---- たかしろ ----
別名:亀城 かめじょう・諫早城 いさはやじょう

平成22年5月23日作成
平成22年5月23日更新

肥前国人・西郷氏の居城、のち諫早領主・諫早氏の居城

高城遠景
高城遠景(本明川が曲がるあたりの丘)

データ
高城概要
高城へGO!(登山記)
高城戦歴


 

■データ

名称 高城
たかしろ
別名 亀城・諫早城 かめじょう、か ・ いさはやじょう
築城 文明年間(1469-87)に西郷尚善によって築かれたという。(日本城郭大系17)
破却 不明。明治に入ってからか。
分類 平山城(標高50m)
現存 本丸、馬場、井戸、という。
場所 長崎県諫早市高城町(旧肥前國高来郡)
アクセス 高城はJR諫早駅の近く、諫早公園のことだ。JRの特急「かもめ」号に乗っていると長崎に向かって左にあるのだが、建物で遮られて見えない。
それでは、とJR諫早駅で降りて、東口(と呼ぶのかな)を出ると、右に西友がある。そこを回り込むように右に曲がると、約350mで国道207号線の「四面橋」交差点に出る。ここは交差点をまっすぐ渡って、そのまま川沿いにまっすぐ進もう。すでに前方に高城が見えている。
そのまま川沿いに進むと、「四面橋」交差点から約500mで高城の山ぎわだ。道は、山のふもとを左へ回り込むようにカーブするが、150mくらい行くと右に鳥居と階段がある。この階段をのぼろう。あとは、ただ登っていくだけだ。10分くらいで本丸だ。
なお、車の場合は、鳥居と階段の場所からさらに200m直進し、眼鏡橋よこの交差点から右折すると、150mで右に高城神社があるので、ここに停めよう。






■高城概要
高城(たかしろ)は、西郷氏の居城であり、藩政時代は諫早氏の居城となり、現在は諫早公園となっている。
諫早(いさはや)は、今でもJR長崎本線、JR大村線、島原鉄道、高速長崎自動車道が交差するいわゆる交通の要衝だ。その諫早の地には、鎌倉時代末から南北朝時代にかけて伊佐早(いさはや)氏がいたらしい。応安六年(1373=文中二年)今川了俊(いまがわりょうしゅん)がみずから伊佐早城、宇木城を攻め、伊佐早右近五郎(いさはやうこんごろう)と西郷藤三郎(さいごうとうざぶろう)が軍門に下ったという。ただ、伊佐早城の位置は不明であり、伊佐早氏についてもよく分からない。この伊佐早氏は藩政時代の諫早氏とは全く別で、いつの間にか歴史の舞台から消えていったらしい。(新人物往来社 「日本城郭大系17」 『宇木城』の項)

一方、宇木城主の西郷藤三郎のほうは、のちに高城を居城とする西郷氏の一族であるかもしれない。外山幹夫氏は、西郷氏の出自は明らかでないが島原半島北部の高来郡西郷(現在の雲仙市瑞穂町西郷=島原鉄道の西郷駅付近)を本拠地とするのは疑問の余地がない、と説く(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)。 その高来郡西郷の杉峰城(すぎみねじょう)は、南北朝の頃、西郷次郎という人物が城主であったが、観応三年(1352=正平七年)に九州探題一色範氏(いっしきのりうじ)が小俣氏連(おまたうじつら)を派遣して落城させたという。西郷氏は、肥後菊池氏の一族という説もあるそうだ(新人物往来社 「日本城郭大系17」 『杉峰城』の項)
西郷という地名は珍しくない。西郷があれば必ず東郷があるわけだが、この場合は高来東郷(たかくとうごう)と高来西郷(たかくさいごう)があり、それらは高来郡(たかくぐん)のうち伊佐早庄(いさはや)を除いた地域であり、ほぼ島原半島を東西に分けた呼称であったと考えられるそうだ(平凡社 「長崎県の地名」『南高来郡』の項)

