さじきばらやかた
---- さじきばらやかた ----
別名:(なし)

平成19年8月25日作成
平成19年8月25日更新

対馬藩・十万石の居城

桟原館の石垣と築地塀(石垣は一段下がって奥へ続いている)
桟原館の石垣(上のフェンスの奥に築地塀が建っている)

データ
桟原館概要
桟原館へGO!(登城記)
桟原館戦歴


 

■データ

名称 桟原館
さじきばらやかた
別名 とくにないようだ
築城 対馬藩主・宗義真により万治三年(1660)から築城、延宝六年(1678)落成。
破却 明治六年(1873)の廃城令でも廃城とならず、国有化され、終戦。今は自衛隊駐屯地。
分類 平山城
現存 石垣。
場所 長崎県対馬市厳原町桟原(旧対馬國下県郡)
アクセス 厳原港からまっすぐ北上しよう。国道382号線を北へ行き、約2キロで右に税務署、左に藩校「日新館」の門がある。そこを通り過ぎてすぐ、右に入る道があるので右折しよう。「桟原館跡→」と看板が出ているので、分かりやすい。右折すると、すぐ左に石垣があらわれる。桟原館の石垣だ。その上が桟原館の跡だ。しかし、現在は陸上自衛隊対馬守備隊の敷地になっているので、残念だが入れない。ウロウロするだけで、厳しい視線に晒されてしまうぞ。石垣のそばに、「朝鮮通信使幕府接遇の地」の標識が立っている。





■桟原館概要

対馬(つしま)は国境の島だ。「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」でも、朝鮮半島を出た船は最初に対馬に到着する。元寇(げんこう)では真っ先に攻められ、住民が多数、虐殺されている。文禄・慶長の役では、前線基地として、清水山城(しみずやまじょう)が築かれた。

その対馬の藩主といえば宗(そう)氏だ。宗氏の出自については、平知盛(たいらのとももり)の孫・重尚(しげなお)が平家滅亡後の寛元四年(1246)に対馬に討ち入り、阿比留平太郎(あびるへいたろう)を滅ぼしたのが始まりだという伝説があるそうだ。おそらくは単なる伝説であろう。鎌倉時代、筑前の少弐氏が対馬守護で、かつ対馬全島の地頭職だったが、宗氏はその守護代かつ地頭代であった。それより前の宗氏は、阿比留(あびる)氏とならんで対馬の在庁官人だったという説が有力だそうだ。(山川出版社 「長崎県の歴史」)  在庁官人とは、遙任制(ようにんせい=国主が任地に赴かず代理人を派遣して治めること)における国府の役人のことだ。(外山幹夫氏 「中世の九州」)
なお、寛元四年(1246)の阿比留氏討伐については、外山幹夫氏は同書に取り上げていて、平知盛子孫とは記さないが少弐氏守護補任に伴って宗氏が対馬へ攻め入ったとしている。(外山幹夫氏 「中世の九州」)  「長崎県の歴史」のほうは、これとは別説をとり、宗氏は本姓が惟宗(これむね)氏で、もともと対馬の出身ではないか、としている。

ところで、元寇に先立ってフビライは使者を日本へ送っているが、その際の日本の窓口は対馬だった。文永四年(1267)使者・藩阜(はんぷ)は対馬へ到来、守護代・宗助国(そうすけくに=資国とも)に取り次がせて大宰府(だざいふ)へ渡っている。また、文永六年(1269)国書に対する返答を求める蒙古の使者は対馬島民2人を拉致している。
そして、文永十一年(1274)十月五日、蒙古・高麗の連合軍二万八千が対馬・佐須小茂田浜に上陸、守護代・宗助国は迎撃したが圧倒的兵力の前に戦死、蒙古軍は対馬および壱岐において「暴虐の限り」を尽くした。(外山幹夫氏 「中世の九州」)
「暴虐の限り」というのは、こういうことだ。蒙古・高麗軍は島民に対して、男は殺すか捕虜とするのは当然としても、女たちは一箇所に集め、手のひらに穴を開けて、そこに紐を通して数珠つなぎにして、船べりにくくりつけて連れ去った。(学研 「歴史群像シリーズ64北条時宗」)
連れ去られたあとの女たち(当然、非戦闘員だ!)の運命は推して知るべしだ。現在、中国・韓国には、何かにつけ、「正しい歴史認識をしろ」と、日本人に迫る人々がいるが、そういう人たちに、この件に関する「正しい認識」を聞いてみたいものだ。

さて、元寇がかろうじて日本軍の勝利に終わると、国内ではいよいよ戦乱の時代へと推移していく。対馬では宗(そう)氏が阿比留(あびる)氏を追い落とし、島主権を確立していく。南北朝時代には宗澄茂が対馬守護となった。(学研 「歴史群像シリーズ64北条時宗」)
島主になったといっても、かつての主君・少弐氏との縁は長く続いている。永享五年(1433)、少弐満貞(しょうにみつさだ)は大内軍に攻められて自害したが、子の初法師丸(はつほうしまる)と松法師丸(まつほうしまる)は宗貞盛(そうさだもり)を頼って対馬へ逃れた。のちに宗氏の援助で一時的にせよ、筑前を回復している。(吉永正春氏 「筑前戦国争乱」)
しかし、少弐氏の衰退に伴って宗氏は自主独立の道を進むようになったようだ。室町時代後半、惟宗姓から平姓へ改姓している。(山川出版社 「長崎県の歴史」)

