隈府城、菊池城、菊池本城、守山城、隈部城
---- わいふじょう ----
別名:菊池本城 きくちほんじょう・菊池城 きくちじょう・守山城 もりやまじょう・隈部城 くまべじょう・雲上城 くものえじょう

平成17年8月20日作成
平成17年9月4日更新

肥後の名門・尊王ひと筋、菊池氏の本拠地

こんもりしたところが本丸。広場にはお祭のロウソクが並んでいる。
隈府城遠景(手前の広場にならんでいるのは紙コップとロウソク)

データ
菊池城について
隈府城概要
隈府城へGO!(登城記)
隈府城戦歴


 

■データ

名称 隈府城
 *現地、石碑および資料館には、「菊池本城」とあるが、なぜだろうか、拙者にはピンとこないので、当ホームページでは、馴染みある「隈府城」と呼ぶことにしたい
わいふじょう
別名 菊池本城、あるいは単に菊池城、
ほかにも守山城というのもよく見かける。
また、隈部城、雲上城という別称もある。
きくちほんじょう、きくちじょう、
もりやまじょう
くまべじょう、くものえじょう
築城 はっきりとしない。
現地案内板には菊池武光のころ菊之池城から居館を移した、とある。
また、「肥後古城物語」には、征西将軍宮・懐良親王を菊池に迎えたころ菊池武政が築いたという説を紹介している。 「日本廃城総覧」には、正平二十二年(1367)、菊池武政が築城とキッパリと書いてある。
破却 これもはっきりとしない。
元和一国一城令より前に廃城になったという。
分類 平山城(比高40m)
現存 空堀。
場所 熊本県菊池市隈府(旧肥後国菊池郡)
アクセス 目標は菊池神社だ。まずは菊池を目指そう。
JR熊本駅から国道3号線を北上、「山室交差点」から右折し国道387号線に入る。ひたすらまっすぐ行って、西合志町、泗水町を過ぎるといよいよ菊池市だ。
菊池川を越え、「下北原」交差点で右折し、菊池市街を通りぬけ、「正観寺」交差点で左折、ローソンのある「立町」交差点で右折し、坂道をのぼろう。
すぐに菊池神社ののぼりがたっているはずだ。菊池神社の入り口、鳥居を過ぎてすぐ、回り込むように左折すると参拝者用駐車場がある。無料なのが嬉しい。



■菊池城について
菊池氏は、はじめの頃、居館を深川(現菊池市深川)の平地に置いていたが、南北朝の戦いが激しくなった頃、隈府の守山(現菊池神社一帯)に本拠地を移した、といわれている。
現地案内板には、前者が菊之池城(きくのいけじょう)、後者が菊池本城(きくちほんじょう)とある。菊池本城に居城を移した後の菊之池城は、外城(とじょう=支城のこと)の一つとなった。そのため、菊之池城は別名、菊池古城(きくちこじょう)ともいうが、ほかにも菊池陣城(きくちじんじょう)菊の城(きくのしろ)雲上城(くものえじょう、うんじょうじょう)などの別称がある。一方、菊池本城にも、守山城(もりやまじょう)隈府城(わいふじょう)隈部城(くまべじょう)雲上城(くものえじょう、うんじょうじょう)などの異称がある。

したがって、単に菊池城というと、深川の菊池城(菊之池城)のことなのか、守山の菊池城(菊池本城)のことなのか、あるいは十八あったといわれる外城を含んだ菊池城ネットワーク全体のことなのか、はっきりしない。歴史小説を読んでいると、こんがらがってしまうのだ。

そこで、当ホームページでは、深川の城を菊之池城、守山を隈府城と呼ぶこととした。

また、隈府城の裏、谷一つへだてた山に征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)が居たという雲上宮があるが、この部分だけを雲上城と呼んだり、前面の菊池神社(隈府城本丸)を含めて全体を雲上城と呼んだりしている。密接に連繋した城郭と考えられるので、わざわざ分ける必要もないが、場所をはっきりさせるために、当ホームページでは雲上宮の部分を(隈府城とは別に)雲上城と呼ぶことにした。

