菊池城、菊の城、菊池古城、菊池陣城、深川城、雲上城、隈部城
---- きくのいけじょう ----
別名:菊池古城 きくちこじょう・菊池陣城 きくちじんじろ・菊の城 きくのしろ・菊池城 きくちじょう・深川城 ふかがわじょう・雲上城 くものえじょう・隈部城 くまべじょう

平成17年9月4日作成
平成17年9月4日更新

肥後の名門・菊池氏の初期における本拠地

菊之池城跡 中央の四角く盛り上がったところ
菊之池城遠景(中央の盛り上がった部分)

データ
菊池城について
菊之池城概要
菊之池城へGO!(登城記)
菊之池城戦歴


 

■データ

名称 菊之池城
きくのいけじょう
別名 菊池古城、菊池陣城、菊の城、あるいは単に菊池城とも。 ほかにも、深川城、雲上城。また、隈部城という呼称もあったという。
きくちこじょう、きくちじんじろ、きくのしろ、きくちじょう、
ふかがわじょう、
くものえじょう
くまべじょう
築城 はっきりとしない。
破却 これもはっきりとしない。
分類 平城
現存 とくになし。
場所 熊本県菊池市深川(旧肥後国菊池郡)
アクセス 菊池を目指そう。
JR熊本駅から国道3号線を北上、「山室交差点」から右折し国道387号線に入る。ひたすらまっすぐ行って、西合志町、泗水町を過ぎるといよいよ菊池市だ。
菊池川を越え、約1.5キロ、「深川」交差点で右折し、細い道に入ろう。200mくらいで右手に「菊之池」、さらに100m行くと左手に「菊池則隆の墓」がみえる。
さらに300m行くと左手の田んぼの中に石碑が建っている。これが菊之池城跡だ。
駐車場はないので、近くの道に停めるしかない。交通量は多くないが、道が狭いのでなるべく端に寄せて停めよう。だけど、脱輪して溝に落ちないよう気をつけよう。



■菊池城について
菊池氏は、はじめの頃、居館を深川(現菊池市深川)の平地に置いていたが、南北朝の戦いが激しくなった頃、隈府の守山(現菊池神社一帯)に本拠地を移した、といわれている。
現地案内板には、前者が菊之池城(きくのいけじょう)、後者が菊池本城(きくちほんじょう)とある。菊池本城に居城を移した後の菊之池城は、外城(とじょう=支城のこと)の一つとなった。そのため、菊之池城は別名、菊池古城(きくちこじょう)ともいうが、ほかにも菊池陣城(きくちじんじょう)菊の城(きくのしろ)雲上城(くものえじょう、うんじょうじょう)などの別称がある。一方、菊池本城にも、守山城(もりやまじょう)隈府城(わいふじょう)隈部城(くまべじょう)雲上城(くものえじょう、うんじょうじょう)などの異称がある。

したがって、単に菊池城というと、深川の菊池城(菊之池城)のことなのか、守山の菊池城(菊池本城)のことなのか、あるいは十八あったといわれる外城を含んだ菊池城ネットワーク全体のことなのか、はっきりしない。歴史小説を読んでいると、こんがらがってしまうのだ。

そこで、当ホームページでは、深川の城を菊之池城、守山を隈府城と呼ぶこととした。

また、隈府城の裏、谷一つへだてた山に征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)が居たという雲上宮があるが、この部分だけを雲上城と呼んだり、前面の菊池神社(隈府城本丸)を含めて全体を雲上城と呼んだりしている。密接に連繋した城郭と考えられるので、わざわざ分ける必要もないが、場所をはっきりさせるために、当ホームページでは雲上宮の部分を(隈府城とは別に)雲上城と呼ぶことにした。

