はこざきぐう

平成18年12月17日作成
平成18年12月17日更新

豊臣秀吉の九州国割りの舞台

「敵国降伏」額のかかる払敵門
小早川隆景建立の楼門「払敵門」(重要文化財)

・データ
・筥崎宮概要
・筥崎宮へGO!(参拝記)


■データ

名称 筥崎宮(はこざきぐう)
別名 箱崎宮(はこざきぐう)とも。
創建 延長元年(923)
分類 神社(旧筑前國一ノ宮、旧官幣大社)
御祭神 祭神=応神天皇・神功皇后・玉依姫命
遺跡等 「敵国降伏」の扁額・楼門・本殿・拝殿・一の鳥居・燈籠堂
場所 福岡市東区箱崎一丁目
アクセス JR博多駅から鹿児島本線で門司方面に行き、「箱崎駅」で下車。快速電車は止まらないので普通に乗るのだ。駅を出て左へ徒歩10分くらい。箱崎宮の案内板があるので右折すると裏門だ。
車なら、JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ約10分、「箱崎宮前」交差点を右折、すぐに左手に駐車場がある。たしか500円だったと思う。そこから500mくらい参道を歩くのだ。平坦なので、すでに楼門が見えてるぞ。さあ、頑張って歩こう。



■筥崎宮概要

プロ野球ソフトバンクホークスが年初に必勝祈願をする神社、それが筥崎宮(はこざきぐう)だ。宇佐八幡(大分県)、石清水八幡(京都府)とともに日本三大八幡宮だそうだ。

筥崎(箱崎)という地名は、筥松(はこまつ)という松の木の名前から生じたものである。筥松は、神功皇后(じんぐうこうごう=息長帯日売命・おきながたらしひめのみこと)が三韓征伐から帰国し、宇美(うみ)の地で応神天皇(おうじんてんのう)を産んだ際、その御胞衣(おえな)を箱に入れて白砂青松の場所に埋め、その印に植えた松のことだ。(河村哲夫 「西日本古代紀行・神功皇后風土記」)

    千早振る 神代に植えし箱崎の 松は久しき 標しなりけり (法印行清 「続古今集」)

また別説として、大江匡房の「筥埼宮記」には、戒定恵(かいじょうえ)を三つの箱に入れて埋めたので、この地を筥崎と呼ぶようになったともいう。(平凡社 「福岡県の地名」)
しかし、貝原益軒(かいばらえっけん)は、戒定恵を埋めたという応神天皇の時にはまだ仏教は日本に伝えられていないのだから、そんなことあるかい、胞衣説のほうが正解だぜ、といっている。(筑前國続風土記)

「筥崎宮縁起」によると、延長元年(923)太宰少弐藤原真材(ふじわらのまき)が八幡神の託宣を受け、穂波郡の大分宮(だいぶぐう)をこの地に移したという。しかしながら、これについても貝原益軒は、延喜式神名帳に箱崎宮が載っているので、もっと昔からお宮はあったとバイ、といっている。(筑前國続風土記)

筥崎宮の御祭神は、応神天皇、神功皇后、玉依姫命(たまよりひめのみこと)の三柱である。玉依姫命(「古事記」では玉依毘売命たまよりびめのみこと)とは、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)の二番目の娘で、神武天皇(じんむてんのう)の母だ。

筥崎宮は源平合戦では平家方につき幕府の勘気を受けたという。その後は京都の石清水八幡宮の別宮となったそうだ。(平凡社 「福岡県の地名」)