話は変わるが、隈府城の別名、隈部城(くまべじょう)について。
隈府城は菊池氏滅亡後、赤星氏、ついで隈部氏が城主となった。戦国末期、佐々成政(さっさなりまさ)のとき、肥後国人一揆で隈府城に籠城したのが隈部親永(くまべちかなが)だ。
隈部氏は、清和源氏・宇野氏の末裔といわれ、代々菊池氏の重臣であった。
拙者は隈府城のことを別名・隈部城と呼ぶのは、隈部親永が城主となって以降のことと思っていたが、全然違ってた。
隈部親養氏「清和源氏隈部家代々物語」によると、隈部家第十六代・持直(もちなお)ははじめ宇野源次郎と名乗っていたが、姉の子・菊池武房(きくちたけふさ)から忠節の功に対する恩賞として、隈府の古名「隈部」の姓を賜ったということだ。
この菊池武房は、元寇のときの菊池家惣領で、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)元寇防塁の上に座っている、あの涼しげな人物である。



■隈府城概要
 ※このページでは、年号は、南朝(北朝)と書きます

徹頭徹尾、尊王のために一族を挙げて行動したと、一般に云われている菊池氏の本城、それが隈府城だ。
隈府城は、菊池平野の北東部に突き出した丘陵の先端に築かれた。北に迫間川、南に菊池川、東には丘陵地帯が続き、西に城下町(菊池市街)の平野を見おろす。
現在の菊池神社が本丸、月見殿(つきみでん)跡あたりが二の丸、金比羅宮周辺が三の丸、と現地案内板にある。菊池公園一帯が全部、城域だったのだろう。
隈府城周辺図←中央の黒いところが現在の菊池市街

荒木栄司氏の「菊池一族の興亡」に、「守山の城(隈府城のこと)は歴史を知らなければ戦国時代も後期の築城かと思えるような城構えである」とあるように、もっと山奥の要害の地に築城してもよさそうなものの、実際は菊池市街から見上げたすぐのところにあって、「攻防戦に耐える堅固さよりも、地域の領民支配に重きをおいた構え」になっている。菊池武重(きくちたけしげ)の起請文「寄合衆内談の事」とあわせ考えるとき、ここに菊池氏の特徴があるような気がする。
同起請文によると、天下の大事は惣領である武重が決定するが、国務の政道は内談衆の合議によるものとし、武重と意見が対立した場合は武重が折れること、としている。

菊池氏は南北朝時代、南朝方として武家方と幾度となく戦うが、菊池に攻め込まれた場合でも籠城戦よりも平野での決戦に挑んでいることが多いようだ。それは、隈府城の防御力が弱いため、というよりも、菊池氏のなにか信念のようなものがあって、イチかバチか、野戦に打って出ているように思える。したがって、城もそれほど堅牢さを求めなかったのではないだろうか。

現地案内板によると、菊池氏が隈府城へ本拠地を移したのは、第十五代・菊池武光(きくちたけみつ)のころで、南北朝の戦乱の真っ只中だ。
武光のとき、後醍醐天皇の皇子、征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)・懐良親王(かねよししんのう、または、かねながしんのう)が菊池へ入られた。武光は親王を擁し、九州探題・一色範氏(いっしきのりうじ)ら北朝方と積極的に戦い、正平十四年(延文四年=1359)八月、「筑後川の戦い」で少弐頼尚(しょうによりひさ)を散々に討ち破った。戦いののち、武光が刀についた血糊を川で洗ったところが、現在の太刀洗(たちあらい)だ。
そして、正平十六年(康安元年=1361)、ついに九州の中心・大宰府を占領した。文中元年(応安五年=1372)、九州探題・今川了俊(いまがわりょうしゅん)に攻められ大宰府を撤退するまでの約10年間が、九州南朝のもっとも華々しかったころだ。

