かつおだけじょう、びゃっこさんじょう
---- かつおだけじょう ----
別名:白狐山城 びゃっこさんじょう

平成21年7月11日作成
平成21年7月11日更新

平戸松浦氏の居城

勝尾岳城遠景
平戸市役所から勝尾岳城を臨む(正面は幸橋)

データ
勝尾岳城概要
勝尾岳城へGO!(登山記)
勝尾岳城戦歴


 

■データ

名称 勝尾岳城
かつおだけじょう
別名 白狐山城
びゃっこさんじょう
築城 南北朝の頃、松浦勝(まつらすぐる)が築城した。(日本城郭体系17)
破却 慶長四年(1599)、松浦鎮信(まつらしげのぶ)が日の岳城を築き居城を移したときに廃城となったのではないだろうか。
分類 山城(標高68m)
現存 空堀。
場所 長崎県平戸市(旧肥前國松浦郡)
アクセス 勝尾岳城は、平戸城からみると平戸市役所を挟んだ向こう側にある。
その目印は「宗陽公の墓」だ。宗陽公というのは松浦隆信のことだ。

平戸城へ行くには、とにかく平戸大橋で島へ渡らなければならない。橋は有料で片道100円だ。

勝尾岳城の大まかな場所を示すと、平戸大橋を渡り道なりに進み、平戸城へ右折する交差点、つまり平戸市役所へ右折する交差点を通り過ぎ、さらに600mくらい行くと、坂道の途中に「宗陽公の墓」と書いた看板が出ているので右に入ると目の前の小山(丘)が勝尾岳城だ。しかし、この行き方だと駐車場がないし、道が狭くなるので困るだろう。

そこで、拙者おすすめは、平戸城の外郭駐車場に車を停めて歩くのだ。外郭駐車場からは、普通なら天守閣を目指して階段をのぼるところだが、ここは階段ではなく、自動車用の舗装道路を直進しよう。そう、進入禁止と大きく書いてある道路だ。これを進むと、200mくらいで亀岡運動広場というグラウンドがある。奥にテニスコートがあるので間違えることはないだろう。この広場から右へ進むのだ。つまりグラウンドを左手にしながら歩くと、西口門という立派な石垣を組んだ門跡があるので、ここから下城しよう。階段をおりると正面が平戸市役所だ。ここを突っ切ると、「幸橋」があるので迷わず渡ろう。このとき、勝尾岳城は真正面に見えている。あとは、道を渡り、突き当りを右へ進み、山すそを回り込むように左へ左へと歩くのだ。ちょうどここは「肥前堀」跡で、寺院と教会が同時に見えるということで観光名所になっているので、「寺院と教会風景」を目指していくと良い。狭くて暗い階段をのぼると左手に「宗陽公の墓」がある。

もうひとつ、別ルートを紹介しよう。「松浦史料博物館」の駐車場に車を停めて歩く方法だ。「博物館」の正面階段を下りたら右へ進もう。途中で「六角井戸」と「大ソテツ」があるのが目印だ。そのまま、まっすぐ歩くと道が蛇行して、「ザビエル記念聖堂」や「宗陽公の墓」への近道と書いた階段が右へ鋭角にあるので、これをのぼろう。
 近道の階段
登ったところにも案内標識が立っているので、「宗陽公の墓」を目指すのだ。途中、「ザビエル記念聖堂」を通り過ぎると、小さな四つ角に出る。ここが迷いやすいが、左へ曲がるのだ。すると正面に「宗陽公の墓」がある。

さて、「宗陽公の墓」は勝尾岳城の中腹にあるわけだが、ここから山頂へ行くには標識も何もない。「宗陽公の墓」の周りには家族か家臣か、おそらく近親者と思われる墓碑がたくさんある。その右隣には別に一群のお墓があり、拙者はよく知らないがそこの正宗寺の住職のお墓のような感じがあるのだが、そのさらに右奥に上へのぼる階段がある。そこを上るのだ。ほんの2分程度で山頂へ到着だ。山頂は平坦になっていて、城跡の面影を感じることができるぞ。






■勝尾岳城概要

勝尾岳城は、江戸時代に肥前松浦藩六万石となる松浦氏が代々居城としたお城だ。だいたい南北朝時代から戦国時代末期の約百八十年間のことだ。
松浦氏の居城としては、平戸に移ってはじめが館山、次が勝尾岳城、朝鮮役ののち日の岳城、江戸時代に入って中の御館、御館と変遷を重ね、十八世紀に入ってから平戸城(亀岡城)へと移った。

松浦は今では「まつうら」と読むが、昔は「まつら」といった。その由来は古く、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が新羅征伐に出征するまえ、このあたりで年魚(あゆ=鮎)を釣りあげ、「めづらし」と仰せになったので、希見国(めづらのくに)といったのが、のちに訛って松浦(まつら)になったという。(肥前国風土記)
また、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には、倭(わ=日本)に上陸する場所が「末盧国」とされている。「まつろこく」あるいは「まつらこく」と読むのだろう。これが、松浦のことだとする説がある。これについては、邪馬台国大和説を信じる方々は賛成しないかもしれないが、冷静に考えて、松浦だろう。

さて、松浦氏の出自に関しては、従来より二つの説がある。「安倍宗任末孫説」と「嵯峨天皇末孫説」だ。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

「安倍宗任末孫説」というのは、前九年の役(ぜんくねんのえき)で敗れた安倍宗任(あべのむねとう)が九州へ流され、その子孫が松浦に残り、これが松浦氏になったというものだ。この「安倍宗任末孫説」については、古く鎌倉時代後期に成立した「平家物語」の写本のひとつ、屋代本にあるという。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」、安川浄生氏 「宗像の歴史」、伊藤篤氏 「福岡の怨霊伝説」) 余談だが、その四十四代目の子孫が安倍晋三(あべしんぞう)元首相だそうだ。(安川浄生氏 「宗像の歴史」)

一方の「嵯峨天皇末孫説」は、第五十二代嵯峨天皇(さがてんのう)の第十八皇子・融(とほる)が源姓を賜って源融(みなもとのとおる)と名乗ったことに始まり、昇(のぼる)、仕(つかう)、充(みつる)、綱(つな)とつながり、綱が主君の源頼光(みなもとのよりみつ)の肥前守下向に従って松浦あたりに下ったことで縁ができた。綱(つな)の子・授(さずく)は肥前奈古屋(なごや=名護屋のことだろう)に住み、奈古屋次郎太夫(なごやじろうたゆう)と称したが、のちに京へ戻り内舎人(うちとねり)となった。その子・泰(やすし)は摂津渡辺に住み後三条院に仕えた。泰の子が久(ひさし)である。源久(みなもとのひさし)は延久元年(1069)に松浦郡の宇野御厨検校(うのみくりやけんぎょう)となり肥前国松浦の今福(いまふく)に下向した。久は今福村に梶谷城(かじやじょう)を築いたという。これが松浦氏の起こりとされている。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

この両説はどちらが事実か容易に判断つかないが、拙者は両方とも事実なのではないだろうかと考えている。もう少し詳しく、平戸城のページで述べよう。

さて、源久(みなもとのひさし=松浦久まつらひさし)のあとは、文字通り八の字のごとく一族が叢生していく。

久は子供たちにそれぞれ所領を分け与え、それぞれが松浦一族の祖となっていく。久の長男・直(なおし)には御厨(みくりや)を、二男・持(たもつ)には波多(はた)を、三男・勝(まさる)に石志(いしし)を、四男・聞(きこう)に荒久田を、五男・広(ひろし)に神田、六男・調(しらぶ)に佐志(さし)、養子・高俊(たかとし)に牟田部を、それぞれ与えた。ここで、養子の高俊というのが例の安倍晋三元首相の祖先なのだそうだ。

