---- おびじょう ----
別名: (なし)

平成18年6月18日作成
平成18年6月18日更新

日向伊東藩五万石の居城

酒谷川の向こうのこんもりしたところが飫肥城
飫肥城遠景(中央のこんもりとした森)

データ
飫肥城概要
飫肥城へGO!(登城記)
飫肥城戦歴


 

■データ

名称 飫肥城
おびじょう
別名 とくになさそう
築城 不明。
破却 よく分からない。明治六年(1873)の廃城令では存続とされたが、その後、兵営は置かれなかったのだろうか、いつの間にか放置されたようだ。
分類 平山城
現存 石垣、空堀、曲輪。
場所 宮崎県日南市飫肥(旧日向国那珂郡)
アクセス JR宮崎駅からまっすぐ正面へ600mほど行き、「橘通4丁目」交差点を左折すると広い道路、国道220号線だ。これをひたすら南下しよう。
日向灘沿いの道はくねくねしているが気持ちいいぞ。青島、こどもの国、鵜戸神宮を通り過ぎ、油津の港町へ入る。「春日町」交差点で国道220号線は右折するので、素直に曲がろう。5キロくらい行くと、いよいよ飫肥の町だ。
JR飫肥駅を通り過ぎ、酒谷川にかかる稲荷下橋を渡ると城下町だ。1キロくらい進むと、信号はないが、「飫肥城→」と書いた大きな看板があるので迷うことなく右折しよう。
飫肥城への右折する標識
あとはまっすぐで大手門だ。大手門の手前、左側に無料駐車場がある。広いので駐車スペースには困らないはずだ。
以上、車の場合の行き方だが、JR日南線でのんびり行くのも良いぞ。1.5時間くらいかかるけど趣きあって良い。JR飫肥駅を降りると、目の前の道路を左へ道なりに1.5キロくらい行くと、上記の大きな看板があるので右折だ。駅前のレンタサイクルなら、なお便利、3時間で300円だ。




■飫肥城概要

飫肥城は、日向国の伊東藩五万一千石の居城だ。
伊東氏は伊豆国伊東の出で、先祖は曽我兄弟の仇討ち、工藤祐経(くどうすけつね)だ。祐経は源頼朝に仕え、日向国地頭職を与えられたという。日向における所領は県(あがた=現延岡・門川)荘、富田荘(=現日向市)、田嶋荘(=現佐土原)、諸県荘など日向の中北部であった。歌舞音曲に優れており、静御前(しずかごぜん)が義経を慕った舞、「しづやしづ・・・」を鶴岡八幡宮で舞ったときは祐経が鼓をうったという。(海音寺潮五郎 「悪人列伝(2)」)
富士裾野で頼朝が巻狩りを催した際、祐経は父の仇として曽我兄弟によって討たれた。祐経の嫡男・祐時(すけとき)は父の所領を受け継いで地頭職となり、伊東氏を名乗った。しかし、この頃はまだ日向には下向していない。

祐時の子、祐明(すけあき)が田嶋へ、祐景(すけかげ)が門川に下向し、それぞれ田嶋氏、門川氏を名乗った。元寇では、伊東家家督の祐光(すけみつ)の代官として弟の木脇祐頼(きわきすけより)が一族を率いて戦い、のちに日向国諸県荘に下向した。伊東氏は庶子が先に九州へ下向したということだ。

伊東氏本家のほうは、祐光の曾孫・祐持(すけもち)のとき、京都の宇治川合戦などの戦功により足利尊氏(あしかがたかうじ)から都於郡(とのこおり=現西都市)に三百町を与えられ、日向伊東氏初代となった。祐持が日向・都於郡へ下向したともいわれるし(小学館 「城郭と城下町10」)、その子祐重(すけしげ)が都於郡に入ったともいわれる(吉田常政氏「城下町飫肥ガイド」、 山川出版社「宮崎県の歴史」)
祐重は足利尊氏から一字を与えられ、氏祐(うじすけ)と名乗った。氏祐(祐重)のときに都於郡城が築かれ(あるいは拡充され)、伊東氏は都於郡城を中心に日向に地盤を築いていく。