武光は大宰府を撤退後も、筑後・高良山(こうらさん)を本拠として北朝軍と対決しようとするが陣中で没した。跡を継いだ子の武政(たけまさ)も高良山で死去。その跡を継いだのは武政の子・十二才の賀々丸(かがまる=のちの武朝・たけとも)で、ついに筑後を撤退、菊池へ戻った。

今川了俊の大軍は菊池氏を討つべく、隈府城の西方・水島(みずしま)に陣をおいた。菊池氏はいよいよ追い詰められた。ところが、天授元年(永和元年=1375)、水島の陣で了俊が少弐冬資(しょうにふゆすけ)を謀殺するという事件が起こり、怒った島津氏久(しまづうじひさ)は薩摩へ引き上げてしまい、少弐貞頼(しょうにさだより)ら少弐一族は当然、南朝方へと転じた。
この機に、菊池武朝は城を出て戦い、水島において今川軍を討ち破った。隈府城の危機は、ひとまず回避されたのだった。

武朝は、新たに征西将軍宮となられた良成親王(よしなりしんのう、または、ながなりしんのう)とともに肥前に攻め入り、肥前国府を占領した。少弐・島津に離反された今川了俊は、中国の大内義弘(おおうちよしひろ)を呼び、天授三年(永和三年=1377)、肥前・蜷打(になうち)の合戦において南朝軍に大勝、武朝は菊池へ撤退した。後年、大内氏が九州へ進出するきっかけは、このあたりにあるのではないだろうか。

さて、天授四年(永和四年=1378)、了俊は隈本へ進出、再び隈府城攻略をはかった。ところが、ここでも武朝は城を出て決戦を求め、隈本の東・託麻原(詫摩原・たくまがはら)において戦闘におよび、次々と軍勢を繰り出して勝利を収めた。託麻原合戦は、南朝方最後の勝利と云われている。しかし、大勢を覆すまでには至らなかった。

その後も了俊は玉名郡などを制圧し、板井城(現七城町)を本拠として、あちこちに砦を築き菊池方に稲を作らせないようにしたうえで、菊池の支城を攻略していく。弘和元年(康暦三年=1381)、四月、城野城が落城、前後して吾平城、河内城も陥ちた。五月、菊池陣城(菊之池城)落城。そして六月、隈府城を総攻撃。五昼夜にわたる攻防戦ののち、ついに隈府城は落城した。良成親王の染土城も落ち、菊池武朝と良成親王は宇土へ逃れ、のちに八代へ逃れた。

その後の隈府城のことはよく分からないが、元中九年(明徳三年=1392)南北両朝の合体ののち、室町幕府は敵方であった菊池武朝を肥後守護に任じているので、武朝は隈府城へ帰還したものと思われる。しかし、その後も武朝は九州探題・渋川満頼(しぶかわみつより)とたびたび合戦に及んだ。南北朝合一が戦乱の終わりではないのだ。
武朝の死後は、その子の兼朝(かねとも)が戦いを継続していく。
しかし、兼朝から子の持朝(もちとも)へ家督が移ると、菊池氏は親幕府・親大内の態度をとるようになる。そのため、持朝は筑後守護職を手に入れ、肥後・筑後二ヶ国の守護となった。

そして、持朝の死後、嫡男の為邦(ためくに)が家督を継ぐと、菊池家の衰退が始まる。
父が受けた筑後守護職は取り上げられ大友氏に与えられた。為邦は隠居し、子の重朝が跡を継ぐ。

