御屋地・帖佐館・帖佐城
---- ちょうさおやじ ----
別名:御屋地 おやじ・宇都の屋地 うとのやじ・帖佐館 ちょうさやかた・帖佐城 ちょうさやかた

平成18年5月28日作成
平成18年5月28日更新

島津義弘の晩年の居館

今も残る石垣
帖佐御屋地の長く続く石垣

データ
御屋地について
帖佐御屋地概要
帖佐御屋地へGO!(登城記)
帖佐御屋地戦歴


 

■データ

名称 帖佐御屋地
ちょうさおやじ
別名 御屋地、宇都の屋地、帖佐館、帖佐城
おやじ、うとのやじ?、ちょうさやかた、ちょうさじょう
築城 現地案内板には、文禄四年(1595)島津義弘が築いた、と書いてある。
破却 はっきりしない。
分類 平城
現存 石垣
場所 鹿児島県姶良郡姶良町(旧大隅国姶良郡)
アクセス 目印になるのは帖佐小学校だ。
JR鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)から電車通りを北東へ天文館方面に行き、天文館を通り過ぎて、「いづろ」交差点を左折、山形屋を通り過ぎ、市役所も通り過ぎてすぐ、「桟橋通」交差点を左折、すると鶴丸城の堀端へ出るので、「城山入口」交差点を右折しよう。これが国道10号線だ。
あとは国道10号線をひたすら北上しよう。金錦湾沿いのドライブは快適だ。
約18キロ先のJR帖佐駅からまっすぐのびた道を左折しよう。ここが少し分かりにくいが、帖佐駅と反対側へ曲がるのだ。
九州自動車道の高架をくぐって道なりに行くと、帖佐橋で別府川を渡る。すると突き当たるので右折、すぐに帖佐小学校があるので手前を左折だ。「島津義弘居館跡」の看板が出ている。
あとはまっすぐ300m行くと突き当りが稲荷神社、すなわち御屋地だ。
駐車場はないが、突き当りを左折、すぐに右折すると稲荷神社の中へ入れる。タイヤの跡があったので敷地内に停めてもよいと思うぞ。道が細くて路上駐車は厳しいよ。




■御屋地について
この居館の名称の「御屋地(おやじ)」というのは、どういう意味だろうか。この場所(帖佐にあった島津義弘の居館)をあらわす固有名詞なのか、それとも御屋形様の居場所を示す一般的な呼び名(薩摩言葉?)なのか、よくわからない。色々なものを見ると、色々な呼び方をしているようだ。

場  所 呼び方
 現地の標識  島津義弘居館跡(御屋地跡)
 現地の大きな案内板  帖佐御屋地跡
 中野翠氏『義弘の史跡』 新人物往来社「島津義弘のすべて」所収   帖佐御屋地跡
 三木靖氏『義弘の城跡』 新人物往来社「島津義弘のすべて」所収   帖佐館跡
 平田信芳氏「地名が語る鹿児島の歴史」(春苑堂出版)  帖佐城跡
 高尾城跡の標識  御屋地跡

そこで、当ホームページでは、現地の案内板に従って「帖佐御屋地」と呼ぶことにした。単に「御屋地」というと、ひょっとしたら他にもあるかもしれないので、「帖佐」の名を冠した。
ところで、平松城の案内板によると、島津義弘の娘は「御屋地様(おやじさま)」と呼ばれていたそうだ。この娘というのは、長女の千鶴のことで、御屋地のほか「帖佐屋地」とも呼ばれていたという。(三木靖氏『義弘の家族と生涯』 新人物往来社「島津義弘のすべて」所収)
今の時代、娘さんに向かって「オヤジ」って呼んだら怒られるが、当時は敬称だったのだろうか。
御屋地って何だろう??