また筥崎宮は、地理的な関係から博多での交易をさかんに行なった。
同じく地理的な位置から、蒙古襲来の文永の役(ぶんえいのえき=文永十一年(1274))のときには日本軍の本陣が置かれたという。(柳田純孝氏 『元寇防塁』 「甦る中世の博多4」)
蒙古軍は福岡市西方の今津(いまづ)、百地原(ももじばる=現在の百道)に上陸したが、一部は箱崎方面に侵入、少弐・大友勢は支えきれず退却した。このとき筥崎宮は戦火を蒙り焼失したが、御神体はその前に宇美の極楽寺へ避難した。(柳猛直氏「福岡歴史探訪東区編」)
弘安の役(こうあんのえき=弘安四年(1281))の際、亀山上皇(かめやまじょうこう)は紺紙に金泥で「敵国降伏」と書いたご宸翰(ごしんかん)を筥崎宮へ奉納した。今でも楼門には、このご宸翰を拡大した額が掲げられている。そういったご宸翰は37葉あるという。(平凡社 「福岡県の地名」) 
「敵国降伏」の額

延元元年(1336)二月、畿内において新田義貞(にったよしさだ)・北畠顕家(きたばたけあきいえ)に敗れた足利尊氏(あしかがたかうじ)は九州へ落ちてきた。三月、多々良浜(たたらはま=福岡市東区)において菊池武敏(きくちたけとし)との合戦に臨んだ。このとき武敏が本陣を置いたのが箱崎だった。筥崎宮を本陣としたのかどうか分からないが、荒木栄司氏の「香椎宮を背にした尊氏の軍と、筥崎宮を背にした武敏の軍が対決」という表現はおもしろい。(荒木栄司氏「菊池一族の興亡」)
この戦いは激戦の末、尊氏が逆転勝利をおさめ、武敏は菊池城へ引き揚げた。これを「多々良浜の合戦」と呼ぶが、当時の史料では「筥崎合戦」といったそうだ。(川添昭二氏「九州の中世世界」)

中世の筥崎宮は油座を組織し、櫛田神社・住吉神社の二社に灯油を納める代わりに原料の買い付け、精油、販売の独占が認められていた。(平凡社 「福岡県の地名」)

大内氏が筑前に進出してくると、その尊崇を受けた。本殿と拝殿は天文十五年(1546)、太宰大弐(だざいのだいに)であった大内義隆(おおうちよしたか)の建立といわれている。(現地案内板)

天正十五年(1587)、豊臣秀吉は九州征伐の帰途、筥崎宮の本社を本陣とし、二十日ばかり逗留している。この間、九州の仕置き(しおき=大名の配置転換)を行ない、また戦乱で荒れた博多の町割り(まちわり=復興事業)を行なった。

秀吉の仕置きで新たに筑前国主となった小早川隆景(こばやかわたかかげ)は文禄三年(1594)筥崎宮楼門を再建している。例の「敵国降伏」の扁額のかかる門だ。「伏敵門(ふってきもん)」とも呼ぶ。

さらに、関ヶ原の戦いで福岡藩主となった黒田長政(くろだながまさ)は、慶長十四年(1609)、一の鳥居を建立したが、この黒い鳥居は今も現存している。形式が特異なので筥崎鳥居というそうだ。(柳猛直氏「福岡歴史探訪東区編」) 一の鳥居の前の道路は昔の唐津街道(からつがいどう)だ。

筥崎宮は北西の方向、すなわち博多湾に向かって建っている。海の向こうは朝鮮半島と中国大陸だ。参道は海まで続き、その砂浜で祇園山笠のお汐井とり(おしおいとり=清めの砂をとる行事)が行なわれる。昔は松原の続く砂浜だったと思うが、今では都市高速下でコンクリートにはさまれた小さな浜だ。小さいながらも浜には、「神聖な所」の看板が立っている。
参道の先端、御汐井浜
また、正月の玉せせり(たませせり)、九月の放生会(ほうじょうや・・・筥崎宮は「ほうじょうえ」と言わず、ほうじょうやと呼ぶ)のお祭が有名だ。ポコンペコンと鳴るチャンポンはすぐ売り切れるよ。




■筥崎宮へGO!(参拝記)
平成十六年(2004)七月四日(日)

