岡城、臥牛城
---- おかじょう ----
別名:臥牛城 がぎゅうじょう

平成21年9月23日作成
平成21年9月23日更新

志賀氏居城、のち豊後岡中川藩七万石の居城

岡城三の丸の石垣
鐘櫓から三の丸石垣をのぞむ

データ
岡城概要
岡城へGO!(登山記)
岡城戦歴


 

■データ

名称 岡城
おかじょう
別名 臥牛城
がぎゅうじょう
築城 文治元年(1185)、緒方惟栄が築いたという。(日本城郭体系16)
破却 明治四年(1871)、廃藩置県に伴い廃城となった。(日本城郭体系16)
分類 山城(標高325m、比高100m)
現存 石垣。
場所 大分県竹田市竹田(旧豊後國直入郡)
アクセス 岡城は、とにかく豊後竹田市へ行こう。行けばわかるさ。

地図を見ると、JR大分駅から国道210号線、7キロくらい先から国道442号線に入れば、最短距離で豊後竹田市に入るようだ。ただ、拙者はこのルートは行ったことがないので、どういう道か、分からない。

他には、JR大分駅から国道10号線をくだり、戸次川古戦場を横目に見ながら通り過ぎ、犬飼町で国道57号線に入っていくのが無難かもしれない。

福岡方面から行く人なら、高速道路大分道の「九重」インターでおりて竹田市を目指すのが良いだろう。

さて、いずれかのルートで竹田市に入った君は、もう分かっているはずだ。竹田市内のあちこちに、「岡城跡」の看板が出ていて、全然迷わずに駐車場まで導いてくれる。ただ、竹田市内の道は狭いので安全運転で行こう。

駐車場からは勿論、歩いていくのだ。結構、奥深いぞ。






■岡城概要

♪春こおろおの、花のえんんん、、、たぶん日本中の子供たちが学校で習っているだろう、滝廉太郎(たきれんたろう)の「荒城の月」だ。この歌が世代を越えて伝えられているのは、その音律、歌詞、雰囲気が日本人の感情を揺さぶるからなのだろう。琴線に触れる、というべきか。
この「荒城」、つまり放置され荒れ果てたお城こそ、豊後竹田市の岡城と云われている。滝廉太郎は竹田の出身だ。

岡城を築いたのは、緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし・惟能とも)という。惟栄は源平合戦のとき、平家の牙城だった九州において、源氏方についた。平家が壇ノ浦で滅亡したのち、源義経は兄・源頼朝と不仲となり、大持浦(だいもつのうら=現尼崎)から出航し九州を目指したのだが、この義経を迎えるために惟栄が築いたのが岡城だという。(竹田市教育委員会 「岡城の歴史」)
文治元年(1185)十一月六日、源義経と源行家は摂津国大物浜(だいもつのうら)から船出し、九州を目指した。これより前の十一月二日に後白河法皇は義経に「九国地頭」、行家に「四国地頭」の職権が与えられていた。しかし、折からの暴風雨で船は転覆してしまう。(上杉和彦氏 「源平の争乱」)

義経の岡城入りは実現されず、義経は大和の山中へと分け入るのだ。それにしても、義経・行家が西国での体制挽回を図ったその発想が、義経が自らその直前に滅ぼした平家の発想と同じであることは皮肉としか言いようがない、と感じる。

なお、緒方惟栄について、竹田市教育委員会設置の現地案内板によると、大物浦を出航するところを捕らえられ、翌年、上野国沼田荘(こうずけのくにぬまたのしょう)へ流された、としている。(現地案内板、竹田市教育委員会 「岡城の歴史」) しかし、日本城郭体系16の「緒方館」の項によれば、惟栄が沼田荘に流されたのは、元暦元年(1184=寿永三年)源平争乱にあたって惟栄が平家方の宇佐神宮を焼き討ちしたためであり、翌文治元年(1185=寿永四年)に平家追討の功で許され、後白河院から義経の護衛および先導を命じられたが義経は遭難、惟栄は生還したようだがその後の消息は不明、としている。(新人物往来社 「日本城郭体系16」)