■帖佐御屋地概要

帖佐御屋地は、文禄四年(1595)から慶長十一年(1616)までの約10年間、島津義弘(しまづよしひろ)が居館としたところである。
平田信芳氏は『地名が語る鹿児島の歴史』において、この場所を平安時代の「桑原郡家」であろうと推定しているが、古代からの交通の要衝であったのかもしれない。(薩摩国、大隅国は郡の移動が他国にないほど著しい)

ところで、島津義弘は歴代島津家当主のなかでも抜群に有名で、兄の島津義久(しまづよしひさ)とともに戦国時代の島津家を支え、九州統一まであと一歩というところまでいった。しかし、歴史小説にも出てくるように兄義久との関係は微妙なものがあったようだ。

天正十五年(1587)豊臣秀吉によって九州征伐が行われ、川内・泰平寺(たいへいじ)で島津家は降伏した。このとき、島津家当主・義久には薩摩一国、弟の義弘には大隅一国、義弘の嫡男・久保(ひさやす)に日向国諸県郡(もろかたぐん)が与えられた。義久と義弘が同格に扱われているように感じるが、あるいは秀吉の島津家弱体化の策だったかもしれない。
その後の島津家は、秀吉に積極的に協力(というか秀吉を利用して島津家を強化)しようとする義弘や重臣の伊集院忠棟(いじゅういんただむね=幸侃こうかん)と、なるべく従来の体制を維持して秀吉への協力は最小限に抑えようとする当主・義久との二つの考え方があった。

文禄三年(1594)から四年(1595)にかけて太閤検地が行われたが、これは「島津家の財政基盤を明確にするために、義弘・幸侃が石田三成に積極的に働きかけ」実現したものであって、義久は「非協力的な態度をとり続け」たそうだ。(島津修久氏 「島津家おもしろ歴史館」)
検地が終わると、秀吉は朝鮮にいた義弘を呼び戻し知行割を行わせた。秀吉は、文禄四年(1595)六月二十九日付の朱印状で、義久・義弘それぞれに十万石の蔵入地を、さらに伊集院忠棟(幸侃)に庄内(しょうない=現在の都城)の八万石、島津以久(しまづもちひさ=義弘の叔父・忠将の子)に一万石を与えた。この朱印状の宛先が当主の義久ではなく義弘であり、また知行地も指定されていて義久は大隅、義弘が鹿児島となっていたという。(三木靖氏『義弘の家族と生涯』 新人物往来社「島津義弘のすべて」所収)  これは、島津家当主は、(言うことを聞かない)義久ではなく、(協力的な)義弘なんだぞ、と秀吉が迫ったものと理解できる。

これを受けて、義久は大隅国・冨隈城(とみのくまじょう)へ移ったが、義弘のほうは栗野城(くりのじょう)から移動はしたものの鹿児島には入らず、その途中の帖佐(ちょうさ)に館を築いてそこに入った。これがここで紹介する帖佐御屋地だ。
では鹿児島のほうはどうしたかというと、息子の忠恒(ただつね=のちの初代藩主、家久)を入れて、さらに忠恒を義久の娘・亀寿(かめじゅ)と結婚させた。(島津修久氏 「島津家おもしろ歴史館」)
非常に気をつかって、兄・義久との対立を避けた様子がうかがえる。ただ、文禄四年の時点では忠恒は朝鮮に在陣中なので、このときすぐに鹿児島に入ったというわけではなさそうだ。
義久の娘・亀寿はもともと義弘の嫡男・久保(ひさやす)の妻であって、久保が島津家当主・義久を継承する(義久に男子は無い)ことになっていたのであるが(三木靖氏『義弘の家族と生涯』 新人物往来社「島津義弘のすべて」所収)、文禄二年(1593)久保は朝鮮で病死してしまった。つまり、忠恒は兄嫁をもらったことになる。同時に、久保に代わって島津家当主を継ぐ、しかも義久の路線を継承する、という意味になったのではないだろうか。実際、忠恒は義久寄りの考え方であったらしく、のちに秀吉の死後、伊集院幸侃を誅殺する。

こうして義弘は島津家の第17代当主となったわけだが、兄義久が完全に隠居したわけではなく、両頭体制であった。一説に、のちの関ヶ原の合戦で西軍として実戦で戦った(しかも徳川本隊と)義弘を控えさせ、義久が前面に出て当主に復帰した、といわれているが、どうもそうではないようだ。義久から義弘への当主交代も上記のようにあいまいなもので、義弘も完全に義久を退けたわけでもなく、何となく二人の経営者がいるような感じが続いていたのではないだろうか。

