---- くまのしょうじょう ----
別名: (なし)

平成17年2月5日作成
平成17年3月6日更新

肥後の重要拠点で甲斐一族の城

隈庄城遠景
隈庄城遠景(こんもりした左側が本丸、右側が二の丸部分)

データ
隈庄城概要
隈庄城へGO!(登城記)
隈庄城戦歴


 

■データ

名称 隈庄城 くまのしょうじょう
別名 とくに無さそう
築城 不明。
破却 不明。
分類 平山城
現存 とくにないが、公園と墓地の段差が曲輪の跡を感じさせる
場所 熊本県下益城郡城南町隈庄(旧肥後国益城郡)
アクセス JR熊本駅から城南町を目指そう。国道3号線から行って苦労したことがあるので、国道266号線が便利。「鯰」交差点で思わず御船方面へ行ってしまいそうになるが、冷静に国道266号線を南下、緑川を越えると城南町だ。
約1.5キロ先の交差点を右折して、城南町役場へ向おう。町役場の看板が頭上に見えると、道の右側に「隈庄城跡」の看板があるので右折する。坂道でうっかり見過ごしそうなので注意。隈庄幼稚園の正面が城跡だ。
駐車場はないので、お城の入り口にちょっと停めるか、あるいは町役場に停めるのがいいだろう。



■隈庄城概要

熊本県には「隈(くま)」のつく地名が多い。
古代の熊襲(くまそ)、あるいは狗奴国(くなこく)との関係はよく分からないが、隈本(くまもと)、隈府(わいふ)、球磨川(くまがわ)などあちこちにある。

城南町の隈庄(くまのしょう)もその一つだ。
隈の「庄」というくらいだから、昔はそのあたり一帯が荘園だったのだろう。
『延喜式』の古代官道の「球磨駅」が現在の隈庄にあった、という説もあるそうだ。(荒木栄司氏「よくわかる熊本の歴史」)

その隈庄一帯の広い平野に向けて、山から突き出した丘の上に隈庄城があった。
中央のこんもりが本丸・二の丸、その右茶色の建物が三の丸
 中央のこんもりが本丸・二の丸、その右の茶色建物(役場)付近が三の丸、さらに右へ台地が続いている

隈庄城は肥後の要所だったらしく、後述のように度々合戦が起こっている。
戦国時代には、御船城と並んで甲斐一族の居城となったが、ついに島津軍の猛攻で落城した。

豊臣秀吉の九州征伐のおり、秀吉はこの隈庄城に宿泊している。
もっと宣伝してもいいのに、と思う。


※御船城、隈庄城に関しては、荒木栄司氏 『甲斐党戦記』に多くを依っています



■隈庄城へGO!(登城記)
平成16年(2004)1月3日(土)

隈庄城へ行く。目印は城南町役場だ。
前回は緑側沿いを通って細い路地に迷い込んでしまったので、今回は宇土駅近くから県道38号線「宇土甲佐線」で行く。
平地の中にポコッとした丘が隈庄城だ。
隈庄城遠景・2階建の家の倍くらいの高さがある
斜面はお城らしく急なガケになっているが、平地の中にあって城の堅固さは感じられない。
たぶん、昔は周りは湿地帯だったのだろう、と思う。

休日だから誰もいないので、隈庄幼稚園の前、城の鼻公園の入り口に車を停めて、いざ出陣。
雰囲気はなんとなく御船城に似ている。
隈庄城の入り口

坂道の途中にちょっとした平坦地があって石碑が建っている。
公園化したときに作った平地かな、とも思うが、石碑の年号が嘉永四年(1851)となっているので、ひょっとしたら曲輪跡だろうか?


