---- やながわじょう ----
別名:柳河城 やながわじょう

平成18年3月4日作成
平成18年3月4日更新

筑後の堅城にして立花藩十二万石の居城

テニスコートの脇にこんもりと天守台跡
中学校の一角に残る天守台跡(右の小高いところ)

・データ
・柳川城概要
・柳川城へGO!(登城記)
・柳川城戦歴


 

■データ

名称 柳川城 やながわじょう
別名 とくに無さそう。 柳河城とも。 やながわじょう
築城 文亀年間(1501〜04)ころ蒲池治久によって築城され(「南筑明覧」)、その後、慶長六年(1601)筑後へ入部した田中吉政によって近世城郭として大改修された。
破却 明治五年(1872)一月、原因不明の出火で焼失。
分類 平城
現存 天守台跡、石垣、水門
場所 福岡県柳川市本城町 (旧筑後国山門郡(やまとぐん))
アクセス JR久留米駅から国道209号線を南下、大牟田方面へ向かい、約12キロ、「山の井」交差点で右折、羽犬塚駅付近でクルクル回って線路を越える。約5キロ先の「八丁牟田」交差点を左折する。この道は田中吉政が整備した柳河街道(柳川往還)だ。あとは道なりにまっすぐ行くと、柳川市街に入る。
柳川市役所を通り過ぎて、「本町」交差点で右折しよう。300m先の「城南町」交差点を越えると右手に柳川高校、その隣に柳城中学校がある。ここが柳川城址だ。柳城中学校敷地の柳川高校側に天守台跡がある。
しかし、学校には駐車できない。柳城中学校を過ぎてすぐのところに、「有料大駐車場」の看板が出ているので、左折して柳川パーキングセンターに停めよう。
もし、御花に行く予定があるなら、さらに先の交差点、「本城町(松涛園口)」を左折しよう。御花の駐車場は、入館するなら無料なので、こっちのほうがオススメだ。



■柳川城概要


柳川城を築いたのは、筑後の名族・蒲池(かまち)氏だ。蒲池氏の居城は蒲池城(現在の柳川市西蒲池、旧三潴郡蒲池村)であるが、蒲池治久(かまちはるひさ)が文亀年間(1501〜04)に支城として柳川城を築いたという説(「南筑明覧」)と、天文年間(1532〜55)に蒲池鑑盛(かまちあきもり)が柳川城を築き、蒲池城から居城を移した、という説(「蒲池物語」)がある。

蒲池氏の本姓は宇都宮氏で、関白・藤原道兼(ふじわらのみちかね)の曾孫・宗円が下野国にくだり、孫の朝綱(ともつな)のとき宇都宮氏を称したという。その後裔である宇都宮泰宗(うつのみややすむね)が元寇のときに筑後国へ下向し土着し、その4代のあとの宇都宮久憲(うつのみやひさのり=久則とも)が蒲池出羽守久(かまちでわのかみひさし)の婿養子となり、蒲池家を再興した。蒲池久は名が一字なので分かるとおり肥前松浦党である。松浦党の始祖・源久の曾孫といわれる源三円(みなもとのみつぶら=源円が三男だったのでこう呼ばれたそうだ)が蒲池行房(かまちゆきふさ)の婿養子となったもので、松浦系蒲池氏と呼ぶ人もいる。蒲池行房の蒲池家は、源平の功で蒲池庄の地頭職を得た源久直(みなもとのひさなお)が起こした家だといわれる。さらにその前にも別の蒲池氏がいたそうだ。蒲池というのは古い家柄なのだ。(河村哲夫氏 『筑後争乱記』)

さて、蒲池城から柳川城へ本拠を移した蒲池鑑盛は豊後の守護大名・大友氏に属していた。
天文十四年(1545)、肥前国神埼郡の綾部城主・馬場頼周(ばばよりかね)の謀略で一族滅亡の危機に直面した龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)佐賀城を追い出されると、蒲池鑑盛はこれを保護した。家兼はこのとき92歳の高齢であった。二ヵ月後、鍋島清久(なべしまきよひさ)が馬場頼周が討つと家兼は佐賀へ復帰できた。しかし家兼の跡を継ぐべき青年男子は馬場頼周の謀略で6人が殺されていたので、家兼は曾孫の長法師を還俗させ家を継がせた。のちの龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)だ。(吉永正春氏 『筑後戦国史』)

