---- きくちじょう・くくちのき ----
別名: (なし)
平成17年10月10日作成
平成17年10月10日更新
「続日本紀」に登場する古代山城
鞠智城遠景(城北小学校付近より)
・データ
・キクチ城について
・鞠智城概要
・鞠智城へGO!(登城記)
・鞠智城戦歴
名称 | 鞠智城 |
きくちじょう |
別名 | 現地案内板は、鞠智城を「きくちじょう」と呼んでいるが、ほかにも、鞠智を「くくち」と読んで、くくちじょう、くくちのき、ともいう。 |
くくちじょう、くくちのき |
築城 | はっきりとしない。 |
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破却 | これもはっきりとしない。 |
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分類 | 古代山城(標高168m) | |
現存 | 礎石・土塁 | |
場所 | 熊本県山鹿市菊鹿町米原(旧肥後国菊池郡) | |
アクセス | まずは、菊池を目指そう。 JR熊本駅から国道3号線を北上、「山室交差点」から右折し国道387号線に入る。ひたすらまっすぐ行って、西合志町、泗水町を過ぎるといよいよ菊池市だ。 菊池川を越え、「深川」交差点も越え、さらに1キロ先の「下北原」交差点を右折、菊池市街へ入るが、400m先の「北原」交差点で左折し、そのまま県道18号(菊池鹿北線)を北上しよう。 約3キロ行くと、「菊池市稗方(ひえかた」交差点に「鞠智城1Km ← 」と大きな看板があるので、素直に左折し、坂道をのぼっていくと大きな八角形の建物が見えてくる。駐車場も広くて、しかも無料だ。 |
■キクチ城について
「キクチ」という城は熊本県の菊池地方にたくさんある。
なんといっても有名なのは、南朝一筋、尊王の鏡、菊池氏の居城だ。この菊池城にも2つあって、当ホームページでは、初期の菊池城を菊之池城(きくのいけじょう)、後半の菊池城を隈府城(わいふじょう)、と呼ぶことにした。
そして、その菊池氏の時代よりもはるかに古い時代に築かれたキクチ城がある。それがここで紹介する鞠智城(きくちじょう、または、くくちじょう)だ。
「和名類聚抄」には、「菊池」の読み方を「久々知」、すなわちククチとしているので、ほんとうは、ククチ城と呼ぶのが正しいのかもしれないが、当ホームページでは現地標識を尊重してキクチ城と呼ぶ。
■鞠智城概要
西暦663年、日本は白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で唐・新羅連合軍に敗れた。
天智天皇は、唐・新羅が日本へ攻め寄せてくることを想定して、九州から近畿にかけて城を築きこれに備えた。古代山城(こだいさんじょう)とか朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)などと呼ばれるもので、対馬の金田城(かなだじょう)、太宰府の大野城(おおのじょう)、佐賀県基山の基肄城(きいじょう)、香川県には屋嶋城(やしまじょう)、大和国に高安城(たかやすじょう)など、29ほどあると云われている。
肥後国の鞠智城もそのころ築かれたという。あるいは、もっと以前から、例えば熊襲(くまそ)に対する軍事拠点として元から鞠智城があって、天智天皇の頃にこれを修築して使ったもの、ともいう。
鞠智城の築城時期ははっきりしないのだ。
文献上は、「続日本紀(しょくにほんぎ)」の文武天皇二年(698)五月条に登場するのが初めとされている。「大宰府をして大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」とある。大野城や基肄城とともに修繕されたということは、それらと同じ頃に鞠智城が築かれたのではないか、という推論が成り立つわけだ。ただ、大野城・基肄城と違い、鞠智城には築城の記録がない。また、いつまで使われていたのかも不明だ。文献上は、元慶三年(879)の「三代実録」の記録を最後に見られなくなる、といわれている。
場所についても、長い間、論争があった。すでに江戸時代には、米原(よなばる)地区が鞠智城跡ではないか、という説がある。近代になると礎石や炭化米が発掘されると、いよいよ米原地区が有力視された。炭化米は、不動倉十一宇を焼く、の古記録に合致する。
