に功をおさめて武蔵守に任ぜられ、武蔵国箕田(みた)に住んだ。その子・充(みつる)も父に従って純友の乱鎮圧に加わり、多田満仲(ただのみつなか、まんちゅう)の娘を娶ったが二十歳くらいで没した。その多田満仲の娘が生んだ子が、綱(つな)だ。綱は幼くして親を亡くしたため母方の親戚に育てられた。京かその周辺で育ったのだろう。十一歳のとき源頼光(みなもとのよりみつ)に仕え、のち大江山の酒天童子、葛城山の土蜘蛛退治に活躍した。摂津国渡辺に住み、渡辺綱(わたなべのつな)と名乗り、源頼光の四天王と呼ばれるようになる。頼光が正暦元年(990)肥前守として下向したときこれに従い、岸嶽あたり(唐津の南方)の賊を平らげた。綱は致仕したのち摂津渡辺から武蔵箕田へ移り、そこで没した。綱の子・授(さずく)は肥前奈古屋(なごや=名護屋のことだろう)に住み、奈古屋次郎太夫(なごやじろうたゆう)と称したが、のちに京へ戻り内舎人(うちとねり)となった。その子・泰(やすし)は摂津渡辺に住み、後三条院に仕えた。そして泰の第一子が久(ひさし)である。久は延久元年(1069)に松浦郡の宇野御厨検校(うのみくりやけんぎょう)となり肥前国松浦の今福に下向した。ついで検非違使(けびいし)を命ぜられ上下松浦郡、彼杵郡の一部、および壱岐を治め、松浦を姓とした。久は今福村に梶谷城(かじやじょう)を築いたという。これが松浦氏の起こりとされている。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
宇野御厨とは、現在の平戸・五島、および長崎県北松浦郡一帯の荘園だそうだ。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」90頁)

では、「安倍宗任末孫説」と「嵯峨天皇末孫説」のどちらが事実なのだろうか。長崎大学の外山幹夫氏は、両説のいずれも決定的な根拠を見出すことはできないまでも、「嵯峨天皇末孫説」のほうが難点が少ないとしている。その理由として、松浦氏が源姓であること、松浦氏と関わりがあると思われる源聞、源知といった人物が肥前国司であることは捕囚あがりの安倍宗任とは相容れないこと、また青方氏や宇久氏のような現地勢力が松浦氏のもとに集まり松浦党となったことは、捕囚出身の宗任よりも嵯峨天皇の貴種のほうが説明できることなどを挙げている。その一方で、二つの説が双方とも成立する可能性、および双方とも違う可能性を指摘して結論を避けている。合理的な判断だと思う。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
ここで、拙者の考えを述べておくと、両説とも事実なのではないかと考えている。松浦氏の名が、始祖とされる久をはじめ代々「一字名」であることは渡辺源氏の特徴であるので、これは無視できないと思う。もっとも、渡辺源氏を詐称した可能性もないではないが、そんなことは周りの人々の支持を得られることではないので、滅多にやらないことだと思う。現代人が考えるほど、昔の人は権力者におもねっていないものだ、と拙者は考える。しかし一方で、鎌倉時代後期には「安倍宗任末孫説」が「平家物語」に記されていることも無視できないので、いろいろ考えると、両説とも事実であって、安倍宗任の子孫の女子が、嵯峨天皇の末裔の男子に嫁いだと考えればいいのではないだろうか。もっとも、単なる想像の話ではある。

さて、源久(みなもとのひさし=松浦久まつらひさし)のあとを「史都平戸」に従い、続けて追ってみよう。

久は子だくさんで、子供たちにそれぞれ所領を分け与え、それぞれが松浦一族の祖となっていく。久の長男・直(なおし)には御厨(みくりや)を、二男・持(たもつ)には波多(はた)を、三男・勝(まさる)に石志(いしし)を、四男・聞(きこう)に荒久田を、五男・広(ひろし)に神田、六男・調(しらぶ)に佐志(さし)、養子・高俊(たかとし)に牟田部を、それぞれ与えた。ここで、養子の高俊というのは例の安倍晋三元首相の祖先という高俊のことだろう。ただ、同書には「一の谷の合戦」で戦死とあり、壇ノ浦ののち流されたことと矛盾している。外山幹夫氏の言うように、謎の人物ということだろう。