御厨を継いだ直(なおし)も自分の子に所領を分け与えていく。第一子・頼は京へ行き、その後不明。第二子・清には今福・志佐(しさ)・相浦・佐世保・壱岐の一部などを与え、この子孫がのち相神浦(あいこうのうら)松浦氏になっていく。そのほかに直は、第三子・栄(さかう)には有田を、第四子・遊(あそぶ)には大河野を、第五子・披(ひらく)には江迎・佐々・平戸を、第六子・囲(かこむ)には伊万里・山代、第七子・彊には八並、第八子・連(つらぬ)には値賀を、それぞれ与えたという。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
ただ、それぞれが各氏の始祖になったというよりも直が子供たちを現地の豪族に次々と養子に入れたという説もある。(神尾正武氏 「松浦党戦旗」)

直の子のなかで清が今福の地を譲られているので、松浦氏の嫡子ということになるが、松浦一族の特徴としては、惣領が松浦一族の中心的存在というわけではなく集団で行動することが多い。世にいう「松浦党(まつらとう)」だ。のちに松浦党には、もともと松浦一族でない青方氏や宇久氏なども加わっていくようになる。

さて、直の第五子・披(ひらく)は峯(みね)氏を称し、これがのちの平戸城主・松浦氏へとつながっていく。ただ、峯(みね)の地がどこなのか、よく分からないそうだ。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
ただ、神尾正武氏は峯の地を明確に伊万里としている。現在の伊万里市のなかに山代町峰という地名がある。(神尾正武氏 「松浦党戦旗」)
さて、峯披(みねひらく)は、建久三年(1192)六月二日、肥前国宇野御厨(うのみくりや)のうち紐差浦(ひもさしうら)の地頭職を幕府から安堵されている。紐差は平戸島の中部にある。また、披は建保六年(1218)、子の三郎上(のぼる)に伊万里浦・福島・田平のうちの粟崎などを譲っている。そして、上の兄である持(たもつ)には、披の弟・松浦十郎連(つらぬ)が小値賀島(おぢかとう)を承久元年(1219)に譲り、二年後の承久三年(1221)五月、幕府は持に対して小値賀島地頭職を安堵した。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
こうしてみると、伊万里から平戸、小値賀にかけて所領が点在していただろうと推測される。

ということで峯持は小値賀にいたわけだが、のち嘉禄元年(1225)頃平戸へ移り、館山に居を構えた。館山城と呼んでいる本もある。居館をおいた館山は、今の博物館の裏山だという。勝尾岳とは別の山だ。
この峯持の系統が平戸松浦氏へとつながっていく。持のあと、繋(つなぐ)、湛(たたう)、答(ことう)とつづき、答のころに蒙古襲来があった。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
峯答も文永の役は博多で戦い、弘安の役では「北肥戦誌」に壱岐や鷹島で奮戦したとあり、石築地構築にも参加したという。(新人物往来社 「鎌倉・室町人名事典」)

答の子・定(さだむ)は武勇の人で、元弘三年(1333)鎮西探題(ちんぜいたんだい)を討ち、新田義貞に従って箱根で足利尊氏と戦い、「鬼肥州」と呼ばれた。のち尊氏が入京したときは、比叡山に難を逃れた後醍醐天皇を守って、錦袴の断片を賜ったという。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

定の跡をつぐのは弟の勝(すぐる)で、勝は多々良浜合戦で尊氏に属したため引輌の旗章を受けたという。例の菊池勢の搦め手で寝返った松浦党の一人だったのだろうか。兄・定が天皇方、弟・勝が尊氏方だった。九州から東上した尊氏は、比叡山へ逃れた後醍醐天皇と講和を成立させ、天皇を京へ迎えた。このとき、天皇のそばにいた将士は捕らえられているが、峯定は難を逃れ平戸へ帰っている。このときに定から勝への代替わりがあったのかもしれない。峯勝(みねすぐる)は北朝に仕えて滝口に補され、のち肥前守に任ぜられた。そして峯勝が勝尾岳に白狐山城(びゃっこさんじょう=勝尾岳城)を築いたといわれる。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

勝尾岳は平戸市の中心部にある標高68mの小山で、今では「宗陽公の墓」のある正宗寺がある。平戸で観光地図を入手すると、だいたい「勝尾岳」と書いてあって分かりやすい。ただ、城跡だったとはどこにも書いていない。ところで、峯勝が勝尾岳城(白狐山城)を築いたころは、まだ亀岡城(現在の平戸城)はなかった。勝尾岳城は、それまでの居館・館山城から700mくらい南に位置している。峯勝は居城を館山から勝尾岳城へ移したといわれている。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

その後も松浦党は、他氏と同様あるときは北朝方、あるときは南朝方と立場を変えて生き残っていく。大宰府に入り勢力を強める九州の南朝方に対し、幕府は今川了俊(いまがわりょうしゅん)を九州探題として送り込んだ。了俊は子息・義範(よしのり)を豊後に、弟・仲秋(なかあき)を肥前に送り込み、自らは豊前から中央を進軍した。今川仲秋は応安四年(1371=建徳二年)十一月十九日、肥前の呼子(よぶこ)から上陸し、仲秋のもとには肥前の将士が相次いで来会した。(川添昭二氏 「今川了俊」)
このとき、峯勝(みねすぐる)も仲秋のもとに参じたという。このあとは松浦党は北朝方であったようだ。永徳四年(1384=元中元年)、嘉慶二年(1388=元中五年)、明徳三年(1392=元中九年)などしばしば一揆を結んでいる。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
ただ、よく分からないのは一揆の契約状に勝の名前が出てこない事だ。永徳四年(1384=元中元年)の契約状には、「ひらと源湛」とある。ここは源勝となるべきではないだろうか。勝は途中で改名したのだろうか。あるいは、当主でないものが署名しているのだろうか。それとも、古いことなので記録に錯綜があって、この頃の平戸家は「湛」が当主だったのだろうか。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
ほかの年次でも、嘉慶二年(1388=元中五年)は平戸肥前守湛、明徳三年(1392=元中九年)は平戸若狭守廣、とあって勝ではない。ここで、平戸湛は永徳四年一揆状の「ひらと源湛」と同一人物だろう。また肥前守ということは平戸家の当主と考えられる。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
一方、平戸若狭守廣の名は永徳四年(1384=元中元年)の一揆契約状に、平戸の「おうの若狭守広」、という名がみえ、関係がありそうだ。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

勝は応永年間(1394-1428)のはじめ頃、没した。跡を継いだのは、先代・定の子、理(おさむ)であった。理も肥前守に任ぜられたが、このころ肥州太守という人物が朝鮮へ使いを派遣しており、これが理のことと考えられている。理の跡を継いだのは、理の先代・勝の子、直(なおし)だ。直ははじめ薩摩守だったが、理の嗣子となってのち肥前守に任ぜられた。このあたり両統迭立の感があるが、直の跡は子の勝(すぐる)が継いだ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
このころは朝鮮への通交が活発なころであったが、平戸氏はむしろ出遅れていて、積極的な通商を行っていたのは、田平(たびら)氏や志佐(しさ)氏であったそうだ。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
松浦一族内には、志佐(しさ)氏と佐志(さし)氏があって、全く別の系統であるが名前が似ていてヤヤコシイ。もちろん両方とも地名からきているものだ。
この頃の朝鮮通交では、同一人物の名前で五十年も六十年も通交を重ねている例があり、名義だけ利用した偽使と考えられている。また、日本へ連れ去られた朝鮮人を送還して礼物を受けるなどしており、倭寇との関連性が考えられる。