ところで、雲上城(くものえじょう)について。
現地案内板には、菊之池城の別名として「雲上城」が紹介されている。「雲の上」というのは、征西将軍宮のことを指していると考えてよいだろう。
征西将軍宮がいつ菊池に入ったか、はっきりとはしないし、また菊池氏の本拠地がいつ菊之池城から隈府城へ移ったかもはっきりしていない。征西将軍宮が、いっときにせよ、この菊之池城に入られたとしたら、この別名で呼ばれておかしくはない。宮様がいらっしゃるところが「雲の上の城」なのだ。征西将軍宮がのちに隈府城にいたことは確かなので、雲上城の尊称は菊之池城と隈府城の両方にある。宮様を迎えた城館は、さぞ士気が高まったことであろう。




■菊之池城概要

菊池氏の出自は、大宰府官人、それも相当の実力者であったといわれている。本姓は藤原氏だ。「源氏物語」の「玉蔓」に出てくる「大夫の監(たいふのげん)」は菊池氏がモデルだといわれている。

平家の世の治承四年(1180)、伊豆で源頼朝が挙兵したのとほぼ同じ頃、九州でも反平家の兵を挙げたものがいる。菊池隆直(きくちたかなお)が南郷大宮司惟安(なんごうだいぐうじこれやす)・木原次郎盛実(きはらのじろうもりざね)を率いて挙兵したのがそれで、また、豊後の緒方惟能(おがたこれよし)も挙兵したともいう。ただし、頼朝に呼応したものではなく、自発的な行動だったらしい。隆直は大宰府まで攻め上る勢いであったが、結局は平貞能(たいらのさだよし)によって鎮圧された。こののち、菊池氏は平家方として行動する。元暦二年(1185)三月二十四日、壇ノ浦で平家が滅びたとき、隆直の嫡男・菊池隆長(きくちたかなが)も戦死した。

源平合戦を平家方として戦った菊池氏であったが、鎌倉幕府からは追放されることなく、領国支配を認められているようだ。
承久三年(1221)、承久の乱のとき、家督の菊池能隆(きくちよしたか)は京都大番役であったので叔父二人を京へ派遣しており、その二人が後鳥羽上皇に従って合戦に参加したことから、菊池氏は所領を削られた。

文永十一年(1274)、元(モンゴル)軍が日本へ侵攻。蒙古襲来だ。このとき、菊池氏の惣領、菊池武房(きくちたけふさ)は一族郎党を率い、博多湾の赤坂(あかさか)のあたりで元軍と戦闘に及んだ。このときの様子については、竹崎季長(たけざきすえなが)の蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)に、敵の首を取って引きあげてくる武房と季長がすれ違う場面が描かれている。ということは、武房はその戦闘に勝利した、とみてよいだろう。赤坂とは、のちの福岡城のあたりだが、元軍の本陣は祖原山(そはらやま=福岡市早良区西新のあたり)にあったというので、日本軍の最前線の戦闘だったのだろう。武房などの奮闘の結果、元軍の進軍を阻止することができ、元軍は一夜にして引き揚げた、あるいは暴風雨で壊滅したという。菊池氏の声望が高まったことと思われる。

鎌倉幕府は元軍の再来に備えて、博多湾岸に元寇防塁(げんこうぼうるい=石築地)を築くよう九州の御家人らに指示、肥後国は生の松原(いきのまつばら)を担当した。当然、菊池氏も防塁構築に携わったことだろう。

弘安四年(1281)、元軍が再び襲来。日本軍は防塁に拠り迎撃したので、元軍は博多へ上陸できなかった。このときの様子についても蒙古襲来絵詞にある。竹崎季長が、防塁の上に座って雑談(?)している菊池武房のところへ行き、挨拶したのち敵船攻撃へ向かう場面だ。防塁上の武士団はズラリと並んだ軍勢で、菊池氏の家紋「並び鷹の羽(ならびたかのは)」の旗もみえる。阿蘇品保夫氏によると、それは六つの集団からなっているとのことで、その解説はまことに興味深い。(阿蘇品保夫 「菊池一族」)