西郷氏については、戦国時代まではよく分からない。
大永八年(1528)二月から四月頃にかけて、西郷尚善(さいごうひさよし)は連歌の精進のため京に滞在し、連歌師宗碩(そうせき)の門人となったという。宗碩とともに連歌の会に出席したほか、二月十七日には宗碩の庵でみずから連歌の会を催したが、これには三条西実隆(さんじょうにしさねたか)も出席している。西郷尚善は、三条西実隆を数回、訪問しているようだ。文化人であったのだろう(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)。 三条西実隆は康正元年(1455)の生まれというから、このとき74歳であり、かなりの高齢だ。三条西家は藤原北家の末裔で、藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の子で閑院流の祖・公季(きんすえ)の五代孫・実行(さねゆき)が三条家を興し、その曾孫・公氏(きみうじ)が正親町三条家(おおぎまちさんじょうけ)を興し、その六代孫の公時(きみとき)が興したのが三条西家だそうだ(朧谷寿氏 「藤原氏千年」)
その三条西実隆と交流のあった西郷尚善は、文明のころ(1469〜1487)居城を船越城(ふなこしじょう)に移し、さらに文明六年(1474)ころには高城へ移っている(新人物往来社 「日本城郭大系17」『船越城』 『杉峰城』の項)
これが、ここで紹介する高城(たかしろ)だ。したがって、高城の築城者は西郷尚善といわれる(新人物往来社 「日本城郭大系17」 『高城』の項)

西郷尚善は、有馬純鑑(ありますみあき)の次男・純久(すみひさ)を嗣子として迎えた。有馬純鑑は、有馬氏発展の基礎を築いた有馬貴純(ありまたかずみ)の子であるが、あまり記録が残っておらず、事跡についてはよく分からない。ただ、有馬賢純(ありままさずみ=晴純はるずみ)の姉妹が大村純前の妻となっているというので、有馬純鑑は嫡男・賢純(まさずみ=晴純)に家督を譲ったほか、次男は西郷尚善の嗣子として養子に出し、娘は大村純伊の嫡男・純前に嫁がせたということであるわけだから、姻戚外交に積極的だったようだ。なお、有馬晴純の室は大村純伊の女であり、西郷純久の女は大村純忠の室となっており、大村純忠は周知のとおり有馬晴純の次男であるので、有馬氏を中心に大村氏・西郷氏が互いに姻戚関係を結んで敵にあたる、あるいはそれぞれが勢力の維持拡大に努めていたのだろう(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

さて西郷氏を継いだ純久だが、その事跡はこれまたよく分からない。外山幹夫氏によると、子の純賢(すみかた)を深堀氏に養子に出し、女を大村純忠に嫁がせた、という(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)。なお、深堀純賢(ふかぼりすみかた)については純久の嫡子・純堯(すみたか)の子という説もあるらしい(新人物往来社 「戦国人名事典」)。深堀氏は、三浦氏の末裔で上総国深堀を本貫とし、承久の乱の功績で肥前国彼杵郡戸八ヶ浦(とはちがうら)の地頭職を得て移住したものという(新人物往来社 「戦国人名事典」)

純久の跡を継いだのは、子の西郷純堯(さいごうすみたか)である。その妻は有馬義貞(ありまよしさだ)の女または姉である。「女または姉」というのは、宣教師フロイスの記述が一定せず、断定できないためだそうだ。有馬義貞は有馬晴純の子であり、そもそも西郷純堯の父・純久は有馬晴純の弟なので、ともかく西郷純堯は有馬一門に連なる立場だったと考えられる。永禄五年(1562)七月のこととされるが、有馬晴純は龍造寺隆信の攻撃に備えるため多久城(たくじょう)に島原純茂と西郷純堯を派遣している。西郷純堯が有馬氏の家臣として働いているわけであるが、一方で純堯は有馬氏に対して一歩離れた立場を維持していたようだ。有馬義貞がキリシタンの洗礼を受けようとしていたとき、「女婿」である西郷純堯が熱心な仏教徒でありキリシタンに敵意を抱いていることから、義貞が受洗を躊躇した、とフロイスは記している。また西郷純堯は、大村純忠暗殺を計画し、これに有馬義貞を加担させようとしていたともいう。外山幹夫氏は、西郷純堯は有馬氏の家臣というよりむしろ半独立していた、と評価している(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