さて、御厨を継いだ直(なおし)には八人の男子があったという。第一子・頼は京へ行き、その後不明。第二子・清には今福・志佐(しさ)・相浦・佐世保・壱岐の一部などを与え、この子孫がのち相神浦(あいこうのうら)松浦氏になっていく。直は第三子・栄(さかう)には有田を、第四子・遊(あそぶ)には大河野を、第五子・披(ひらく)には江迎・佐々・平戸を、第六子・囲(かこむ)には伊万里・山代、第七子・彊には八並、第八子・連(つらぬ)には値賀を、それぞれ与えた。まさに末広がりのお目出度い一族だ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

ただ、それぞれが各氏の始祖になったというよりも、直が子供たちを現地の豪族に次々と養子に入れたという説もある。たしかに、その方が理にかなっていると思う。また、直の第一子については、この頃九州へ下向してきた鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)の家臣となり、為朝の上京に従って京へ赴き保元の乱で戦死した、という話もある。(神尾正武氏 「松浦党戦旗」)

ところで、直の子のなかで、清が今福の地を譲られているということは、松浦氏の嫡子なのだろう。この時代、必ずしも年上が嫡子とは限らない。ただし、嫡子や嫡流といっても松浦一族の場合はその特徴として、惣領が松浦一族の中心的存在ではなく一族の中に埋没しており、松浦一族が「松浦党(まつらとう)」という集団の名前で記録などに登場する。のちに松浦党には、もともと松浦一族でない青方氏や宇久氏なども加わっていくようになる。

この頃のこととして、壇ノ浦合戦(だんのうらのかっせん)がある。元暦二年(1185)三月二十四日、彦島(ひこしま=現山口県下関市)に逃れた平家と源義経率いる源氏が壇ノ浦で戦い、平家は滅びた。この合戦に松浦党が参戦していたといわれる。「吾妻鏡」に、平家方は五百艘の舟を三陣に分かち、山峨兵藤次秀遠(やまがひょうとうじひでとお=山鹿秀遠)ならびに松浦党を大将軍となした、とあるそうだ。同様の記事は「平家物語」にもあって、事実と考えてよさそうだ。ということは、松浦党は平家方だったということになる。
しかしながら、源平合戦に決着がついて源氏の世となったあとも松浦氏は生き延びていく。同じ平家の大将軍だった山鹿秀遠は山鹿城を追われ没落したが、松浦党のほうは処罰された証拠がないようだ。外山幹夫氏は緒方惟能(おがたこれよし)や菊池隆直(きくちたかなお)らと違い、松浦党の中心人物がはっきりせず「A級戦犯」がいなかったことが原因とみている。拙者はそのほかに、松浦氏が源姓だったことも関係しているのではないか、と考えている。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

さて、直の第五子・披(ひらく)は峯(みね)氏を称し、これがのちの平戸城主・松浦氏へとつながっていく。ただ、峯(みね)の地がどこなのか、分からないそうだ。峯披(みねひらく)は、建久三年(1192)六月二日、肥前国宇野御厨(うのみくりや)のうち紐差浦(ひもさしうら)の地頭職を幕府から安堵されている。紐差は平戸島の中部にある。また、披は建保六年(1218)、子の三郎上(のぼる)に伊万里浦・福島・田平のうち粟崎などを譲っている。そして、上の兄である持(たもつ)には、披の弟・松浦十郎連(つらぬ)が小値賀島(おぢかとう)を承久元年(1219)に譲り、二年後の承久三年(1221)五月、幕府は持に対して小値賀島地頭職を安堵した。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

したがって峯持は小値賀にいたわけだが、のち嘉禄元年(1225)頃、平戸へ移り、館山に居を構えた。これが平戸松浦氏へとつながっていく。居館をおいた館山は、今の松浦史料博物館の裏山のことだという。持の子・繋(つなぐ)も平戸館山に住したが、子がなく、宇久太(うくふとし)の二男・湛(たたう)を養子にもらい跡を譲った。宇久太は松浦直の子で大河野を譲られた遊(あそぶ)の子孫だそうだ。このように松浦一族の中で養子縁組や婚姻を相互に行っていたのだろう。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
峯湛(みねたたう)は、小値賀島地頭職を鷹島源三満(たかしまみつる)と相論したが、文永八年(1271)幕府から平戸・河内・野崎・南黒島・小値賀島の地頭職を安堵されている。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