頂上に着いた。
ホントに公園だ。しかし、ここが本丸跡なのだそうだ。
正面には「慰霊之塔」が建っている。
本丸跡

その反対側、西の一角がさらに一段、高くなっている。
櫓台だろうか。
本丸の一角は一段高くなっている

ここには「忠魂の碑」が建っていたが、その題字はなんと明石元二郎中将の書だそうだ。(と隣の副碑に書いてあった)
ええっ!ホンマか!!
明石元二郎といえば、日露戦争時、ロシアで謀略工作を行ない、
「日露戦役戦勝の一原因もまた明石大佐ならざるか」と『機密日露戦史』で賞賛された(歴史群像シリーズ『日露戦争』)人物だ。
明石元二郎は隈庄に何か関係があるのだろうか、と考えたが、碑文をよく見ると第六師団長と書いてあった。
あ、そういうことか。
忠魂の碑 削除碑文復元標に明石師団長の名が

さて、気持ちを中世に戻して、本丸の一段下へ降りてみる。
そこは広い墓地になっていた。
二の丸跡だ。
二の丸跡は墓地 

二の丸の端はガケになっていて、隈庄小学校敷地へと続いていた。
お城の痕跡を感じることができる。
二の丸の端は学校裏のガケ


次に、道路の向こう側、城南町役場へ行ってみる。
ここは三の丸の跡だそうだ。
三の丸跡の町役場
が、役場、民家、道路が建設されていて、何も痕跡はなかった。
唯一、駐車場敷地と下を走る道路の高低差が、在りし日の急崖を想像させてくれた。
曲輪の面影か、道路から高くなっている
(道の向こうのこんもり部が本丸跡)



■隈庄城戦歴

◆天文三年(1534)正月、肥後守護で隈本城主・菊池義宗(きくちよしむね)が大友に叛旗を翻し、挙兵した。義宗の実兄・大友義鑑(おおともよしあき・豊後守護・居館は大友館)は肥後へ大軍を送り、戦となった。このとき、隈庄城へは義宗支援のため相良氏の兵が入ったために、相良氏の宿敵・宇土古城の名和氏が出城の豊福城から出撃、隈庄城を攻めた。義宗は大友氏の大軍を支えきれず、隈本城から肥前・高来へ逃亡して没落、戦いは終わった。隈庄城の攻防の結果はよく分からない。

◆天文七年(1538)六月、甲斐敦昌(かいあつまさ)が隈庄で死去。甲斐敦昌は、甲斐宗運(かいそううん)の父、甲斐親宣(かいちかのぶ)の従兄弟といわれていて、一説に隈庄城主であったという。

◆天文八年(1539)十一月二十九日、突然、目方能登守が隈庄城を乗っ取った。この目方能登守というのは菊池義宗の残党と云われているが、詳らかでない。目方能登守は豊福城の相良氏に同盟を申し込んだ。豊福城は、これより前、天文四年(1535)に相良・阿蘇惟前連合軍が名和氏を追い出していた。

◆天文九年(1540)十ニ月、浜の館の阿蘇惟豊(あそこれとよ)が隈庄城を攻撃。この後、天文十二年まで、断続的にだろうか、隈庄城へ攻め寄せている。

◆天文十一年(1542)、阿蘇惟豊の配下、五ヶ所の兵が包囲中の隈庄城へ、名和氏の家臣・内河備後守が攻城側として来援。

◆天文十ニ年(1543)五月七日、豊後守護・大友義鑑は肥後守護職を兼任した。翌八日、甲斐親昌(かいちかまさ)が堅志田城(かたしだじょう)を攻略、堅志田城主の阿蘇惟前(あそこれさき)は八代へ逃亡した。さらにその翌日九日、隈庄城落城。城主の目方能登守は逃亡したが、その後の消息は不明とのこと。肥後守護となった大友義鑑は甲斐親昌に隈庄千町を与えた。甲斐親昌は、甲斐敦昌(「戦国人名事典」では教昌としている)の子で、御船城主・甲斐親直(宗運)の親戚。