西郷純堯は、大村純忠がキリスト教を信心していたためか、純忠に対しては敵意を抱いていたようだ。元亀三年(1572)七月晦日、武雄の後藤貴明が三城(さんじょう)に大村純忠を攻めたとき、平戸の松浦隆信(まつらたかのぶ)とともに参陣している。このとき、三城には純忠の主だった部将七人がいるだけであり、純忠は旧臣・富永又助の奇計によって何とか後藤連合軍を撃退した、という(三城七騎籠(さんじょうしちきごもり))。奇計というのは、三城が攻撃されたとき富永又助は城外にいたが、西郷勢の陣所に赴き、自分は讒言によって大村家を追い出されたので恨みがある、自分を先手に加えられたら三城に一番乗りを果たす、などと偽り、西郷勢の大将大渡野軍兵衛に近づくと、突然、軍兵衛の股に斬りつけ重傷を負わせ、西郷勢が混乱している間に三城へ馳せ参じた。西郷勢が崩れたことで松浦勢も撤退をはじめ、後藤貴明も兵を退いた、といわれる。(新人物往来社 「日本城郭大系17」 『三城』の項)

天正五年(1577)正月、龍造寺隆信は一万七千の兵を率いて伊佐早に西郷純堯を攻めた。純堯は有馬氏に援軍を求めたが、神代・島原・大野・深江氏が有馬氏を離れ龍造寺側についたので、援軍を送れなかった。西郷純堯は危機的状況に置かれ支城の宇木城も落とされた。このとき純堯の弟・深堀純賢が両者の間を斡旋したので、和議が成立した。純堯の嫡男・純尚(すみひさ)は龍造寺隆信の女婿となり、その偏諱を受けて信尚(のぶひさ)と改名した。純堯は隠居し、高城から小野城へ移った。これにより、西郷氏は完全に有馬氏から離れることとなる(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」、新人物往来社 「戦国人名事典」
天正十二年(1584)の沖田畷の戦いの際、伊佐早城は龍造寺勢の拠点となった。(平凡社 「長崎県の地名」)

西郷純堯の没年ははっきりしないが、龍造寺氏に攻められた天正五年(1577)の頃のようだ。跡を継いだのは、西郷信尚(さいごうのぶひさ)である。天正五年(1577)十月十四日および十七日に西郷氏一族から龍造寺隆信に、また沖田畷の戦いののち天正十二年(1584)十月十六日には西郷氏一族から鍋島信生(なべしまのぶなり=直茂)宛に起請文が提出されている。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

沖田畷で龍造寺隆信が戦死すると、その跡は子の政家(まさいえ)が継いだのであるが、この頃から実質的な国政は鍋島信生(なべしまのぶなり=直茂)に委ねられていく。早くも天正十二年(1584)四月八日には龍造寺一門重臣十一人から直茂へ、同時に政家から直茂へ起請文が提出されている。天正十四年(1586)四月には直茂から龍造寺一門重臣十名へ、また政家からも同じ十名へ宛てて起請文が提出され、直茂が「御家裁判」を申し付けられたことが伝えられている。(山川出版社 「佐賀県の歴史」)