これに関連して、江平望氏によれば、義経の大物浦出航に際して「豊後武士」が案内者として同行しようとしたことについて、これが緒方一族であったと平家物語は語るが、緒方一族ということは史実としては否定されている、と説く。緒方一族ではなく、当時たまたま恩賞を求めて京に滞在していた豊後国人がいたのだという。また、義経が豊後で起死回生を図ったのは、親しい関係にあった豊後国司・藤原頼経(ふじわらのよりつね)を頼ってのことという。義経遭難の後、頼朝は当然激怒し後白河法皇に対して人事の刷新を求め、藤原頼経は官を解かれて安房国へ流された。では、義経を援助しようとした「豊後武士」というのは誰か?江平氏はズバリ、源為朝(みなもとのためとも)の子、豊後冠者源義実(ぶんごのかじゃみなもとのよしざね)とみている。(江平望氏 「拾遺 島津忠久とその周辺」)

こうして見てくると、緒方惟栄が義経を迎えるために岡城を築いたという伝承はかなり怪しいと思われるのだが、そういう話が伝えられていることは事実であるので、ここは現地案内板に敬意を表し、惟栄が岡城を築いたものとして話を進めよう。

義経の逃亡劇以降、その後しばらくの岡城については、よく分からない。放置されていたのではないだろうか。

元徳三年(元弘元年=1331)、大友氏の一族・志賀貞朝(しがさだとも)は岡城を修築・拡張し、志賀城から岡城へ移ったといわれる。(新人物往来社 「日本城郭体系16」) これについて別説で、志賀氏が直入郡へ進出したのは応安二年(1369)よりのちのことであり、また進出先は木牟礼城(きむれじょう)であって、のちに岡城へ移ったものという。(現地案内板)
志賀氏の入城については諸説あるようだが、それはともかくとして、これ以降戦国時代の終わりまで、二百年以上の間、岡城は志賀氏の居城であった。(現地案内板)
当時は現在の下原門(しもばるもん)が大手であり、そこから下った十川が城下町だったという。(現地案内板、新人物往来社 「日本城郭体系16」)

時代は一気にくだって天正十四年(1586)島津義久は豊後攻略を本格化した。まず七月、島津忠長(しまづただなが)・伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を将とする二万の軍勢で筑紫広門(ちくしひろかど)をくだし、そのまま岩屋城の高橋紹運(たかはしじょううん)を玉砕させた。さらに十月、島津義弘が三万の軍勢で肥後の阿蘇郡から、島津家久は一万の軍勢で日向の梓峠越えで、比志島義基は船団を率いて海路を、それぞれ豊後へ向けて進攻した。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
その島津義弘の進攻線上にあったのが岡城だ。島津軍が豊後へ侵入すると、入田義実(にゅうたよしざね=宗和)・志賀道益は島津へ寝返り、入田宗和(義実)は島津勢を小松尾城に向かえ、島津義弘は竹田の高源寺に入った。入田宗和は、「大友二階崩れの変」で首謀者として大友宗麟に誅された入田親真の子である。宗和にとっては親の仇をとる絶好の機会と考えたのだろう。義弘は早速、稲富新助を将として大野郡、直入郡の大友方諸城を攻略する。高城・烏岳城を攻め落とし、津賀牟礼城(つがむれじょう)の戸次統貞を降伏させると岡城へ攻め寄せ、入田宗和らを使者として岡城主・志賀親次(しがちかよし、ちかつぐ=親善とも)へ降伏を勧告した。しかし、親次はこれを一笑に付して拒否。島津勢は十二月二日から四日間連続で岡城を攻めた。守りの堅い岡城方は渡河してくる島津勢を鉄砲などで迎撃したので、島津方は多くの損害を出して兵を退いた。島津方はやむを得ず、稲富新助に兵五千を授けて岡城を押さえ、残りの兵で山の城(やまのしろ=逆竹城)、南山城(なんざんじょう)へ向かい、これを陥とした。稲富新助はその間に岡城を攻め落として手柄をたてようと考え、十二月二十四日夜明けに千人の歩兵に鉄砲を持たせて渡河を図った。城兵はこれを察知し、右田中務が正面で反撃する間、志賀掃部が迂回して川を渡り敵の背後を襲ったので、稲富勢は敗走した。
島津勢主力は、南山城・三舟城・山の城を落としたうえで岡城へ戻り、天正十五年(1587)二月二十八日、矢文を放って決戦を申し込んだ。親次はこれに応じ、翌二月二十九日、上流の上角(うわずみ=魚住)に陣を構え、渡河してくる島津勢に総攻撃を開始した。志賀勢は少数ながら地形を利用して戦い、島津勢を追い落とすことができた。このあと、秀吉軍が迫ってきたため島津勢は撤退、親次は島津方となった周辺の城、小松尾城・津賀牟礼城などを次々と攻め、回復したので、秀吉から感状を賜ったという。(新人物往来社 「日本城郭体系16」)
この戦いで、岡城は難攻不落の城といわれるようになったという。

