---- いわおじょう ----
別名:亀甲城 きっこうじょう
平成16年5月13日作成
平成16年5月13日更新
阿蘇大宮司家の本拠地
岩尾城遠景(右端に通潤橋が少し見える。左端に登山中の人影3つ。)
・データ
・岩尾城概要
・岩尾城へGO!(登山記)
・岩尾城戦歴
名称 | 岩尾城 | いわおじょう |
別名 | 亀甲城 | きっこうじょう |
築城 | 貞応元年(1222)、阿蘇大宮司惟次(あそだいぐうじこれつぐ)が築城した。 | |
破却 | 慶長十八年(1613)、一国一城令により廃毀。 | |
分類 | 山城(標高483m) | |
現存 | 堀切、曲輪跡 | |
場所 | 熊本県上益城郡矢部町城原(旧肥後国益城郡) | |
アクセス | 岩尾城はわかり易い。JR熊本駅から国道266号線へ出て、矢部(通潤橋)を目指そう。途中、「鯰」交差点から国道445号線に入り、ひたすら走る。御船IC、七滝を過ぎ、矢部町へ入ると、通潤橋への案内板があちこちに出ているので、素直に従うと道の駅「通潤橋」に到着する。車はそこに停めよう。(もちろん無料)駐車場から川越しに通潤橋を眺めれば、橋の左に続く丘が岩尾城二の丸だ。 |
■岩尾城概要
阿蘇神社は肥後国一の宮、長い歴史をもつ。その大宮司(だいぐうじ)職を世襲する阿蘇氏は、神武天皇の皇子・神八井耳命(かむやゐみみのみこと)を祖先とする肥後の名族である。(古事記)
その阿蘇氏の本拠地が岩尾城だ。普段の生活は、麓の居館「浜の館はまのやかた」で送り、有事の際に隣接する岩尾城に籠もったと考えられている。岩尾城は、蛇行する五老ヶ滝川(ごろうがたきがわ)を天然の堀とし、本丸、二の丸、三の丸、出丸を備えた本格的山城だった。
阿蘇家の有力部将が、交代で城代を務めたと云われている。
南北朝時代には、阿蘇家も他聞にもれず二派に分れて対立したが、岩尾城は南朝方の惟武(これたけ)流の本拠地となった。
最盛期の阿蘇惟豊(あそこれとよ)の時代には35万石に相当したという。後世なら大大名だ。
天文十三年(1544)、勅使・烏丸光康(からすまみつやす)が浜の館に下向し、惟豊が迎えたという。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
(小学館「城郭と城下町10」には、勅使下向を天文十八年(1549)としている)
阿蘇家の絶頂期だったわけだが、しかしながら、惟豊の孫、阿蘇大宮司惟光(あそだいぐうじこれみつ)は四歳のとき島津氏の進攻で岩尾城を追われ没落、後に豊臣秀吉の命で切腹させられた。
岩尾城は廃城の後、その斜面を段々畑に活用されたようで、当時の姿を残さず、残念だ。それでも本丸、二の丸の地形ははっきりとしている。また、堀切も一本、あざやかに残っている。
■岩尾城へGO!(登山記)
平成十三年(2001)五月十三日(日)
通潤橋(つうじゅんきょう)に行った。矢部町役場の近くだ。
残念ながら工事中で水は出てなかったが、こんな山中によくもこのような立派な橋を架けたものだ。
と思いきや、すぐ近くに、岩尾城址の看板が!
なんと岩尾城というのは、こんなところにあったのか。ちょうどPCゲーム「信長の野望−蒼天録」で岩屋城防衛にてこずっている時だったので実にタイムリーだ。よっしゃ、これは儲けモンだ、と早速のぼる。
二の丸跡というところから上ると、結構きつい坂だ。
さすが城跡、などと考えながらのぼると平坦な場所に出た。ここが二の丸か、標識も立っている。おっと、すぐ横は通潤橋の上部ではないか。なるほど通潤橋と岩尾城は切っても切れない関係なのだな、、水だけに、、とツマラナイことを考えながら本丸を探す。
案内板によると、本丸は向こうのこんもりした場所らしい。しかしながら、とにかく時間がないので(御船城にも行きたいし)、下山することにした。
ふもとの駐車場から二の丸を見るとあまり高くない小山だが、実際のぼってみるとキツイし、上からの眺めは素晴らしい。これが山に城を築く意義なのだな、と納得しながらそこを離れた。
【登城後記】
平成十六年(2004)一月二日(金)
天候は悪いが、再び岩尾城を訪れた。
今回は、一路本丸を目指す。
二の丸と本丸の間には堀切がはっきりと残っている。ん、いいぞ!
本丸の周りには、腰曲輪のような削平地がぐるりとあった。
本丸へ上る。城山神社が鎮座している。お参りしてあたりを見回すが遺構らしきものは見当たらない。
本丸を下り、三の丸、出丸を探すが、よく分からなかった。
続いて、城の北へ行ってみる。射場曲輪の下段に馬場跡、さらに下段に屋敷跡と段々状になっている。馬場跡とされているところはゲートボール場になっていた。
ゲートボール場をさらに先へいくと、木戸跡がなんとなく痕跡を残していた。
大手口とされる場所には、川に赤い橋がかかっていた。ここを渡り、200mくらい進むと浜の館があった場所(現矢部高校)だ。
■岩尾城戦歴
※岩尾城と浜の館は一心同体なので、ここでは区別せずに述べてみる。
◆永正十年(1513)三月、菊池家督を継いでいた阿蘇惟長(あそこれなが=菊池武経
きくちたけつね)が大宮司職復帰をはかり、浜の館を攻めた。守るのは、惟長の弟、大宮司惟豊である。惟豊は堅志田城に立てこもり防戦したが敗れ、日向国高千穂鞍岡へ逃れた。
よく分からないが、岩尾城に籠もり、落とされ、さらに堅志田城に籠もった、ということだろうか?それとも、最初から岩尾城を捨て堅志田へ行ったのだろうか?
◆永正十二年(1515)、阿蘇惟豊が日向の武将とともに浜の館を攻めた。阿蘇惟長、大宮司惟前(これさき)父子は支えきれず、相良氏を頼って逃れた。このとき、惟豊に従った武将に甲斐親宣(かいちかのぶ)がいて、これが甲斐氏の肥後進出のきっかけとなった。永正十四年(1517)のことともいう。
◆天正十三年(1585)、島津軍が益城、阿蘇郡へ進攻、制圧した。大宮司惟光(これみつ)は浜の館を落ち、目丸の山中へ非難した。
◆天正十六年(1588)、宇土・益城・八代・天草を拝領した小西行長が肥後へ入った。このとき、岩尾城は、隈庄城・木山城・愛藤寺城・麦島城とともに支城とされ、城代が置かれた。(宇土城案内板)
◆加藤清正が小西行長を攻めたとき、岩尾城の甲斐秋政(かいあきまさ)は加藤に協力、愛藤寺城を攻めた。しかし、この隙に、味方であるはずの加藤清正が岩尾城を占領、甲斐秋政をも討とうとした。秋政は日向へ逃れたが、力尽き、家代峠(えしろとうげ)で自刃した。
という話が「日州高千穂古今治乱記」にあるらしい。しかし、家代峠の甲斐秋政の墓の墓碑銘には慶長二年(1597)とあるそうなので、加藤が小西を攻めたというこの話の筋と合わない。(荒木栄司氏「甲斐党戦記」)
以上
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