勝の跡は子の芳(よし)が継いだ。芳の治世、永享六年(1434)に宇久大和守基と生月(いきつき)の豪族・加藤景明の連合軍は勝尾岳城(白狐山城)を包囲した。さらに、生月の加藤氏・一部氏・山田氏、下方の紐差氏、津吉の津吉氏などが攻城軍に加わったところ、平戸氏先代の勝が戦死、さらに当主・芳も陣没した。風前の灯となった平戸氏であったが、大島の豪族・大島伯耆守応と胤政父子は、芳の弟で田平峯氏を継いでいた峯義(みねよろし)を奉じて平戸の勝尾岳城(白狐山城)の包囲軍を追いやり、城を回復した。義は平戸へ帰り家督を継いだ。田平の峯氏は義の長男・弘(ひろむ)に継がせた。
義は父の仇を討つため、まず紐差氏を攻めてこれを下した。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」) これが平戸松浦氏の押領(おうりょう)のはじめだという。なお、芳(よし)のころまでの平戸氏は、松浦党のなかでも振るわなかったようで、所領も平戸とその周辺、および小値賀島のみだったようだ。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

こうして平戸氏を継いだ義(よろし)であったが、無官であったことから官位を得ようと永享七年(1435)上洛した。しかし、なかなかその機会がなく、三年が過ぎた。永享九年(1437)三月、将軍・足利義教(あしかがよしのり)が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を参詣した際、赤い烏帽子をかぶって出仕したことで義教の目にとまり、それがきっかけで義教の側に仕えるようになったという。のち義教は赤烏帽子姿の義の肖像画を描かせて義に贈ったといわれ、それが松浦史料博物館に現存しているそうだ。義(よろし)は義教に相当かわいがられていたようで、ずっとのちの長禄四年(1460)になって、以前からの約束ということで勘合貿易を許されている。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
ひょっとすると、義(よろし)の名は義教から賜ったものかもしれない。というのは、将軍のそばに仕えて、しかも名前に「義」の字がある、というより「義」一字というのは、憚りがあるように思えるからだ。しかし、偏諱なら「教」の字を賜りそうな気もするので、案外、平戸に戻ったのちに勝手に名乗ったものかもしれない。
それはともかく、義が将軍義教のもとから平戸へ戻ったのがいつであるか不明であるが、嘉吉元年(1441)義教が赤松満祐に暗殺される(嘉吉の変)と、檄を受け東上した。しかしながら、満祐がすでに討たれたことを知り、剃髪して「天叟(てんそう)」と名を改めた。天叟は第二子の豊久(とよひさ)に家督を譲り隠居した。なお、第一子・弘(ひろむ)には上述のように、自身が一旦は養子となっていた田平・峯氏を継がせている。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

ということで、豊久が平戸氏を継いだわけだが、彼は松浦党のなかでは珍しく「二字名」だ。父・義が中央(都)暮らしの経験があるためだろうか。豊久は朝鮮との貿易を積極的に行っていて、康正二年(1456)や文明三年(1471)に朝鮮から図書(ずしょ)を受けている。実兄の田平弘(たびらひろむ)もまた朝鮮との交易に力を入れたようだ。
文明四年(1472)、貴志岳城(岸岳城)主の波多下野守泰(はたしもつけのかみやすし)が不意に壱岐を襲い、佐志(さし)・呼子(よぶこ)・鴨打(かもち)氏らを一掃し壱岐を占領した。波多泰は壱岐には家臣の日高氏を亀丘城(かめのおじょう)に置いてこれを領有した。この事件はずっとのちに平戸氏に関係してくる。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

豊久が没すると二男・弘定(ひろさだ)が跡を継いだ。豊久の長男・昌(さかえ)は、田平弘(たびらひろむ=峯弘みねひろむ)に子がなかったので養子に出していた。田平弘は上述のとおり平戸豊久の兄だ。豊久といい、先代の義といい、長男に田平家、二男に平戸家を継がせているのは、田平家のほうが朝鮮通商も積極的で、ということは財力もあったということで、平戸家は何かと振るわなかったという事情と関係があるように思える。田平家が本家、平戸家が分家という印象を受ける。

弘定は文明十五年(1483)平戸島西部の津吉(つよし)氏を攻め、これを押領したため、生月(いきつき)の諸氏は皆おそれて所領を弘定へ差し出した。津吉氏は永享六年(1434)白狐山戦の仇敵であり、生月の諸豪族が勝尾岳城(白狐山城)包囲戦に参加していたことによるものだろう。こうして生月は平戸領となった。
ところで、田平家を継いだ昌(さかえ)であったが、義父・弘とはソリが合わなかったという。弘は、田平領を養子・昌(さかえ)ではなく甥の弘定に譲ると遺言したため、田平昌(たびらさかえ)と平戸弘定(ひらどひろさだ)の兄弟の争いとなった。文明十八年(1486)のことという。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

その後、兄弟の対立は激化していき、いよいよ一戦交えるところまでいった。そのとき、弘定の重心・大島筑前守胤政(おおしまちくぜんのかみたねまさ)が田平昌を説得し、刃を交えることなく昌(さかえ)は田平の里城(さとじょう)を退去し落ち延びた。大島胤政が兄弟間の争いを憂慮したことと、胤政の子・首道が田平方についていたことが動機らしい。また、平戸方は津吉や生月を領有しており優勢だったうえ、波多氏まで味方について戦力差が大きかったという。こうして、田平と江迎(えむかえ)の地は平戸氏の所領となった。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
里城を去った田平昌は海路、高来郡(たかきぐん)の有馬貴純(ありまたかずみ)を頼った。数年後、延徳三年(1491)田平昌は有馬貴純の支援のもと、大村純伊、相神浦定(あいこうのうらさだむ)、および佐々(さざ)・志佐(しさ)の兵とともに平戸の弘定を攻めた。弘定は勝尾岳城(白狐山城)を出て箕坪城(みのつぼじょう)に籠もった。しかし籠城三ヶ月ののち、海路ひそかに脱出し、筑前国箱崎の金胎寺に逃れた。平戸は田平昌(たびらさかえ)の領有するところとなり、昌は田平へ戻った。このとき有馬貴純の偏諱を受け純元(すみもと)と名を改めたという。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」、外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

この戦功によって有馬貴純は少弐政資(しょうにまさすけ)から肥前白石・長島(現佐賀県武雄市)を与えられ、これが有馬氏興隆の礎となったという。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)
ところで、筑前へ逃れた弘定は山口の大内政弘(おおうちまさひろ)を頼った。翌年、大内政弘の調停により弘定は平戸へ帰り、弘定が平戸および田平を領有すること、および昌(純元)の子・興信を弘定の娘と婚姻させ弘定の嗣子とすることで兄弟間の争いは決着した。峯昌(田平純元)は志佐氏を継いだ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」、外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
なお、弘定が二字名なのは、大内政弘の偏諱を受けたためという。ということは、弘定はもともと「定」だったということになる。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
また挿話として、弘定が箱崎金胎寺にいたときに明応元年(1492)の正月を迎えたが、そのあたりは若松を切ることを禁じられていたため、代わりに椎の木で門松をたてた。以来、今日に至るまで松浦家では正月は椎の木で門飾りを行うそうだ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