今日は筥崎宮だ。
国道3号線の「箱崎宮前」交差点から曲がり駐車場を降りると、はるかかなたに楼門が見える。ひたすらまっすぐな参道が延びているのだ。

大鳥居をくぐると石碑群だ。近衛歩兵第二聯隊・福岡県支部の碑もある。近衛兵は全国から選抜された優秀な壮丁をもって編成されていたものだ。
近衛歩兵第二連隊の碑


地下鉄「箱崎宮前」駅ちかくにも白い石の鳥居、さらに行くと黒い石の鳥居、「一の鳥居」だ。この鳥居は福岡城の初代藩主・黒田長政の建立したものだ。あまり大きくはないが、真っ黒で武骨な感じを受ける。
重要文化財 一の鳥居

一の鳥居をくぐると、真正面に楼門がデンと構えている。黒田長政の前に筑前国主であった小早川隆景(名島城主)の造営だ。伸びやかな屋根の下に有名な「敵国降伏」の扁額が掲げてある。亀山上皇のご宸翰を拡大したものといわれ、言い伝えどおり紺地に金色の文字だ。拙者が高校のころはボロボロの額が掲げてあったが、いつの間にか綺麗に作り直したらしい。あれはあれで趣があったと思うけどな。
重要文化財 楼門(払敵門)

お参りをし、楼門の脇から拝殿と本殿をのぞいてみる。これは黒田長政よりさらに前、筑前を治めていた周防山口・大内館の大内義隆が再建したものだ。偶然だろうが、歴代国主が順番に造ったような感じだ。大内義隆の建造とすると、秀吉が九州征伐の帰途、本陣を置いたのがこの建物なのだろうか。
重要文化財 本殿と拝殿

さて、楼門の右手前には、赤い柵に囲まれた筥松(はこまつ)がある。応神天皇が宇美で生まれたとき、御胞衣(おえな)を筥(はこ)に入れて砂浜に埋め、その印に松を埋めたところから、筥松、箱崎の地名が起こったといわれる。伝説の松の木だと思うのだが、「筑前続風土記」には初めの筥松は枯れたが、その根から新しい松が生え、戦乱で焼けても、また生えてきて今(といっても江戸時代)に続く、とある。ホントかな、とも思うが、まぁ良いではないか。
ご神木 筥松

裏へまわってみよう。生垣の向こうに、「一せん燈籠」という燈籠ガ二つ建っている。紀元二千六百年(昭和十六年=1941)歩兵第二十四聯隊が奉納したと刻んである。零戦の時代だな。
裏門の鳥居も白い石造りだ。鳥居を出てしまうとJR箱崎駅が近い民家になってしまうので、引き返そう。
一せん灯篭(左) 一せん灯篭(右)

再び表に戻る。手水舎の近くには、蒙古軍の碇石(いかりいし)が横たえてある。古の昔、元寇のときの蒙古軍の船の碇だ。博多湾から引き揚げられた物だそうだ。なるほど、元寇にゆかりのあるこの神社にあるのが相応しい。その横には「さざれ石」もあるぞ。
蒙古碇石 さざれ石

一の鳥居まで戻る。鳥居の横の大きな石碑は、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)元帥の書だ。
大社筥崎宮の碑

地下鉄「箱崎宮前」駅ちかくの恵光院(えこういん)には、燈籠堂(とうろうどう)がある。天正十五年(1587)九州征伐の帰り道、豊臣秀吉が筥崎宮を本陣にして二十日間ほど滞在したおり、千利休(せんのりきゅう)が神社前の松林(千代の松原)の中にあったこの燈籠堂に秀吉や神屋宗湛(かみやそうたん)、島井宗室(しまいそうしつ)らを招いて茶会を開いたそうだ。
利休ゆかりの燈篭堂

今日はいろんな歴史上の人物に出会えるな。こうして皆の尊崇を集めて、筥崎のお宮は続いていくのだなぁ。






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