---- このみやまじょう ----
別名:許斐岳城 このみだけじょう・許斐城 このみじょう

平成16年12月16日作成
平成16年12月20日更新

宗像氏の重要な出城

唐津街道の宿場町・畦町から許斐山を望む
許斐山城遠景(畦町より)

・データ
・許斐山城概要
・許斐山城へGO!(登山記)
・許斐山城戦歴


 

■データ

名称 許斐山城 このみやまじょう
別名 別名というほどでもないが、許斐岳城、許斐城、許斐要害とも。 このみだけじょう、このみじょう、このみようがい
築城 宗像大宮司家の第十五代・宗像氏平(むなかたうじひら)が姓を許斐と改め、大治五年(1130)築城、と現地案内板にある。
それとは別に、「福間町史」には宗像大宮司氏長(うじなが)が築城、ともある。宗像氏長は、同書211頁の系図の氏長(宗像大宮司第三十四代)のことだろうか。(他にも同名がいるのでよく分からない)
また、別の現地案内板には、初代宗像大宮司清氏(むなかがきようじ)の次男・氏章(うじあき)が許斐の姓を賜り、王丸村に住んだという記録から、このころ(天慶年中938〜947)築城した、ともある。

破却 天正十五年(1587)、宗像家廃絶のときに廃城となったという。
分類 山城(標高271m)
現存 土塁、馬場跡、竪堀のようなもの
場所 宗像市王丸と宗像郡福間町八並の境(旧筑前国宗像郡)
アクセス 許斐山城への登山口は4箇所あるようだ。拙者は2箇所しか行ったことないので、ここではその2つを紹介しよう。
まず宗像市方面から。JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ向かい、約40分、宗像市の「王丸
おうまる」交差点を右折、突き当たりに「許斐山登山道」の看板が出ているので右折、100mくらい行くと左側に登山者用の駐車場あり(20台くらいかな)。もっと進んで許斐山の案内板が立っているところにも駐車スペース(3台分くらい)があるが、手前の広い駐車場に停めるのが良いだろう。そこからは徒歩で約40分。登山道が整備されている。
次に福間町方面。JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ向かい、約35分、宗像市へ入る直前の「八並
やつなみ」交差点を右折、50mくらいで、「許斐山登山口800m」の看板が頭上にあるので、左折。だらだらと坂道をのぼり、途中「吉原源内三衛門の墓」を通り過ぎ、さらに進むと細くて離合できないような道になるが構わず前進、左手に「許斐山登山者駐車場」の看板があるので、ここで停めよう。(15台くらいかな)そこからは、徒歩で約1時間、結構きついよ!


■許斐山城概要

国道3号線を博多から小倉方面へ行くと、「流(ながれ)」交差点あたりから、また小倉から博多方面へ行くと城山(じょうやま)あたりから、ともによく見えるようになる山、それが許斐山(このみやま)だ。要するに、宗像郡全域から見えるということだ。まぁそれはオーバーだけど、旧宗像郡の真ん中にポコッとあって、城を構えるのに絶好だったのだろう。山頂近くに兜の前立てのようなテレビ塔があるので目印になると思う。ここには去る時代、宗像氏の出城「許斐山城」があった。
福間町の久末総合公園からの遠景
許斐山城は、山頂の城と麓の「里城(さとじろ)」からなっていて、城主は普段は里城に住んでいた、とある。(平凡社 「福岡県の地名」) が、里城がどこだったか、よく分からない。目下、捜索中であります。

現地案内板によれば、築城したのは大治五年(1130)と古い。宗像大宮司第十五代・氏平が築城、第十六代・氏宗が補修し、その子・氏元が許斐家の始祖とされている、そうだ。

南北朝時代の暦応元年(1338)、秋月次郎が籠城の準備をしているという噂があったため、河津種倍が秋月主従を自邸に招いて生捕った。これを聞いた室町幕府の足利直義は、八月十七日付の感状で、河津種倍を宗像郡の「木実山(このみやま=許斐山)之城主」に任じたという。(「福間町史」)
のちに河津氏は宗像・糟屋地方の有力国人になっていくが、これが契機になったんだろうか。それにしても、こんなところに超有名人の足利直義(尊氏の弟)が出てくるとは、ビックラこいたぁ。

現地案内板によると、許斐山城はしばらく廃城となっていたが、享禄二年(1529)宗像氏の家臣・占部豊安(うらべとよやす)が大内義隆(おおうちよしたか)に許しを得て、許斐山城を再興したという。大内滅亡後は、宗像氏の重要な出城となり、立花山城の大友氏(立花氏)との合戦の場に度々なっている。

そうして、天正十五年(1587)、名門宗像家が跡取りがなく断絶したときに、許斐山城も廃城となった。(現地案内板)



■許斐山城へGO!(登山記)
平成十五年(2003)十一月二十四日(月)