さて、伊佐早一帯に勢力基盤を維持していた西郷氏であったが、天正十五年(1587)豊臣秀吉の九州征伐の際、西郷信尚は秀吉の下に参陣せず御礼を遂げなかった。そのため、秀吉により領地を没収され、伊佐早の地は、龍造寺家晴(りゅうぞうじいえはる)に与えられることになった。(新人物往来社 「戦国人名事典」)
この領主交代に関して、西郷信尚は龍造寺家晴に討たれた、あるいは滅ぼされた、と記述されることがある。その顛末は、同年に起こった肥後国人一揆に対して、龍造寺家晴も出陣することとなったが、家晴の留守を狙い西郷信尚が挙兵、伊佐早城を奪回した。このとき、西郷信尚は日野江城の有馬晴信に援助を求め、伊佐早の回復を援助してくれれば再び臣下となりキリシタンになることを約束したという。これに対し、有馬晴信は船舶などの支援を行い、信尚はその援助のもと伊佐早城を攻め、城中の多くの者を殺害して金銀・武具・家具などを押収したという。秀吉はこれを肥前一揆とみなし、龍造寺家晴・鍋島氏・有馬氏らに小早川隆景の指揮下で討伐にあたることを命じた。ここで有馬晴信は西郷勢を鎮圧する側に回ったのではないだろうか。このあとも有馬晴信は豊臣大名として存続しているので、拙者はそう推測する。ともかく、龍造寺家晴は急ぎ肥後から兵を返し、伊佐早城を攻撃、十月には伊佐早を回復した。西郷信尚は島原に追われ、のちに平戸に逃れたという。信尚は歴史の舞台から姿を消し、西郷氏は滅びた。一方、龍造寺家晴は名を信重と改めた。(平凡社 「長崎県の地名」)

ところで、龍造寺家晴はもちろん龍造寺一族である。龍造寺隆信の曽祖父・家兼(いえかね=剛忠ごうちゅう)の子・家門、その子・鑑兼、その子が家晴なので、隆信の父・周家(ちかいえ)と家晴の父・鑑兼(あきかね)が従兄弟同士ということになる。龍造寺隆信が村中家・水ヶ江家の両家を相続して三年後の天文二十年(1551)、土橋栄益(どばしひでます)が大友義鎮(おおともよししげ=宗麟)に通じ、龍造寺鑑兼を擁立しようと内紛を起こした。それに乗じて少弐冬尚は筑後から勢福寺城に帰り、江上尚種を執権として神埼郡・三根郡で勢力を回復する(山川出版社 「佐賀県の歴史」)。土橋栄益は村中龍造寺家の老臣だった。居城の村中城を大軍に囲まれた龍造寺隆信は、十月二十五日の夜、城を退去した。このとき筑後・柳川城の蒲池鑑盛(かまちあきもり)は隆信一行を自領に向かえ保護したという。隆信は、かつて龍造寺家兼が身を寄せていた筑後・一木(現大川市一木)に滞在したといわれる。髀肉之嘆をかこつこと二年、天文二十二年(1553)七月隆信は一族郎党を率い蒲池鑑盛の二百人の援兵とともに一木を発った。鹿江(かのえ=現川副町)の威徳寺で鍋島清房ら譜代の臣と合流し、村中城へ向かったが、城を守っていた小田政光はすでに蓮池城に撤退していたので、隆信はたやすく村中城を回復した。十月には小田政光を降伏させ、土橋栄盛を捕えて首を斬り、栄盛に擁立されていた龍造寺鑑兼を小城に蟄居させた(河村哲夫氏 「筑後争乱記」)。翌年、天文二十三年(1554)正月、大内義長から一字を拝領し、弟の家信を長信と改名させて水ヶ江城に入れ、水ヶ江龍造寺家を継がせた。のち永禄元年(1558)には勢福寺城を攻め、翌永禄二年(1559)少弐冬尚を自殺に追い込んだ(山川出版社 「佐賀県の歴史」)
ここから龍造寺隆信の怒涛の進撃が始まるのだ。

その鑑兼の子が龍造寺家晴であるが、父が追放されたのちも家晴は龍造寺隆信のもとにいたのだろうか。あるいは、天正十二年(1584)の隆信戦死ののち龍造寺家に復帰したのかもしれないが、拙者はよく知らない。

ともかく、天正十五年(1587)龍造寺家晴は高城に入った。家晴は伊佐早を諫早と改めた。(平凡社 「佐賀県の地名」 『藤津郡』の項)