◆天文二十一年(1552)、御船城主・甲斐親直は日向国・高千穂で、甲斐鑑昌(かいあきまさ)兄弟と戦った。鑑昌は隈庄城主・甲斐親昌(かいちかまさ)の弟で、親昌が肥後へ移住した後も日向国に留まっていた。この戦いの原因はよく分からないが、高千穂の二上神社の内紛に関連しているらしい。親直が高千穂へ出兵している隙に、隈庄城の親昌は、甲斐信濃守を将として御船城を攻めた。しかし、三月二十七日、高千穂領主・三田井親武が鑑昌追討令を出すにいたって、鑑昌兄弟は自刃。その直後の四月五日、甲斐親直が名和氏の支援を得て、隈庄城を攻撃。四月二十九日、隈庄城落城、御船甲斐氏と隈庄甲斐氏の間に和平が結ばれた。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆永禄七年(1562)、御船城主・甲斐宗運が隈庄城を攻撃、相良氏もこれに加わった。隈庄城の代表は甲斐下野守(かいしもつけのかみ)であるが、この人の系譜は不明である。この戦いは、隈庄方の甲斐織部佐(かいおりべのすけ)が宗運の娘を夫人としていて、宗運に協力したので、宗運の勝ちとなったという。永禄八年(1563)、隈庄城落城、甲斐下野守は名和氏を頼って逃亡した。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆天正八年(1580)三月、甲斐宗運は隈庄城を攻撃。隈庄城主は、宗運の娘婿の甲斐守昌(かいもりまさ)であるが、彼は、永禄七年(1562)の戦いで宗運に協力した甲斐織部佐と同一人物であるともいい、また一説には宗運の曽祖父・甲斐重安の兄である甲斐重並の子孫ともいう(ヤヤコシイな)。甲斐守昌は阿蘇氏(岩尾城主)から離れようとしていたようで、大宮司・阿蘇惟将(あそこれまさ)は宗運に隈庄を攻撃させた。しかし城は落ちず、惟将は援軍として早川吉秀、渡辺吉久、伊津野正俊を送った。隈庄方には宇土古城の名和顕孝(なわあきたか)の兵が来援した。早川・渡辺両隊は城攻めの最中、宇土勢の攻撃を受け敗走、早川吉秀は戦死した。これを聞いて、宗運は宇土勢へ攻めかかり、これを撃破したが、隈庄城は落ちなかった。攻城側は、さらに健軍城の甲斐正運の兵を動員、浜戸川を渡り城内へ突入して、落城させた。一説には、食料がなくなって開城したともいう。甲斐守昌は追放され、隈庄城には、甲斐親教(かいちかのり=隈庄太郎親教)が城主となった。甲斐親教は甲斐宗運の子と考えられている。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆天正九年(1581)三月、隈庄親教は甲斐宗運とともに龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に対し、臣従の起請文を出した。

◆天正十一年(1583)十月八日、島津軍は名和顕孝(なわあきたか)の兵に隈庄城を攻めさせたが、城方は激しく抵抗、名和軍は四十人もの戦死者を出して敗れた。

◆天正十三年(1585)閏八月十一日、いよいよ島津軍が益城へ進攻、隈庄城を攻め始めた。甲斐親教率いる隈庄城の将兵は、城外へ打って出るなど激しく抵抗。これを知った御船城の甲斐勢は隈庄支援のために出撃、約四千の兵で舞原に布陣した。上井覚兼らが御船勢を攻撃しようと進言したが、島津義弘は動かなかった。閏八月十三日、堅志田城が落城。閏八月十五日、御船城は開城し、島津軍に降伏した。なぜ、一戦も交えずに降伏したのかは不明という。翌十六日、ついに隈庄城は開城した。隈庄城へは伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が入った。益城の諸城が陥落後の閏八月二十七日、阿蘇氏は島津氏に降伏した。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆天正十五年(1587)、豊臣秀吉が九州へ出陣。九州のほとんどを制圧していた島津氏は退却を始めた。このとき、島津の部将・宮原景種が退却の途中、隈庄城で肥後の国衆に襲われて戦死した。景種を討ったのは、赤星統家と名和顕孝であったといわれている。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆天正十五年(1587)四月十八日、島津軍を追って南下中の豊臣秀吉が隈庄城に宿泊。

◆天正十六年(1588)、宇土・益城・八代・天草を拝領した小西行長が肥後へ入った。このとき、隈庄城は、木山城・岩尾城・愛藤寺城・麦島城とともに支城とされ、城代が置かれた。(宇土城案内板)


以上



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