元弘三年(1333)三月十三日、菊池家惣領の菊池武時(きくちたけとき)は、子の赤星頼隆(あかほしよりたか)や阿蘇大宮司の阿蘇惟時(あそこれとき)らを率いて、博多の探題館に赤橋英時(あかはしひでとき)を攻めた。ところが、共に探題襲撃を計画していた少弐氏、大友氏は時期尚早であると探題方についたので、襲撃は失敗、武時は討死した。鎌倉幕府滅亡の二ヶ月前のことだった。
その後、足利尊氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とすと、五月二十五日、大友・少弐・島津は探題館を攻撃、これを攻め落とした。

建武二年(1335)十月、鎌倉の足利尊氏を後醍醐天皇方の新田義貞が討伐に向かい、箱根・竹の下(たけのした)で合戦となった。このとき、菊池武重(きくちたけしげ)は天皇方として参戦、槍ぶすま戦法で足利方を撃退した。これを菊池千本槍(きくちせんぼんやり)という。しかし、合戦自体は大友貞載(おおともさだとし)の寝返りで足利方が勝利、尊氏はその勢いで京まで攻め上った。
ところが、東北から北畠顕家(きたばたけあきいえ)が攻め寄せ、尊氏は瀬川(せがわ)の戦いなどで敗れ、西国へ敗走した。

このころ、菊池家は、惣領の武重は上方で戦っていたので、地元の九州では菊池武敏(きくちたけとし)が菊池家をとりまとめ、戦っていた。武敏は大宰府を攻めようとしたが、三池氏・詫摩氏に敗れ、一旦、菊池へ引き揚げた。三池・詫摩氏らは菊池本城(隈府城のことか?)へと進撃、これを落とした。菊池武敏は行方をくらました。ところが翌月には復活、筑後へ兵を進め詫摩氏らを破り、大宰府へ入った。このとき、少弐頼尚(しょうによりひさ)は足利尊氏を出迎えるため赤間関(あかまがせき=関門海峡)に行っており、父の少弐貞経(しょうにさだつね)は有智山城(うちやまじょう)へ籠城、菊池勢を迎え撃ったが敗死した。
武敏はその勢いで博多へ進撃、箱崎に陣をとり、三月二日、尊氏と決戦に臨んだ(多々良浜合戦)。激しい戦いであったが武敏は敗れ、菊池へ退却した。足利方は菊池へ追撃、菊池城はまたも落城し武敏は姿をくらました。
尊氏は四月には東上を開始、九州には押さえとして一色範氏(いっしきのりうじ)を残した。ところが、菊池武敏はまたもや復活、足利方と合戦を始めた。この打たれても打たれても立ち上がってくる矢吹ジョーのような力はどこから湧いてくるのだろうか。

京では五月に湊川の合戦で楠木正成(くすのきまさしげ)が戦死、菊池武重の弟、武吉(たけよし)も自害した。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は比叡山へ逃れたが、武重も比叡山に立て籠もっている。十月、尊氏と講和した天皇は京へ戻った。このとき武重は捕えられたが、すぐに脱走して肥後へと戻った。後醍醐天皇も十二月に京を脱出、吉野へ入られ、いよいよ南北朝時代がはじまった。

武重は肥後において挙兵、肥後へ攻め寄せてきた探題・一色範氏を犬塚原(いぬつかばる=現上益城郡)で破り、筑後へ進攻するなど各地で北朝軍と戦った。
武重死後の跡を継いだ弟の武士(たけひと)も北朝方との戦闘を継続したが、菊池城(菊之池城のことだろうか)を攻められるなど振るわなかったようだ。引退を表明している。

その跡を継いだのが菊池武光(きくちたけみつ)だ。武光は、恵良惟澄(えらこれずみ)とともに北朝方に奪われていた菊池本城(菊之池城のことだろうか)を奪回、実力で惣領の地位に就いたらしい。そして、後醍醐天皇の皇子、征西将軍宮・懐良親王(かねよししんのう、または、かねながしんのう)を菊池に迎えた。
この頃、居城を菊之池城から隈府城へと移したといわれる。菊之池城は、隈府城の支城(外城とじょう)のひとつとなった。