平戸へ復帰した弘定は、報復に佐々を攻撃しようとしたが、佐々刑部(佐々勝あるいは拵とも)は娘に弘定の弟・頼を迎え弘定に下った。同様に、佐々一族の紫加田氏や大野氏も弘定の弟をそれぞれ迎えて臣従したので、弘定は戦わずして佐々および吉田を領有した。ここで、大野氏とあるのは、上述の永徳四年(1384=元中元年)の一揆契約状にある「おうの若狭守広」と関係があるのかどうか気になるが、拙者には分からない。
明応二年(1493)大村氏・龍造寺氏連合軍が直谷城(なおやじょう)を攻めたので、直谷城主・志佐純昌は城を捨て二人の子とともに五島へ逃れた。直谷城には峯昌(みねさかえ=田平純元)が入った。純元が志佐氏を継いだのはこのときのことだろうか。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

さて、佐世保の西、相神浦(あいこうのうら)には松浦丹後守政(まさし)がいた。相神浦の松浦氏は、初代・久−直−清・・・と続き今福を領有しており、たぶんこれが元々の松浦氏本家だろう。松浦政は大智庵城(だいちあんじょう)に住み、相浦、有田、今福、佐世保などを領していた。あるとき、政の家臣・山田四郎左衛門が平戸弘定のもとへ内応を申し出た。弘定にとっては、政の父・定は箕坪籠城戦での怨敵であったためこれを受け入れ、明応七年(1498)大野源五郎を総大将として大智庵城を攻撃したところ、政(まさし)は討たれ城は落ちた。政の妻と息子・幸松丸は捕らわれの身となった。政の妻は少弐政資の娘(「肥前松浦一族」では少弐高経の娘)という。のちに幸松丸は逃れて平戸氏と争うようになる。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

その間、明応八年(1499)五島の宇久囲(うくかこむ)は家臣・玉ノ浦納(たまのうらおさむ)に叛かれて自刃したので、囲の妻と息子・盛定(もりさだ)は平戸へ非難してきた。囲の妻が平戸弘定の娘であったためだ。のちに盛定は五島に復帰する。また、永正四年(1507)大内義興(おおうちよしおき)が足利義稙(あしかがよしたね)を奉じて上京する檄にこたえ、嗣子・興信(おきのぶ=田平純元の実子で弘定の婿)に兵を与えて京へ派遣したという。このように、平戸弘定は武威の人であった。
弘定の最晩年、永正五年(1508)人質としていた相神浦松浦政の子・幸松丸が今福の歳の宮(としのみや)参詣の際に遺臣たちに奪回される。幸松丸はのちに相神浦親(あいこうのうらちかし)と名乗り、飯盛城(いいもりじょう)を築いて平戸氏と争うようになる。この年に弘定は家督を興信に譲り隠居した。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

松浦興信(まつらおきのぶ)は、峯昌(みねまさし=田平純元)の長子で、平戸弘定の娘・布袋(ほてい)と結婚し弘定の嗣子となっていた。弘定には男子がなかった。また、興信の名も二字名だが、これは大内義興(おおうちよしおき)の偏諱を受けたという。
永正十年(1513)、興信は十五年前に平戸へ逃れてきていた宇久盛定(うくもりさだ)のため大野五郎に兵を預けて五島を攻めさせ、玉ノ浦納を破って宇久盛定を家督に復活させた。盛定は謝礼に上五島の浜ノ浦、中五島の塩釜などを興信へ贈り、平戸氏は五島にも領地をもった。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

また、興信は永正十年(1513)直谷城を攻めた。直谷城は興信の父・志佐(田平)純元から二男の純次(すみつぐ)が継いでいた。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)
つまり興信は弟を攻めたわけだが、その顛末はというと、純元は直谷城を二男・純次に継がせ、五男・純忠に深江氏を継がせて江迎の地を与え、同時に自身の隠居所とした。純元は純忠に対し、志佐純次に従うようにとしていたが、純忠は松浦興信に与した。そのため、興信と純次は不和となり、興信の直谷城攻めへと発展したという。のちに興信と純次は和睦したが、興信は江迎を押領した。ほかにも、興信は妻・布袋の死後、上松浦の波多下野守盛の娘を後妻に迎えたが、彼女は壱岐の「河北中の郷両所」を化粧料として持参した。壱岐にも所領を得たわけだ。また、興信は大内義興に従って安芸国に出陣し、恩賞として筑前国の内林というところに百町の所領を得たという。こうして平戸氏は所領を拡大し続け、発展の基礎をつくった。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
ほかにも、天文三年(1534)大内氏と龍造寺氏との和睦の仲介役も果たしたそうだ。近隣諸勢力にとっても松浦氏(平戸氏)は、重きをなしていたということだろう。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
この間の享禄元年(1528)松浦興信は勝尾岳城を改修、拡張したという。このとき、肥前および筑後のものが城の東と西にそれぞれ空堀をつくったので、肥前堀、筑後堀と呼ばれている。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)

そして、興信の第一子が松浦隆信(まつらたかのぶ)だ。この隆信のときに、もっぱら松浦氏を称するようになるという。ただ、その地位継承は円滑にはいかず、天文十年(1541)父・興信の死にあたって隆信は十三歳であり、老中たちは別のものを家督に押したが、籠手田安昌(こてだやすまさ)が隆信を推し家中の反対を押し切って家督継承を実現させたという。したがって、隆信は生涯、籠手田安昌・安経父子に配慮しなければならなかったという。籠手田安昌は田平栄(さびらさかえ)の子で松浦一族だ。ちなみに隆信の母は、興信の後妻・波多盛の娘である。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

隆信も海外貿易に意を用いた。天文十一年(1542)明(みん)の五峯王直(ごほうおうちょく)を平戸の勝尾岳東麓に住まわせたという。王直は明の大貿易商で、密貿易のボスで、海賊の巨魁、倭寇の頭目であった。平戸を根拠地として明だけでなく遠くルソンやシャム、マラッカへも密貿易の手を広げ、また明の沿岸部を掠奪したという。その倭寇行為は褒められたことではないが、京、堺あたりの商人も平戸へ集まるようになり、町は栄えたそうだ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
王直の屋敷跡

こういう流れの中で、のち天文十九年(1550)ポルトガル船が平戸へ入港する。王直がドワルテ・ダ・ガマの船を手引きしたものという。隆信はこれを歓迎し、貿易とセットのキリスト教布教も認めた。同年(天文十九年=1550)八月、フランシスコ・ザビエルが平戸へやってきた。ザビエルは前年(天文十八年=1549)日本へ渡り薩摩へ上陸していた。松浦隆信はザビエルを歓迎し伝道を許可した。ザビエルは平戸に一ヶ月間滞在し、山口を経て京へ向かう。平戸にはパードレ・トルレスを残した。ザビエルは翌天文二十年(1551)三月、大内氏への献上品を準備するために一旦、平戸へ戻った。ザビエルと平戸の関係はここまでで、その後はガスパル・ビレラなどが布教にあたった。しかし、ガスパル・ビレラの布教は熱心、というより強引で、お寺から仏像や経典を勝手に持ち出して浜辺で焼いたりした。そのため僧侶や仏教徒の反感を買い、籠手田安経が隆信に謀叛を企てているという中傷がなされた(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)。 籠手田安経(定経)は隆信のすすめで弘治三年(1557)、弟の一部勘解由(いちぶかげゆ)とともにキリスト教に入信していたため、仏僧らの怨嗟の的となったのだろう。領内が不穏になったことから松浦隆信は永禄元年(1558)ガスパル・ビレラを領外へ追放した。ところが、その翌年のポルトガル船は平戸に宣教師がいないことを理由に入港せず、宣教師の召還を求めた。隆信はやむなく博多からパードレ・バルタザール・ダ・カーゴを迎えた。ポルトガルとの貿易は順風満帆というわけにはいかなかった、ということだ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