観応元年(1350)、足利尊氏と弟・直義(ただよし)の対立、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起こると、九州では、尊氏に味方するもの(探題方)、直義に味方するもの(直冬方)、南朝に味方するもの(宮方)の三派に分かれたが、伊東氏は直冬(ただふゆ)方になったようだ。足利直冬と日向国大将・畠山直顕(はたけやまただあき)は、木脇伊東氏の祐胤(すけたね)に飫肥北郷300町を宛がっている。また、足利義詮(あしかがよしあきら)は、穆佐院や島津荘における畠山直顕や伊東氏祐らの違乱停止を島津貞久(しまづさだひさ)へ命じた。

その後、今川了俊(いまがわりょうしゅん)が九州探題となり、肥後国水島の少弐冬資(しょうにふゆすけ)謀殺を機に島津氏久(しまづうじひさ)と対立するようになるが、伊東氏祐は了俊に従った。永和三年(天授三年=1377)、都城の本郷義久(ほんごうよしひさ=島津義久)を了俊の子・今川満範(いまがわみつのり)が攻めたとき、伊東氏祐は名代として祐基(すけもと)を派遣し、祐基は戦死した。
ただ、今川方についたといっても、土着の国人領主たちが完全に、積極的に、今川了俊の命令どおりに動いたわけではない。これはいつの時代、どこの組織でも同じだ。了俊は、彼らをまとめて島津と戦うために南九州の国人63人に一揆を結ばせた。しかし、伊東氏はこの中には加わっていないようで、一揆衆とは別に、「山東衆」と呼ばれている。(山川出版社「宮崎県の歴史」)
山東(さんとう)とは、青井岳以東のことだそうだ。(吉田常政氏「城下町飫肥ガイド」)
今川方は永徳元年(弘和元年=1381)、再び都城に攻め寄せ、六月以降、五度にわたって攻めたてると、十月、島津氏久は幕府方へ転じた。至徳元年(元中元年=1384)、幕府は大友親世(おおともちかよ)を日向国守護に任じたが、日向の名門、伊東氏・土持氏はこれに抵抗した。

氏祐の子・祐安(すけやす)の代になると、明徳三年(元中九年=1392)南北朝が合一。しかし、九州では征西将軍宮・良成親王(よしなりしんのう)は南朝の再興をあきらめておらず、明徳四年(1393)から応永元年(1394)にかけて都城において激戦となった。伊東祐安は今川貞兼(いまがわさだかね)に与して戦った。
応永二年(1395)閏七月、今川了俊が九州探題を解任されると、伊東氏ら日向の国人は室町将軍家の直接の奉公衆となっていった。そうしたなか祐安は、伊東一族や現地の国人領主らの所領を没収し、あるいは安堵し、彼らの被官化を進めていく。この動きには反発も大きかったと思われ、応永六年(1399)、日向各地で国人による一揆が起こっている。伊東氏の大名としての地位は、一揆の鎮圧や攻め寄せる島津氏の撃退といった武力を通じて築かれていったのであろう。

応永四年(1397)、島津家第七代・島津元久(しまづもとひさ)が清武城(きよたけじょう)を攻めたが伊東勢はこれを守りぬき、和議が成立。翌年、元久と祐安が志布志で参会した。また、応永八年(1401)にも石塚(いしづか=現宮崎市)に攻め入った島津勢を嫡男・祐立(すけはる)、その子で石塚領主・祐武(すけたけ)とともに撃退している。応永十九年(1412)、島津家第八代・島津久豊(しまづひさとよ)は曾井(そい=現宮崎市)へ派兵、伊東祐立はこれを撃退。久豊は応永二十二年(1415)にも日向・石塚へ出陣したが攻めきれず和議を結んだ。応永二十六年(1419)から応永三十一年(1424)にかけて加江田城(かえだじょう=現宮崎市)を巡って合戦、最後は島津勢がこれを確保した。応永三十三年(1426)、伊東祐立は鹿児島において島津久豊と面会。しかし、毒を盛られそうになり鹿児島を立ち去った。
伊東氏と島津氏は、戦っては和睦し、をくり返していた。島津久豊の妻は伊東祐安の娘であり、久豊の嫡男・忠国(ただくに)の妻は伊東祐立の妹であった。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)