秀吉は、天正十五年(1587)九州仕置きにおいて、肥前国のうち七郡(三根郡・神埼郡・佐賀郡・小城郡・松浦郡・杵島郡・藤津郡)を龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ)に、基肄郡・養父郡の二郡を小早川隆景(こばやかわたかかげ)に与えた(山川出版社 「佐賀県の歴史」)。つまり、諫早の龍造寺家晴は、龍造寺政家の領国の一部を与えられているという立場だった。
しかし龍造寺政家は秀吉の覚えが目出度くなかったようだ。三年後の天正十八年(1590)には秀吉によって隠居させられ、軍役をも免除され(吉川弘文館 「国史大辞典10」)、五才の子の高房(たかふさ)が家督を継いだ。しかし高房は幼少であったため、成人するまでのあいだ国政は鍋島直茂に預けられることとなった。のち文禄・慶長の役では、龍造寺家臣団を鍋島直茂が率いることで、実質的な領主は直茂であることが自他ともに認められたことだろう。(山川出版社 「佐賀県の歴史」)
その後、文禄四年(1595)鍋島直茂の嫡男・勝茂(かつしげ)が従五位下信濃守に任ぜられたが、これは大名の世子としての処遇であったという。その翌年、文禄五年(1596)龍造寺家晴以下の有力家臣十五名が連名の起請文を直茂と勝茂に提出し、臣従を誓う。(平凡社 「佐賀県の地名」 『肥前国』の項)

こうして、龍造寺家から鍋島家への政権移譲が徐々に行われていくわけであるが、そうなると龍造寺一門である高城の家晴の立場は微妙になっていったことだろう。

慶長十二年(1607)龍造寺高房、政家が相次いで死去。江戸幕府は龍造寺家の家督について、諫早・多久・須古の龍造寺一門を江戸へ呼び、意見を求めた。三人は鍋島直茂の功績を称え、その子・勝茂を相続人として推挙し、幕府はこれを認めた。こうして肥前佐賀藩は、名実ともに鍋島藩となった。(吉川弘文館 「国史大辞典10」)

龍造寺家晴にも龍造寺の家督を望む気持ちはあっただろうと忖度されるが、時の勢いに逆らわなかったということだろう。だからこそ生き延びるのだ。一方の鍋島直茂・勝茂のほうも、短兵急に龍造寺一門を粛清するようなことはしなかった。
慶長十六年(1611)鍋島勝茂は全家臣団に対して、知行地の三分の一を献上させる三部上知を行い、さらに元和七年(1621)には多久・武雄・諫早・須古の四家に再び三部上知を行わせた。(平凡社 「佐賀県の地名」 『肥前国』の項)
四家とも龍造寺一門であるが、不本意ながらも従わざるを得なかったものと推測される。
その一方で、鍋島家は小城藩・蓮池藩・鹿島藩の三支藩を創設し、鍋島一門による領国支配強化を図った。その間も龍造寺四家は存続しており、また三支藩とも参勤交代を行う大名格であり、なんともすっきりしない状態が続いた。のち天和三年(1683)第二代鍋島光茂は領内の格式を制定し、三支藩はあくまで佐賀本藩の統制下であることを明確にした(平凡社 「佐賀県の地名」 『肥前国』の項)。また光茂を継いだ第三代鍋島綱茂は、元禄十二年(1699)には三家・親類・親類同格・家老・着座の序列を完成させた(山川出版社 「佐賀県の歴史」)。三家は三つの支藩、親類は白石鍋島家・村田家・神代家・村田鍋島家であり、親類同格は龍造寺家系の諫早家・多久家・武雄鍋島家・須古鍋島家である。(平凡社 「佐賀県の地名」 『肥前国』の項)
諫早家は龍造寺家晴の家系である。多久家は、先に水ヶ江龍造寺家を継いだ龍造寺長信(隆信の弟)が元亀元年(1570)九月、多久を加増されて多久城に移り、その子・安順(やすとし)が多久氏を名乗ったものである(平凡社 「佐賀県の地名」 『多久市』の項)。武雄鍋島家は、龍造寺隆信の三男・家信が塚崎後藤家十九代・貴明を継ぎ、第二十代となった(平凡社 「佐賀県の地名」 『富岡村』、『大野村』の項)もので、天正十八年三月七日付で秀吉から後藤家信へ朱印状が与えられ、塚崎庄などを安堵されている。後藤氏はのち鍋島氏に改めているが、いつの頃かよく分からない。なお地名として武雄と呼ばれるのは江戸時代中期頃からで、それまでは塚崎と呼ばれていた(平凡社 「佐賀県の地名」 『武雄市』、『武雄村』の項)。須古鍋島家は、龍造寺隆信が弟・信周(のぶちか)を有馬家の押さえとして杵島郡小田(きしまぐんおだ)に置いたことに始まる。のち天正二年(1574)龍造寺隆信は須古の平井氏を制圧し、弟・信周を須古城の城番とした(山川出版社 「佐賀県の歴史」)。 これらが龍造寺家系の親類同格四家である。