こういうなかで慶長元年(1596)日本と明の講和が不調におわり、翌慶長二年(1597)二月、島津義弘は再度朝鮮へ渡るために帖佐御屋地を出発した。前回と違い、二度目の渡海は兵の動員、舟の調達ともに順調であった。しかし日本軍の進軍ははかばかしくなく、朝鮮半島の南に押し込められていた。東に加藤清正の蔚山(うるさん)、西に小西行長の順天(じゅんてん)、島津義弘は中央の泗川(しせん)にいた。
慶長三年(1598)八月十八日、豊臣秀吉死去、朝鮮の日本軍は撤退することになった。明軍は主力を義弘のいる泗川へ向けてきたため、義弘は支城の望津(まんじん)・永春(よんちゅん)・昆陽(こんやん)から兵を引き、また泗川旧城の兵も泗川新寨(城)に集め決戦に備えた。十月一日、董一元の率いる明軍二十万は泗川新寨へ攻めかかった。島津軍は攻撃を受けても動かず、敵を十分に引き寄せ城門が打ち破られたときに一斉に鉄砲で反撃した。また、明軍の背後で火薬の大爆発が起き、明軍が混乱におちいったところに打って出て、八万人を討ち取り、明の大軍を撃退した。このときの爆発は、赤狐と白狐の二匹の狐(実は島津兵)が火薬を抱いて明軍へ突入し自爆したもの、という。義弘はこの狐を稲荷神の加護であるとして、帰国後に高尾城跡に社を建て、祀った。のちに文政十年(1827)、社地が崩壊の危険があるということで、稲荷神社は帖佐御屋地跡に移された。したがって、今でもここに稲荷神社があるのである。

泗川での大勝は日本軍の撤退に有利な情勢を作り出し、一方、明・朝鮮軍は島津勢を「鬼石曼子(おにしまづ)」と呼び恐れた。十一月、日本軍は撤退を始めたが、朝鮮水軍の李舜臣(いすんしん)は順天の小西行長・有馬晴信(ありまはるのぶ)らの退路をふさごうとした。島津義弘は立花宗茂(たちばなむねしげ)・宗義智(そうよしとも)らとともに救援に赴き、十一月十八日、露梁(のりゃん)の海戦で明・朝鮮水軍と戦い、これを打ち破った。李舜臣はこの戦いで戦死した。
日本軍撤退の殿軍(しんがり)として、義弘は十二月十日、博多に着いた。帰国した義弘は帖佐御屋地に戻ったものと思われる。

慶長四年(1599)三月、伏見屋敷において島津忠恒(のちの家久)が伊集院忠棟(幸侃)を手討ちにした。忠棟の子・伊集院忠真(いじゅういんただざね)は庄内(都城)に籠って叛旗を翻した。(庄内の乱)
徳川家康は忠恒の帰国を許して鎮定にあたらせた。忠真は頑強に抵抗したが、支城があいついで落とされるにいたって、家康の調停を受け入れた。忠恒は家康の調停ということで忠真を許し、堪忍分一万石を与え、頴娃(えい)に移した。この庄内の乱が、国内を疲弊させ、翌年の関ヶ原に少数の兵しか送れなかった要因であるといわれる。

そして、慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原の戦い。義弘がついた西軍は破れ友軍が次々と戦場を離脱していったなか、義弘はなんと前に向かって退却戦をはじめた。有名な「島津の退き口(のきぐち)」だ。松平忠吉(まつだいらただよし)、井伊直政(いいなおまさ)、本多忠勝(ほんだただかつ)らと当たり、家康の本陣の脇を突っ切って、甥の佐土原城主・島津豊久(しまづとよひさ)や長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)らが次々と戦死する中、敵のど真ん中を突破した。1000人の兵は鹿児島にたどり着いたとき、80人になっていたという。さらに驚くのは、大坂で人質となっていた妻・宰相夫人や息子忠恒の妻・亀寿を救出してともに帰国していることだ。