祐立は文安元年(1444)、上洛の途中、播磨国で死去。子の祐武はすでに亡くなっていたので家督相続をめぐり一族で争いとなったが、勝者となったのは祐武の子・祐堯(すけたか)であった。祐堯は伊東歴代随一の勇将といわれ、曾井城を攻め落とし、門川城、穆佐城、宮崎城を次々と奪っていった。
文安五年(1448)、薩摩国守護・島津忠国は都於郡で祐堯と面会、犬追物を催した。土持氏は、康正二年(1456)県土持氏・財部土持氏が協同して軍を進めたが、財部土持兼綱(つちもちかねつな)は伊東軍によって討たれた。長禄元年(1457)、弔い合戦か、財部土持景綱(つちもちかげつな)が祐堯に叛旗を翻したが鎮圧され、財部土持氏は没落した。
そのなかで、島津忠国は長禄二年(1458)、新納忠続(にいろただつぐ)を志布志城から飫肥城へ移し、祐堯の進出に備えた。緊張が続いたのか、あるいは合戦に及んだのか定かでないが、寛正五年(1464)伊東祐堯と島津立久(しまづたつひさ=忠国の子)は和議を結び、立久は祐堯の娘を娶り鵜戸城(うどじょう)で祝儀をあげた。

さて、飫肥城であるが、いつごろ誰がはじめに築城したのか、はっきりしない。「城下町飫肥ガイド」には、貞和二年(1346)ころ、地方豪族の水間栄證(みずまえいしょう)法眼父子が築城した、という説を載せている。水間栄證については「宮崎県の歴史」に、飫肥北郷の弁済使であり、年貢を領家・奈良興福寺一乗院に納めなくなっていたので足利尊氏から違乱停止を求められた、とある。また、飫肥南郷には野辺氏がおり、水間氏と対抗した。水間氏のその後はよく分からないが、野辺氏は長く飫肥・櫛間地方に続いたようで、今川了俊の国人一揆にも名前がみえる。また、応永十七年(1410)、薩隅日三ヶ国の守護・島津元久が上洛し将軍・足利義持(あしかがよしもち)に拝謁した際の随行者に野辺右衛門太夫(のべうえもんだゆう)がおり、飫肥地方は長く島津方の領域であった。

話を戻して、薩摩守護・島津立久は文明五、六年(1473、74)ころ、弟で伊作(いざく)島津氏を継いだ久逸(ひさやす)を飫肥の南の櫛間城(くしまじょう)へ移した。新納忠続とともに伊東氏対策だったと思われる。伊作久逸は日新斎島津忠良(しまづただよし)の祖父にあたる人物だ。
ところが、なぜか新納忠続と伊作久逸が争うようになった。一説に遣明船警護が原因といわれている。文明十六年(1484)、新納忠続は、守護・島津武久(しまづたけひさ=のちの忠昌ただまさ)に伊作久逸を本領・薩摩国伊作へ召還するよう要請、武久は了承した。しかし久逸は従わず、ついに合戦へと発展した。このとき伊東祐堯は、真幸院(まさきいん=現えびの市)の北原氏とともに久逸を援助したので、南九州をまき込んだ大乱となった。文明十七年(1485)、祐堯は、子の祐国(すけくに)、祐邑(すけむら)とともに飫肥へ出陣、ところが清武(きよたけ)で祐堯が急死する。一方、守護・島津武久は新納忠続の援軍として、島津国久(くにひさ)、忠廉(ただかど)を派遣、自らも大隅国敷根(しきね)へ出陣した。伊東・北原連合軍と島津軍は野戦に及び、伊東方は大敗北を喫した。伊東祐国は田間(たま)において戦死、伊作久逸は櫛間城へ退却した。久逸は武久へ降伏し、薩摩国田布施(たぶせ)へ移った。武久は新納忠続を志布志城へ移し、飫肥城・櫛間城は島津忠廉に与えた。

主君を相ついで失った伊東家では、当然のように跡目争いがおこった。祐邑は祐国の子・祐良(すけよし=のちの尹祐ただすけ)に殺され、また祐邑の母方の野村一族を滅ぼした(野村の乱)。
祐良は将軍・足利義尹(あしかがよしただ=のちの義稙よしたね)から一字をもらい尹祐(ただすけ)と名乗った。尹祐は永正七年(1510)、綾(あや)地頭・長倉若狭守らを切腹に追い込み(綾の乱)、都城方面へ出陣して本郷忠相(ほんごうただすけ)と戦いこれを破るが、大永三年(1523)陣中で没した。

