柑子岳城(別名 草葉城)ロゴ
---- こうしだけじょう ----
別名:草場城 くさばじょう

平成16年12月30日作成
平成16年12月30日更新

大友氏の筑前・志摩郡の拠点

山城らしい形をした柑子岳城
柑子岳城遠景(中央の台形の山)

・データ
・柑子岳城概要
・柑子岳城へGO!(登山記)
・柑子岳城戦歴


 

■データ

名称 柑子岳城 こうしだけじょう
別名 草葉城 くさばじょう
築城 よく分からない。
現地案内板には、大友宗麟が永禄年間(1558-70)に改築したとあるので、築城はそれより古いということになる。
一方、廣崎篤夫先生は、大友宗麟が筑前の拠点として築城した、としている。
また、「糸島郡誌」には、天文三年から四年(1534-35)頃、大内氏によって築かれた、としている。
そして、諸文書を勘案して「福岡県の地名」では、天文二、三年(1533-34)に大内氏の築城と推論している。
破却 不明。
分類 山城(標高254m)
現存 曲輪跡
場所 福岡市西区草葉(旧筑前国志摩郡)
アクセス JR博多駅からから国道202号線を西へ進む。元寇防塁探索と同様、古いほうの202号線が便利だ。
約15キロ先の「今宿」交差点から県道54号線「福岡志摩前原線」に入ろう。
今津の元寇防塁を通り過ぎ、大原海水浴場を過ぎたすぐ先に「新大原橋」という小さな橋と「大原橋」バス停があり、「柑子岳城」の看板が出ているので、左折する。すでに柑子岳城は頭上に大きく見えている。
起伏ある道を1.8キロくらい進むと、右手に「柑子岳城跡」の素朴な看板が出ているので右折し、車が離合できない程の細い道に入る。車の場合は、ここを右折する前に路上駐車するのが良いと思う。
約200mくらいで、「柑子岳草葉入山口」の看板が出ていて、ここからは登山道だ。その横に車一台くらいの空き地があるが、ここに駐車してよいのかどうか、分からない。地元の野良仕事用じゃないかな。
入山口からは約1時間の登山だ。
なお、入山口より先に、もっと大きな登山道が整備中だったので、2004年夏頃からはそっちのほうが良いかもしれない。



■柑子岳城概要


姪浜・小戸公園あたりから夕陽が沈む方向を見ると、オリンピックの表彰台のような台形の山が見える。これが柑子岳城だ。
夕暮れの柑子岳城
古くは周防の大内氏の城であったらしい。梅月新三が城番として柑子岳城にあったが、天文七年(1538)五月の大内氏と大友氏の和睦によって、梅月新三は安楽平城(あらひらじょう)の城番に移されている、という。(平凡社 「福岡県の地名」) 
その後は大友氏の筑前における重要な拠点となり、臼杵鑑続(うすきあきつぐ)、臼杵鎮ツグ(うすきしげつぐ)といった武将が豊後から城督・志摩郡代として派遣され、志摩郡一帯を治めた。
臼杵鎮ツグは、博多の三笠川の流れを直進させ水害を防いだり、博多の南の境界に「房州堀」を掘るといった大規模土木工事を行った人物だ。
怡土郡の高祖城主・原田氏とは、しばしば合戦に及んでいるが、戦国末期には原田氏に破れ、柑子岳城も原田氏に属したようだ。



■柑子岳城へGO!(登山記)
平成十六年(2004)一月三十一日(土)

以前、柑子岳へ行ったとき駐車場がなかったので、今日は自転車で柑子岳を目指す。
天気は良いが、残念ながら気温高く空が霞んでいる。

大原橋バス停から左折、シーサイド病院を過ぎると上り坂で自転車ではキツイ。自転車を押し一番高いところまで上ると右手に「柑子岳城跡」の看板。
この看板、以前はもっと東にあったが、なぜか移動している。
柑子岳城跡の看板
それはともかく、右折し畑道を進む。200mくらいで右手に「柑子岳草場入山口」の看板だ。さあ、いよいよ登山道だ。