湛の子・答(ことう)のころ蒙古襲来があり、松浦党は奮戦の末、多くの者が討たれたと「日蓮書状」や「八幡愚童記」にある。また、佐志房(さしふさし)と三人の子がともに戦死している。松浦党の被害が大きかったことがうかがわれる。 余談だが、佐志房(さしふさし)はNHK大河ドラマ「北条時宗」で藤竜也が演じていた。
鎌倉幕府は元に対する備えとして、博多湾沿岸に石築地(いしついじ=元寇防塁)を築かせた。松浦党の割り当ては姪浜(めいのはま)だったという。峯答(みねことう)も対蒙古戦や異国警固番役(いこくけごばんやく)を勤めたようだ。元寇についての恩賞を得るために松浦党を代表して、志佐継・有田深・山代栄の三名が幕府へ訴訟している。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
峯答の蒙古襲来での活躍については、文永の役では博多で戦い、弘安の役では「北肥戦誌」に壱岐や鷹島で奮戦したとあり、石築地構築にも参加したという。(新人物往来社 「鎌倉・室町人名事典」)

答の子・定(さだむ)は武勇の人で、元弘三年(1333)鎮西探題(ちんぜいたんだい)を討ち、足利尊氏が天皇にたいし叛旗を翻したときは新田義貞に従って箱根で戦い、「鬼肥州」と呼ばれた。のち尊氏が入京したときは、比叡山に難を逃れた後醍醐天皇を守って、錦袴の断片を賜ったという。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

建武三年(1336)三月二日、九州へ逃れた足利尊氏は多々良浜(たたらはま)で菊池武敏(きくちたけとし)と合戦に望んだ。多々良浜合戦だ。この戦いは当初、菊池勢が優勢であったが、搦手(からめて=後陣)にあった「松浦・神田の者ども」が寝返り、足利勢の勝利に終わった。神田氏は、上述のとおり松浦久(まつらひさし)の五男・広(ひろし)が神田(かんだ?こうだ?)を与えられ神田氏を称したもので、松浦一族だ。戦のあと、松浦党の寝返りについて、足利尊氏が不思議だと疑問を差し挟んだところ、高駿河守師茂が、そんなことでは大功は望めないから目をつぶって受け入れなさい、という意味の進言をした。(「太平記」巻16 『新田義貞西国進発の事』)
こうして松浦党は、おそらく大かたは、足利方につくようになった。しかし、その中で峯定(みねさだむ)は天皇方にあり、延元元年(1336=建武三年)七月、尊氏は峯定の追討を一色範氏(いっしきのりうじ)に命じている。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
定の跡をつぐのは弟の勝(すぐる)で、勝は多々良浜合戦で尊氏に属したため引輌の旗章を受けたという。例の菊池勢の搦め手で寝返った松浦党の一人だったのだろうか。九州から東上した尊氏は、比叡山へ逃れた後醍醐天皇と講和を成立させ、天皇を京へ迎えた。このとき、天皇のそばにいた将士は捕らえられている。菊池家の惣領・菊池武重も捕らえられたが脱出して菊之池城へ逃れた。同様に、峯定も難を逃れて平戸へ帰っている。このときに定から勝への代替わりがあったのだろうか。峯勝(みねすぐる)は北朝に仕えて滝口に補されている。のち肥前守。勝尾岳に白狐山城(びゃっこさんじょう=勝尾岳城)を築いたという。一方、定も北朝方についたので、康永二年(1343=興国元年)幕府から本領を安堵されている。定は延文三年(1358=正平十三年)没した。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

さて、この後も松浦氏(峯氏)の長い歴史は続くが、それについては勝尾岳城の項に譲ることにして、ここでは一気に戦国末期へ飛んでみよう。

七年の滞在を経て朝鮮の役から帰国した松浦鎮信(まつらしげのぶ=法印ほういん)は、その翌年の慶長四年(1599)、日の岳城(ひのたけじょう)を築き、居城を白狐山城(勝尾岳城)から移した。日の岳城は、今の平戸城が建っているところにあった。
ところが、鎮信は慶長十八年(1613)居城・日の岳城に火をかけ、焼き捨てた。理由は、嫡子・久信(ひさのぶ)が若死し絶望したためとも、あるいは徳川の嫉視を避けるためともいわれている。松浦鎮信はいわゆる豊臣大名だった。松浦鎮信はこの後、城を築かず館を設けて居館とした。中之館(なかのたち)という。これはどこにあったのかさえはっきりしていない。平戸市保健所のあたりという口伝があるそうだ。
その後、さらに居館を移した。これを御館(おたち)という。今の松浦史料博物館があるところだ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