そしていよいよ、菊池氏の、そして九州の南朝方の絶頂期を迎える戦いが始まることとなる。

なお、外城となった後の菊之池城は、赤星氏が代々城主となったといわれている。赤星氏は菊池氏の一族だ。「あかほし」と濁らない。元寇のとき、菊池家惣領の菊池武房(きくちたけふさ)は一族を率いて博多湾で蒙古軍と戦った。このとき、武房の弟・菊池有隆(きくちありたか)は、勲功第一として執権・北条時宗(ほうじょうときむね)から「赤星」の姓を賜ったという(隈部親養 『清和源氏隈部家代々物語』)。名誉ある一族なのだ。ちなみに、赤星有隆は「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」で菊池武房の右となりに描かれている人物だ(阿蘇品保夫 『菊池一族』)




■菊之池城へGO!(登城記)
平成16年(2004)8月14日(土)

隈府城探索の次は菊之池城だ。
菊池市街を通り抜け深川へ向かう。

地図から行くとこのあたりだが、とキョロキョロしていると、ポツンと石碑がみえた。
これか!
たんぼの中にポツンと建つ石碑

田んぼの中に、やや高くなっている一角に石碑と案内板が建っている。
菊之城跡の碑

その当時は、このあたり一帯が館だったのだろう。堀で囲まれていたのかもしれない。
長い年月のあいだに壊され、使われ方が変わり、今ではすっかり田園地帯だ。平地の真ん中なので、いかに川に挟まれているとはいえ、防御には全然向いてないと思う。
菊之池城からの眺め

しかし、ここが菊池氏発祥の地なのだな、と思うと感慨深い。

さて、ものの本には、菊之池城の近くに菊之池(きくのいけ)という池があると書いてある。が、見渡してみても、それらしきものはない。
そこで、近所のおばさんに尋ねてみると、ここから300mくらい西へ行ったところに池があるという。よっしゃ、行ってみよう。
あった! 道のほとりに案内板が建っている。
菊之池

それにしても小さな池だ。
この池の名前をとって、姓を菊池と改めた(菊池氏は本姓藤原氏)、という言い伝えもあるようだが、まあ俗諺だろう。古代にはすでに鞠智城(きくちじょう、または、くくちじょう、あるいは、くくちのき)があるのだし。
現地案内板のニュアンスから、この池が菊之池城の頃あったという池ではなさそうだが、それはともかく、ちゃんと公園化されていて、遠い昔の名族を偲ぶのにはちょうど良い。

菊池氏は滅んだが、その活躍はこれからも人々に伝えられていくことだろう。


■菊之池城戦歴
 ※隈府城へ本拠地を移したのがいつごろか不明なので、当ホームページでは、現地案内板に敬意を表し、菊池武光のころ以降を隈府城のできごととし、それ以前を菊之池城のこととして書いてみた。

◆治承四年(1180)、菊池隆直(きくちたかなお)が挙兵、平家に叛旗を翻した。翌年、平清盛(たいらのきよもり)死去。跡を継いだ平宗盛(たいらのむねもり)は、平貞能(たいらのさだよし)を追討使として派遣、その翌年、隆直降伏。「吾妻鏡」には、貞能が兵糧米の徴収と称して、国内を回り人家を焼き払い、庶民が困窮したので、隆直が降伏した、とある。(荒木栄司 『よくわかる熊本の歴史(1)』)

◆文永十一年(1274)十月、蒙古襲来。菊池武房(きくちたけふさ)は日本軍の一員として防衛戦に参加。赤坂(あかさか・現在の福岡市中央区赤坂)に布陣したといわれる。(文永の役)

◆弘安四年(1281)五月、蒙古が再び襲来。菊池武房は再度出陣。元寇防塁の上に座っている姿が蒙古襲来絵詞に描かれている。(弘安の役)

◆元弘三年(1333)三月、菊池武時(きくちたけとき)は、博多の鎮西探題・赤橋英時(あかはしひでとき)を襲撃、探題館に侵入するほどの猛攻を加えたが破れ、武時は戦死した。