その翌年、応仁の乱が起こると、重朝は大内方(山名方)として兵を挙げた。筑後守護職を大友氏(細川方)から取り戻そうとしたものと考えられる。結局、それは実現しなかったが、今度は八代の名和氏と人吉の相良氏の争いが始まると、重朝は肥後守護としてこれに介入し相良氏の八代領有を否認した。それに関連してのことだと思われるが、文明十六年(1484)、菊池重朝・名和顕忠(なわあきただ)連合軍は、益城の木原山のふもと、赤熊(明熊)で相良為続(さがらためつぐ)・宇土為光(うとためみつ)連合軍と戦った。この合戦には勝利した重朝だったが、翌年、阿蘇氏もまきこんでの戦い、幕の平合戦(まくのひらかっせん=馬門原合戦・まかどばるかっせん)では、主たる面々が討ち取られる大敗北を喫し、相良氏は八代・古麓城、さらに豊福城へと進出、重朝もこれを了承した。重朝の時代は菊池家にとっては困難の時代だったが、隈府城下がもっとも栄え、整備されたのはこの時期だといわれている。文明十三年(1481)、重朝は万句連歌を興行している。

重朝死去ののち家督を継いだ能運(よしゆき)は、豊福の相良氏を攻め破り、さらに八代の古麓城を攻め、相良為続を人吉に追い出した。ところが、重臣の隈部氏と戦い敗戦、島原へ逃れた。隈府城には菊池一族の宇土為光が入り、守護職となった。しかし、能運は相良長毎(さがらながつね)の支援を得て為光を破り、守護に復活した。敵対していた相良氏が菊池能運を支援したのだ。守護となった宇土為光が相良氏の八代領有を認めなかったためといわれる。能運は、さらに八代・古麓城を攻め、城主・名和顕忠を降伏させ、相良長毎に与えた。怒涛の進撃という感じがするが、この直後、能運は急死する。能運には嗣子がなく、菊池宗家は断絶した。

遺言により家督は、菊池一族・肥前家の菊池政隆(きくちまさたか)が継いだ。しかし、家臣団は政隆に服せず、団結して浜の館の阿蘇大宮司・阿蘇惟長(あそこれなが)に起請文を送り、惟長は大宮司職を弟・惟豊(これとよ)に譲ったうえで菊池家督を継承、菊池武経(きくちたけつね)と名乗った。阿蘇氏が菊池家を継いだのだ。しかし、武経は就任六年後に、あっさり菊池家督を放り出し隈府城を出ていってしまう。

その後、いろいろ争いがあったのちに、豊後守護・大友義長(おおともよしなが)の次男にして義鑑(よしあき)の弟、義国(よしくに)が菊池家督を継承、菊池重治(きくちしげはる)と名乗った。今度は大友家が菊池家を乗っ取ったのだ。
しかし、重治は隈府城ではなく隈本城を本拠地とし、隈府城は赤星重隆(あかほししげたか)に与えた。こうして、肥後の中心としての隈府城の歴史が終わった。
のちに、菊池重治(菊池義武よしたけなど改名多数)は本家・大友氏に背き続け、甥の大友宗麟(おおともそうりん)によって、天文二十三年(1554)、自害させられた。ここに菊池氏は名実共に滅んだ。

そののちも隈府城は、赤星氏、隈部氏と城主を変えて存続したが、加藤清正の肥後入国後、廃城になったという。

菊之池城、菊池古城、菊池陣城 雲上城

■隈府城へGO!(登城記)
平成16年(2004)8月14日(土)

気合を入れて隈府城へ向かう。
まずは本丸、今の菊池神社だ。

門は参道から見上げる高い階段の上だ。お城のあった当時もこういう急勾配の崖だったのだろう。
本丸への階段、けっこう高低差がある
なお、参道の下には段々状の平地がまるで腰曲輪のようにあるが、これがお城の名残りなのか、神社を建設するときに削平したものか、よく分からない。
参道の左は一段低くなった平坦地