豊臣秀吉の時代、天正十五年(1587)宗義調(そうよししげ)は秀吉に拝謁、本領を安堵された。朝鮮出兵においては、宗義智(そうよしとし)宇土城主・小西行長(こにしゆきなが)とともに朝鮮・明との交渉にあたった。その後、徳川家康に朝鮮との講和を命ぜられ、慶長十四年(1609)の慶長条約の締結に尽力したことで賞された。(新人物往来社 「戦国人名事典」)
この条約によって、徳川将軍の代替りを賀す朝鮮からの使者、「朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)」が送られるようになるが、宗氏はその護衛責任者となった。(中嶋繁雄氏 「大名の日本地図」)

そこでいよいよ桟原館(さじきばらやかた)の登場だ。
桟原館は、対馬藩主・宗義真(そうよしざね)が万治三年(1660)から十八年かけて築城したもので、居城・金石城(きんせきじょう)とは別に築いた。その理由は、朝鮮通信使を迎えるのに、金石城では港から近すぎて行列の威儀が整わないため、であった。したがって、桟原館築城にあたっては、港から館までまっすぐな大通りをとおし、川の改修や架橋など大掛かりな工事になった。港から館まで大きな道路がまっすぐ通っているというのは、この平和利用が目的の桟原館ならではの特徴だ。(永留久恵氏 「対馬府中(厳原)城下町絵図」)
通信使は、この館で日本に上陸し、そして江戸へと向かうのであった。
念のために言い添えると、対馬は一国一城令の例外だったということになる。

明治維新に際しても、桟原館は廃城とならず、陸軍用地となった。国境の城ならではの措置だろう。
明治十一年(1878)、桟原館には熊本鎮台対馬分遣隊が置かれ、以後ずっと陸軍用地として使用された。現在は、陸上自衛隊対馬守備隊の敷地となっている。

なお、ものの本には、桟原館の大手門が現存している、と写真が載っているが、拙者には見つけられなかった。「幕府接遇の地」石碑ヨコから石垣が北へ折れるあたりにあったように思えるのだが、取り壊されたのだろうか。。



三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■桟原館へGO!(登城記)
平成19年(2007)6月26日(火)

今日は対馬へやってきた。正直言って、初めて対馬へやってきたのだ。
対馬の幹線道路、国道382号線を走る。厳原町の桟原で、「桟原館跡」の看板を発見!
行くしかない。
港から来れば、ここを右折するのだ

看板に応じて国道から東へ入ると、すぐに左に石垣を発見。高さは5mくらいだろうか、ずいぶんと大きな方形の石が積まれている。
これが桟原館の石垣だろうか。
桟原館の石垣、、端は曲線形

よく見ると、石垣の上には土塀が乗っている。やはり、これが桟原館の痕跡なんじゃないかな。残念ながらフェンスがあって近寄れない。
石垣の上には瓦の乗った土塀があった

坂道を登っていくと、左へカーブしている所に、「文化八(1811)年度朝鮮通信使幕府接遇の地」の碑が立っている。
うん、間違いない。この石垣が桟原館跡だな。と、思い石垣の尽きるところを見ると、自衛隊駐屯地の看板と守衛が立っていてこっちを見ている。
う、不審者と思われているかもしれんな。
「幕府接遇の地」の碑

しかし、コソコソしてると余計に怪しまれて撃たれそうなので、堂々と行こう。
石垣以外に何かないだろうか。ものの本には大手門が残っているとあったが、どこだろう。

と、さらに奥へ進んでいくと団地になった。
あれ?と思い、ずんずん進むと、グラウンドに出た。トレーニングしている人たちが拙者をジロジロ見ている。
やな雰囲気だな、と思っていると、そのうちの一人が声をかけてきた。桟原館跡に行きたい、というと、それ何ですか?という。
あれ?知らないのかな?
国道に案内板が出ていた、と言っても怪訝な表情だ。それだけでなく、ここは自衛隊のグラウンドだから立入禁止ですよ、という。
もちろん素直に謝ったが、タダで帰っては勿体無い、とケチな根性が働き、駐屯地が城跡でしょうか、と尋ねると、
そうかもしれないが撮影禁止ですよ、と釘を刺された。
どうやら、何かにつけパチパチ撮っていたのを知っているらしい。
これ以上粘ると撃たれそうなので(そんな訳ないか)、そこを立ち去ることにした。

駐屯地の門まで戻ると、相変わらず守衛が立っている。どうしても写真は撮れなさそうだ。
ガックリしていると、通りがかった下校途中の小学生の女の子が、「コンニチハ!」と元気よく挨拶してきた。感心な子だな、と思い、こっちも負けじと元気よくコンニチハと返した。

国道へ戻り、藩校・日新館の門をバチバチ撮影していると、次から次に、小学生、中学生がコンニチハ!と挨拶してくる。
何と気持ちの良い子供たちだろう!!
これまでも九州学院高校野球部や柳川高校テニス部、野球部と、見知らぬ拙者に元気よく挨拶してくれる若者がいて、さすが名門校は違うな、と感心していたが、ここ対馬では運動部でない普通の子供たちが挨拶してくる。皆、素直な眼をしている。
藩校・日新館の門

対馬にはしっかりとした躾をしてくれる親と先生がいらっしゃるのだな。。(このことを拙者は全国に向けて強く宣伝したい)

子供たちのおかげで、実にすがすがしい気持ちで対馬を後にした。




■桟原館戦歴
  ※桟原館には、とくに戦歴というほどのものは無いようだ。平和の城だから、当然かもしれない。

以上



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