跡を継いだ子の祐充(すけみつ)は本郷忠相と和議を結び、その娘を娶って、都城・野々美谷城(ののみだにじょう)は伊東氏のものとなった。祐充は肥後国球磨地方の犬童氏の反乱など各地に積極的に派兵したが、天文二年(1533)死去。またまた後継者を巡って争いが起こった。
祐充の弟・祐清(すけきよ=のちの義祐よしすけ)は従兄弟の伊東左兵衛佐(いとうさひょうえのすけ)を破ったが、三俣院高城(みまたいんたかじょう)の落合氏は祐清に従わず、また米良一揆に都於郡城の城内まで攻めこまれるなど、不安定な状態が続いた。その最中に長倉能登守(ながくらのとのかみ)は祐清の弟・祐吉(すけよし)を擁立して伊東家家督とした。祐清は出家し、可水(かすい)と名乗った。

ところが、祐吉は天文六年(1537)宮崎城において死去。可水は還俗して、将軍・足利義晴(あしかがよしはる)から一字を拝領し、義祐(よしすけ)と名乗り家督を継承した。この伊東義祐のときに伊東氏の最盛期を迎える。天文九年(1540)長倉能登守は長嶺城(ながみねじょう)で義祐に叛旗を翻したが、翌天文十年(1541)七月、鎮圧された。翌八月、義祐は朝廷から従五位下大膳大夫(だいぜんだいぶ)に補任され、天文十五年(1546)には従三位(じゅさんみ)に昇叙された。天文十九年(1550)、将軍・足利義晴が死去すると義祐は上洛する。天文二十年(1551)佐土原に金柏寺(きんぱくじ)を建立し、その鐘に「日薩隅三州太守」と刻んだ。義祐得意の絶頂であった。伊東氏の支城は四十八城といわれている。

また、義祐は島津忠広(しまづただひろ)の守る飫肥城を攻め、天文十年(1541)に一時占領した。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
その後、再び島津方に奪い返されたようだが、義祐は諦めず、天文十八年(1549)三月など五回、二十八年にわたって大攻勢をかけた。前の時代から通算すると八十四年の攻防戦は日本史上最長といわれる。忠広の跡をついだ島津忠親(しまづただちか)はよく防いだが、伊東氏と大隅国高山の肝属兼続(きもつきかねつぐ)の挟撃に苦戦していた。永禄三年(1560)三月、守護・島津貴久(しまづたかひさ)は子の忠平(ただひら=のちの義弘よしひろ)を忠親の養子として飫肥城へ入れた。同年六月、室町幕府は伊東義祐と島津貴久の和睦をはかるが果たせなかった。以降永禄五年(1562)までの三年間、島津忠平(義弘)は、飫肥城の守備につくことになる。
永禄五年(1562)二月に忠平が鹿児島へ戻ると(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)、五月、忠親は飫肥城を支えきれず櫛間城へ退去した(山川出版社「宮崎県の歴史」)。九月、忠親は一旦、飫肥城を回復するが、永禄十一年(1568)二万の伊東軍を支えきれず、ついに忠親は都城へ逃れ伊東氏が飫肥城を領有した。義祐は次男・祐兵(すけたけ)を飫肥城へ入れた。のちに伊東祐兵は飫肥藩初代藩主となる。