このころから平戸はオランダ、イギリスとの貿易でもっとも栄えたという。しかし、やがてイギリスは去り、オランダは長崎出島へ移っていく。平戸はもとの淋しい辺境の地に戻ったそうだ。
のち、寛永十四年(1637)に松浦隆信(宗陽)が没して子の鎮信(天祥)が跡を継いだ。この松浦鎮信は日の岳城を築き、自ら焼失せしめた鎮信とは同名にして別人である。日の岳城の松浦鎮信(法印)の曾孫が、もう一人の松浦鎮信(天祥)だ。松浦一族は一字名が多かったということもあるのであろう、同名が珍しくなく、なかでも松浦隆信と鎮信の父子は二人ずついて、なかなかヤヤコシイ。
松浦鎮信(天祥)は山鹿素行(やまがそこう)と親交があり、砂型を使って素行と築城用兵について研究したといわれる。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
松浦鎮信と山鹿素行は気があったという。素行の弟・平馬(へいま)は平戸藩士となり、のち家老となった。寛文六年(1666)素行が幕府から咎められ赤穂(あこう)に流罪となると硯や筆を送って慰め、また幕府に赦免を働きかけた。素行が許されると江戸の住まいを鎮信が斡旋したそうだ。その後、素行がもてはやされると、再び幕府の咎めを受けそうになったので、鎮信が陳情書をもって老中の間をまわって事なきを得た。そういう付き合いがあって、鎮信が新たに築く城の縄張りを山鹿素行が行ったといわれている。この新城が平戸城だ。(小学館 「城郭と城下町9」)
幕府に対する平戸城の築城願は、鎮信の子・棟(たかし)のとき元禄十六年(1703)に提出され、その四日後に許可がおりているが、実は松浦鎮信のときに築城許可があったのだという説がある。たしかに許可が出るのがわずか四日間というのは、あまりにも早すぎると思う。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)

それより前の元禄二年(1689)鎮信は致仕し、その跡を子の松浦棟(まつらたかし)が継いでいた。棟は久々の一字名だ。ちなみに鎮信は平戸城築城許可を得た元禄十六年(1703)に没した。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
また、松浦鎮信(天祥)は、二男・昌(まさし)に一万石を分知し、平戸新田藩としている。(新人物往来社 別冊歴史読本「日本の名家・名門人物系譜総覧」)

こうして平戸城は元禄十七年(1704)から築城を開始し、宝永四年(1707)一応の完成をみた。藩主・松浦棟は同年十一月、御館から平戸城へ移った。これ以降明治まで、平戸城が肥前松浦藩の居城となる。平戸城は、かつて日の岳城があったところに築かれたので、日の岳城の遺構というものはよく分からなくなっている。平戸城は本丸・二の丸・三の丸・外郭に分かれるという。本丸は狭く、櫓が二つあったようだが天守閣はなかったのではないだろうか。現在はコンクリートの天守閣が建っている。一方、二の丸は広く、当時は御殿があったが、今は亀岡神社が鎮座している。当時の遺構としての建物は、二の丸の狸櫓(たぬきやぐら)と北虎口門(きたこぐちもん)だけだ。平戸城は別名・亀岡城とも呼ばれる。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)

平戸藩主は松浦棟のあと、篤信(あつのぶ)、有信(ありのぶ)、誠信(さねのぶ)、清(きよし)、熈(ひろむ)、曜(てらす)、詮(あきら)と続き、明治を迎えた。このうち、清(きよし)は清山(せいざん)と号し、水戸治紀、水戸斉昭父子や松平定信らと親交があり藩校・維新館(いしんかん)を創設して藩士の教育に力をいれた。維新館は今の平戸小学校付近にあったそうだ。また、「甲子夜話(かっしやわ)」二七八巻を記した。
また、松浦清山(まつらせいざん=清)の第十一女・愛子(あいこ)は公家の中山忠能(なかやまただやす)に嫁ぎ、慶子(よしこ)を生んだ。慶子はのちに典侍として孝明天皇に仕えて明治天皇を生むのである。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

最後の藩主・松浦詮(まつらあきら)は維新後、正二位伯爵に叙せられた。また、平戸新田藩主・靖(はかる)は子爵となった。(新人物往来社 別冊歴史読本「日本の名家・名門人物系譜総覧」)
平戸城は明治のはじめ廃城となった。





■平戸城へGO!(登城記)
平成19年(2007)4月29日(日)

今日は遠出して平戸へやってきた。天気はうす曇だ。
しかし、平戸大橋からの眺めは広々として気持ちが良い。海の向こうの平戸城を眺め、いざ出陣じゃ。

レストハウス横の無料駐車場はとても広い。ここは平戸城の外郭の跡だ。
外郭跡

車を停めて北虎口門への坂をのぼる。ここは古図にはないので、現代になって造られた道だろう。
坂を上りつめたところに古びた平櫓が現れた。現存する狸櫓だ。
現存する狸櫓