さて、龍造寺家晴の跡を継いだ第二代・直孝(なおのり)は、姓を諫早と改めた。これが、高城の城主・諫早氏である。(新人物往来社 「日本城郭大系17」 『高城』の項)
佐賀藩は大きな特徴として、明治維新に至るまで地方知行制の形態を残していた。要するに戦国時代と同じで、各地域においてそれぞれの統治者が大幅な自治権を与えられていた。したがって、親類同格である諫早家は、佐賀鍋島藩の家臣であると同時に諫早の領主であった(平凡社 「佐賀県の地名」 『肥前国』の項)。石高は、二万六千二百石(平凡社 「佐賀県の地名」 『藤津郡』の項)
なお、龍造寺系の親類同格の四家は単なる名誉職ではない。公儀普請役から必然化した藩財政の窮乏を、四家の協力によって打開したことから、この四家を首脳とする佐賀藩の執政体制が確立していく(吉川弘文館 「国史大辞典10」)。寛永十四年(1637)のそれは、多久茂辰(たくしげとき)を首班とし諫早直孝・武雄茂綱・須古信明らであったそうだ(山川出版社 「佐賀県の歴史」)

くだって寛延三年(1750)諫早一揆がおきる。佐賀本藩第六代・鍋島宗教(なべしまむねのり)の世継ぎについて、宗教は弟・重茂(しげもち)を推していたが、蓮池藩主・鍋島直恒(なべしまなおつね)らは宗教の別の弟・直良(なおよし)を推していた。幕府の評定により重茂が継ぐこととされたが、蓮池藩主は江戸屋敷に逼塞となり、蓮池藩主に加担した第八代諫早領主・諫早茂行(いさはやしげゆき)は知行高二万六千二百石から一万石を没収され、蟄居・隠居の身となった。そのため、諫早領では本藩に対する恭順派と反対派が生じ、反対派は長崎奉行・日田代官・大坂町奉行などへ越訴するとともに佐賀城へ強訴すべく行動を開始し、諫早領主側はこの鎮静化をはかった。同年十月から十一月にかけて、家老以下一揆の首謀者は死罪・追放に処せられた。一揆の中心人物・若杉春后(わかすぎしゅんごう)も処罰された。没収された所領は十七年後の明和四年(1767)に返還されたが、これは春后らのおかげであるとして、明和六年(1769)に第十一代領主茂図(しげつぐ)は若杉霊神を建立した(山川出版社 「佐賀県の歴史」、現地案内板)

諫早氏は、第十六代領主諫早一学のとき明治維新を迎えた(現地案内板)
明治六年(1873)一月十四日の太政官達により、諫早の「兵器貯蓄所」一ヶ所が廃城と決定されている(森山英一氏 「名城と維新」)が、これが高城のことと思われる。




三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■高城へGO!(登城記)
平成20年(2008)3月20日(木)

今日は諫早へやって来た。目指すは高城だ。
JR諫早駅から歩こう。

諫早神社を通り過ぎ、川沿いを行くと、正面に丘がみえる。これが高城だ。
高城は本明川沿いにある

近づいてみると、丘のふもとを道路がめぐっているが、たぶん当時は川の水が洗っていたのだろう。お城らしく、切り立った崖だ。
高城のふもと

鳥居のところから階段を上ってみる。
ずいぶんと大きな石がゴロゴロしている。石垣の成れの果てかな?
ほら、これなんか石垣っぽいぞ。
石垣の痕跡だろうか

階段をのぼりつめると、本丸だ。やはり、大きな石がたくさんある。辺縁部は土塁のようにも見えるが、果たしてどうだろうか。
石列の奥は土塁か?