島津勢を撃退した志賀親次は、キリシタンでもあった。教名、ドン・パウロ。若い頃からキリスト教に興味をもち、家督を継いで岡城主になってから受洗した。国主・大友義統がキリスト教ぎらいであったため、親次はある夜ひそかに教会へ行き洗礼を受けた。司祭ペドゥロ・ゴメスは敬意をこめてドン・パウロの名を与えたという。家臣たちも親次にならい、洗礼を受けた者は三千人に及んだそうだ。城下には八千人の信者がいたという。天正十七年(1589)大友吉統(義統)の子・義乗が関白秀吉に伺候したとき、志賀親次も随行したが、秀吉は義乗や田原親賢を後に回して親次を呼び寄せ、豊後の防衛戦(対島津戦)でのドン・パウロの精励と労苦を賞讃して他の者たちには一瞥だにくれなかった、という。(川崎桃太 「フロイスの見た戦国日本」、新人物往来社 「日本城郭体系16」)

天正二十年(1592=文禄元年)、秀吉は諸将に対して三月朔日から順次朝鮮へ渡海するよう出陣命令を出した。大友吉統(義統は天正十六年(1588)に秀吉より偏諱を与えられ吉統と名を改めている)は六千の兵を率い、第三軍として黒田長政軍五千とともに朝鮮へ渡った。(芥川龍男氏 「豊後大友一族」)
この朝鮮出兵に志賀親次も参陣している。
大友勢の釜山到着は同年四月十七日。その後、金海(キメ)府城を攻略し、昌原(チャンウオン)、漆原(チルウオン)、霊山(ヨンサン)、昌寧(チャンニヨン)、玄風(ヒヨンプン)、星州(ソンジュ)と進軍していく。小西行長・加藤清正の西を並行するように北へと兵を進めた。日本勢は六月十六日、平壌(ピョンヤン)を占領したが、大友吉統(義統)もこの中にいたようだ。その後、黒田長政・大友吉統は南下し、黒田は海州(ヘジュ)を占領、大友吉統は鳳山(ボンサン)へ、平壌は小西行長が守った。この頃から朝鮮民衆の蜂起も増し、また明の祖承訓(そしょうくん)に率いられた軍勢が平壌を急襲した。これは小西行長が撃退したが、行長が明との講和を探るなか、年を越えた文禄二年(1593)一月五日、明の軍務提督李如松(りじょしょう)が率いる四万以上の大軍が平壌を包囲した。(中野等氏 「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」)
大軍を迎え苦戦する小西行長は後背の大友吉統・黒田長政・小早川秀包らに援軍を要請したが、黒田・小早川は兵力が少ないことを理由にこれを断った。大友吉統も確証はないが、断ったようだ。少なくとも救援に赴いていない。それどころか、平壌を放棄した小西行長が鳳山(ボンサン)まで後退してくると、そこにいるはずの大友吉統はすでに撤退していた。この吉統の戦場離脱については、大友勢の出城にいた志賀親善(親次)が行長の敗退を聞いて鳳山へ逃げ込み、行長は戦死したにちがいないので撤退するよう吉統へ進言したため、という。吉弘統幸らは撤退に反対したが、親善(親次)は強く主張したので大友勢は無統制な状態に陥り、白川(ペクチョン)の黒田長政のもとへと逃げ込んだといわれている。この事件がきっかけとなり、同年五月一日、秀吉から「大友勘当の朱印状」が出され、大友吉統は領地を召し上げられて毛利輝元に身柄を預けられた。大友氏の将兵は生駒・蜂須賀・黒田・福島など諸将に配属された。(芥川龍男氏 「豊後大友一族」)
大友吉統が勘当された五月一日は、吉統のほかにも島津一門である島津忠辰(しまづただとき)と肥前岸嶽城主の波多親(はたちかし=信時)が「臆病」を理由に改易されている。ただし、島津忠辰・波多親の場合は、ややこじつけの感もある。(中野等氏 「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」)
さて、大友勢敵前逃亡のきっかけを作ったとされる志賀親善(親次)についてだが、その後どうなったのか不明である。ただ、岡城を去ったことは確実であり、ここに二百六十年続いた岡城の志賀氏の時代は終わった。(新人物往来社 「日本城郭体系16」)
志賀親善が朝鮮で早期撤退を主張したことは、かつて島津の大軍を岡城に迎えて一歩も退かなかった硬骨の姿とずいぶん相違しているように思える。明の援軍が想像以上の大軍だったためか、あるいは島津戦のときは難攻不落の岡城にいたためか、または単にホームとアウェイの差か、判然としない。