天文二十年(1551)、少弐氏、および肥前国内の十九の城主たちは佐賀城の龍造寺隆信を攻めようとした。このときはまだ隆信の力は弱かったのだろう、切腹を決意したが、小田政光の勧めで開城し、一族とともに筑後へ落ちのびた。このときも柳川城の蒲池鑑盛がこれを迎えて、三百石を与えて保護した。二年後に隆信は佐賀城を奪回する。龍造寺隆信にとって蒲池家は命の恩人であった。隆信は娘(養女か?)を鑑盛の嫡男・蒲池鎮並(かまちしげなみ=鎮漣とも)に輿入れさせたというが、一説には天正八年(1580)の和議の際ともいう。

蒲池鑑盛は、天正六年(1578)の耳川の戦いで大友方として出陣、戦死してしまう。跡を継いだのは蒲池鎮並だ。鎮並は大友氏から離れ、龍造寺方として行動する。
ところが、鎮並は天正八年(1580)二月、龍造寺隆信に叛旗を翻し柳川城に立て籠もった。已むに已まれぬ事情があったのだろう。これに対し、隆信は嫡男・鎮賢(しげかた)を大将として二万余の軍勢で柳川城を包囲した。柳川城は無数の水路(クリーク)が周りを縦横に走っている堅城で、300日にわたる攻防に耐え、龍造寺勢もついにこれを落とすことはできなかった。攻めあぐねた結果、鎮並の叔父で、攻城軍にいた田尻鑑種(たじりあきたね)の仲介で和議が整い、同年十二月、龍造寺軍は囲みを解いた。
『柳川三年、肥後三月、肥前筑前朝茶前』という言葉がある。柳川城を攻め落とすには三年かかるが、肥後國平定は三ヶ月でおわる。肥前國、筑前國を攻略するなんて朝飯前さ、という意味だ。それほど柳川城は堅城であった。現在も柳川の町は水路が迷路のようになっている。その中にひとつ、柳川城の遺構の堀水門がある。水門を調節することで堀の推移を調整できたそうだ。
柳川城の数少ない遺構、堀水門

停戦に応じた蒲池鎮並であったが、すぐさま島津へ人質を送ってよしみを通じ、隆信はそれを察知したという。
翌天正九年(1581)、龍造寺隆信は和議のしるしとして猿楽でも饗応しようと鎮並を居城へ呼んだが、鎮並はこれを怪しみ返答もしなかった。しかし、母と叔父(兄とも)が鎮並を説得したので、ついに鎮並は佐賀へ行くことを決意、猿楽芸人を連れて同年五月、佐賀へ出発したが、五月二十八日、待ち伏せていた龍造寺勢によって討たれた。柳川に残った一族家臣らは、同族の田尻鑑種のだまし討ちでことごとく討たれ、こうして下蒲池氏は滅亡した。(吉永正春氏 『筑後戦国史』)

その後、柳川城には鍋島信昌(なべしまのぶまさ)が入った。蒲池鎮並をだまし討ちにした影響は大きく、筑後勢がつぎつぎに龍造寺家に叛旗を翻した。また、前の隈府城(わいふじょう)の城主で、この頃は八代にいたといわれている赤星統家(あかほしむねいえ)は蒲池鎮並の舅であったが、龍造寺隆信の仕打ちに恨みを抱いていると噂されていた。隆信は統家を佐賀へ呼んだものの、当然といえば当然だが統家は来なかった。すると、隆信は人質にとっていた統家の息子と娘を竹井原(現三池郡高田町竹飯)で磔にして殺した。子供をハリツケにするなど、当時であっても人々は大いに隆信を恨んだことだろう。当然、赤星統家は島津へ寝返った。

天正十二年(1584)三月、叛旗を翻した有馬晴信(ありまはるのぶ)を討つために龍造寺隆信は島原へ出陣、乱戦の中で戦死した(沖田畷の戦い)。天罰だ。
大名が戦死するという非常事態になった龍造寺家では、鍋島信生(なべしまのぶなり=信昌、直茂)が当主・龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ=鎮賢)を補佐することとなり、信生は柳川城から佐賀城へ移った。柳川城へは龍造寺家晴(りゅうぞうじいえはる)が南関から入った。

耳川の合戦以来落ち目だった大友氏は、沖田畷の戦いを好機と捉え、大友義統の弟・田原親家、親盛を大将に筑後へ侵攻した。さらに筑前の立花道雪、高橋紹運もこれに加わり、高牟礼城(たかむれじょう)、犬尾城(いぬおじょう)を陥とし、猫尾城(ねこおじょう)の黒木家永(くろきいえなが)は自刃して降った。大友軍は柳川城を攻略しようと兵を進めたが、水路と海に囲まれた城は堅固にして、とうとうこれを落とすことはできなかった。立花道雪、高橋紹運は高良山へ陣を移したものの、翌天正十三年(1585)六月、立花道雪は病にたおれ、九月に北野の陣中で没した。道雪は遺言に「自分が死んだら甲冑を着せて柳川のほうに向けてこの地に埋めよ」と言ったといわれる。さしもの道雪も柳川城は落とせなかったのである。