本丸中央には祠が二つある。龍造寺家の先祖・藤原鎌足をまつる藤原明神、と龍造寺家晴をまつる高城明神、だそうだ。
横にたつ石灯篭は、明和九年(1772=安永元年)や弘化二年(1845)と古い。明和、弘化のころは、ここは諫早家の居城だったんだから、これら灯篭は別のところにあったのだろうか。
藤原明神、高城明神、亀の塔

名所旧蹟にお馴染みの東郷平八郎元帥揮毫の忠魂碑もある。本丸はかなり広いな。御殿が建っていたのではないだろうか。
本丸に立つ忠魂碑

また、本丸からは諫早市が一望のもとに見渡せる。諫早領主の眺めだ。
本丸からの眺め

また、一段下の平坦地は、腰曲輪のような感じがある。公園化するときに作ったのだろうか。
本丸から下を見下ろすと、腰曲輪のような平坦地あり

本丸から下へ降りる階段は、まるく弧を描いている。福岡城の扇坂に似ているので、当時の名残りかもしれない。
扇型の階段

階段を降りていくと急坂だ。お城らしくて、良い。一段下にも平坦地がある。
二の丸ではなくて本丸の下段だそうだ。二の丸は本明川の対岸にあったそうだ。
 

さらにおりると高城神社だ。祭神は、またもや龍造寺家晴だ。
高城神社の拝殿

ふもとに降りて、少し歩くと諫早高校の隣に高城回廊というのがあった。その奥に御書院という公園があったが、ここは西郷尚善や龍造寺家晴が屋敷を構えたところだそうだ。
市街地の真ん中なのに静かで良いところだ。
御書院

高城の遺構はほとんど残っていないが、高城公園の丘とこの御書院が、往時の名残を感じられるところだ。




■高城戦歴

◆天正五年(1577)正月、龍造寺隆信は伊佐早へ侵攻した。その兵一万七千。高城の西郷純堯は、有馬鎮純(ありましげずみ=晴信)に援軍を要請したが、鎮純としても島原・大野・深江氏ら周りの部将が龍造寺側についたため動けない状況であった。龍造寺勢は、西郷純堯の支城・宇木城を攻略、純堯は絶体絶命の危機に陥った。ここで、純堯の弟で長崎深堀家に養子に出ていた深堀純賢が調停をはかり、龍造寺と西郷との間で和議が成立した。純堯は危機を脱したが、和睦の条件として、純堯の嫡男・純尚と龍造寺隆信の女が婚姻、龍造寺一門となり、純尚は岳父の偏諱を賜って信尚と改名した。西郷純堯は隠居して高城から支城の小野城へ移ったという。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

◆天正十五年(1587)豊臣秀吉がみずから九州平定へ赴いた。このとき、西郷信尚は秀吉のもとへ参ぜず不興を買い、領地を没収された。その領地は、龍造寺一門である龍造寺家晴に与えられた。(新人物往来社 「戦国人名事典」)

◆天正十五年(1587)肥後で隈部親永ら国人が一揆を起こした。肥後国人一揆である。これに対し、諫早の龍造寺家晴も一揆鎮圧のため出陣した。ところが、この間隙を突いて、西郷信尚が挙兵した。信尚は有馬晴信に援軍を求め、高城を攻撃、これを陥とした。秀吉は、龍造寺家晴・鍋島氏・有馬氏にこれを討つよう命じた。龍造寺家晴は兵を返し、みずからの居城・高城を攻撃して、これを陥とした。西郷信尚は島原、のちに平戸に逃れたという。こうして西郷氏は滅びた。(平凡社 「長崎県の地名」)


以上



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