本丸へのぼるとそこは広い平地だ。きっとお城の時代も平坦地だっただろう。
菊池神社へお参りする。扁額の文字は小松宮のものだ。
本丸跡・菊池神社 拝殿の扁額

お、脇には、慶長年間に加藤清正が植えたという屋久杉の切り株が置いてあるぞ。拙者は、こういうのは大好きだ。
加藤清正が大津街道沿いに植えたという杉の切り株

さて、歴史館へと向おう。
歴史館の入口はさらに一段高くなった場所にあって、菊池本城本丸跡の碑が建っている。本丸跡というのは、神社の本殿のある平坦地をいうのだろう。石碑の建っている一段高い場所は狭すぎて、ここだけを本丸とは呼べまい。櫓くらいは建てられそうなので櫓台だったのかもしれない。
菊池本城本丸跡の碑

歴史資料館の中は歴史の宝庫だ。菊池千本槍もある。軍神・松尾中佐の遺品もある。何度でも行きたくなる場所だ。

資料館をあとにして、本丸の一段下、自動車のお祓いをするところを通り過ぎると、深く大きなくぼ地があった。空堀跡だ。竹が生い茂っていて写真ではよく分からないが、幅20mくらい、長さははっきり分からないが数十mの空堀がよく残っている。隈府城の遺構はここだけだ、とお城関係の本には書いてあるので、是非、このまま残しておいてほしいものだ。
上からみた空堀跡 駐車場のほうからみた空堀跡

さて、本丸を後にして菊池公園のほうへ行ってみよう。
月見殿が二の丸跡と云われている。現在は、昭和六年、陸軍大演習のとき昭和天皇が来られたという「大元帥陛下駐蹕の処」の石碑が建っている。
二の丸跡

そのほか遺構らしきものを探したが、菊池公園は立派なグラウンドなどとなっていて、建設時には大土木工事が行われたことだろう、なにも発見できなかった。
かすかに山と谷が入り組んでいるような地形を感じることができ、低い丘ながらそれなりの防御力があったことをうかがわせる。
菊池公園のグラウンド
中世肥後でもっとも有名なお城は、今ではほとんどの人がそれと気づかないかもしれない。市民の憩いの場だ。




■隈府城戦歴
 ※隈府城へ本拠地を移したのがいつごろか不明なので、当ホームページでは、現地案内板に敬意を表し、菊池武光のころ以降を隈府城のできごととし、それ以前を菊之池城のこととして書いてみた。

◆ 正平三年(貞和四年=1348)ころ、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねよししんのう)が征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)として菊池城へ入った。この菊池城が、菊之池城か隈府城か、不明。

◆ 正平五年(観応元年=1350)、菊池武光(きくちたけみつ)は、恵良惟澄(えらこれずみ)の日向・高知尾庄(たかちほしょう)の軍勢と共に、合志氏に奪われていた菊池陣城(菊之池城)を攻め、これを奪回した。しかし攻守に限界があるため、このあと隈部城(隈府城のこと)に本城を移した。(阿蘇品保夫 『菊池一族』)  武光の菊池本城奪回は興国六年(貞和元年=1345)三月という説もある。(山川出版社 『熊本県の歴史』、 荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆ 天授元年(永和元年=1375)、今川了俊(いまがわりょうしゅん)は菊池攻めの総仕上げとして、菊池の西方・水島に陣を構えていた。菊池氏の隈府城は絶体絶命の観があった。了俊は、総攻撃の前に少弐、大友、島津へ参陣を求めたが、少弐冬資(しょうにふゆすけ)だけはなかなか来ようとせず、了俊は島津氏久(しまづうじひさ)に説得させた。ようやく水島に来着した少弐冬資だったが、八月二十六日、こともあろうに了俊によって宴席で謀殺された。面目を失した氏久は怒って薩摩へ引きあげた。 これを好機と捉えた菊池武朝(きくちたけとも)は、九月八日、隈府城を出て戦い、了俊は敗れて肥前へと退却した。

