飯盛山城ロゴ
---- いいもりやまじょう ----
別名: (なし)

平成16年5月4日作成
平成16年11月28日更新

宗像氏の糟屋郡方面に対する出城。

飯盛山城遠景
飯盛山城遠景(清滝より) 中央のおむすび山が飯盛山城

・データ
・飯盛山城概要
・飯盛山城へGO!(登山記)
・飯盛山城戦歴


 

■データ

名称 飯盛山城 いいもりやまじょう
別名 なし
築城 築城者、年期ともに不明。
破却 これも不明。小早川隆景の筑前入国のときか?
分類 山城(標高157m)
現存 曲輪跡
場所 宗像郡福間町内殿(旧筑前国宗像郡)
アクセス JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ向かい、約30分、流交差点を右折、太郎丸交差点(新宮太郎丸交差点ではない)を左折、鷺白橋交差点を左折すると町川原赤間線(昔の唐津街道)だ。約2キロで飯盛山麓に出るので、道の右側の駐車場に駐車する。多分これが一番分かりやすい。
または、3号線をもう少し進んで、上西郷交差点を過ぎてすぐ左折し、下の道へ下りる。飯塚福間線だ。これを右(飯塚方面)へ行き、1.5キロで上西郷小学校の交差点なので、右折。すると目の前におむすび形の山が見える。飯盛山だ。道なりにまっすぐ行けば麓に看板が出ている。駐車場あり(道の左側)。
◆追記 駐車場に「飯盛山登山者駐車場」の看板が立っていて分かりやすくなった。2004/10/24


■飯盛山城概要

「飯盛山」という山は全国各地にある。『筑前國続風土記』に4つの飯盛山として紹介されているように、福岡周辺にもたくさん(あ、4つか)あって、いずれも山城が築かれていた。ここで紹介するのはそのうちの一つ、宗像郡の飯盛山だ。
飯盛山は、宗像郡と糟屋郡の境界近く、三角おむすびのような形をしている。九州自動車道(高速道路)の古賀サービスエリアのすぐそばで、頂上に国旗が揺れている山がそれだが、サービスエリアからは行けない。
古賀サービスエリアより

戦国末期、宗像郡は宗像氏、糟屋郡は立花氏の勢力範囲であった。宗像氏は、少弐氏と対抗するためか、いつの頃からか周防の大内氏に属しており、大内氏滅亡後は毛利氏に属した。立花氏は豊後・大友氏の一族なので、必然的に宗像氏と立花氏は敵同士となっていた。

飯盛山城は、宗像氏にとって立花氏に対する最前線の出城であった。郡境に位置し、敵方の薦野城にすぐ近い。また、麓を走る道は、後に唐津街道と呼ばれた主要道で、交通の要衝に位置していた。

ただ、規模の小さな城であって、攻められたときに城を枕に討死するようなものではなかったと思われる。攻められたらサッサと退き、敵が退いたらまた籠もる、という城(砦というべきか)だったのではないだろうか。
城主は、宗像氏から派遣されて(おそらく交替で)来ていたという。一説には、宗像郡の国人・河津氏(かわづし)の持城だったともいう。


■飯盛山城へGO!(登山記)
平成十三年(2001)二月十五日(木)

城というよりも砦といった感じの小さな山城。
麓の飯盛山の看板ヨコに駐車場(というか原っぱ)があるので、そこに車を停めて登ってみる。
飯盛山城入り口(左端の道が唐津街道)
幼稚園(?)ヨコを通り過ぎ斜面に取り掛かる。階段が取り付けられていて登りやすい。約10分で頂上まで登ることができるが、斜面は見た目より急で守りに適していたのだろう。年のせいか、息が切れる。
登山道

山頂には小さいながら削平地(本丸)とその一段下に曲輪らしきものがあり、城の面影を感じることができる。本丸への道は、ちゃんと虎口の形にもなっている。ついでにベンチや国旗もある。ハイキングコースになっているようで桜の木が多い。
本丸跡

本丸跡と曲輪跡本丸跡と曲輪跡

ここからは見晴らしが良く、遠く敵方の立花山城や薦野城、味方の許斐岳城、宮地岳、と360度の視界が利く。夕暮れの玄界灘もよく見える。最前線基地として機能していたのだろう。
宿敵・立花山城を望む 敵・こもの城を望む 上官・許斐山城を望む 味方・宮地岳城を望む

冬の日差しと風が心地よかった。
飯盛山の紅梅



■飯盛山城戦歴

◆永禄二年(1559)九月、立花山城にいた大友方の宗像鎮氏(むなかたしずうじ)が宗像郡へ進攻した。鎮氏というのは、大友義鎮の諱を受けたのだろう。麻生鎮氏ともいう。これに対し、宗像大宮司・氏貞は支えきれず、大島に脱出した。このとき、西郷(さいごう・現宗像郡福間町)の有力国衆であった河津隆家(かわづたかいえ)は、氏貞方であったが、氏貞が大島へ逃れたため、許斐山城、飯盛山城を明け渡して、亀山城にたて籠もったという。

◆翌永禄三年(1560)三月、宗像氏貞は大島から反撃、宗像郡を回復した。この後、許斐山城、飯盛山城は、氏貞から河津隆家へ旧のごとく渡されたが、河津氏は人手不足であったため、宗像氏家臣が城番として在城したらしい。なお、「河津伝記」には、許斐、飯盛両城はもともと河津氏の持城だったと書いてあるそうだ。(「福間町史」) 位置からいって不自然ではない。

◆永禄十年(1567)、宝満城主・高橋鑑種が大友宗麟に叛旗を翻した。同年九月、宗像氏貞は鑑種に呼応し、立花山城を攻めるが、山麓の和白(わじろ)において怒留湯融泉(ぬるゆゆうせん)に敗れた。立花山城の立花鑑載(あきとし)、怒留湯融泉は勢いを買って宗像を攻めたが、宗像勢は飯盛山城で迎え撃ち、立花勢を撃退した。このとき、宗像氏貞から吉田秀時への感状が残っているそうだ。また、毛利元就も吉田秀時などへ感状を出している。(「福間町史」)


◆なお、「筑前國続風土記」には、永禄十一年(1568)三月、立花鑑載(たちばなあきとし)、怒留湯融泉(ぬるゆゆうせん)、米多比大学(ねたびだいがく)、薦野河内守(こものかわちのかみ)らが飯盛山城を攻め落としたとある。しかし、永禄十一年三月というと、立花鑑載が大友家に叛旗を翻した後にあたるので、この記述の時期は正しくないだろう。しかしながら、この記述の中で、立花勢は飯盛山城を攻め落としたものの確保せず、施設を焼き払って糟屋へ引き揚げた、とあるのが参考になる。飯盛山城は、そういう臨時的な小規模の城(まさしく出城)だったのであろう。

◆永禄十二年(1569)四月、吉川元春・小早川隆景に率いられた毛利勢四万は豊前から筑前へ侵攻、立花山城を陥とした。このとき、宗像氏貞は毛利軍として、自ら飯盛山城まで出張り、陣所を置いたという。同年十月、大友宗麟の策謀で毛利軍が中国へ撤退、氏貞も岳山城へ引き上げた。(伊藤篤氏「福岡の怨霊伝説」)

以上

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