天正十四年(1586)いよいよ島津軍は九州統一へ向けて北上、岩屋城の高橋紹運は玉砕し、宝満城も落城した。しかし、立花山城の立花統虎(たちばなむねとら=高橋紹運の子で立花道雪の婿養子)は城を持ちこたえ、豊臣秀吉の九州入りの動きに警戒した島津勢は撤退した。立花統虎は、高鳥居城(たかとりいじょう)の星野兄弟を討ち、秀吉から賞賛された。
天正十五年(1587)、秀吉の九州征伐で島津義久が降伏すると、秀吉は大規模な戦後処理「九州仕置き」を行い、立花統虎は筑後国・山門郡、下妻郡、三潴郡、三池郡を与えられ柳川城へ移った。所領のうち三池郡は弟の高橋統増(たかはしむねます=のちの立花直次)へ与えることとされたので、兄弟そろって大名となった。

その直後に肥後で起こった国人一揆に立花勢も出陣、肥後国城村城(じょうむらじょう)、田中城(たなかじょう)などを攻めた。一揆の本拠地・城村城を攻め落とすことはできなかったが、説得に応じた一揆の首謀者・隈部親永(くまべちかなが)は柳川城へ、その子・隈部親安(くまべちかやす)は小倉城へ預けられた。天正十六年(1588)五月、隈部親永、二男犬房丸親房は柳川城にて切腹した。(隈部親養氏 『隈部家代々物語』)

また、秀吉の朝鮮出兵に際して、統虎はここ柳川城から出陣した。肥前名護屋城を経由し朝鮮へ渡り、朝鮮ではその武勇に怖れられたといわれる。

ところが、慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦で統虎は西軍に与し、領地を没収された。それに替わって、関ヶ原の戦いで石田三成を生捕りにした勲功により岡崎城主・田中吉政(たなかよしまさ)が筑後一国を与えられ、吉政は柳川城へ入った。この田中吉政のときに柳川城は五層の天守閣、大小の櫓など大幅に改修し、近代城郭に生まれ変わった。また、重要な支城である久留米城への直線道路・久留米柳川往還(田中道)もこのころ整備された。
今も残る柳川街道

しかしながら、田中氏は次の忠政(ただまさ)に嗣子がいなかったため断絶となり、元和六年(1620)奥州棚倉藩の立花宗茂(たちばなむねしげ=統虎のこと)が旧領に復活した。以来、幕末まで柳川城は立花藩の居城として続いた。

維新後の明治五年(1872)、原因不明の出火により天守閣など焼失。また明治七年(1874)、前年の台風で欠損した堤防の修復に本丸の石垣が用いられるなど、その後も市街化に伴い破壊され、いまではわずかな石垣と天守台付近が柳城公園(りゅうじょうこうえん)となっている程度だ。
しかしながら、柳川市街の水路は江戸時代の絵図とほぼ同じに残っているという。龍造寺隆信や立花道雪が攻めきれなかった、あの水路だ。
  
   (左)江戸時代の柳川城絵図(中央の四角い部分の左が本丸、右が二の丸)・・・本丸の左下に五層の天守閣がある
   (右)今の柳川城跡周辺(黄色の四角は左が柳川中学校、右が柳川高校)・・・学校の敷地は内堀を埋めて作られている。中学と高校の境の黄色縦線の左側△マークが「天守台跡」とされているが、位置が違うように思える。






■柳川城へGO!(登城記)
平成十七年(2005)五月二十一日(土)

今日は天気がいいな。よし杵築城へ行ってみよう。
と思ったが、夕刻までに戻らないといけないので、予定変更して柳川城だ。

柳川市内に入ると、さすがに水郷だけあって、たくさんの橋を渡る。
目指すは柳城中学校(りゅうじょうちゅうがっこう)だ。

戦国の勇将・立花宗茂(たちばなむねしげ)の居城・柳川城も今は跡形もなく、石垣がちょこっとあるだけだ、という。
それでも行かねば気が済まぬのだ。
柳川高校の隣に目指す中学校はあった。すぐに小高い場所が目についた。
うむ、あれが城跡だな。