◆ 天授元年(永和元年=1375)ころ、懐良親王は征西将軍職を後村上天皇の皇子・良成親王(よしなりしんのう)に譲られたと推定される。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆ 弘和元年(永徳元年・1381)六月、菊池へ再来した今川了俊が菊池城(隈府城)に総攻撃をかけた。五昼夜にわたる激戦ののち、隈府城は陥落した。菊池武朝は良成親王を奉じて、岳の陣、宇土、益城の守山と移動し、最後は八代へ逃れた。(荒木栄司 『よくわかる熊本の歴史(2)』、 山川出版社 『熊本県の歴史』)

◆弘和二年(永徳二年=1382)、菊池一族の一部とその家臣たちが、家督・菊池武朝、および征西将軍宮・良成親王を批判し、守山城にたてこもった。武朝は、守山城を攻めてこれを追い落とした。しかし、この守山城というのが隈府城のこととすると、何故北朝方が黙っていたかよく分からず、不自然なので、益城の守山八幡宮のあるあたりのことという説もある。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆元中九年(明徳三年=1392)、南北朝合一。 八代へ逃れていた菊池武朝の動向ははっきりしないが、足利幕府より肥後守護に任命されているので、本拠地の隈府城に戻ったのだと考えられる。なお、征西将軍宮・良成親王は五条頼治(ごじょうよりはる)を頼って筑後・矢部へ行き、なおも宮方再興をはかっている。

◆応永三十一年(1424)十月、九州探題・渋川義俊(しぶかわよしとし)を支援する大内盛見(おおうちもりみ、または、もりはる)が少弐満貞(しょうにみつさだ)を破ると、満貞は菊池へ逃れてきた。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆ 文亀元年(1501)、菊池能運(きくちよしゆき、あるいは、よしかず、ともいう)は隈府を追われ島原へ亡命した。大叔父の宇土為光(うとためみつ)が隈府城へ入り、守護職となった。(山川出版社 『熊本県の歴史』) この事件については、為光の守護職簒奪(さんだつ=奪い取ること)説と、為光推戴(すいたい=押し戴くこと)説とある。
まず江戸時代より定説となっている簒奪説について。菊池家家督と守護職を長い間望んでいた宇土為光が、菊池重政・城重峯・南治東・南重棟らとともに、守護・菊池武運(きくちたけゆき=のちの能運)と隈府城外・袈裟尾野(けさおの=玉祥寺原)で合戦におよんだ。武運には筑後勢がついていたが、溝口資満・西牟田重家・黒木為実が戦死し、敗北。武運は有馬氏を頼って肥前島原へ逃れたので、為光が菊池へ入り守護職を奪取した。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』) 
次に推戴説について。菊池家譜代の隈部上総介が謀反を起こした。守護・菊池武運(能運)は、肥後・筑後の兵を率いて隈部退治と称し出陣したが、敗北。有馬氏を頼って肥前・高来郡(島原)へ逃れた。隈部氏をはじめ国中の老弱一味は、宇土為光へ推戴を申し入れたので、為光は隈府へ入って菊池家督を継ぎ守護職となった。(阿蘇品保夫 『菊池一族』)


◆ 文亀三年(1503)、菊池能運は相良長毎(さがらながつね)や天草勢の支持を得て、隈府城へ復帰、守護職を回復した。宇土為光は筑後に逃れたが立花山城守(だれだろ?)によって隈府に送還され斬られた。一方、長毎は能運の支持のもとに八代・古麓城の名和顕忠(なわあきただ)を攻め、永正元年(1504)これを占領した。(山川出版社 『熊本県の歴史』、阿蘇品保夫 『菊池一族) 

◆ 永正三年(1506)、大友軍が肥後へ侵攻、隈府城主の菊池政隆(きくちまさたか)は、山本郡・内空閑城(うちくがじょう)へ退去した。そのあとへ、阿蘇大宮司惟長(あそだいぐうじこれなが)が大宮司職を弟・惟豊(これとよ)に譲り、隈府城へ入って菊池家督を継承、菊池武経(きくちたけつね)と名乗った。(山川出版社 『熊本県の歴史』)