それでも平戸はポルトガル貿易の拠点であり続け、永禄四年(1561)には一年間に五艘ものポルトガル船が平戸に入港した。平戸にとってポルトガルとの貿易の最盛期だった。そのなかで、両者の関係を一気に悪化させる大事件が起こる。「宮ノ前事件」だ。永禄四年(1561)、平戸の七郎宮前においてポルトガル人と日本人の間で貿易に関して争いが起こり、ポルトガル船の船長以下十四名が日本人により殺害された。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
この事件は、フロイスによると、数名のポルトガル人が貿易品の布地のことで一人の日本人と争いになった。ポルトガル側は総司令官・フェルナン・デ・ソーザが駆けつけたが、日本人の武士達はポルトガル人に対して非道かつ残虐な態度で臨み、ついに総司令官および十三名が殺害された、と報告されているそうだ。一方、日本側の資料では、喧嘩の仲裁に入った日本人を、言葉の通じないポルトガル人は加勢にきたものと勘違いし先に剣で傷つけたため、侍たちが激昂して相手全員を殺した、となっているという。記述に食い違いがあり、事実はよく分からない。(川崎桃太氏 「フロイスの見た戦国日本」)

この事件についてポルトガル人側は、松浦隆信に対して謝罪と善後措置を求めたが、隆信は座視したのでポルトガル人たちは大いに憤慨した。彼らは、隆信が貿易のためのポーズとしてキリスト教を歓迎しているような態度をとっているだけであることを以前から見抜いていたともいう。また、隆信の嫡子・鎮信(しげのぶ)はあからさまにキリスト教を嫌っていた。トルレスや修道士アルメイダらは、大村純忠(おおむらすみただ)の領内、横瀬浦(よこせうら)に目をつけ測量し、また純忠にたいして純忠がキリスト教に改宗すれば貿易の利が得られると説得した。純忠はこれを歓迎した。翌永禄五年(1562)ポルトガル船がやってくると、トルレスはこれが平戸に入港するのを阻止し、大村領の横瀬浦へ寄港させた。そして永禄六年(1563)五月、大村純忠は洗礼をうけ、ドン・バルトロメウと称した。日本で最初のキリシタン大名の誕生である。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」、山川出版社 「長崎県の歴史」)

しかし同年七月、大村氏の家臣・針尾伊賀守貞治が武雄の後藤貴明(ごとうたかあきら)と結び大村純忠に叛旗を翻し、純忠を追い出した。大村純忠は、実は有馬晴純(ありまはるずみ)の二男であり大村純前(おおむらすみさき)の養子となったものであって、これに先立って純前の実子・又八郎は後藤純明の養子に出されており、これが後藤貴明である。一旦逃れた純忠は有馬氏の援助を得てほどなく領主に復帰したが、この謀叛の際、横瀬浦は焼き討ちされていた。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」、新人物往来社 「戦国人名事典」)
このため翌永禄七年(1564)のポルトガル船はふたたび平戸へ入港した。喜んだ松浦隆信は勝尾岳東麓に天門寺(御孕みのサンタマリア)という教会を建造した。これが平戸における天主堂のはじめだそうだ。天門寺の場所は、かつての王直屋敷跡のあたりだそうだ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」、外山幹夫氏 「肥前松浦一族」、天門寺跡現地案内板)

しかしながらポルトガル人たちは、なおキリスト教に入信しようとしない隆信に対して不満があり、その翌年永禄八年(1565)のポルトガル船を大村領の福田港へ入港させた。隆信は侮辱されたと大いに怒り、福田港を攻撃した。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
そのころ平戸港へ来ていた堺の商人の大船、八艘から十艘と同盟し、七十艘の小船とともに武装船団を編成し福田港を襲撃した。戦闘は二時間に及び、油断していたポルトガル人であったが、たまたまマラッカの司令官の乗るガレオン船が福田港にいて、この大砲が松浦方の大船三艘を撃破したこともあり、松浦勢は退却した。ポルトガル人の死者八人、松浦方は八十人の戦死と百二十人の負傷者を出したという。(川崎桃太氏 「フロイスの見た戦国日本」)
こうして平戸のポルトガル貿易は終わっていく。以降、元亀元年(1570)までは福田港が貿易港として栄え、福田港が波浪がはげしかったため大村純忠の許可を得て、翌年元亀二年(1571)からは長崎に港が開かれた。当時、長崎の地は純忠の家臣・長崎甚左衛門純景(ながさきじんざえもんすみかげ)の領地で何もなく、葦原や砂洲にキリシタンの町が建設された。(山川出版社 「長崎県の歴史」)

さて、貿易関係はひとまず置いておいて、松浦隆信の近隣との争いについてみてみよう。
相神浦親(あいこうのうらちかし)との争いは隆信の時代に本格化したようだ。王直が平戸へ住居をかまえた天文十一年(1542)、隆信は親の所領である鷹島および今福を攻め、翌天文十二年(1543)に飯盛山城を攻めたてた。このときは有馬氏が仲介に入り、鷹島を隆信へ譲ることで和議が成立した。しかし、親は有馬氏から養子・盛(さかう)を迎えて隆信に対抗した。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
当時の有馬氏の家督は、修理大夫有馬晴純(ありまはるずみ)だ。有馬氏の全盛期を築いた人物で、晴の字は将軍足利義晴(あしかがよしはる)の偏諱を得たものという。晴純は積極的な政略家で、嫡男・義貞(よしさだ)へ家督を譲ったほかは、その弟・純忠は大村家を、直員(なおかず)は千々石(ちぢわ)家を、盛は上述のとおり松浦相神浦家を、末子・諸経(もろつね)は肥後天草の志岐(しき)家をそれぞれ相続した。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

一旦和睦した松浦隆信と親であったが、永禄六年(1563)隆信は海陸から飯盛山城を攻めた。飯盛山城の守りは堅く落城させることはできなかったが、このあいだに隆信は有馬・大村勢と針尾に戦うなど早岐(はいき)、針尾(はりお)を手に入れた。万策尽きた親は養子・盛を有馬へ帰し、永禄八年(1565)自ら平戸へ出向いて降伏した。その証として隆信の三男・親(ちかし)を養子としたわけだが、親(ちかし)の養子が親(ちかし)ということで、まことにヤヤコシイ。これにより、相神浦は平戸松浦氏のものとなった。一方、有馬へ帰された盛(さかう)は松浦へ帰ってきたため親(養父のほうのちかし)は困り、盛を有田の唐船城(とうせんじょう)に住まわせて自分は引退して宗金と称した。跡を親(隆信の実子のちかし)に譲ることをはっきりさせたということだろう。盛はこれを不満として永禄十年(1567)相神浦を攻めたが、松浦鎮信(まつらしげのぶ)が駆けつけ相踏原に盛を破った。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

永禄六年(1563)先述のように大村純忠(おおむらすみただ)は、武雄の後藤貴明(ごとうたかあきら)と結んだ重臣の叛乱にあい、大村を追い出された。これより前、後藤貴明は松浦隆信に援助を求め、隆信は「宮の前事件」でポルトガル船が大村領の横瀬浦に移っていたので貴明の申し出に応じ、また二男・惟明(これあき)を貴明の養子とした。純忠が謀叛に敗れ多良岳に逃れると、貴明は大村領であった佐世保、日宇、早岐、佐志方の地を隆信に献上した。翌永禄七年(1564)有馬尚純は兵船百艘を大村湾に派遣したが、隆信は篭手田左衛門、加藤源之助の兵船を差し向けこれを破った。さらに翌永禄八年(1565)大村純忠が早岐へ侵攻したため隆信は嫡子・鎮信を遣わしてこれを退け、針尾伊賀守は隆信に帰順した。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
なお、のちのことになるが、後藤家の養子となった後藤惟明は天正二年(1574)、養父貴明に謀叛を企て、敗れて平戸へ戻った。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)

