平成21年1月25日作成
平成21年1月25日更新
三池立花藩一万石の陣屋
三池小学校の校庭、ここにかつて陣屋があった
・データ
・三池陣屋概要
・三池陣屋へGO!(登城記)
・三池陣屋戦歴
名称 | 三池陣屋 | みいけじんや |
別名 | とくにないようだ | |
築城 | 高橋統増が天正十五年(1587)に築いた。(「日本城郭大系18」) 別説で、寛永四年(1627)立花種次(高橋統増の子)が築いた。(平凡社 「福岡県の地名」) |
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破却 | 三池小学校の生徒が発行した「宿場と陣屋の町 三池を歩く」によると、明治四年(1871)に破却され、明治九年(1876)に三池小学校となった。 | |
分類 | 平城 | |
現存 | 堀割り、石段、大手門石橋。 | |
場所 | 福岡県大牟田市新町(旧筑後国三池郡) | |
アクセス | JR大牟田駅から国道208号線を北(柳川方面)へ向かい、約1.5キロ先の「東新町2丁目」交差点を右に入る(角度としては真っ直ぐ)。県道5号大牟田南関線だ。 そこから約2.7キロ先、「神田脇」信号を通り過ぎると、約100m先で丁字路に突き当たる。しかし、よく見ると、右10mくらいのところに直線方向に入る道があるので、これを行くのだ。要するに、丁字路に突き当たったら右折して、すぐ10mで左折するのだ。この道は狭いので、注意して行こう。微速前進だ。 細い道に入って、約300mで右手に三池小学校の正門がある。この三池小学校が三池陣屋の跡だ。 駐車場はないので、正門の脇に停めるか、学校の先生にお願いして小学校の中に停めさせてもらおう。 ちなみに、 学研 「江戸三百藩 城と陣屋総覧 西国編」に載っている三池陣屋の地図は間違っている。明治小学校の位置を示しているようだ。三池小学校は、そこから3キロくらい東だ。 |
■三池陣屋概要
天正十五年(1587)、豊臣秀吉が九州を征伐、五月に島津氏は降伏した。その後、秀吉は筑前・箱崎滞在中に九州の国割りを行い、その結果、筑後国の南部、山門(やまと)・三潴(みづま)・下妻(しもつま)・三池(みいけ)四郡は立花統虎(たちばなむねとら=宗茂)に与えられた。このうち三池郡は統虎の弟・高橋統増(たかはしむねます)に与えられた。(平凡社 「福岡県の地名」) 高橋統増(たかはしむねます)の所領は、三池郡のうち二十三ヶ村、一万八千石だそうだ。統増は江ノ浦城(えのうらじょう)へ入った。(新人物往来社 「日本城郭大系18」)
のち、統増は新たに陣屋を築いて移った、これが三池陣屋だ、と「日本城郭体系18」には書いてある。しかし、「藩史事典」には、高橋直次(たかはしなおつぐ=統増の後の名)は文禄四年(1595)三池郡内山に移り、ここを本拠とした、とある。「福岡県の地名」にも、高橋統増が文禄四年(1595)に居城を江浦城から内山城に移したという、とある。ということは、三池陣屋の成立はまだ先のことのようだ。ところが、「日本城郭体系18」は、高橋統増は江ノ浦城に居城したが居館として三池陣屋を築いた、とあり、結局三池陣屋を築いたのは高橋統増なのか、のちに三池に復帰した高橋種次(たかはしたねつぐ=統増の嫡男)なのか、よく分からない。(新人物往来社 「日本城郭大系18」、秋田書店 「藩史事典」、平凡社 「福岡県の地名」)
慶長五年(1600)、立花宗茂(統虎)と弟・高橋統増は西軍に与した。そのため、兄弟そろって改易された。しかし、立花宗茂は人望があったのだろうか、慶長八年(1603)奥州棚倉藩(たなぐらはん)一万石を与えられ大名に復帰した。のち三万石に加増され、元和六年(1620)旧領柳河城へ移封された。(中嶋繁雄氏 「大名の日本地図」)
弟の高橋統増のほうは、慶長十八年(1613)一月、将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)に拝謁し、姓を立花に改め、立花直次(たちばななおつぐ)と名乗った。ついで翌慶長十九年(1614)十月、常陸国筑波郡柿岡(かきおか)に五千石を賜り旗本となり、元和三年(1617)に江戸で没した。柳河城の田中忠政(たなかただまさ)が元和六年(1620)病没すると嗣子がなかったため改易となり、前述のように立花宗茂が柳河藩主へ復帰した。(新人物往来社 「日本城郭大系18」、平凡社 「福岡県の地名」)
そして、元和七年(1621)立花直次(統増)の嫡男・立花種次(たちばなたねつぐ)が三池郡十五ヵ村一万石を与えられて大名に復帰、三池藩が成立した。種次は、伯父・立花宗茂の計らいで柳川城下の沖端(おきのはた)というところに屋敷を構えていたが、寛永四年(1627)三池郡の今山村の田地を召し上げて陣屋を築き、町づくりを行なった。この陣屋が三池陣屋であり、町は新たに作られたので新町と呼ばれた。(平凡社 「福岡県の地名」) どうもこの説がもっとも合理的に思える。
余談として、柳川藩の立花宗茂は寛永十四年(1637)隠居し、立花直次の四男・忠茂(ただしげ=種次の弟)が養子として跡を継いだ。(秋田書店 「藩史事典」)
