---- はまのやかた ----
別名:浜の御所 はまのごしょ
平成16年5月22日作成
平成16年5月26日更新
阿蘇大宮司家の居館
発掘された浜の館の礎石群(矢部高校の一角)
・データ
・浜の館概要
・浜の館へGO!(伺候記)
・浜の館戦歴
名称 | 浜の館 | はまのやかた |
別名 | 浜の御所 | はまのごしょ |
築城 | 承元元年(1207)、阿蘇大宮司惟次(あそだいぐうじこれつぐ)が建設した。 | |
破却 | 不明。岩尾城とともに慶長十八年(1613)か。 | |
分類 | 平城 | |
現存 | 礎石群、(発掘された磁器等は国指定重要文化財) | |
場所 | 熊本県上益城郡矢部町城平(旧肥後国益城郡) | |
アクセス | JR熊本駅から車で矢部へ、道の駅「通潤橋」に車は停める。(岩尾城へのアクセスを参照) 岩尾城址を探索しながら北へ横切り、大手口とされる城山橋(赤い橋)を渡り、まっすぐ進むとバス通りに出るので右に曲がり、約100m。矢部高校の看板が出てるので、そこを左へ曲がる。矢部高校の敷地が浜の館跡だ。 |
■浜の館概要
阿蘇大宮司(あそだいぐうじ)家が日常生活をおくった城館が浜の館だ。守り城の岩尾城と川をはさんだ場所にある。今の矢部高校だ。
浜の館は、東は五老ヶ滝川(轟川)に接し、北に空堀、南と西は水堀を構えていたという。五老ヶ滝川は館の東から南をめぐるように蛇行して流れていて、天然の堀になっている。川の南岸に岩尾城がたつ。
「日本城郭総覧」によると、阿蘇大宮司惟時(あそこれとき)の頃から浜の館が重要拠点となったという。惟時は、多々良浜合戦(たたらはまのかっせん=建武三年(1336))で菊池武敏(きくちたけとし)とともに戦い、敗れ、自刃した阿蘇大宮司惟直(あそこれなお)、惟成(これなり)兄弟の父にあたる。息子を亡くし、力を落としたことであろう。しかし、惟時は京から肥後へ戻ると大宮司職に復帰し、娘婿の恵良惟澄(えらこれずみ)とともに尊氏が擁立した北朝側の大宮司・坂梨孫熊丸(さかなしまごくままる・孫王丸とも)と争った。孫熊丸は阿蘇郡の南郷城を本拠とし、惟時は益城郡を本拠とした。これが浜の館のことだと思う。
興国元年(1340)、惟時は孫熊丸を南郷城に討ち取ったが、北朝方は今度は惟時へ工作し、どうも惟時はどっちつかずになったらしい。一時、北朝方へ転じたりしており、このため、実力者・恵良惟澄とは必ずしもシックリいっていないようだ。惟時は、死に臨んで大宮司職を惟澄ではなく、その子・惟村(これむら)に譲ったが、結局惟澄が実力で奪った。惟澄は正平五年(1350)菊池武光(きくちたけみつ)に協力し、合志幸隆に奪われていた菊池本城を攻め落とした。(阿蘇品保夫氏「菊池一族」)
大宮司職を奪われた惟村は不満だったであろう。父と反対の北朝方につき南郷城へ拠り、惟村の弟・惟武(これたけ)が南朝方として浜の館・岩尾城に本拠を置いた。ただ、川添昭二氏がいうように、「われわれは南朝と北朝に分かれるというと、両者常に激しい対立・抗争をしていると思いがちであるが、二つに分かれ、どちらかが倒れても片方がその家を存続することができる、そのため南朝・北朝に分属させる、そして対立の形をとるというやり方をしている面がある」(「九州の中世世界」)ということも考慮に入れておくべきであろう。
明徳三年(=元中九年・1392)の南北朝合一は、このような地方豪族にとって一族内の対立が解消するというよりも、むしろ、より深刻に対立せねばならない事態に追いやられたのではないか、と拙者は考えている。(まだ研究中だけど、戦国時代の因は応仁の乱ではなく、南北朝にあったのではないだろうか?)
