首里城、中山城、御城
---- しゅりじょう ----
別名:中山城 ちゅうざんぐすく・御城 うぐすく

平成18年9月9日作成
平成18年9月9日更新

琉球王の居城

首里城の正殿(復元)
復元された正殿

データ
首里城概要
首里城へGO!(登城記)
首里城戦歴


 

■データ

名称 首里城
しゅりじょう
別名 中山グスク、御城
ちゅうざんぐすく、うぐすく
築城 不明。
破却 昭和二十年(1945)、沖縄戦の砲撃により破壊された。
分類 平山城(標高100m)
現存 石垣の一部
場所 沖縄県那覇市首里当蔵町(旧琉球国)
アクセス 那覇空港から国道332号線を右折して那覇市街方面を目指す。約3Km先で国道332号線は国道331号線に変わるが、ここで直進すれば「名護・那覇市内」、右手前にカーブすれば「糸満・豊見城」へ行くわけだが、ここはまっすぐだ。さらに500m先の「山下」交差点で右折しよう。まっすぐでも行けるはずなのだが、タクシーに乗るとなぜか右を選択するので、ひょっとするとまっすぐは渋滞が多いのだろうか。右折すると左は奥武山公園(おうのやまこうえん)、右にはスーパーホテル那覇がある。約600m先の「山下(南)」交差点はモノレールの高架があるので分かりやすい。ここを左折し、モノレールの下を走ろう。ちょうど奥武山公園に沿って進むのだ。
那覇大橋を渡り、そのまま直進、国道330号線に合流するので、まっすぐ行こう。モノレール「安里」駅を過ぎたら右折だ。標識が出ているので迷うことはないだろう。あとは道なりにまっすぐ行けば首里城だ。
大きな駐車場があるので迷わず停めよう。もちろん有料だ。結構、渋滞するので時間に余裕をもって行こう。




■首里城概要

首里城(しゅりじょう)は沖縄の中心のお城、つまり琉球の首都だ。
琉球の中世は、沖縄本島の北部、中部、南部の3勢力が争う戦国時代で、それぞれ北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)と呼ばれた。三山時代(さんざんじだい)だ。

北山の中心は今帰仁城(なきじんぐすく)、南山の中心は島尻大里城(しまじりおおざとぐすく)であった。中山の中心は、もともと浦添城(うらそえぐすく)であって、首里城はその支城であったと考えられている。

南部から身を起こした尚巴志(しょうはし)が島尻大里グスクを攻め、それを味方にして浦添グスクの中山王を攻め滅ぼした。(名嘉正八郎氏 「グスク探訪ガイド」)
「首里城 甦る琉球王国」によれば、思紹(ししょう)、尚巴志(しょうはし)父子が中山王・武寧(ぶねい)を滅ぼし王位を奪ったのは、1406年のことだそうだ。その直後、居城を浦添グスクから首里城へ移したものと推測されている。尚巴志は首里城を大改修し、北方へ備えた。首里城の北側の城壁が三重になっているのは、このためだそうだ。

尚巴志は、1416年、大軍を率いて北山の今帰仁グスクを攻め滅ぼし、さらに1429年、南山の島尻大里グスクを攻め滅ぼして、三山を統一した。首里城は琉球王の居城となったのだ。
その後、明(みん)から「尚」姓を賜った(小学館「城郭と城下町10」)ので、正確にはそれ以前は尚氏ではない。琉球王国は、明をはじめ日本、朝鮮、シャム、マラッカなどと盛んに交易をおこなった。

1470年、首里城で対外交易長官であった金丸(かなまる)がクーデターを起こす。(山川出版社 「鹿児島県の歴史」)
金丸は同年即位して、尚円(しょうえん)と名乗った。明との付き合いを考慮し、易姓革命(えきせいかくめい)を隠したものという。したがって、クーデター以前を第一尚氏王朝、それ以後を第二尚氏王朝と呼ぶ。
第二尚氏王朝第三代の尚真(しょうしん)王は、国の制度など基盤を整備し、琉球の絶頂期をつくった。その版図は奄美(あまみ)から八重山(やえやま)までにわたる広大なものであった。

1609年(慶長十四年)、徳川家康の許可を得た薩摩の島津家久(しまづいえひさ)は、樺山久高(かばやまひさたか)を総大将にして兵3000を琉球へ攻め込ませた。圧倒的武力の前に、抵抗らしい抵抗もなく尚寧(しょうねい)王は降伏した。琉球王国は存続したが貿易は薩摩藩の管理下におかれ、与論島(よろんとう)以北の奄美諸島は島津氏へ割譲された。だから今でも与論島までが鹿児島県なのだ。
琉球は独立した王国であったが、明と薩摩藩の両方に属することとなった。