帰国した島津義弘は、徳川家康への謝罪のため桜島に蟄居した。兄義久も家康へ謝罪したが、同時に戦う準備も進め、「来るなら来い」といった一歩も引かぬ対応をとった。結果的に島津征伐は行われず、家康は島津を許した。
その後しばらく、義弘は帖佐御屋地を居館としていたが、慶長十一年(1606)、居館を平松城へ移し、さらに翌慶長十二年(1607)加治木館へ移った
元和五年(1619)加治木にて没。八十五歳であった。



■帖佐御屋地へGO!(登城記)
平成17年(2005)8月28日(日)

さあ次は島津義弘の居館へ行ってみよう。
姶良町の歴史という案内板にあった地図を頼りに帖佐へ向かう。帖佐小学校の前の帖佐地区観光案内板でさらに位置を確認する。
お、すぐそこじゃないか。

道の突き当たりに鳥居が建っている。ここが島津義弘の居館跡か。
その両側の石垣は大きくて力強い。高さは2mくらいだろうか。白い標識が建っていて、「島津義弘居館跡石垣(御屋地跡)」と書いてある。なるほど、御屋地と呼ぶのだな。
正面の階段は石垣を取り除いて作ったのだろうか  大きな石垣

石垣は方形に積まれていて、いかにも居館らしくて良い。
よし敷地内へ入ってみよう。正面に稲荷神社が鎮座している。縁起を読むと、慶長の役で戦死した兵士を祀っているという。いかにもこの場所にふさわしいではないか。
稲荷神社の拝殿

敷地の一角に、「維新公邸址之碑」が建っている。維新公というのは島津義弘の入道名だ。
碑文は、公爵島津忠重(しまづただしげ)の書だそうだ。島津忠重というのは、薩摩藩最後の藩主・島津忠義(しまづただよし)の子だ。
平松城にも忠重公の書による石碑があったな、、また出会った、という感じだ。
維新公邸址の碑

近くには、島津義弘公三百年祭という大正時代の石碑や、関ヶ原四百年記念の石碑がある。島津義弘が地元の人々に愛されている証だろう。
他には、日清日露戦役の石碑があるくらいで、パッと見た感じでは普通の神社だ。しかし、ここに島津義弘が住んでいたのだなぁ、と想いを馳せてみる。
神社の境内

正面右手に階段があって、「大手門跡」の標識が建っていた。残念ながら工事中で一部、土嚢に覆われていたが、階段途中の大石には、門のホゾ穴がしっかりと残っていた。
標識によると、ここに建っていた仮屋門は出水麓(いずみふもと)に移築されて現存しているそうだ。
出水か、、遠すぎて今日は行けないな。
「島津義弘のすべて」という本によると、関ヶ原直前の緊迫した情勢の中、義弘は肥後国境である出水の重要性を考えて、居館を移そうとしたそうだ。結局、関ヶ原の戦いが起こってしまい、出水移住は実現しなかったが、すでに仮屋門は移築されていた、ということだ。現在は出水小学校の正門となっているということなので、いつか行ってみよう。
大手門跡

居館の周りをまわってみよう。背後は民家となっているので入るわけには行かないが、御屋地の西側に、「日陽山花園寺跡」という標識があった。正面は御屋地と同じような大きな石垣だ。
ここは、島津義弘の頃は看経所であって、義弘は朝晩仏前勤行をして、大きな石に座禅、瞑想していたそうだ。
あの石が座禅石かなぁ。
看経所跡

ここは山のふもとの静かな場所だ。島津義弘は何を考えて日々を過ごしていたのだろうか、とまわりを見渡してみる。
夏の暑い一日だった。




■帖佐御屋地戦歴
  ※とくに戦歴というほどのものは無いようだ。関連事項として、
◆ 慶長二年(1597)二月、島津義弘はここから朝鮮へと出発した。(慶長の役)

◆ 慶長五年(1600)、島津義弘がここに住んでいた時期に関ヶ原の戦いが起こった。ただし、義弘はここから出陣したのではなく、京・伏見に上京していたときに合戦となったものである。

以上



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