ともかく、こうして志賀氏は岡城を去った。
大友義統除国後の豊後は、秀吉の直轄地、太閤蔵入地となり検地が行われた。その後、文禄二年(1593)の年末から翌年にかけて豊後は分割され、新たな大名・代官が置かれることとなる。大分郡に早川長敏、海部郡に福原直高、国東郡に竹中重利、玖珠郡に毛利高政、そして直入郡には中川秀成(なかがわひでしげ)が配された。(山川出版社 「大分県の歴史」)

こうして中川秀成が岡城へ入ることになる。秀成の父は、山崎の合戦で活躍した中川清秀(なかがわきよひで)だ。
話は遡って天正十年(1582)六月二日未明、織田信長は家臣・明智光秀によって討たれた(本能寺の変)。そのとき、秀吉は備中高松城を水攻めにしており、信長の死を知った秀吉は、急ぎ毛利方と講和を結び、高松城主・清水宗治(しみずむねはる)の切腹を見届けると、一気に京へ向かって引き上げた(中国大返し(ちゅうごくおおがえし))。六月十一日、摂津尼ヶ崎(あまがさき)へ到着した秀吉は、大阪にいた織田信孝(おだのぶたか)・丹羽長秀(にわながひで)や有岡城の池田恒興(いけだつねおき)らに参陣を求めた。(小和田哲男氏 「戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争」)
このころ、中川清秀は摂津茨木城(いばらきじょう)主で、光秀の与力であったが、秀吉は清秀に対し信長・信忠父子は無事であると嘘の情報を流し、自軍へ誘っている。結局、謀反人光秀に協力する武将は少なく、中川清秀や高山右近(たかやまうこん・高槻城主)らは秀吉に与した。(新人物往来社 「戦国人名事典」)
六月十二日、秀吉は富田(とんだ=現高槻市富田町)に軍を進め、池田恒興・中川清秀・高山右近らと軍議をひらき、高山右近が先陣、中川清秀が第二陣と決まったので、高山右近は山崎(やまざき)へ進み、中川清秀は天王山(てんのうざん)を占領した。その翌日、六月十三日豊臣秀吉と明智光秀は合戦に及んだ。山崎の戦いだ。この戦は周知のとおり秀吉の勝利となるのだが、先に天王山を占領したことが戦いを決することになったといわれ、今でも雌雄を決するような肝心な場面を天王山と呼ぶ。(小和田哲男氏 「戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争」)
新幹線に乗って新大阪から京都へ向かうと、左手にいつも渋滞している高速道路(名神高速)のトンネルが見えたものだが、このトンネルが天王山トンネルだ。今は車線が増えたので渋滞も緩和されているのではないだろうか。ちなみに車線(トンネル)が増えた当時、拙者は大阪に住んでいて時おり高速で京都を探索していたので、便利になったなあ、と感じたものだ。
さて、山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉は、その直後六月二十七日の清洲会議(きよすかいぎ)で信長の実質的な後継者候補、しかも最有力候補となった。次なる相手は越前の柴田勝家(しばたかついえ)だ。年が明けた天正十一年(1583)、両軍は北近江で対陣する。余呉湖周辺の山々に両軍とも砦を築き、秀吉方は賤ヶ岳(しずがたけ)に桑山重晴(くわやましげはる)、大岩山に中川清秀、岩崎山に高山右近、左禰山(さねやま)に堀秀政、田上山(たがみやま)に豊臣秀長がそれぞれ陣を布いた。ところが、岐阜城主・織田信孝が秀吉と戦う姿勢を示したため、秀吉本隊は北近江から岐阜へと転進した。その隙を狙って、柴田方の佐久間盛政(さくまもりまさ)が秀吉方陣地へ攻撃を仕掛ける。四月二十日、盛政は余呉湖を大きく西から迂回して、大岩山の中川清秀陣を攻撃した。中川清秀は防戦に努めたが、最後まで戦い自刃した。秀吉はこの報を受け、美濃から急ぎ北近江へ戻った。「大返し」の小型版だ。なんとその日のうちに戻ってきた秀吉は、深夜佐久間盛政隊を攻撃し、これを追い落とした。また、柴田勝家の与力として参陣していた前田利家が戦線を離脱したため勝家方は腰が砕け、秀吉方は勢いを得て、この戦いは秀吉の完勝に終わった(賤ヶ岳の戦い)。秀吉はその勢いのまま、柴田勝家を北ノ庄城(きたのしょうじょう)に攻め滅ぼすことになる。(小和田哲男氏 「戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争」)