1879年(明治十二年)、明治政府は首里城の明け渡しを要求、国王・尚泰(しょうたい)は城を出たので、ここに琉球王国は滅んだ。代わって沖縄県が置かれ、首里城は熊本鎮台沖縄分遣隊の営所となった。

のち首里城の地下に第三十二軍司令部が置かれたため、1945年(昭和二十年)の沖縄戦で米軍の徹底的な砲撃を受け、国宝であった首里城正殿をはじめ、ことごとく破壊された。




■首里城へGO!(登城記)
平成15年(2003)3月29日(土)

沖縄在住の方の車で首里城へ連れて行ってもらった。

途中、金城町(きんじょうちょう)の石畳の坂を見学する。これは琉球王朝時代(江戸時代)のものだそうだ。
坂の途中にはNHK連続ドラマ「ちゅらさん」の家とされた場所がある。もっとも、ちゅらさん家は画像合成で、その家自体はここには存在しないんだそうだ。へぇ。
金城町石畳道

首里城へ着いた。とにかく暑い。3月とは思えない、やっぱり沖縄なんだな。
有名な守礼門(しゅれいもん)をくぐり、歓会門(かんかいもん)へ向かう。まるで万里の長城のような石垣が続いている。
うむ、本土の城とはまるで趣が異なる。とくに石垣の曲線は今まで見たことがない。
守礼門 歓会門

首里城は門をはじめほとんどが復元建築物だ。それだけに建物も石垣もきれいだ。
瑞泉門(ずいせんもん)へとのぼり、日影台(ひかげだい)広場へはいると、建物の屋根が重なり印象的だ。
瑞泉門 手前は広福門、奥は北殿

正殿へ行く。床が赤と白のシマシマの石畳だ。これは当時もこんな感じだったんだろうか。
正殿は人がいっぱいだ

正殿に入ると、なんと床下に当時の石垣が保存されていた。
これは何なんだろうか?建物の基礎部分なのかな?
正殿地下の当時の石垣を上から撮る

正殿2階中央には王の御座所、御差床(うさすか)がある。「中山世土」の額も、椅子も、何もかもがきらびやかだ。
国王の玉座

正殿を出ると右掖門(うえきもん)そばに当時の石垣が残っていると看板があった。
よし!と張り切って、行く。
門を出て左に、あった!明らかに様子の違う石が積まれている。米軍の砲爆撃に耐えた石垣だ。
団体客を案内するガイドさんの説明を盗み聞きすると、当時のものはこの一角の石垣だけだそうだ。ふむふむ勉強になるな。
右掖門 右掖門よこの当時の石垣

ひとしきりうろついて、最後は琉球舞踊まで見学して中身の濃い時間を過ごした一日だった。
おまけ、、琉球舞踊



■首里城戦歴

◆慶長十四年(1609)、島津勢の琉球侵攻。鉄砲など重装備の島津軍のまえに琉球王・尚寧は降伏、首里城を占領される。翌年、島津家久は尚寧王を伴い、家康に拝謁。(山川出版社 「鹿児島県の歴史」)

◆昭和二十年(1945)、沖縄戦。日本軍の第三十二軍司令部は首里城の地下、深さ30m、奥行き1400mの洞窟に置かれた。四月一日、米第十軍は嘉手納海岸から上陸、日本軍は水際作戦を放棄し戦略持久戦を指向した。司令部のある首里前面に第62師団を展開、米軍を一ヶ月近く足止めした。しかし米軍の圧倒的兵力に押され損害は大きく、第三十二軍司令官牛島中将は南部に配備していた第二十四師団、第四十四旅団全軍を北上させ首里城防衛に当たらせた。五月四日、日本軍は攻勢をかけたものの米軍の猛烈な火力のまえにわずか二日で断念。再び戦略持久戦に戻り、さらに三週間、米軍を阻止したが、その間米軍は徹底的な砲爆撃を首里城に加え、建物も石垣もことごとく破壊された。第三十二軍はさらなる抵抗を続けるために、五月二十七日、首里城を脱出、南部・島尻地区の摩文仁(まぶに)に移り戦線を縮小した。さらに約一ヶ月抵抗し、六月二十三日未明、第三十二軍司令官・牛島満中将、長勇参謀長は自決、沖縄戦は終結した。(伊藤正徳 「帝国陸軍の最後4特攻篇」)


以上



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