近くに自転車を停め、山道に取り掛かる。めちゃめちゃ急坂だ。
一人しか通れない細い道が続く。
すぐに息が切れる。こりゃ頂上までたどり着けるだろうか。
登山道

15分くらいで、ちょっとした平坦地に出た。
廣崎篤夫先生のいう「出丸」だろうか。ベンチがあるので一息つく。遺構らしきものはない。
ベンチのある出丸跡

ここからは更なる急坂だが、幸いなことに階段が設置してある。
つい最近作られたようだ。それでも急な階段でまたまた息が切れる。


ひとしきり上ると階段はなくなり、また山道だが、段々状になっている。
きっと曲輪の跡だろう。
背くらいの高さの段差もある。
段々状の曲輪跡(下から見上げる) 段々状の曲輪跡(上から見下ろす)

枝に掴まりながら登ると広い平坦地に出た。
廣崎先生のいう下城(二の丸)だ。幅は10mほどの狭さだが奥行きが深い。100mくらいあるんじゃないだろうか。
ここからは今津の弓なりの海岸、毘沙門岳、今山から今宿の海岸線がよく見える。
二の丸 二の丸から見る毘沙門岳と長浜海岸

一息ついて、さらに進む。2mほどの崖を下るとまた平坦な場所だ。
武者走りというか、曲輪といって良いだろう。
二の丸の北の曲輪

本丸への道はこれまた急坂だ。
いやガケと言ったほうがふさわしいだろう。枝を掴みながら登りきる。
山頂、本丸だ!
廣崎先生は上城と呼んでいる。10人くらいの団体が宴会をやっていた。
本丸(宴会中)

やはり幅は10mほどだが長い平坦地だ。
国旗も翻っている。
ここからの眺望は絶景だ。
東は今津海岸から今宿、長垂山、能古島、志賀島と海ノ中道、西も天ヶ岳、宮地岳から可也山、少し移動すれば宿敵・高祖山もよく見える。
本丸から見る長浜海岸(元寇防塁がある) 本丸から見る宿敵・高祖城(霞んでるけど)

「福岡県無名山301山」には、「眺望は全くきかない」と書いてあるが、草木を刈ってくれていて素晴らしい眺めになっている。
今もおじさんが草を刈っている。
「これから一層整備されるので、(H16年)4月頃にもっと良うなるけん、そん頃、来んね」とおじさんがアピールする。

さらに奥へ行くと一段下がり、曲輪跡。
その奥は深い深いガケになっている。これを下ると、もう登ってくる自信がないので、ここで引き返した。
本丸の北の曲輪(なぜかブルーシート)

遠くから見る印象と同じで大規模な、守るに固い城だ、と感じた。
長浜海岸から望む柑子岳城




■柑子岳城戦歴

◆永禄十一年(1568)、立花山城の立花鑑載が大友宗麟に叛旗を翻した。このとき、柑子岳城代・臼杵新介親連(うすきしんすけちかつら)も立花山城攻撃に参加したが、その留守を狙って、高祖の原田了栄が柑子岳城を攻め落とした。臼杵新介は急遽引き返して、柑子岳城の原田勢を追い出し、城を奪回した。(廣崎篤夫先生 「福岡古城探訪」)

◆元亀三年(1572)正月、柑子岳城代・臼杵進士兵衛鎮氏(うすきしんしひょうえしげうじ)は、今津の毘沙門参りから帰る原田了栄を待ち伏せ、攻めかかった。しかし、奇襲は失敗、池田河原で合戦となった。激戦ののち、臼杵進士兵衛は泊城へ落ちようとしたが、原田勢に追撃され、潤の平等寺で自刃した。(廣崎篤夫先生 「福岡県の城」)


◆天正七年(1579)八月、木付鑑実らが籠る柑子岳城に麻生元重・原田親秀らが攻め寄せ包囲した。このとき、立花山城の戸次鑑連(立花道雪)が兵糧を補給した。(平凡社 「福岡県の地名」) その後のことは不明。


以上

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