こうして秀吉は信長の後継者へと駒を進めていくわけであるが、賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀の遺領については、その子・秀政(ひでまさ)に安堵され、秀政は茨木城主、のち天正十三年(1585)閏八月、播磨三木城へ移封された。中川秀政は中川秀成の兄にあたる。(新人物往来社 「戦国人名事典」)
中川秀政は、文禄元年(1592)の文禄の役で朝鮮へ出征した。同年五月発令の「御とまり所御普請衆」に名前があるので、秀政の役割は御とまり所、すなわち秀吉が渡海した場合の宿所を作ることだったようだ。(中野等氏 「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」)
ところが、秀政は朝鮮で戦死してしまう。原因は不十分な警備で不意打ちにあったといわれる。このことはケシカランことであるのだが、父・中川清秀の功績に免じて、その遺領は弟の秀成が継ぐことになったという。(山川出版社 「大分県の歴史」)
こうして、中川秀成は三木城主となったのであるが、このときはすでに朝鮮に渡海していたらしい。文禄二年(1593)日本勢の多くは朝鮮から帰国した。中川秀成も最終の四番組として、同年閏九月頃には帰国したようだ。(中野等氏 「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」)
帰国した中川秀成は、同年十一月十九日に秀吉から朱印状を与えられ、豊後岡城への移封を命ぜられた。所領は豊後国直入郡、大野郡のうち六万六千石。年が明けた文禄三年(1594)二月十三日、中川秀成は岡城へ入った。岡へ入る直前には大友氏の浪人が抵抗したため、これを切り捨て強行しての岡入りであったという。(山川出版社 「大分県の歴史」)
このとき以来、明治に至るまで二百七十年余の間、岡城は中川氏の居城となる。(新人物往来社 「日本城郭体系16」)

中川秀成は慶長元年(1596)から岡城の増改築に着手したが、それは新たな築城といえるほど大がかりなものだったという。山を切り開いて本丸を築き、西方に新たに大手門をおいて、それまでの大手門を搦手口とした。今に残る大規模な高石垣はこのとき築かれたものだ。また、本丸には三層の天守があった。こうして岡城は全く新しく生まれ変わった。今に残る岡城はこの頃拡張されたものだ。(新人物往来社 「日本城郭体系16」)

慶長五年(1600)関ヶ原の戦い。岡城主・中川秀成がどこでどういう行動をとっていたか、よく分からない。同年四月に上京し、上杉景勝討伐に加わる旨を申し出るものの、西国が心配なので在国して居城にいるようにと指示され、帰国したという。(山川出版社 「大分県の歴史」)
九月の関ヶ原の戦いに際しては、上京し勢多橋を守備して、細川幽斎の田辺城攻撃に参加したという情報もあるが判然としない。これは中川秀成が徳川方への加勢として派遣した部隊のことかもしれない。(別冊歴史読本 「野望!武将たちの関ヶ原」、山川出版社 「大分県の歴史」)