しかし、たくさんの人が食事をとっているぞ、何でだ?
と、見ると校庭にはたくさんのテントと生徒の椅子だ。
なんと運動会ではないか。。予想外の事態だけど、まぁいいか。最近へんな事件が多く、学校には入りにくくなっているので運動会なら紛れて入れそうだ。
本丸跡の柳城中学校

コンビニに車を停め、いざ出陣。
さっそく柳川高校と柳城中学校の間の小道へ行ってみる。
あった!石垣だ!
本丸の石垣 

高さは1.5mくらい、四角い石が積み上げられている。かつてはもっと高かったのだろう、今では民家の塀くらいにしかみえない。
ところどころノミの跡があり、お城の石垣の面影をかすかに残している。
本丸石垣は四角い  なにやら記号のようなものがある、後世のイタズラじゃなければいいな

小道に沿って石垣が長く続く。100m近くあるんじゃないだろうか。結構あるじゃないか。
南の端には石碑と柳川城跡の標識、それに案内板が建っている。
これがないと城跡とは分からない。それくらいに徹底的に破壊されているのだ。
天守台跡

天守閣跡、とされている小丘にのぼってみる。
ずいぶんと広い。天守閣はこの一部に建っていたのだろう。しかし、その痕跡は全く無い。

ところどころ、大きな石がベンチのように置かれている。
細長い石もあるが、石垣の石にしては奥行きが足らないのもある。まぁ中にはどう見ても庭園の石にしか見えないものもあるけど。。
その中のひとつに腰を下ろし、買ってきたパンを食べる。運動会を見に来た父兄にみえるだろうか。そんなわけないか。。
天守台跡に置かれた細長い石  奥の建物は柳川高校の部室(?)の二階

応援合戦が始まった中学校をあとにして、敷地外へ出てみる。
中学校の周りにはグルリと水路がめぐっている。
おや、小さな石碑が建っている。「城隍西南隅」と彫ってある。ほほう、するとこの水路はお濠の名残りともいうべきものか。もちろん幅、深さとも全然違うのだろう。
内堀の西南の角

ほかには遺構はなさそうなので、車を停めたコンビニへと戻ろう。
柳川高校を通り過ぎて、「城南町」交差点に差し掛かると、おや?ここにも石碑だ。
1.5mくらいあるだろうその石碑は、しかし磨耗していて、なんと書いてあるかよく分からない。「○○東南隅」とあるようだ。
そうか、「城隍東南隅」か。
内堀の東南の角(横断歩道の向こうのウナギ屋が堀の部分)
そうしてみると、柳川城はずいぶんと規模の大きな立派な城だったのだなぁ。中学校、高校がすっぽり入ってしまう。

ほかにも石碑があるかもしれない、と思い北上する。
あった、「城湟東北隅」の石碑だ。やっぱり、中学校・高校がちょうどお城の内堀のなかに当たるのだ。
内堀の東北の角(石碑の左側が堀の部分、コンビには堀の外)

こうなると「西北隅」にも行かねばならぬ。
しかし、その付近と思われる中学校の一角には石碑は建ってなかった。なんでだろ?
このあたりが内堀の西北の角
やや釈然としない思いは残ったが、このあたりで引きあげよう。

立花氏の居城はほとんど痕跡を残さず消えてしまったようだ。残念なことだ。
あとは御花(おはな)へ行くしかない。


【ということで、御花】
これが正面。


これが大広間。拙者が行ったときは披露宴の準備中だった。


そして庭園。松涛園という。


お、資料館には、立花宗茂のトレードマーク、あの丸い前立て(うしろ?)の兜があった!
いやぁ来て良かったなぁ。ということで、写真を撮らせてもらった。

ほかにも龍やドクロ(!)の兜もあったぞ。


■柳川城戦歴

◆天正八年(1580)二月、蒲池鎮並(鎮漣)は龍造寺隆信に叛旗を翻し柳川城に立て籠もった。龍造寺勢は二万の大軍で城を取り囲んだが、水路に守られた柳川城は堅固で、300日の攻城戦のすえ、和睦した。

◆天正九年(1581)五月、蒲池鎮並は佐賀において謀殺され、下蒲池氏は滅びた。柳川城へは鍋島直茂が入った。

◆天正十二年(1584)三月の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死すると、大友勢は筑後へ侵攻、龍造寺方の諸城を落とした。勢いに乗る立花道雪、高橋紹運ら大友軍は、柳川城を攻めたが、城主・龍造寺家晴は堅く守ってとうとうこれを守り抜いた。


以上

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