今日は許斐山だ。
ふもとの駐車場へ車を停め、登山開始。
まず六の宮を訪ねる。
熊野権現の従神として勧請されたもので、祭神は
宗像三神、彦火々出見尊、豊玉姫命、猿田彦命
と豪華絢爛だ。六柱の神様を祭るので六の宮というのだろうか。
古びた建物が良い。
ふもとの六の宮

防砂ダムをグルッと迂回していよいよ登山道だ。
いきなり両脇が土塁のように盛り上がっている。
ここは防衛拠点になりそうだ。
登山道(王丸)

竹林の中を竪堀のように道が続く。
やはり凹道だ。
道に沿って左側は空掘のようだ。
その向こうの高いところから射掛けられると、ひとたまりもないだろう。
竪堀だろうか

ふと、大きな石造りの鳥居が現れた。
明治二十一年に建てられた熊野宮の鳥居だ。
熊野宮の鳥居
ここ許斐山は、平安時代に紀州熊野権現を勧請したところで、
山城としてよりも熊野宮としての歴史のほうが長いようだ。

さらに登ると常夜灯が建っていた。
文字が磨滅して読みにくいが、文化十年(1813)と彫ってある。
いいねぇ。
文化十年の常夜灯

山道がどんどん険しくなっていく。
階段が設置されているので良かったが、
往時なら攻城軍はもちろん、守備側も登るのがたいへんだっただろう。
すでに息切れ状態だ。。ぜぇぜぇ。

頂上まで100mというところにわずかな平地があり、熊野宮が建っていた。
ずいぶんと小さい。
熊野宮
背後には大岩が聳え立っている。これは天然の城壁となったろう。
また、嘉平杉というのが一本あったが、これは何なのか良くわからなかった。
研究せねばなるまい。
お宮にお参りして先を急ぐ。

頂上近く、右側が大きくえぐれている。
竪堀だろう。
その向こうには平坦地があり、先端にはテレビ塔が建っている。
竪堀そばには石積みがあるぞ!
テレビ塔そばの石積み
しかしなんか変だ。
こんなところに石を積む必要はないではないか。
なぜだろう、としばし考える。
当時とは地形が変わっているのだろうか、
それとも別の場所にあった石積みをテレビ塔建設の際かなにかにここに移したのだろうか。よく分からない。
(後で、廣崎篤夫先生の「福岡県の城」をみて、ここを櫓台ではないか、と想定していてなるほど、と思った)

さて頂上を目指す。
急な階段を登ると頂上だ。
いや、もう一段上がある。ここが本当の頂上、本丸跡だ。
小さな祠がある、熊野宮の奥宮・王子神社だ。
本丸跡はだいたい狭隘なものだが、ここは一段と狭い。
飯盛山よりも狭いだろう。
本丸跡とほこら

本丸、二の丸からは素晴らしい眺めだ。
東に遠く皿倉山、手前には宗像氏貞の本拠地・赤間山城(蔦岳城)、孔大寺山、湯川山、地島に大島まで一望できる。
宗像大社、地島、湯川山を一望できる   本拠地・蔦岳城(赤間山城)を望む   遠くに霞む皿倉山・帆柱山
裏のほうは木が茂って視界が悪いが、福間、相ノ島、新宮から志賀島、遠くに柑子岳城も見える。
残念ながら、出城の飯盛山城、そして宿敵・立花山城は眺望がきかない。
誰か木を切り払ってくれないものか。

二の丸は本丸をグルリ取り巻いている。
石積みのような痕跡が見えるぞ。
二の丸(裏手)、石積みの崩壊跡のような
さらに一段下がって広い曲輪跡がある。
馬場と案内板がある。
馬を疾走させるのは無理があるが、闊歩するくらいなら充分できる広さだ。
馬場跡(天文の頃という)

それにしても立地といい、険しさといい、標高といい、山城としてちょうど具合がよい、といった感じの山だ。
先人の知恵に改めて感心させられる。

帰り道、どこかのおばさんが、「珍しい植物があるけん写真ば撮らんね」と勧めてくれた。
これなんだろ?
赤い植物



【登城後記】
平成十六年(2004)十一月二十一日(日)

今度は福間町の吉原口から登ってみた。
まず、ふもとの「吉原源内三衛門貞安の墓」を訪ねる。
永禄三年八月の日付が彫ってある墓石は古いが、まわりは平成十年に子孫の方だろうか、再建されている。
吉原源内の墓

登山者用駐車場に愛車のチャリンコを停め、いざ登る。
登り口付近は、登山道の左右に段々状の平地が続く。
許斐山城の曲輪跡だろうか、それとも後世の段々畑跡か。

木戸を設置するのにちょうどよさそうな急な坂を息を切らしながら登る。
と、「麻生重氏さまの墓」があった。麻生重氏って誰だろう?
登山道  麻生重氏さまの墓
お参りをして先を急ぐ。