さて、壱岐では既述のように文明四年(1472)、上松浦・岸岳城の波多泰(はたやすし)が壱岐を分割統治していた志佐(しさ)・佐志(さし)・呼子(よぶこ)・鴨打(かもち)・塩津留(しおづる)の五氏を急襲して追い出し、日高氏を置いて全島を領有していた。(亀丘城現地案内板、松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
天文十一年(1542)波多氏当主・盛(さこう)は嗣子のないまま没した。重臣の日高資らは盛の甥・隆をたてたが、盛の後室・真芳はこれに対し、有馬氏から藤童丸を迎えて跡継ぎとした。松浦隆信は盛の後室に対して非道を説いたが容れられなかった。隆信の母は上述のように波多盛の娘なので、盛の後室は隆信の義理の祖母ということになる。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
ここで、後室が藤童丸を有馬から迎えたことについて、「日本城郭体系17」は弘治三年(1557)のこととしている。盛が死去して十五年後だ。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)
なお、藤童丸について 「史都平戸−年表と史談−」は有馬晴純の子(二男)としているが、これは有馬義貞(ありまよしさだ)の二男の誤りだと思う。有馬義貞は晴純の嫡子で、安富入道徳円の娘を妻としていたが、のち波多壱岐守盛の娘を継室とした。そしてその二男が藤童丸で、のちに鎮(しげし)または親(ちかし)と名乗った。藤童丸の母(実母だろう)が波多盛の娘なので、その縁で波多家を継ぐことになったのだろう。フロイスは「日本史」の中で藤童丸について、「ドン・プロタジオの兄で波多殿という異教徒」であり、「もし他家を嗣いでいなければ彼が有馬殿となっていた筈である」と書いている。ドン・プロタジオというのは有馬晴信(ありまはるのぶ)のことだ。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)
ところで、波多盛の甥・隆は弘治元年(1555)、壱岐六人衆により殺されている。その経緯はよく分からないが、盛の後室の動きと関係しているように思える。(山川出版社 「長崎県の歴史」)
また、盛の後室は日高資を毒殺した。まさに、やりたい放題という感じだ。資の子・喜(このむ)は大いに怒り永禄七年(1564)岸岳城を攻撃して後室と藤童丸を追い落とした。二人は草野鎮永(くさのしげなが)のもとに逃れた。ところが、盛の後室は烈女だったようで、永禄十二年(1569)龍造寺隆信と有馬氏の援助を受けて岸岳城を奪回する。日高喜は壱岐に逃れ、亀丘城(かめのおじょう)に拠った。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」) このとき喜は亀丘城の城代・波多政を討ち取って壱岐を押領したという。(秋田書店 「日本城郭総覧」)
この前の年、永禄十一年(1568)日高喜は松浦隆信と誼を結んでいた。波多鎮(はたしげし=藤童丸=親ちかし)と義母による反攻の兆候があったのだろう。日高氏は壱岐に逃れたのち、元亀二年(1571)に松浦氏に従属した。(亀丘城現地案内板) 独力では壱岐を維持できないと判断したものと考えられる。日高喜は娘を松浦隆信の子・豊後守信實に嫁がせ、壱岐は平戸領となった。その翌年、元亀三年(1572)に波多氏は対馬の宗采女に援助を求め、宗は壱岐を攻めたが、日高はこれを撃退している。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
その後も壱岐は平戸藩の領地として幕末まで続いていく。平戸藩亀丘城(かめのおじょう=亀尾城)に城代と郡代を派遣して壱岐を治めた。明治に入って平戸藩が長崎県になったので、壱岐も長崎県だ。(亀丘城現地案内板)
ちなみに、藤童丸こと波多鎮(はたしげし=波多親ちかし)はのちに豊臣秀吉から岸岳城を安堵されたが、文禄の役で改易され波多氏は断絶する。その領地は寺沢広高(てらさわひろたか)に与えられ、広高は唐津城を築いた。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)

この間、永禄十一年(1568)松浦隆信は剃髪し、道可(どうか)と号し、跡を嫡子の鎮信(しげのぶ)に譲った。これが平戸藩初代藩主の松浦鎮信(まつらしげのぶ)だ。ちなみに、松浦氏には父・隆信、子・鎮信という父子が二組あり、ヤヤコシイ。そこで法名をもって表すのが便利だ。「宮ノ前事件」の松浦隆信は道可、その子・鎮信が法印(ほういん)、法印の孫・隆信が宗陽(そうよう)、その子・鎮信が天祥(てんしょう)だ。
その早いほうの松浦鎮信は天正二年(1574)諫早の西郷純堯、武雄の後藤貴明とともに大村純忠を三城(さんじょう)に奇襲したが、敗れた。
のち天正十四年(1586)大村純忠は波多・有馬・宗・有田らと謀って早岐井手平などを攻めたが、松浦隆信・鎮信父子は海陸に出陣して撃退した。このとき、大村との間で重尾峠において両国の境界をさだめ、また純忠の娘を鎮信の子・久信(ひさのぶ)の室とすることで和睦した。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

翌天正十五年(1587)秀吉の九州征伐。松浦鎮信は、同年四月、筑後高良山(こうらさん)へ出向き秀吉に拝謁した。五月、秀吉が薩摩へ攻め入るにあたり、松浦鎮信は海上を警備しつつ船奉行の九鬼嘉隆(くきよしたか)・脇坂安治(わきさかやすはる)・加藤嘉明(かとうよしあきら)を先導した。九鬼らは島津方の桂忠明が籠もる平佐城(ひらさじょう)を船筏で包囲した。川内川を遡ったということだろう。そして島津義久は川内の泰平寺(たいへいじ)に出向き降参した。(「北肥戦誌」)
松浦道可(隆信)・鎮信父子は秀吉から所領を安堵され、同年、伏見に邸宅を賜っている。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
天正十九年(1591)鎮信と対馬の宗義智(そうよしとも)は秀吉に招かれ、鎮信の献じた朝鮮の地図によって渡海作戦を練った。秀吉は鎮信に、領国内の壱岐に勝本城を築くことを命じた。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
秀吉が勝本城築城を命じたのが天正十九年(1591)九月、有馬晴信・大村喜前(おおむらよしあき)・五島純玄(ごとうすみはる)に支援させ、同年中に完成したという。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)

翌文禄元年(1592)朝鮮出兵。松浦鎮信は兵三千を率いて小西行長軍に所属した。やや遅れて子の久信も出陣した。忠州・平壌の戦いでは敵の大軍に対し火牛の計を用いるなど奮戦したという。平壌戦ののち、敵は沈惟敬を使いとして講和を申し入れたが、鎮信はこれが偽りであることを見抜いて小西行長に諫言したものの容れられず、後日、明の大軍が押し寄せたことで鎮信の慧眼を知らしめたそうだ。慶長元年(1596)和議が整い、加藤清正、小西行長等は帰国したが、鎮信は釜山で警備にあたった。
のち慶長三年(1598)鎮信・久信父子は帰国、その際朝鮮人の陶工約百名を連れ帰り、中野焼を始めさせたという。
翌慶長四年(1599)、鎮信は日の岳城(ひのたけじょう)を築いた。日の岳は朝日岳、亀岡とも称し、当時の居城・白狐山城(つまりここで紹介している勝尾岳城)の東方600mの海に突き出た小山で、鎮信の父・隆信が生前築城を考えていたという。今の平戸城が建っているところだ。鎮信は朝鮮から帰ると直ちに築城に取り掛かり、不要となった名護屋城の建物なども利用した豪華な城であったそうだ。家臣を城下に集め、商家は茅葺き屋根を板屋葺きに改めさせたというので、築城とともに居城を移したと思われる。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