飫肥城攻防戦の最中、永禄五年(1562)義祐は嫡男・義益(よします)に家督を譲っていたが、永禄十二年(1569)義益は死去。当主にはふたたび義祐がついた。
飫肥城攻防が決着すると、次なる攻防は真幸院(まさきいん=現えびの市)だ。島津氏は真幸院の領主・北原氏を伊集院に移して、永禄七年(1564)、飯野城(いいのじょう)に伊東氏を食い止めるために入ってきたのは、またもや島津忠平(義弘)であった。
元亀三年(1572)五月、伊東氏は飯野城をやり過ごし加久藤城(かくとうじょう)へ夜襲をかけた。加久藤城には忠平の妻・実窓夫人(じっそうふじん)がいたが、城主・川上忠智(かわかみただとも)はよく防いだ。攻めきれなかった伊東勢は木崎原(きざきばる)へ戻ったところ、急をきいて飯野城から出陣した忠平勢との合戦となった。はじめは圧倒的多数の伊東勢が優位であったが、決死の島津忠平は大将・伊東新二郎(いとうしんじろう)と一騎討ち、これを討ち取った。形勢は逆転し伊東方は主だった重臣がことごとく討たれる大敗北を喫した。木崎原合戦である。

木崎原の合戦で敗北すると伊東氏の勢力は急速に衰える。上述の得意絶頂の行いに人々が愛想を尽かしたのではないだろうか。天正五年(1577)島津方の上原尚近(うえはらなおちか)が野尻城(のじりじょう)の福永丹波守(ふくながたんばのかみ)ら義祐に不満をもつものを調略すると、伊東氏家臣は次々に離反した。万策つきた伊東義祐は、義益の子で家督の義賢(よしかた)、飫肥城主・祐兵らを伴い都於郡を退去、大友氏を頼って豊後へ落ちのびた。最高潮の時期からあっという間の没落だった。
日向には守護代として島津家久(しまづいえひさ)が佐土原城に、宮崎地頭として上井覚兼(うわいかっけん)が宮崎城に入った。

天正六年(1578)、伊東氏の日向復帰を名目に大友宗麟は日向へ出陣、しかし耳川の合戦で島津勢に大敗北を喫した。伊東義祐、祐兵は豊後に居づらくなったのだろう、伊予国道後(どうご)へ移り、さらに秀吉のいる播磨国姫路へ移った。祐兵は秀吉に拝謁したが、義祐のほうは「われ三位にのぼり齢七十を越えたり、なんの面目ありて木下藤吉郎ごときに追従せんや」と言い拝謁を拒んだという。(徳永孝一氏 「みやざき歴史の道を行く」)
義祐は山口、周防を流浪し、天正十三年(1585)摂津国堺で病死した。
なお、この間の天正十年(1582)、一族の伊東マンショは遣欧使節の正使としてローマへ出発している。

伊東祐兵は秀吉に仕え、山崎の合戦などで戦功をあげた。また、天正十五年(1587)豊臣秀吉の九州征伐において案内役をつとめ、その功績によって大名に取り立てられ、飫肥、曾井、清武などを拝領した。飫肥城では上原尚近が城の明け渡しを拒むなど抵抗もあったが、豊後落ちから苦節十年、伊東祐兵は飫肥城に復帰した。なお、伊東家十二代家督であった義賢も飫肥へ戻ったが、旧家臣に義賢を担ごうとする不穏な動きがあり、義賢は文禄の役へ出陣させられ、病没したという。(徳永孝一氏 「みやざき歴史の道を行く」)

伊東祐兵は文禄の役、慶長の役に出兵し、関ヶ原の戦いでは会津攻めののち大坂へ出兵したが、伏見城攻めには参加しなかった。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)
その直後の十月、大坂にて病没。(新人物往来社 「戦国人名事典」)
こうして徳川大名として生き残ることができた伊東家は、以降、幕末まで飫肥藩主として続いた。第十四代藩主・伊東祐帰(いとうすけより)のときに明治維新を迎え、明治二年(1869)藩知事となり、明治四年(1571)廃藩置県によって飫肥藩は終わった。

飫肥城は、U字型に蛇行する酒谷川を天然の堀とした平山城だ。大手門付近は大きな切込ハギの石垣が立派である。饅頭がポンポンと並んだような地形で、その間は空堀が掘られていたという。南九州独特の形式だ。饅頭のひとつが本丸で、ほかに松尾丸、中ノ丸、今城、西ノ丸、中ノ城、松ノ丸、北ノ城などと名付けられ、13ヶ所あったそうだ。今も飫肥城の裏側にその地形が残っているが、民家になっている。
江戸時代の寛文二年(1662)、延宝八年(1680)、貞享元年(1684)の大地震で城が割れるほどの被害を受け、大修復された。それまでの本丸を廃止、中ノ丸を切り崩してならし、新たに藩主館を建て本丸とした。また高さ二間半の石垣を築いて二階櫓を二つ建て、元禄六年(1693)完成した。現在は、飫肥小学校の校庭になっている。
城下町は往時の面影を残していて、九州の小京都として観光客が絶えない。