◆元弘三年(1333)三月、探題館襲撃の報復として、肥後守護・規矩高政(きくたかまさ・赤橋英時の子)は、菊池を攻撃。菊池方は高千穂の山中に逃れた。

◆建武二年(1335)十二月、菊池武敏(きくちたけとし)は大宰府を攻めるため出兵したが、筑後・童付(わらわつき)において三池氏・詫摩氏に敗れ、退却した。(阿蘇品保夫 『菊池一族』)

◆建武三年(1336)一月、前年に童付の合戦(わらわつきのかっせん)に敗れた菊池武敏は菊池本城に籠城。追撃してきた託摩貞政(たくまさだまさ)、三池貞元(みいけさだもと)、相良定頼(さがらさだより)らは菊池本城を攻撃、ついに落城した。菊池武敏らは行方をくらましてしまった。この菊池本城というのが、菊之池城か隈府城かよくわからないが、荒木栄司氏は、隈府城と考えていいのではないか、と推測している。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆建武三年(1336)二月、本城を陥とされた菊池武敏であったが、早くも翌月には復活(なんで可能なんだろ?)、筑後へ攻め入り、上妻郡の大田・寒水で詫摩氏らを破り、大宰府へ進軍。少弐貞経(しょうにさだつね)は有智山城(うちやまじょう)へ立て籠もったが、二月二十九日落城、貞経は自害した。

◆延元元年(1336)三月二日、多々良浜(たたらはま)において、菊池武敏と足利尊氏が合戦。菊池勢の攻勢に尊氏は自害も考えたが、菊池方に内応者が相つぎ形勢逆転、菊池勢は敗れた。武敏は菊池へと退却できたが、阿蘇大宮司惟直(あそだいぐうじこれなお)と弟の惟成(これなり)は肥前国・天山(てんざん)で自害した。

◆延元元年(1336)三月、足利勢は菊池へ進撃、菊池城は落城した。これも菊之池城か隈府城かはっきりしないが、どちらにせよ、菊之池城も無事なはずがないので陥ちたということだ。武敏はまた行方をくらました。

◆延元元年(1336)四月、足利尊氏が京へ向かって進軍を開始、一色範氏(いっしきのりうじ)を九州探題として残していった。すると、菊池武敏はまたまた復活、安楽寺(現玉名市)、鳥栖原(とりのすばる、または、とすはら・現西合志町)で足利方と合戦に及んだ。尊氏は援軍として、仁木義長(にきよしなが)を派遣した。武敏は仁木軍を撃破、筑前国下座郡平塚原へと兵をすすめた。しかし、その翌月、仁木軍の総攻撃に武敏は敗退、菊池へと戻った。仁木勢、一色勢は菊池へ進撃、武敏はまたまた身を隠した。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』) つまり、菊池城の落城だ。仁木義長は京へ凱旋した。

◆延元元年(1336)六月、仁木義長にかわり今川助時(すけとき)が肥後に入った。八月、菊池武敏は阿蘇惟澄(あそこれずみ)とともに今川軍と唐川(からかわ・現上益城郡)で合戦、これを破った。勢いに乗って菊池勢は筑後へ進攻、ところが筑後での戦いに敗れて肥後へ退却した。

◆延元元年(1336)九月、合志幸隆(こうしゆきたか)、小代重峰(しょうだいしげみね)など北朝軍が菊池城を攻撃、武敏は、またまた姿をくらました。

◆延元元年(1336)暮れ頃、京で捕らわれていた惣領の菊池武重が肥後へ帰還した。

◆延元二年(1337)二月、武重が寺尾城で挙兵。これ以降、あれほど活躍した武敏の名前が出てこなくなる。(阿蘇品保夫 『菊池一族』)