阿蘇家の場合、宝徳三年(1451)北朝系の阿蘇惟忠(あそこれただ)が南朝系の阿蘇惟歳(あそこれとし)を養子とすることで一応の決着をみた。大宮司職は、惟歳からさらに弟の惟家(これいえ)へと移っていくが、惟忠は元気旺盛というか野心満々というか、再び大宮司職へ復帰し相良為続(さがらためつぐ)、宇土為光(うとためみつ)と連携し肥後国衆に影響力を発揮する。その支援で相良為続は名和顕忠(なわあきただ)を八代古麓城に攻め落としている。
阿蘇惟歳・惟家が面白いはずがなく、文明十七年(1485)、菊池・名和氏と組み、惟忠(一説に惟忠の後嗣・惟乗これのり)・相良・宇土氏連合軍と戦った。が、敗れた。(馬門原まかどばるの合戦)
このような一族の雰囲気のなかで、阿蘇惟長(あそこれなが)・惟豊(これとよ)の争いも起こっていくのである。そう考えないと、なぜ惟長が一旦他家を継ぎ、再び戻り大宮司職を求めたか、往生際が悪く理解に苦しい。
大宮司惟長は、永正三年(1506)断絶した菊池家督を継いで肥後守護となり、菊池武経(きくちたけつね)と名乗った。大宮司職は弟の惟豊に譲った。しかし、わずか五年後の永正八年(1511)、惟長は菊池家督の地位を放棄、大宮司職へ復帰しようとし惟豊と何度も争った。
結局、阿蘇惟豊は兄惟長との争いに勝ち、阿蘇家の最盛期を迎えたといわれる。
しかし阿蘇家も、最盛期を迎えるまでにかかった時間よりも遥かに短く、あっという間に衰微していくのである。
現在、館跡は県立矢部高校となり、校内の一角に昭和四十九年(1974)発掘された礎石群が復元されている。
■浜の館へGO!(伺候記)
平成十六年(2004)一月二日(金)
岩尾城から浜の館へむかった。よく調べもせず、道の駅「通潤橋」から車で矢部高校へ向かったが、これは失敗だった。岩尾城から歩いていったほうがずっと近くて便利だった。
さて、浜の館だが、今は県立矢部高校になっている。近くを散歩していた老人に尋ねると、高校の敷地一帯が浜の館跡だという。
とりあえず、あたりを歩いてみる。
浜の館は、北に空堀、西と南に水掘を巡らせていたという。北の空堀は痕跡を見出せなかったが、高校の西は道路、南は住宅地となっていて、なんとなく地形に面影があるように感じる。
(左)矢部高西側 道路より一段高い
(右)矢部高南側 堀の跡に建った家だろうか、屋根が校庭より低い
さらに、東側へとまわってみる。すると、校舎の裏、B棟とC棟の間に発掘された礎石群があった。よっしゃぁ!
これは、浜の館の数十棟のうちの一棟で、もともとあった場所から15m移動させて復元されたものだそうだ。
歴代大宮司が出入りした建物かもしれぬ、と思うとワクワクしてくる。
ずっと前、歴史書で「浜の館」とあったのを見て、てっきり有明海沿岸にあるのかと思いきや、「矢部」と聞いて、なんでそんな山の中なのに「浜」というのだろう、と疑問に思った。そのとき推測したのは、館の近くに川があり、昔の川は今よりも水量が多く川幅も広かったはずなので、屈曲部に大きな砂浜ができていたのだろう、と考えた。そうだとすると、どのあたりだろうか。
矢部高グラウンドの横には、福王寺というお寺があり、阿蘇大宮司家の菩提寺、と案内板にあった。軒下には阿蘇家の「違い鷹の羽」が彫られていた。
■浜の館戦歴
※岩尾城と浜の館は一心同体なので、ここでは区別せずに述べてみる。
◆永正十年(1513)三月、菊池家督を継いでいた阿蘇惟長(あそこれなが=菊池武経
きくちたけつね)が大宮司職復帰をはかり、浜の館を攻めた。守るのは、惟長の弟、大宮司惟豊である。惟豊は堅志田城に立てこもり防戦したが敗れ、日向国高千穂鞍岡へ逃れた。
よく分からないが、岩尾城に籠もり、落とされ、さらに堅志田城に籠もった、ということだろうか?それとも、最初から岩尾城を捨て堅志田へ行ったのだろうか?
◆永正十二年(1515)、阿蘇惟豊が日向の武将とともに浜の館を攻めた。阿蘇惟長、大宮司惟前(これさき)父子は支えきれず、相良氏を頼って逃れた。このとき、惟豊に従った武将に甲斐親宣(かいちかのぶ)がいて、これが甲斐氏の肥後進出のきっかけとなった。永正十四年(1517)のことともいう。
◆天正十三年(1585)、島津軍が益城、阿蘇郡へ進攻、制圧した。大宮司惟光(これみつ)は浜の館を落ち、目丸の山中へ非難した。
◆加藤清正が小西行長を攻めたとき、岩尾城の甲斐秋政(かいあきまさ)は加藤に協力、愛藤寺城を攻めた。しかし、この隙に、味方であるはずの加藤清正が岩尾城を占領、甲斐秋政をも討とうとした。秋政は日向へ逃れたが、力尽き、家代峠(えしろとうげ)で自刃した。
という話が「日州高千穂古今治乱記」にあるらしい。しかし、家代峠の甲斐秋政の墓の墓碑銘には慶長二年(1597)とあるそうなので、加藤が小西を攻めたというこの話の筋と合わない。(荒木栄司氏「甲斐党戦記」)
以上
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