■飫肥城へGO!(登城記)
平成17年(2005)11月23日(水)

今日は早起きして飫肥城だ。
JR日南線に乗りサンドイッチを頬張っていると、日向灘の向こうから朝日が昇ってきた。ふむふむ、まさしく日向(ひむか)の国だなぁ。
ウトウトしていると、飫肥駅に着いた。さぁここからはレンタサイクルだ! と見回すが、それらしき店が無い。
あ、まだ朝の8時だから開いてないのだ。しかたがない、歩いていこう。
駅前の泰平踊り像、、、の奥に閉まったままのレンタサイクル屋

飫肥の城下町は整然としていて空が広い。清楚な町だ。
途中、小村寿太郎生誕地など、いつものように寄り道しながら行くと、坂道の奥に大きな門が見える。
大手門だ。
武ばった櫓門は昭和五十三年の復元だ。大手門の手前には空堀が残っている。
復元された大手門 大手門脇の空堀


大手門をくぐると大きな枡形だ。いかにも近世城郭という感じで良い。石垣は、これまた整然とした四角い石の切込ハギである。飫肥の風土だろうか。
大手門の枡形 大手門の石垣

枡形の奥の石段は、広くてお城らしい。そこを上ると犬馬場という広い場所に出た。
今にも馬が疾走してきそうな感じだ。あ、犬馬場だから犬か。
正面には高石垣が長く続いて美しい。「中の丸」の石垣だ。
広い犬馬場と高石垣

よし、左へ行ってみよう。空堀沿いは土塁の跡だ。 突き当たりには苔むした石垣があり、高台になっている。「松尾の丸」だ。
「松尾の丸」の南側は荒れていて進めない。
空堀ぞいの土塁 松尾の丸の石垣


「松尾の丸」と「中の丸」の間にも幅の広い石段が続く。その奥には門の礎石が両側に残っている。ここも枡形になっているぞ。
松尾の丸と中の丸の間

中の丸へと入っていこう。ここは大地震後、新たに藩主の居館が建てられたところだ。
現在は飫肥小学校となっていて、少年たちが早朝野球をやっていた。子供たちは元気に挨拶をしてくれるので、こちらも負けじと元気良く「おはよう」と返すが、コーチらしき人は遠くで怪しげな視線を投げかけている。最近、学校へはホントに近づきにくくなったな。
中の丸跡の飫肥小校庭

と、ブツブツ言いながら、松尾の丸を見上げると結構高い。しかし、まだ早いのだろう、門が閉まっていたので、隣の旧本丸へ行ってみる。
つづら折の石段が、お殿様になった気分にさせてくれる。両側の石垣は堂々と立派だ。石段の途中に、門のホゾ穴の開いた石が何故かど真ん中に置いてある。移動してもってきたのだろう。愛嬌かな。
旧本丸の堂々とした石垣 階段の真ん中に変な石あり

本丸はずいぶんと広く、ここでも野球ができそうだ。飫肥杉がまっすぐ天へ伸びていて、冷たい空気とともに心地よい。
旧本丸は飫肥杉の広場だ

その一角には礎石らしき石が並んでいた。旧居館の礎石だろうか。
また、あちこちに古瓦が散乱している。よく見るとおびただしい数だ。これも居館跡のものだといいな。
礎石? 散乱する古瓦

本丸のウラ、北側にも門がある。行ってみよう。おや、巨大な箱のような石がポツンとあるぞ。なんだろう?
謎の巨石(ランニング中の人と比較すると、随分と大きいぞ)

ウラ門は後宮門というそうだが、日当たりが悪いためだろうか、一面、苔とシダに覆われている。
裏門は一面の苔とシダだ

古図で「中の城」となっているところは、今では逆に道路より低くグラウンドになっている。こっちにも野球少年だ。
その北側は一旦低くなって、また高台になって民家が建っている。あれが「北の城」だろう。南九州では、曲輪のことも○○城と呼ぶことが多い。そして、こうした饅頭のような地形がポンポン並んでいるのが南九州のお城の特徴だ。自販機で缶コーヒーを買って戻ろう。
グラウンドになった「中の城」、ネットの奥は「北の城」

