雲上城
---- くものえじょう・うんじょうじょう ----
別名: (なし)

平成17年11月4日作成
平成17年11月4日更新

征西将軍宮の居城

雲上城遠景
隈府城本丸より雲上城を望む(中央の丘)

データ
菊池城について
雲上城概要
雲上城へGO!(登城記)
雲上城戦歴


 

■データ

名称 雲上城
くものえじょう
別名 「うんじょうじょう」とも呼ばれる。
築城 はっきりとしない。
破却 これもはっきりとしない。
分類 平山城
現存 とくになし。
場所 熊本県菊池市隈府(旧肥後国菊池郡)
アクセス 目標は菊池神社の裏山だ。まずは菊池を目指そう。
JR熊本駅から国道3号線を北上、「山室交差点」から右折し国道387号線に入る。ひたすらまっすぐ行って、西合志町、泗水町を過ぎるといよいよ菊池市だ。
菊池川を越え、「下北原」交差点で右折し、菊池市街を通りぬけ、「正観寺」交差点で左折、ローソンのある「立町」交差点で右折し、坂道をのぼろう。
すぐに菊池神社ののぼりがたっているはずだ。菊池神社の入り口、鳥居を過ぎてすぐ、回り込むように左折すると参拝者用駐車場がある。無料だ。車はここに停め、あとは徒歩だ。
駐車場から菊池神社(隈府城本丸)へのぼる道の右に、下へくだる道があるので、どんどん進もう。池の向こうにはもう雲上城が見えている。途中、「親王の出水さん」の看板がある。坂道をのぼっていくと、
「守山城および内裏尾」の案内板がある。さらにのぼると、雲上宮の鳥居と征西将軍宮跡の石碑が建っているぞ。



■菊池城について
菊池氏は、はじめの頃、居館を深川(現菊池市深川)の平地に置いていたが、南北朝の戦いが激しくなった頃、隈府の守山(現菊池神社一帯)に本拠地を移した、といわれている。
現地案内板には、前者が菊之池城(きくのいけじょう)、後者が菊池本城(きくちほんじょう)とある。菊池本城に居城を移した後の菊之池城は、外城(とじょう=支城のこと)の一つとなった。そのため、菊之池城は別名、菊池古城(きくちこじょう)ともいうが、ほかにも菊池陣城(きくちじんじょう)菊の城(きくのしろ)などの別称がある。一方、菊池本城にも、守山城(もりやまじょう)隈府城(わいふじょう)隈部城(くまべじょう)雲上城(くものえじょう、うんじょうじょう)などの異称がある。

したがって、単に菊池城というと、深川の菊池城(菊之池城)のことなのか、守山の菊池城(菊池本城)のことなのか、あるいは十八あったといわれる外城を含んだ菊池城ネットワーク全体のことなのか、はっきりしない。歴史小説を読んでいると、こんがらがってしまうのだ。

そこで、当ホームページでは、深川の城を菊之池城、守山を隈府城と呼ぶこととした。

また、隈府城の裏、谷一つへだてた山に征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)が居たという雲上宮があるが、この部分だけを雲上城と呼んだり、前面の菊池神社(隈府城本丸)を含めて全体を雲上城と呼んだりしている。密接に連繋した城郭と考えられるので、わざわざ分ける必要もないが、場所をはっきりさせるために、当ホームページでは雲上宮の部分を(隈府城とは別に)雲上城と呼ぶことにした。




■雲上城概要

延元元年(1336)十二月、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は京・花山院御所を脱出して吉野へ移り、朝廷を再建した。南北朝のはじまりだ。
それより先の十月、後醍醐天皇は皇太子の恒良親王(つねよししんのう、つねながしんのう、とも)と皇子・尊良親王(たかよししんのう、たかながしんのう)を新田義貞(にったよしさだ)とともに北陸へ下向させた。
さらにその前の九月、皇子・懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう)を征西将軍(せいせいしょうぐん)に任じ、西国へ下向させた。(延元二年説もあり)
皇子をあちこちへ派遣し、日本全国の勢力をもって足利尊氏(あしかがたかうじ)を攻め滅ぼす戦略だったのだろう。征西将軍には、九州の南朝勢力を率いて上洛させる任務があったものと考えられる。

征西将軍となった懐良親王は、五条頼元(ごじょうよりもと)、中院義定(なかのいんよしさだ)らに守られ西国へ向かったが、すんなりとはいかなかった。
途中、伊予国・忽那島、豊後国、薩摩国・谷山城と滞在し、菊池へ入ったのは京を離れること13年、正平三年(1348)のことであった。

懐良親王を迎えたのは菊池武光(きくちたけみつ)だ。この頃の武光の居城は菊之池城か、隈府城か、よく分からないが、いつの頃からか隈府城を本拠地としている。その隈府城の裏、谷ひとつを隔てた丘に懐良親王の御在所をつくった。それが雲上城だ。