そのすぐ横は北虎口門。これも平戸城の遺構だ。遺構は狸櫓と北虎口門のふたつで、あとは復元されたものだ。
現存する北虎口門

門の奥にはゆるやかな曲線を描く高石垣の上に二階櫓が見える。地蔵坂櫓というのか。
地蔵坂櫓は二階櫓だ

北虎口門をくぐり入場料500円を払い、まずは狸櫓へ行ってみる。中も開放されていて昔の道具が展示してある。

狸櫓からさらに坂をのぼろう。本丸への道だ。上りつめたところに櫓門があった。
本丸前門という標識があるのでそういう名前なのだろう。堂々とした門構えだ。門を入ると枡形になっている。
本丸の門

本丸だ。意外と狭い。その一角に平戸のシンボル、天守閣がそびえているので、余計に狭く感じる。
ところで、当時の平戸城にも天守閣があったのだろうか。今の天守閣のあたりには沖見櫓という櫓があったらしい。それが天守閣の代わりになっていたのかもしれない。
現在の天守閣は三層で南蛮風に見えるが、横にまわると小さな破風と唐破風だけがある。沖見櫓もこんな感じだったのだろうか。
平戸城天守閣

天守閣の中は資料館だ。北虎口門の扉というのが珍しく思い、印象に残った。
最上階からの眺めはどうだろうか。と見ると、これは素晴らしい!平戸の瀬戸や、平戸港、そして町が一望だ。沖見櫓とはよく言ったものだ。
天守からの眺め

さて、二の丸へ行ってみよう。天守閣の裏に見奏櫓という二階櫓がある。そばで見ると気がつかないが、下から見ると高石垣の上にのった堂々とした櫓だ。
二階櫓の見奏櫓

右手にくだっていこう。相撲の土俵の向こうにも二階櫓だ。懐柔櫓というそうだ。
二の丸の懐柔櫓も二階櫓

さらに進むと平戸護国神社があり、陸軍顕彰碑と海軍顕彰碑が立っている。そのよこに門の跡がある。あとから知ったが安寿門だそうだ。
安寿門跡

二の丸の広い部分に出た。まずは亀岡神社にお参りだ。拝殿の色合いがほかの櫓と馴染んでいて良い。
亀岡神社

神社の横に中山愛子像があった。松浦静山の娘で、明治天皇の祖母にあたる人物だ。
中山愛子の像

そして、乾櫓だ。これは三階櫓でさすがに見栄えがする。乾櫓の横に急階段があるが、古図にある小さな門の跡だろう。
二の丸の乾櫓は三階櫓だ

次は地蔵坂櫓へ行ってみよう。乾櫓から北虎口門のほうへ戻ると、左手に階段があって、その上に地蔵坂櫓があった。けっこう高い位置にあるのだ。地蔵坂櫓は二階櫓だが、この方向から見るとドッシリ感がある。
地蔵坂門のアップ

さて、二の丸へ戻って大手のほうへ行こう。二の丸は御殿があった場所なのでとても広い。
大手に向かって右手にも門の跡がある。方啓門だ。
二の丸は広い 二の丸の方啓門

さて大手門だ。さすがに表玄関だけあって幅が広い。大手門は二段階になっていて、二の丸側から「二の大手」、「一の大手」というそうだ。
まずは二の大手。門の横の石垣は、高さこそあまりないが、大きな石を使っている。
そして一の大手。こちらは高さ5m以上はある立派な石垣だ。
二の大手 一の大手

一の大手からくだると市道に出る。平戸大橋へと続く道だ。
その向こう側は高校のグラウンドになっているが、こうして見ると市道の部分は掘り切った跡ではないだろうか。この方面が平戸城にとって唯一地続きの部分なので、ありそうに思う。
一の大手の外、市道部分は堀切跡ではないだろうか

市道に下りてぐるっと回ってみる。平戸小学校は、松浦静山の開いた藩校・維新館があった場所だそうだ。
その対面ぐらいに日の岳城を焼いたあと居館とした「中の御館」があったという話もあるが、よく分からない。
平戸城の麓の平戸小学校

警察署の手前からお城に戻ろう。ここにも立派な石垣が残っている。西口門というらしい。そこをあがると広いグラウンドになっている。新馬場だ。当時はここまで広くはなかったかもしれないが、乗馬の訓練をしたのだろう。
西口門の石垣 グラウンドになっている新馬場

平戸城は、海の大名という雰囲気はあまりなく普通の近世城郭で、見どころ満載のお城だった。





■平戸城戦歴
  ※平戸城は元禄時代に築かれていることもあり、とくに戦歴というほどのものは無いようだ。

以上



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