日の岳城に居城を移したのちの勝尾岳城については、よく分からない。そのまま廃城になったのではないだろうか。

翌慶長五年(1600)関ヶ原の戦い。松浦鎮信は、当初は石田三成方につこうとして出征したが、赤間関(あかまがせき=今の下関市)において大村喜前(おおむらよしあき)・五島玄雅(ごとうはるまさ)らと密議をこらし、東軍か西軍か、あるいは領国に引き篭もるか、談じた。このとき、同国の将・寺沢広高の動向が注目されたという。広高は東軍として関ヶ原に参陣している。鎮信らは領国へ引き返していたようだ。(別冊歴史読本 「野望!武将たちの関ヶ原」)
結局、鎮信は関ヶ原には参加していないが、西軍に与しなかったことを嘉賞されたという。家康からだろうか。翌慶長六年(1601)鎮信は東上して家康に拝謁し、旧領六万三千二百石を安堵された。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」

同年、鎮信は家督を息子の久信(ひさのぶ)に譲った。ところが、久信はその翌年、慶長七年(1602)伏見の邸において死んでしまう。三十二歳であった。鎮信はさぞ落胆したことだろう。久信の子・隆信(たかのぶ=宗陽)はその翌年、慶長八年(1603)十三才で元服し、鎮信に伴われて駿府に出向き、家康に謁して家督を認められた。

慶長十四年(1609)オランダ船がはじめて平戸に入港した。これより先、慶長五年(1600)にオランダ船「リーフデ号」が豊後に漂着し、その航海長のイギリス人、ウィリアム・アダムスは三浦按針(みうらあんじん)として家康の顧問となっていた。のち、「リーフデ号」船員たちを帰国させるにあたり、松浦鎮信は家康に請い西洋渡航の朱印を受け、銀十五貫を投じて船を造って慶長十年(1605)彼らをマレーのパタニへ送り届けた。オランダはこの好意に報いるため、国王の書を携えた商船二艘を平戸へ派遣した。これが慶長十四年(1609)平戸へ入港したわけだ。鎮信はさっそくオランダ国王の書簡を家康へ送り、正式な通商許可を得て、同年平戸にはじめてオランダ商館が設置された。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
ウィリアム・アダムスこと三浦按針(みうらあんじん)はその後、平戸にイギリス商館が設置されることにも力を発揮したという。元和六年(1620)平戸で病死した。(「三浦按針墓」現地案内板)
英国商館跡 三浦按針終焉の地

慶長十七年(1612)松浦隆信が従五位下肥前守に任ぜられた。しかし、その口宣案の宛先には「豊臣隆信」と書いてあったという。拙者はこのことがきっかけとなったと考えているが、翌慶長十八年(1613)鎮信は居城・日の岳城を焼き捨てた。豊臣大名と目されていたことから徳川の嫉視を避けるためといわれている。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

松浦鎮信は、それ以降は城を構えず中之館(なかのたち)を居館とし、ついで御館(おたち)に移った。ただ、中之館(中之御館とも)から御館へ移った時期は不明だ。また中之館の場所も現在の平戸市保健所付近という口伝がある程度で、その規模も遺構も全く不明だそうだ。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)

ということで、松浦隆信は居館を御館(おたち)に移した。ここから先の松浦氏については、御館ページに譲ることにしよう。



■勝尾岳城へGO!(登山記)
平成21年(2009)6月6日(土)

今日は平戸へ息子と二人旅だ。平戸島を一周しようと意気込んでやってきたが、天気は悪いし、意外に大きな島なので半周で断念した。
ということで、平戸市街へ戻り、本日の主目的である勝尾岳城へやってきた。

しかし、どこから登ればよいか全然分からない。松浦史料博物館でもらった観光地図を片手に、「宗陽公の墓」を目指す。
幸い「宗陽公の墓」へは適宜、標識が出ているので助かる。あとで分かったが、「ザビエル記念教会」の尖塔が目印だ。
平戸ザビエル記念教会の尖塔

宗陽公というのは、平戸藩主・松浦隆信のことだ。ただ、松浦隆信という人物は二人いるので、分かりやすいように法名で呼ぶのだろう。
ずっしりと立派なお墓が堂々としている。
宗陽公の墓

お参りをして、さて、ここが勝尾岳の中腹にあたると思うが、山頂へ行くにはどうしたらよいのだろう。
と、あたりを見回していると、右の奥のほうに階段が見えた。お寺の私有地のような感じで上っていいものやら、と思ったが、
まぁここまで来たのだから行ってみよう。
勝尾岳城頂上への階段_右奥の暗いところ

階段が尽きると、結構な勾配の坂道が上へと続く。よしよし、山城の雰囲気があるぞ。
登山道_結構急な坂だ

とのぼっていると意外にあっさり2分くらいで山頂に着いた。
うむ、ここがきっと本丸跡だろう。平坦地になっている。広さはさほどでもないように感じたが、
奥の竹林の向こうには携帯電話か何かのアンテナが立っていて結構広いんだな。
しかしアンテナが設置されているということは、地形の改変が行われているのだろう。少し残念だ。
勝尾岳城本丸

もう一つ残念なのは、眺望が全くきかないことだ。もう一人の松浦隆信が眼下にポルトガル船の入港を眺めたであろう景色は、全然見えないよ。

本丸には、小さな祠がひとつ、石碑が二つ立っている。石碑の文字はよく読めない。城跡を示す標識もない。
本丸の石碑と祠

ほかには何もなさそうなので下りることにした。帰りに、「寺院と教会の見える道」へ行く。
ここは凹道になっていて、これが空堀「肥前堀」の名残だそうだ。道の両側斜面はところどころ石垣で固めてあるが、多くは土だ。
おそらく当時も土の斜面だったことだろう。この堀跡がもっとも勝尾岳が城であったことを物語る遺物かもしれない。
肥前堀は凹道だ

勝尾岳城は、今では城跡と紹介する看板も何もないが、何百年間もの間、平戸の町の盛衰を見下ろしてきたのだろう。
勝尾岳中腹から平戸城を臨む



■勝尾岳城戦歴

◆永享六年(1434)、宇久基・加藤景明の連合軍は勝尾岳城(白狐山城)を包囲した。平戸芳(ひらどよし)は籠城したが、生月の加藤氏・一部氏・山田氏、下方の紐差氏、津吉の津吉氏などまで攻城軍に加わり攻撃してきた。この戦いの中、芳の父・勝(すぐる)は討ち死。さらに芳も陣没した。この事態に、大島の豪族・大島応、胤政父子は、芳の弟で田平の峯氏を継いでいた峯義(みねよろし)を奉じ、平戸の勝尾岳城(白狐山城)の包囲軍を追い払い、城を回復した。義は平戸へ帰り家督を継いだ。田平の峯氏は義の長男・弘(ひろむ)に継がせた。平戸氏(松浦氏)の大きな危機はなんとか凌ぐことができた。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆文明十八年(1486)ころ、平戸弘定(ひらどひろさだ)は、田平領をめぐって実兄である田平昌(たびらさかえ)と争いになった。一戦交える直前、弘定の重心・大島胤政(おおしまたねまさ)が田平昌を説得し、刃を交えることなく昌(さかえ)は田平の里城(さとじょう)を退去し、島原へと落ち延びた。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」) その結果、田平と江迎(えむかえ)の地は平戸氏の所領となった。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