昭和三十四年(1959)、伝鞠智城として県史跡に指定、その後平成三年(1991)八角形建物跡が出土、平成十六年(2004)国指定史跡となった。
鞠智城は、あまり高くない丘の上に築かれた古代の山城で、その規模はとてつもなく大きい。
それにしても、どうしてここ、大宰府を遠く離れたこの地にこんな大規模な城を築いたのか、不思議だ。
■鞠智城へGO!(登城記)
平成16年(2004)8月14日(土)
さあ、古代山城・鞠智城へ行こう。
鞠智城跡は、長い間、人々に忘れられていたが、今では立派に整備された公園になっている。
暑くなる前に、と思い、朝早く出てきたが、すでに暑い。
すぐに八角形の大きな建物が目に飛び込んでくる。連絡用の太鼓が置かれていたという鼓楼(ころう)だ。
いかにも古代の雰囲気のする建築物に復元されていて、鞠智城のシンボルといってよいだろう。発掘されたのは二棟だが、復元されているのは一棟だけだ。
心柱を中央において、柱が八方向に三重に巡っている、と案内図に描いてある。なんとなく、高校の物理で習った原子の構造(K殻、L殻、、、)を思い出してしまった。
さて、周りを見回すと広々とした高原といった感じで、あちこちに復元建物やら、礎石のしるしなどが点在している。中世の山城と違い、古代の山城は規模が大きい。
案内板をみると、AゾーンからFゾーンと名付けられていた。ひととおり廻ってみよう。
Aゾーン | Bゾーン | Cゾーン |
復元された米倉。米俵で1,200俵も保存できるそうだ。 | 復元された兵舎。50人程度が起居していたそうだ。 | 復元された武器庫。瓦が出土しなかったので屋根はわら葺だ。 |
Dゾーン | Eゾーン | Fゾーン |
官衙機能があったのではないか、と説明板にある。 | 一段高い地形だ。ここにも食料庫があったそうだ。 | 貯水池跡といわれるくぼんだ土地だ。 |
Eゾーンの裏側に、「長者山休憩所」というのがあった。一息入れよう。
その先に出丸のようなところがある。灰塚という。ここは一段と高いところで、見晴らしが抜群に良い。物見櫓を建てるのに最適だな、と考えながら汗をぬぐう。
元へ戻り、城の外郭へ行ってみよう。三つの門への標識が出ていたので、もちろんいく。
途中、「馬こかしの石垣」というのがあった。奈良時代、平安時代の石垣なんだろうか?
「深迫門」へいってみる。傾斜した土地にブルーシートがあちこちにある。発掘中?それとも修復中?だろうか。
真ん中に大きな石がポツッとあった。扉の軸穴のあいた礎石だ。城がデカイと礎石もデカイ。
脱水症状になりそうだが、次は「堀切門」だ。山を越え谷を越え♪、と何かの歌にあったが、城の内側はこんなに高低差のあるデコボコだったとは意外だ、そんな感じで歩く。
堀切というくらいだから、尾根を掘りきったところに門を作ったのだろうか。なんとなくそういうふうに見えなくもない。
そして、ここにも大きな礎石があった。もちろん、軸受けの穴があいている。
ちょっとした土塁(?)から飛び降りた途端、ズキッときた。
まずい、腰を痛めたようだ。が、もうひとつの「池の尾門」へ行こう。古代の戦士は進むのだ、と延々とたんぼの中を歩く。
その平坦地の先端、昔の街道のような風景に門の跡があった。そして、例の礎石がここにもある。それにしても、どうして礎石が対ではなく、一つずつなんだろ?
ふらつく足腰で、もと来た道を戻る。ここから見ると、八角形建物のある丘はずいぶんと高い。あんなところまで登らなイカンのか。。
また、反対側の城の外郭(あるいは内郭だろうか)にあたる部分も、高いガケというか丘というべきか、城壁のように続いている。自然の地形だろうか、それとも人工の土塁だろうか。土塁にしては規模が大きすぎるし、自然のものにしてはお城に都合良すぎの感じがする。これも古代人の知恵かな。
なんとか温故創生館にたどり着いた。
ここは真夏に来てはいけないな、と思うとともに、古代日本人の凄さを感じた。
鞠智城はそういうお城だ。
■鞠智城戦歴
※鞠智城の戦いの記録は見当たらない。何か情報があったら教えてください。
◆文武天皇二年(698)五月甲申、 令大宰府 繕治 大野 基肄 鞠智 三城 (「続日本紀」巻一)
以上
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