松尾の丸へ行ってみると、開いていた。一番乗りだ。
ここには昭和54年に建てられた御殿がある。藩政時代の図面はないので、いろいろと考証を重ねて、なるべく当時のものに近くなるよう設計し建てたものだそうだ。印象的だったのは、お殿様の厠(かわや=トイレ)は畳敷きで、侍女のそれは板張りだったことだ。うんうん、なかなか感じが出てて良いぞ。
「松尾の丸」殿舎

さあ、次は「中の丸」に建つ歴史資料館だ。伊東家の甲冑や古図、シャチホコなど勉強になる。
「中の丸」の東側には、櫓台が残っている。古図を見ると飫肥城には二階櫓が二つだけあるが、ここはその一つだ。今は鐘衝堂が建っている。当時も鐘を衝く櫓だったのだろうか?
曲輪のひとつ、「今城」は飫肥小学校の校舎が建っていて、何も残ってはいないようだ。
鐘衝堂の建つ櫓台

島津、伊東の争奪戦の場・飫肥城は静かで気持ちの良いお城だった。
よし、次は城下町へ行ってみよう。



■飫肥城戦歴

◆ 長禄二年(1458)、薩摩守護・島津忠国(しまづただくに)は、伊東氏に備えるため新納忠続(にいろただつぐ)を飫肥城へ入れた。

◆ 文明十六年(1484)、飫肥城の新納忠続と、櫛間城の伊作久逸(いざくひさやす)が合戦。島津氏内部の争いであったが、島津本家、伊東氏、北原氏をまきこんだ大乱となった。

◆ 文明十七年(1485)四月、伊作久逸を援けるため飫肥へ出陣していた伊東祐堯(いとうすけたか)が清武(きよたけ)で急死。六月、薩摩守護・島津武久(しまづたけひさ=忠昌ただまさ)は、伊作久逸を飫肥城に攻めた。久逸は敗れて櫛間城へ退去した。ということは、それ以前に、伊作久逸が飫肥城を陥としていたということだろうか。この間、伊東氏家督の祐国(すけくに)が戦死している。のちに久逸は、守護・武久へ降伏、薩摩国田布施(たぶせ)へ移った。武久は新納忠続を志布志城へ移し、飫肥城・櫛間城は豊州家・島津忠廉(しまづただかど)に与えた。

◆ 天文十年(1541)、伊東義祐(いとうよしすけ)は島津忠広(しまづただひろ)の守る飫肥城を攻め、一時占領した。その後、飫肥城は再び島津氏に奪回されるが、年代がはっきりしない。義祐は諦めず、その後、大攻勢を五回、小さな攻撃はよく分からないほど飫肥城を攻撃。二十八年に及んだ。

◆ 永禄三年(1560)三月、薩摩守護・島津貴久(しまづたかひさ)は子の忠平(ただひら=義弘よしひろ)を飫肥城主・島津忠親(しまづただちか)の養子として飫肥城へ入れた。以降、永禄五年(1562)までの三年間、島津忠平(義弘)は、飫肥城に在城した。

◆ 永禄五年(1562)二月、島津忠平は鹿児島へ帰還。五月、忠親は飫肥城を支えきれず櫛間城へ退去した。このとき伊東氏の攻撃があったのか、よく分からない。しかし、九月、忠親は一旦、飫肥城を回復する。

◆ 永禄十一年(1568)伊東氏は二万の大軍で飫肥城を攻撃、ついに忠親は都城へ逃れ、伊東氏が飫肥城を領有した。伊東義祐は次男・祐兵(すけたけ)を飫肥城へ入れた。

◆ 天正五年(1577)、伊東氏没落。伊東義祐は、祐兵らを伴い大友氏を頼って豊後へ落ちた。

◆ 天正十五年(1587)豊臣秀吉、九州征伐。伊東祐兵は案内役をつとめ、その功績によって飫肥城を与えられ大名となった。豊後落ちから十年ののちであった。


以上



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