元文三年(1738)、領内の稲荷(とうか)山で石炭の掘り出しがはじまり、これがのちの三池炭鉱の基礎となったそうだ。(中嶋繁雄氏 「大名の日本地図」)
第六代の藩主・立花種周(たちばなたねちか)は幕府の大番頭、寺社奉行を経て、寛政五年(1793)若年寄に就任した。しかし、文化二年(1805)不行跡を理由に蟄居謹慎を命ぜられた。(平凡社 「福岡県の地名」) 松平定信らの派閥と対立したためという。(中嶋繁雄氏 「大名の日本地図」)
種周の嫡男・順之助(種善たねよし)は翌文化三年(1806)六月、陸奥国伊達郡下手渡(しもてど)一万石に移された。三池藩は廃止され幕府領、のち柳川藩領となった。
五十年近くたった嘉永四年(1851)、下手渡藩・立花種恭(たちばなたねゆき)は所領のうち三千石が召し上げられ、かわりに筑後国三池郡の五千石を与えられた。下手渡藩三池領となったわけだが、これにより三池陣屋が復旧され、現存の眼鏡橋もこのときに造られたという。種恭は慶応四年(1868)、幕府の老中格に任じられたが翌月辞任。会津戦争では柳川藩とともに新政府側に与した。下手渡の陣屋が仙台藩兵によって焼討ちされたため、同年九月に筑後三池に陣屋を移し、明治政府の許可を得て、翌明治二年(1869)三池に帰った。種恭は同年の版籍奉還で三池藩知事となったのち、明治四年(1871)の廃藩置県で三池県、さらに三潴県(みづまけん)となり種恭は東京へ移住した。(平凡社 「福岡県の地名」)
三池陣屋の跡地が現在、三池小学校となっている事情は、明治の頃、天梁小学校(てんりょうしょうがっこう)と御木小学校(みきしょうがっこう)が合併して三池小学校となり、明治三十三年(1900)に三池陣屋跡に移転し現在に至っているものだ。(平凡社 「福岡県の地名」) 三池小学校が発足したのは、昭和五十七年(1982)に三池小学校の生徒が作成した資料「宿場と陣屋の町 三池を歩く」によれば明治九年(1876)じゃないだろうか。
三池陣屋はお城ではなく陣屋なので、派手な石垣や天守閣はないが、堀割がまわりをめぐっていたようだ。現在も残る眼鏡橋のほかは遺構らしきものはなさそうにみえるが、三池小学校の先生によれば、校舎の裏にある石段は陣屋の表門の石段だそうだ。
■三池陣屋へGO!(登城記)
平成十八年(2006)九月十八日(月)
今日は大牟田へやってきたぞ。
よし、三池陣屋へ行ってみよう。ものの本によると、三池小学校がその跡だそうだ。
ということで、カーナビを使ってやってきた。
小学校の正門には、「三池藩陣屋跡」の標識が傾きながら立っていた。
おうそうか、きっと生徒たちにも認識されているだろう。
小学校の中へ入ってみよう。今日は祝日なので誰もいないが、それでも小学校へ足を踏み入れるのは気が引ける。変な事件が多すぎるからだ。
校庭へ行って写真を撮っていると、さっそく体格の良い男性が声をかけてきた。来たぞ。
陣屋の跡を散策している旨を告げると、険しかった男性の表情がゆるんだ。しかも、以前生徒たちがまとめた資料があるからもって来る、とありがたい言葉だ。
いやあ親切な先生だなぁ、と待っていると、昭和五十七年(1982)発行、「宿場と陣屋の町 三池を歩く」という資料をコピーしてくれた。さらに、いろいろと説明していただいた。
どうもありがとうございました。
さて、先生の話と資料を入手して、堂々と散策だ。ここから先は、ほとんど先生から教えてもらった情報を元にしたものだ。
まずは校舎の裏へ行ってみる。ここはかつて、藩主の居館があったところだそうだ。案内板があったが、子供たちの悪戯で、文字が削られていて読めない。残念。
そして、そこから校外へ出る「西門」の石段は当時のものだそうだ。これは聞かなかったら、そうとは分からなかっただろうな。そのくらい、普通の石段なのだ。
小学校の周りを探検してみよう。小学校のまわりは道が狭いので歩くのだ。
周りを歩いてみると、小学校の敷地は、まわりよりも一段高くなっている。これも陣屋の痕跡と考えてよいのだろうか。
さて、小学校の隣には、三池郷土館だ。先生によると、一階の屋根は当時のものだそうだ。屋根には、立花藩の祇園太鼓の紋が入っている。残念ながら閉まっていて、中には入れなかった。
その近くには、二の井戸というのがあった。ということは、一の井戸というのもあるのだろう。井戸の一、二って何だろう。
そして、陣屋眼鏡橋。これも当時のものだそうだ。眼鏡橋からの眺めは、何とものどかだ。
次は立花兄弟の生家跡。最後の家老・立花碩■の息子、立花小一郎、立花銑三郎の生家だそうだ。立花銑三郎はダーウィンの「種の起源」を初めて邦訳した人物だそうだ。へえ。
その対面には、藩校・修道館跡。今は民家になっているので、写真は遠慮しておこう。
そして住宅地の中をながれる溝は、堀割の跡だそうだ。
そして、一の井戸。これで一周だ。
三池陣屋跡は地味ながら、そこかしこに往時を偲ぶものが残っていた。もっとアピールしても良さそうに思えるが、これはこれで、ひっそりとあるのが良いのかもしれない。
■三池陣屋戦歴
※三池陣屋に関する戦いの記録は無さそうだ。
以上
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