勝本城(別名 武末城)ロゴ
---- かつもとじょう ----
別名:武末城 たけすえじょう・風本城 かざもとじょう・雨瀬包城 あませづつみじょう

平成17年6月4日作成
平成17年6月4日更新

秀吉の唐入りの中継基地

勝本城遠景
勝本城遠景(ふもとは野球のグラウンドになっている)

データ
勝本城概要
勝本城へGO!(登城記)
勝本城戦歴


 

■データ

名称 勝本城
かつもとじょう
別名 武末城・風本城・雨瀬包城。
城跡は城山と呼ばれている。
たけすえじょう・かざもとじょう・あませづつみじょう
じょうやま
築城 天正十九年(1591)、豊臣秀吉の命を受けた松浦鎮信(壱岐領主で平戸城主)が築城。
破却 秀吉の唐入りののち、破却された、と伝わる。
分類 平山城(標高79m)
現存 石垣
場所 長崎県壱岐市勝本町坂本触(旧壱岐国壱岐郡)
アクセス 福岡市の博多埠頭から、ジェットフォイル号に乗ろう。約一時間で郷ノ浦港だ。
ここでレンタカーをを借りて、壱岐島を縦断する国道382号線を北上するのだ。勝本町に入ると、港の手前、壱岐文化センター付近で城山公園の看板が出ているので左折しよう。駐車場はもちろん無料だ。



■勝本城概要

魏志倭人伝のころから壱岐・対馬は北部九州と朝鮮半島の交通の中継地だ。
同様に、豊臣秀吉が唐入り(からいり=朝鮮出兵のこと)を企図したときにも壱岐・対馬には中継拠点が設けられ、補給線を確保した。本陣の肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)から飛び石のように、壱岐に勝本城、対馬に清水山城(しみずやまじょう)だ。

天正十九年(1591)九月、秀吉は平戸城主で壱岐領主である松浦鎮信(まつうらちんしん、と現地案内板は読むが、普通は、まつらしげのぶ)に命じ、勝本城の築城がはじまった。肥前名護屋城の普請と同時並行だ。
工事は、有馬晴信(ありまはるのぶ)、大村善前(おおむらよしあき)、五島純玄(ごとうすみはる)の支援を受け、同年末には完成したと云われる。肥前名護屋城も短期間でできたというし、秀吉という人は何事もすぐにやらないと気が済まない、せっかちなタイプだったのだろう。
完成後は本多因幡守(ほんだいなばのかみ)が城番として在城していたそうだ。(現地案内板)
この本多因幡守は、秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)の家臣、本多正武(ほんだまさたけ)である、と外山幹夫先生は書いている。(小学館 『城郭と城下町9北九州』)

城からは勝本の港がよく見下ろせる。拙者が行ったときには見えなかったが、そのはるか遠くには対馬も見えるんじゃないだろうか。
ここで多くの武将、兵士が戦備を整え、あるいは風待ちをしたことだろう。
前後2回にわたり朝鮮へ渡海し、明(みん)を目指した日本軍は序盤は良かったものの結局は敗退することになる。(なんとなく今次大戦に似ている)

秀吉の壮大な計画は夢のまた夢に終わり、役目を終えた勝本城も取り壊された、とのことだ。
肥前名護屋城のようにうち捨てられていたのだろう。




■勝本城へGO!(登城記)
平成14年(2002)2月9日(土)

壱岐をぐるりと一週ドライブし、北の端、勝本町へやってきた。
そして勝本城跡の看板発見!もちろん行く。

勝本城は、秀吉の唐入りの際、中継基地として築かれたそうだ。山城である。
頂上からの眺めは抜群で勝本浦が一望できる。ここから対馬経由で朝鮮半島へと、幾多の船が、物資が、侍が出航したのだろう。
勝本城から対馬方面を臨む

本丸跡は意外に広く、サッカーが充分できる広さだ(もちろんサッカー場ではない)。
本丸跡

そしてここにも石垣がしっかりと残っている。野面積の石垣跡があちこちに見られ、とても得した気分だ。
折れ曲がっている石垣は桝形の跡だろうか。
石垣その1 石垣その2・・桝形か

ここは山城の雰囲気が感じられるお薦めスポットだ。
なにかのモニュメント(?)の先端に、一羽のカラスがジッととまっていたのが、戦に臨む武将のようで印象に残った。
勝本城にいた烏


■勝本城戦歴

◆ 文禄元年(1592)から翌二年(1593)、文禄の役。

◆ 慶長二年(1597)から翌三年(1598)、慶長の役。

以上



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