それとは別の動きで、このころ周防国にいた大友吉統(義統)は、石田三成や毛利輝元に勧められて旧領回復の軍を起こし、豊後に上陸した。このとき、大友旧臣の田原紹忍(たわらしょうにん)・宗像掃部(むなかたかもん)は吉統のもとに参陣している。両名は、中川秀成の与力であった。おまけに、中川秀成は大友に協力している、と流言をほどこし、中川家の旗指物を偽造して大友の陣地に立てたので、大友軍と対峙した黒田如水(くろだじょすい)は、中川は大友家に一味なり、と報告している。このあと、大友勢と黒田勢は石垣原(いしがきばる=現別府市)で会戦、激戦の末黒田が勝利を収め、大友吉統は降伏した(石垣原の戦い)。
このことで中川秀成は窮地に陥ったため、西軍についていた臼杵城(うすきじょう)の太田一吉(おおたかずよし)を攻めることにした。太田一吉はもと丹羽長秀の家臣で、長秀の死後は秀吉に仕え美濃国に一万石を与えられていた。慶長二年(1597)福原直高が臼杵城から府内へ転封となると、そのあとに太田一吉が臼杵城主となった。中川勢の臼杵攻めには、石垣原の戦いで敗れたのち中川家に帰陣した田原紹忍も参加しており、紹忍は佐賀関(さがのせき)から臼杵を目指したが、太田軍との会戦となり田原紹忍をはじめ名だたる武将が戦死した(佐賀関合戦)。田原紹忍としては、死に場所を求めての戦だったのだろう。十月四日、籠城していた太田一吉はすでに関ヶ原で大勢が決しており、また佐賀関の戦いの勝利で面目がたったとして臼杵城を開城、伊予へ落ちた。中川秀成は太田一吉退去後の臼杵城番を命ぜられて、こちらも面目を施した。太田一吉は黒田如水のとりなしで所領を没収されただけで命は助けられている。こうして、中川家は関ヶ原を何とか生き抜き、岡藩主七万石の地位を保持することができたのであった。(山川出版社 「大分県の歴史」、新人物往来社 「戦国人名事典」、新人物往来社 「日本城郭体系16」、「府内城」現地案内板)

明治四年(1871)廃藩置県により藩主・中川は東京に移住し、岡城の建物は明治七年(1874)大分県による入札払い下げが実施され、すべて取り壊された。そして、少年時代を竹田で過ごした滝廉太郎が明治三十四年(1901)中学校唱歌「荒城の月」を作曲するのである。(竹田市教育委員会 「岡城の歴史」)





三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■岡城へGO!(登山記)
平成19年(2007)7月20日(金)

今日は家族で久住旅行。九重夢大吊橋は圧巻だ。
そして拙者の目的は豊後竹田の岡城だ。竹田市の狭い道を案内表示に従って行くと、苦もなく駐車場へ到着。
この駐車場は、かつての総役所跡だそうだ。そのはるか上に石垣が見えている。西の丸の石垣らしい。
駐車場のはるか上方に石垣

大手へ向かう途中の土産物屋さんは、かつて鉄砲方の詰め所があった場所だそうだ。
鉄砲方詰め所あとの土産屋さん

大手への坂道にさしかかるところに「岡城址」の立派な石碑がある。表の文字は伯爵・中川久順(なかがわひさとも)、最後の藩主・中川久昭(なかがわひさあき)の三代あとだ。
大手への上り口の石碑

大手への坂道はずいぶんと幅が広い。そして頭上を覆うような高石垣が続いていて素晴らしい。また坂道の端はかまぼこ型の石が積んである。これは岡城の特徴なのだろうか。
大手への道

大手門跡についた。立派な石垣が両側に組んである。柱を立てた礎石と門扉を開閉するための礎石(というのだろうか?)が残っている。
大手門の内側はもちろん枡形だ。
大手門を西の丸から見下ろす