◆延徳三年(1491)、島原へ逃れていた田平昌(たびらさかえ)は有馬貴純の支援を受け、大村純伊、相神浦定(あいこうのうらさだむ)、および佐々(さざ)・志佐(しさ)の兵とともに平戸の弘定を攻めた。弘定は勝尾岳城(白狐山城)を出て、箕坪城(みのつぼじょう)に籠もった。籠城三ヶ月ののち、弘定は海路ひそかに箕坪城を脱出し、筑前国箱崎の金胎寺に逃れた。平戸は田平昌(たびらさかえ)の領有するところとなった。このとき昌は、有馬貴純の偏諱を受け純元(すみもと)と名を改めたという。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」、外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

◆明応元年(1492)、山口の大内政弘が平戸弘定、田平純元(昌)兄弟間の調停に乗り出し、弘定が平戸および田平を領有すること、および昌(純元)の子・興信を弘定の娘・布袋と婚姻させ弘定の嗣子とすることで決着し、弘定は平戸へ帰った。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」、外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

◆明応七年(1498)、平戸弘定は大野源五郎を総大将として大智庵城(だいちあんじょう)の松浦政(まつらまさし)を攻撃した。松浦政の父・定(さだむ)は延徳三年(1491)に箕坪城を攻め、弘定はからくも筑前へ逃亡した経験があったので、その報復戦と思われる。政の家臣・山田四郎左衛門が平戸方へ内応したため、大智庵城は落城し、政は討ち死した。政の妻と息子・幸松丸は捕らわれの身となった。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆永正四年(1507)、大内義興(おおうちよしおき)が足利義稙(あしかがよしたね)を奉じて上京する檄にこたえ、平戸弘定は嗣子の興信(おきのぶ)に兵を与えて京へ派遣したという。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆永正五年(1508)、人質としていた相神浦松浦政の子・幸松丸が今福の歳の宮(としのみや)参詣の際に遺臣たちに奪回された。幸松丸はのちに相神浦親(あいこうのうらちかし)と名乗り、飯盛城(いいもりじょう)を築いて平戸氏と争うようになる。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆永正十年(1513)、松浦興信(まつらおきのぶ)は、十五年前に平戸へ逃れてきていた宇久盛定(うくもりさだ)のために大野五郎に兵を預けて五島を攻めさせ、玉ノ浦納を破って宇久盛定を宇久家の家督に復活させた。盛定は謝礼に上五島の浜ノ浦、中五島の塩釜などを興信へ贈ったので、平戸氏は五島にも領地をもつことになった。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆永正十年(1513)、松浦興信は直谷城に実弟の志佐純次(すみつぐ)を攻めた。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)  のちに興信と純次は和睦したが、興信は江迎を押領した。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)

◆大永四年(1524)、松浦興信は大内義興に従って安芸国に出陣し、恩賞として筑前国の内林に百町の所領を得たという。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆天文十一年(1542)、松浦隆信は相神浦松浦親(ちかし)の所領である鷹島および今福を攻めた。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆天文十二年(1543)、松浦隆信は相神浦松浦親(ちかし)の本城・飯盛山城を攻めた。このとき有馬氏が仲介に入り、鷹島を隆信へ譲ることで和議が成立した。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆天文十九年(1550)、ポルトガル船がはじめて平戸へ入港した。松浦隆信はこれを歓迎し、キリスト教の布教を認めた。同年八月、フランシスコ・ザビエルが平戸を訪問。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆永禄四年(1561)、「宮ノ前事件」。平戸の七郎宮前においてポルトガル人と日本人の間で貿易に関して争いが起こり、ポルトガル船の船長以下十四名が日本人により殺害された。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)</FONT>

◆永禄六年(1563)、松浦隆信は海陸から相神浦松浦親(ちかし)の本城・飯盛山城を攻めた。飯盛山城の守りは堅く落城させることはできなかった。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆永禄六年(1563)、松浦隆信は第二子の惟明(これあき)を武雄の後藤貴明(ごとうたかあきら)の養子とした。これは、後藤貴明が松浦隆信に援助を求めたものという。同年七月、大村純忠の家臣・針尾伊賀守貞治が後藤貴明と結び大村純忠に叛旗を翻し、純忠を追い出した。大村純忠は、実は有馬晴純(ありまはるずみ)の二男であるが大村純前(おおむらすみさき)の養子となったものであって、これに先立って純前の実子・又八郎は後藤純明の養子に出されており、これが後藤貴明である。大村純忠が逃亡したことで、後藤貴明はお礼として松浦隆信に大村領であった佐世保、日宇、早岐、佐志方の地を隆信に献上した。一旦逃れた純忠であったが、有馬氏の援助を得てほどなく領主に復帰した。なお、この謀叛の混乱のときに横瀬浦は仏教徒らによって焼き討ちされた。このため翌永禄七年(1564)のポルトガル船はふたたび平戸へ入港した。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」、新人物往来社 「戦国人名事典」、松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆永禄七年(1564)、有馬尚純は大村純忠を援けて兵船百艘を大村湾に派遣した。松浦隆信は篭手田左衛門、加藤源之助の兵船を差し向けこれを破った。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆永禄八年(1565)、大村純忠が早岐へ侵攻したため松浦隆信は嫡子・鎮信を遣わしてこれを退けた。このとき、針尾伊賀守は隆信に帰順したので、針尾を領有することとなった。<FONT size="-1">(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆永禄八年(1565)、ポルトガル船が大村領の福田港へ入港したため、松浦隆信は怒り福田港を攻撃した。ちょうどそのころ平戸港へ来ていた堺の商人の大船、八艘〜十艘、および小船七十艘とともに武装船団を編成し福田港を襲撃。戦闘は二時間に及んだがガレオン船の大砲が松浦方の大船三艘を撃破するなど松浦方の損害は大きく、退却した。ポルトガル人の死者八人、松浦方は八十人の戦死と百二十人の負傷者を出したという。(川崎桃太氏 「フロイスの見た戦国日本」)</FONT>

◆永禄八年(1565)、相神浦松浦親(ちかし)は力尽き、有馬氏から迎えていた養子・盛(さかう)を有馬へ帰して、自ら平戸へ出向いて松浦隆信に降伏した。その証として隆信の三男・親(ちかし)を養子とした。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆永禄十年(1567)、かつて相神浦松浦親(ちかし)の養子となっていた有田・唐船城(とうせんじょう)の有馬盛が相神浦を攻めた。これに対し、松浦鎮信が応援に駆けつけ、相踏原に盛を破った。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆天正二年(1574)、松浦鎮信は諫早の西郷純堯、武雄の後藤貴明とともに大村純忠を三城(さんじょう)に奇襲したが、敗れた。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆天正十四年(1586)、大村純忠は波多・有馬・宗・有田らと謀って早岐井手平などを攻めたが、松浦隆信・鎮信父子は海陸に出陣して、これを撃退した。このとき、大村との間で重尾峠において両国の境界をさだめ、また純忠の娘を鎮信の子・久信(ひさのぶ)の室とすることで和睦した。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

◆天正十五年(1587)、松浦鎮信は筑後高良山(こうらさん)へ出向いて豊臣秀吉に拝謁した。五月、秀吉が薩摩へ攻め入るにあたり、松浦鎮信は海上を警備しつつ船奉行の九鬼嘉隆・脇坂安治・加藤嘉明を先導した。九鬼らは島津方の桂忠明が籠もる平佐城を船筏で包囲した。(「北肥戦誌」)

◆文禄元年(1592)、朝鮮出兵に際し松浦鎮信は兵三千で小西行長軍に所属した。鎮信・久信父子は慶長三年(1598)まで朝鮮に在陣、帰国にあたって朝鮮人の陶工約百名を連れ帰り、中野焼を始めさせたという。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

以上


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