◆延元二年(1337)四月、犬塚原合戦(いぬつかばるかっせん)。九州探題・一色範氏は自ら兵を率いて肥後へ進攻、菊池武重・阿蘇惟澄は犬塚原で迎え撃ち、範氏の弟・頼行(よりゆき)を戦死させるなどして勝利をあげた。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆延元二年(1337)五月、菊池武重の弟・武豊(たけとよ)は筑後へ進軍。佐竹重義(さたけしげよし)を筑後・豊福原に破り、筑後を制圧した。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆延元二年(1337)六月、菊池武重は合志城(竹迫城)に合志幸隆を攻めた。 荒木栄司氏 『菊池一族の興亡』によると、九月、合志城落城とある。 一方、阿蘇品保夫氏 『菊池一族』には、攻め寄せたものの落とせなかった、とある。

◆延元三年(1338)三月、菊池武重は筑後へ進出、石垣山合戦となった。しかし、戦況は思わしくなかったようで、翌月は肥後国府にて合戦している。(阿蘇品保夫 『菊池一族』)

◆延元三年(1338)、足利尊氏は菊池一族である甲斐重村(かいしげむら)を肥後守護に任命し、肥後へ送り込んだ。重村は、大友の支援を受けて豊後から菊池へと進攻した。菊池武重はこれを菊池の東方、鞍岳の麓で迎撃、重村を敗走させた。重村はこのあと日向高千穂へ移住した。その子孫が、のちに御船城隈庄城で活躍する甲斐氏となったといわれている。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆興国四年(1343)三月、大友氏泰(おおともうじやす)の兵が豊後から肥後へ進攻、菊池武士(たけひと)は菊池東方、鞍岳の麓でこれを迎撃した。 荒木栄司氏 『菊池一族の興亡』では大友軍を撃退した、とあるが、阿蘇品保夫氏 『菊池一族』では、その二日後に大友勢が菊池本城を攻めている、となっている。

◆興国四年(1343)四月、大友一族の田原正堅(たばるまさたか)が菊池城を攻撃、木戸際まで攻め込んだ。(阿蘇品保夫 『菊池一族』)

◆興国五年(1344)正月、惣領である菊池武士は、家督を一族を指導する能力のある人に譲る、と表明した。しかし、武士がいつ家督から離れたか、不明。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆興国五年(1344)三月、合志幸隆が菊池本城を攻め、これを奪った。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆興国六年(1345)三月、恵良惟澄(えらこれずみ=阿蘇惟澄)と菊池武光(きくちたけみつ)は、合志幸隆に奪われていた菊之池城を回復した。これによって、征西将軍宮の受け入れ態勢が整った。(山川出版社 『熊本県の歴史』) なお、武光の菊池本城奪回は正平五年(観応元年=1350)という説もある。(阿蘇品保夫 『菊池一族』)

◆ 正平三年(1348)頃、ついに征西将軍宮・懐良親王(かねよししんのう)が菊池へ入った。

◆ 正平四年(1349)、菊池武光(きくちたけみつ)、恵良惟澄(えらこれずみ)は、合志幸隆(こうしゆきたか)に奪われていた菊池陣城(菊之池城)を攻めたが、外城を落したものの、本城は落せなかった。(阿蘇品保夫 『菊池一族』)

◆ 正平五年(1350)、菊池武光は恵良惟澄の日向・高知尾庄(たかちほしょう)の軍勢と共に、菊池陣城(菊之池城)を攻め、これを奪回した。しかし攻守に限界があるため、このあと隈部城(守山城・雲上城・・・隈府城のこと)に本城を移した。(阿蘇品保夫 『菊池一族』)  武光の菊池本城奪回は興国六年(貞和元年=1345)三月という説もある。(山川出版社 『熊本県の歴史』)

◆ 弘和元年(康暦三年=1381)、菊池攻略をめざす今川了俊(いまがわりょうしゅん)によって隈府城の支城が次々に落城。五月、菊池陣城(菊之池城)も落城し、肥前衆が城番として入った。その翌月、ついに隈府城が陥落。菊池武朝(きくちたけとも)は、良成親王(よしなりしんのう)を奉じて、岳の陣、宇土、益城の守山と移動し、最後は八代へ逃れた。(阿蘇品保夫 『菊池一族』、荒木栄司 『よくわかる熊本の歴史(2)』、山川出版社 『熊本県の歴史』)



以上



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