また、すぐそばに古大手門跡というのがあった。ずいぶんと小さく、戦国時代のような感じがして拙者は好きだ。古大手門を出ると曲輪のようになっている。
古大手門跡

さて本丸へ向かおう。直線状の道が続いているが、その左手に朱印状倉跡というのがあった。石垣で方形に囲ってある。朱印状の保管庫だったのだろうか。
朱印状倉の石垣

その隣は家老屋敷跡で、これも石垣で囲ってある。
家老屋敷跡

その隣は城代屋敷跡となっていて、これも石垣で囲ってあったと想像されるが、崩れてしまっている。
道の右が城代屋敷跡、左は家老屋敷跡

その隣は籾倉跡だ。食糧備蓄庫だったのだろうか、かなり広い。
籾倉跡のふちは絶壁だ

その奥には、急崖に積み上げられた高石垣が見える。三の丸の石垣だ。夏なので草で覆われているのが少し残念だが、優美な感じを受ける。
ここで昼ごはんにすることにして、腹ごしらえのあとは、いよいよ本格的な探索だ。
籾倉跡からみる三の丸石垣

西中仕切というところをカクカクと進む。要するに、中仕切とは門のことだろう。
その上には鐘櫓があったそうだ。そこから眺める三の丸の石垣はことのほか素晴らしい。よく写真で見る風景はこれのことだろう。(このページの冒頭の写真)
西中仕切 西中仕切の鐘櫓

さらに進むと太鼓櫓があったという石垣がさえぎる。固い守りが想像される。
太鼓櫓の石垣の内側は複雑に石が組んであって、建物を建てるための構造というのは不思議でもあるし、誰が考えたのだろうか、と思ってしまう。
太鼓櫓 太鼓櫓の石垣の裏側

三の丸へ到着。とても広い。ここからは久住連山が見えるようだが、今日は曇っていて、さらに霞んでいてよく見えない。三の丸の一角には武具庫があったらしい。標識がたっている。
三の丸からの眺め 三の丸の一角に武具庫

三の丸から二の丸へ向かう。右側の立派な石垣は本丸の石垣で、素晴らしい。
二の丸から本丸への入口の石段と石垣

二の丸は三角形になっていて、一角に滝廉太郎の像があった。またここからは、先ほど見た三の丸の高石垣のほか、本丸の向こうの東中仕切あたりの石垣も見える。また、谷を隔てて西の丸の向こう側、たぶん覚左衛門屋敷のあたりだと思うが、遠くに石垣が見えて、すこぶる雄大だ。
二の丸 二の丸から本丸むこうの米倉方面をのぞむ

次に本丸へ行く。ずいぶんと広い。天満社が中央に鎮座し、荒城の月の石碑などあり、市民の憩いの場のようだ。
南の隅には三階櫓跡の石垣が残る。天守閣と呼んでいいと思う。その周辺には古瓦が散乱しているぞ。これが昔の天守のものだといいな。
三階櫓からの眺めは深い谷に面していて怖いくらいだ。今は白滝川ぞいに道路が走っているが、かつてこの向こうに島津勢が攻めてきたのだろうな。
本丸 本丸の一角に御三階櫓の石垣 御三階櫓跡には古瓦が多数散乱している 
本丸からの眺め

本丸の入口には御門櫓跡の礎石が残っている。また、東の端は金櫓という櫓があったらしい。城内の金を貯えていた場所だろうか。
本丸の入口、御門櫓の跡 本丸の隅、金倉の跡

さて、本丸の東へ行ってみよう。ここで妻と息子は引き返すという。「おう、そうか」と返すが、ここから一気にスピードアップだ。

一旦、三の丸まで戻り、三階櫓下の埋門から本丸の南の道、おそらく腰曲輪だろう、に出る。ここから見あげる三階櫓の石垣は、高い。
三の丸の埋御門   腰曲輪から見上げる御三階櫓

本丸の東へ回り込むと、東中仕切があった。西中仕切と対をなしている。その脇は、大きく窪んでいる。ちょうど道を狭めるように窪んでいるので、人工のものではないだろうか。
東中仕切、右の石垣は本丸の金倉跡 東中仕切の脇に大きなくぼみ有り

その隣は米倉跡だ。西中仕切の横に籾倉跡があったので、これも対をなしている。両方ともに兵糧を保管していた倉があったのだろう。まさか籾だけ保管することもあるまい。
米倉の跡