雲上城といっても、隈府城と別々に独立しているのではなく、隈府城の一部と考えたほうが良さそうだ。といっても、隈府城の詰の城、というほどの険峻さは雲上城にはない。隈府城が落ちるときには雲上城も無事ではいられまい。

征西将軍宮・懐良親王を奉じた菊池武光は、怒涛の進撃を開始、正平十四年(1359)八月、筑後川の戦いで少弐頼尚(しょうによりひさ)を破ると、正平十六年(1361)八月、念願の大宰府入りを果たした。懐良親王も当然、大宰府へ移られたので、雲上城滞在は中断したのだろう。
この時期が九州南朝軍の絶頂期だ。
懐良親王は九州の南朝勢力の地盤を固め、一刻も早く上洛したかっただろうと思われるが、ついに果たせなかった。建徳元年(1370)、今川了俊(いまがわりょうしゅん)が九州探題に任じられると、形勢逆転。大宰府を追われ、高良山(こうらさん)も追われ、菊池へ押し返された。雲上城に再び入られたのだろう。

天授元年(1375)、懐良親王は征西将軍職を甥の良成親王(よしなりしんのう、ながなりしんのう、りょうぜいしんのう)に譲った。引退した懐良親王は筑後国・矢部で弘和三年(1383)三月、薨じた。失意の中であったろうか。

新たに征西将軍となった良成親王は北部九州を転戦したが、利あらず、弘和元年(1381)とうとう隈府城も了俊に攻め落とされて、落ち延びた。このとき、良成親王が籠っていたのは染土城(そめつちじょう)とものの本にはあり、雲上城とは別の城だ。迫間川を遡ると龍門ダムがあるが、その手前、龍門小学校付近に「染土」の地名があるので、このあたりに城があったのだろう。ともかく、この隈府落城のときに雲上城の御在所としての役割は終わったのではないだろうか。

その後も良成親王は諦めず、最後は八代・古麓城で戦った。しかし、元中八年(1391)、八代も陥落(もしくは停戦。この八代戦の最後はよく分かっていない)。良成親王は、五条頼治(ごじょうよりはる)を頼って筑後国・矢部の奥地へ移った。

翌年(元中九年・明徳三年、1392)、南北朝合一がなされ元号も明徳三年に統一された。しかし、良成親王はひとり従わず、元中九年を使用し続け、阿蘇惟政(あそこれまさ)に南朝軍再編成を依頼するなど、南朝の再興を図っている。
しかしながら、結局その夢は果たせなかった。
最後まで幕府と戦った良成親王は応永二年(1395)筑後・矢部で薨じたと云われている。



■雲上城へGO!(登城記)
平成16年(2004)8月14日(土)

隈府城本丸(菊池神社)の裏は谷になっていて、ため池がある。その向こう、こんもりと茂る小山が雲上城だ。
車は置いて歩いていこう。

「別宮雲上宮参道」と書かれた石碑の横をのぼっていく。5分もせずに鳥居に出会う。
参道途中の鳥居・・・結構な坂道であることが分かると思う
雲上城跡には、昭和四十五年(1570)、雲上宮という神社が創建された。祀られているのは、もちろん征西将軍宮・懐良親王と良成親王だ。

道はきっちり舗装されていて、歩くのに何の支障もない。しかし、たいした山ではないと思っていたが、坂道はけっこうキツイ。ふう。

頂上に着いた。
あまり広くはない平坦地に小さな祠と鳥居、それに「征西将軍宮跡」の石碑がコンパクトに建っている。
雲上宮

ここに宮様が居を構えたのだろうか。気のせいか、厳かな雰囲気を感じる。
征西将軍として遠く都を離れたこの地で、西国を平定し、大軍を率いて東上することを夢見ていたであろう。

お参りをして、あたりを散策してみた。しかし、遺構らしきものは何もなかった。
わずかに、案内板が建っているあたりが、何となく曲輪のような地形であっただけだ。当時の名残りだと良いなぁ。。
曲輪、あるいは土塁だろうか。。

帰り道の参道に珍しいトンボを見つけた。緑色に輝く身体と漆黒の羽が実に鮮やかだ。
近づくと逃げるが、道の中央、右、左ととまり、遠くへ行くこともなく、まるで宮様を守る凛々しき近衛兵のような、そんなトンボだった。
将軍宮を守護する(?)トンボ



■雲上城戦歴
 ※雲上城の戦歴については不明です。隈府城と一心同体と考えてよいのではないでしょうか。隈府城はこちら

◆ 正平三年(1348)頃、ついに征西将軍宮・懐良親王(かねよししんのう)が菊池へお入りになった。このときに雲上城に入られたのか、のちに移られたのか、不明。


以上



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