坂は急だけど、ちゃんと登山道が整備されている。
昨日は「こもの城」へ行ったが、道がなく、迷子になりそうになったので、はっきりとした登山道がひとしおありがたい。

目の前に大きな土塁がせまっている。
回り込むように上ると広々とした平地、「西の丸」だ。
傍らには「金魚池」がある。
許斐山城の用水池だったといわれる。水は山城の急所だ。
西の丸 金魚池(干上がっている)

さらに進むと、「大堀切」だ。
大堀切(西の丸と二の丸の間)
ここから左へ行くとテレビ塔や本丸、右へ行くと王丸へ降りることができるそうだ。
「福岡県の城」の縄張図によると、右へいったところに3本の竪堀がある。
もちろん行ってみる。
たしかに畝状につづくデコボコが確認できた。(が、写真に撮ると、よう分からんな)


道を引き返し、本丸へ行こう。
おや、頂上(二の丸)から大勢の子供ちゃんが降りてくる。
坂の急な具合が分かりやすいので写真を撮らせてもらおう。
二の丸への上り坂
子供会の退城を待ってる間にテレビ塔へ立ち寄ろう。
テレビ塔へ行くと、なんか変だ。
あれ?こんなのあったっけ?
テレビ塔そばの石積み(エフエムアンテナの向こうに石積み) 一年前の同じ場所(石積みが正面に見える)

さあ、本丸だ。
今日も良い天気だ、見晴らしが抜群に良い。
本拠地・蔦岳城やかつての本拠地・白山城を望む

しかし、相変わらず立花山方面は、木が茂っていて見えない。
誰か切ってくれぃ。
ギター侍でも呼ぼうかな。





■許斐山城戦歴

◆明応八年(1499)、蔦ヶ岳城主(誰だろ?)が許斐山城を攻撃、第二十五代・許斐氏能は城を落ちて(?)、田島の岩ヶ崎城で戦死、許斐山城は廃城となった。(現地案内板)

◆永禄二年(1559)九月、立花山城にいた大友方の宗像鎮氏(むなかたしずうじ)が宗像郡へ進攻した。鎮氏というのは、大友義鎮の諱を受けたのだろう。麻生鎮氏ともいう(ひょっとして「しげうじさまの墓」の人か?)。これに対し、宗像大宮司・氏貞は支えきれず、大島に脱出した。このとき、西郷(さいごう・現宗像郡福間町)の有力国衆であった河津隆家(かわづたかいえ)は、氏貞方であったが、氏貞が大島へ逃れたため、許斐山城、飯盛山城を明け渡して、亀山城にたて籠もったという。

◆翌永禄三年(1560)三月、宗像氏貞は大島から反撃、許斐城に夜襲をかけこれを占領、宗像郡を回復した。「河津伝記」には、このとき、宗像氏貞が河津隆家の館(亀山城か?)に入り、大内氏の旧臣と共に許斐城を攻略した、とあるという。また、この後、許斐山城、飯盛山城は、氏貞から河津隆家へ旧のごとく渡されたが、河津氏は人手不足であったため、宗像氏家臣が城番として在城したらしい。なお、「河津伝記」には、許斐、飯盛両城はもともと河津氏の持城だったと書いてあるそうだ。(「福間町史」) これは、足利直義から与えられたことを言ってるのだろうか?

◆同じ永禄三年(1560)八月十六日から十七日、大友勢が宗像郡へ侵攻した。十七日には許斐要害里城で合戦、宗像側の占部尚持が戦死した。(平凡社「福岡県の地名」)

◆永禄四年(1561)五月、大友軍の十河十郎(そごうじゅうろう)、天野隼人(あまのはやと)の軍勢が許斐岳城を攻撃した。許斐氏鏡(このみうじかね)、氏則(うじのり)、石松摂津守(いしまつせっつのかみ)らが迎え撃ち、これを撃退した。(廣崎篤夫「福岡古城探訪」)

◆永禄十ニ年(1569)、毛利勢が筑前・立花山城を攻撃したとき、許斐岳城には毛利氏家臣・小笠原兵部大輔が在城した。(平凡社「福岡県の地名」)


◆小金原合戦(こがねばるかっせん)で和睦が破れた後の天正十一年(1583)、大友方の戸次道雪・統虎の軍勢が宗像へ侵攻、吉原口にて戦いとなった。このとき、宗像側の吉原源内が討ち取られている。吉原口とは、許斐山の里城のことだと考えられている。またこのとき、許斐城が落城したという説もある(平凡社「福岡県の地名」)が、「福間町史」は定かではないとしている。また、廣崎篤夫先生は、「福岡県の城」、「福岡古城探訪」で、許斐山の城将・宗像民部(むなかたみんぶ)は孤立しながらも戦っていたが、疲れ果てて大島へ逃亡、戦意を喪失した許斐城は落城した、と書いている。 ところで、吉原源内というのは、吉原登山口近くに墓のある吉原源内左衛門貞安のことだろうか。ただ、墓石には永禄三年八月十七日の日付がある。



以上

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