その対面には、低い石垣で囲まれた一角がある。古図では平櫓があったところだ。
東中仕切の東がわに低い石垣の一角あり

米倉跡の東側には清水門の跡があった。やや小ぶりの門だったようだ。そこから外へ出ると、猛烈な雑草で進めない。
清水門の跡

元にもどると、次は三楽亭跡という場所だ。かなり広いところで方形の石垣で囲ってある。三楽亭の名前の由来は何だろう。
三楽亭の跡

その隣は、荘嶽社跡だそうだ。やしろがあったらしい。
荘嶽社の跡

その隣は、御廟所跡。藩主のお墓があったのだろうか。竹田市教育委員会が作ったパンフレット(巻き物?)には志賀氏時代の御殿があったように書いてある。今は何もない空間で、桜が植えてあるので春には花見で賑わうのだろう。
御廟所の跡

御廟所跡の石垣が延々と続き、それが尽きるところに下原門の跡がある。搦手門だ。なかなか立派な石垣が組んである。現地案内板によれば、中川氏入城まではここが大手門だったそうだ。なるほど、と思う。
志賀氏時代の大手、下原門

さて、大きく戻って西の丸のほうへ行ってみよう。本丸を通り過ぎ、家老屋敷跡まで戻る。
その奥には武具方跡があった。武具の製造、あるいは手入れを行う工房だったのだろうか。ここから谷を隔てて西の丸のほうをみると、岡城の規模の大きさが感じられて、すこぶる良い。
武具方あたりから西の丸覚左衛門屋敷を望む

その奥は公衆トイレのある賄方跡だ。コックさんが住んでいたのだろうか。
賄方から武具方の石垣を見上げる

次は西の丸だ。西の丸の東門というのは、まるで江戸城のような広い階段があったのだな。
西の丸の東門

さらに階段を上がると、そこが西の丸だ。広い、広い。ソフトボール場がいくつもできるぞ。
西の丸の御殿跡

その南側には新屋敷門の跡があったが、ここは自動車用の入口になっていて、おそらく破壊されているのだろう。
西の丸の新屋敷門跡(右の道)

おっとイカン。いつものように長居してしまった。またまた妻は怒っているだろう。
西の丸の北のほうへは行っていないが、ここは戻るしかない。そう、単身、島津の大軍に突っ込むつもりで、戻るしかないのだ。ひぇ〜〜




■岡城戦歴

◆天正十四年(1586)十月、島津義弘が三万の軍勢で肥後の阿蘇郡から豊後へ向けて進攻した。島津軍は豊後の諸城をつぎつぎと落としていく。そして、岡城へと攻め寄せ、入田宗和らを使者として岡城主・志賀親次(しがちかよし=親善とも)へ降伏を勧告した。しかし、親次がこれを拒否すると、島津勢は十二月二日から四日間にわたり岡城を攻めつづけた。しかし、岡城の守りは固く、島津方は多くの損害を出して兵を退いた。島津方は稲富新助に兵五千を授けて岡城の押さえとし、残りの兵で山の城、南山城へと向かい、これを陥とした。稲富新助は、主力のいない間に岡城を攻め落とし手柄をたてようと考え、十二月二十四日夜明け、千人の歩兵に鉄砲を持たせて渡河を図った。しかし城兵はこれを察知し反撃、稲富勢は敗走した。島津勢の主力は岡城へ戻り、天正十五年(1587)二月二十八日、矢文を放って決戦を申し込んだ。親次はこれに対し、「当城は川深く、橋も除いているので、お望みどおりの決戦ができず残念であるので、明二十九日この川の上流、小渡牟礼においでくだされば、当城から案内者を出し、当方からも鬼ヶ城に出兵して勝敗を決しましょう」と返事をした。翌日、親次はみずから上流の上角に陣を構え、要所に部将を配して島津勢を待った。島津勢が川を渡り鬼ヶ城から山の半ばまで押し寄せたところに親次は総攻撃をかけ、これまでにない激戦となった。志賀勢は地の利をいかして、少数ながら大軍をささえ、その間に部将の中尾・大森の軍勢が島津勢の背後へ回り込んだので島津勢は敗走した。このあと、秀吉軍が迫ってきたため島津勢は豊後から撤退した。志賀親次は島津方に落とされた周辺の城を次々と攻め、回復した。(新人物往来社 「日本城郭体系16」)

以上



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