◆ 永正八年(1511)、菊池武経は菊池家督の地位を棄てて菊池を去った。こののち菊池家督は、大友義国(菊池重治)・託麻武包(たくまたけかね)・菊池基興(きくちもとおき)の間で争われたと云われている。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆ 永正十七年(1520)、菊池基興が筒ヶ嶽城から追い出されたのをうけて、菊池重治(大友義鑑の弟)は豊後から菊池へ入った。菊池家臣団の挨拶を受けると、重治は隈本城へ入り、ここを本拠とした。隈府城は、赤星重隆(あかほししげたか)に与えたといわれている。(荒木栄司 『菊池一族の興亡』)

◆永禄二年(1559)、隈府城主・赤星親家(ちかいえ=道雲)は、永野城(猿返城=隈部館)の隈部親永(くまべちかなが)と合戦に及んだ。赤星軍の赤星蔵人(あかほしくらんど)は戦死、それでも親家は動かなかったが、隈部軍は雨の中、夜襲をかけたため赤星軍は総崩れとなった。(合勢川の戦い) 敗れた赤星親家の嗣子・親隆は豊後の大友氏に援けを求め、一方の隈部氏は肥前の龍造寺の援けを借りるようになった。(山川出版社 『熊本県の歴史』)

◆ 天正六年(1578)、肥前の龍造寺隆信が隈府城(城主は赤星氏)を攻撃。このとき、北宮神社は焼けたという。(阿蘇品保夫 『菊池一族』)

◆ 天正九年(1581)、肥前の龍造寺隆信は、嫡子である政家(まさいえ)を大将として再び肥後へ攻め入り、隈府城を攻めた。城主の赤星統家(あかほしむねいえ)は息子を人質として出して降伏、合志氏の竹迫城(たかばじょう)へ移った。隈府城は隈部親永が城主となり、龍造寺氏の支配下となった。(山川出版社 『熊本県の歴史』)  このとき赤星統家が出した人質は、のちに龍造寺隆信によってハリツケにされ殺された。

◆ 天正十五年(1587)八月、肥後国主・佐々成政(さっさなりまさ)が検地を強行しようとしたことに対し、肥後国人で菊池郡・山鹿郡・山本郡の領主・隈部親永が反抗、居城の隈府城(隈部城)に立て籠もった。成政は隈府城を攻撃、親永は剃髪して降伏した。しかし、こののち、親永は息子の隈部親泰(くまべちかやす=山鹿親安ともいう)の城村城(じょうむらじょう)へ行き、息子と共に篭城し、さらに抵抗を続けた。(荒木栄司 『よくわかる熊本の歴史(2)』)
成政はみずから兵を率いて城村城を攻めたが城兵の反撃が激しく、落とせなかった。そのうち甲斐親房(かいちかふさ)らが成政に反抗、隈本城を囲んだので、成政は城村城に付城を築いて隈本城へ引き返した。成政は柳川城の立花宗茂(たちばなむねしげ)らに援軍を要請、一揆方の和仁親実(わにちかざね)、辺春親行(へばるちかゆき)が篭る田中城を陥落させた。城村城の隈部親永・親安は安国寺恵瓊(あんこくじえけい)のすすめで開城し、親永は柳川城へ、親安は小倉城へ預けられ、翌年、切腹させられた。(隈部親養氏 『隈部家代々物語』)

◆天正十六年(1588)、秀吉は、国人一揆の鎮圧後の肥後に警護の諸将を派遣、隈府城には蜂須賀家政が入った。(隈部親養氏 『隈部家代々物語』)

◆ 天正十六年(1588)閏五月、秀吉は肥後国九郡を加藤清正に与えた。清正は隈本城を本拠とし、各支城に部将を配置したが、隈府城には加藤伝蔵(かとうでんぞう)を置いた。(山川出版社 『熊本県の歴史』)


以上



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