とうふくじじょう
---- とうふくじじょう ----
別名: (なし)

平成19年12月2日作成
平成19年12月2日更新

島津本家の初期の居城

東福寺城遠景
南洲公園より東福寺城を臨む(右に少し見えるのは桜島)

データ
東福寺城概要
東福寺城へGO!(登城記)
東福寺城戦歴


 

■データ

名称 東福寺城
とうふくじじょう
別名 とくにないようだ
築城 天喜元年(1053)、長谷場永純により築城したといわれる。
破却 嘉慶元年(元中四年=1387)、島津元久が清水城を築いて居城を移した。しかし、その後も東福寺城は重要拠点となっていたようだ。いつごろ破却されたのか不明。幕末には砲塁が築かれた。(日本城郭体系18)
分類 山城(標高50m)
現存 とくになし。
場所 鹿児島県鹿児島市清水町(旧薩摩國鹿児島郡)
アクセス 東福寺城跡は鹿児島市街地の北東、多賀山公園のことだ。

JR「鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)」から電車通りを北東へ天文館方面に行き、天文館を通り過ぎて、「いづろ」交差点を左折、
山形屋を通り過ぎ、市役所も通り過ぎ、1キロ弱でJR「鹿児島」駅だ。
ここで行き止まりなので、駅の直前を左に避け右折すると、駅舎を右に見ながら線路沿いを進める。
この道は800mくらい行くと突き当たるので、右に曲がって「永安橋」を渡ろう。右に八坂神社、左は小さな山だが、この小山が目的地だ。
橋を渡って約300m、「多賀山公園、東郷平八郎像」の看板があるので左折しよう。あとは山道を上っていくと、公園の駐車場だ。
無料なので心置きなく停めて、城めぐりへ出かけよう。案内板が出ているので迷うことはないはずだ。





■東福寺城概要

JRの鹿児島駅は、県名と同じ割りにはマイナーな駅だ。鹿児島市の中心は、なんといっても西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)で、鹿児島駅のほうは観光客もあまり訪れないと思う。その鹿児島駅の正面に立つと、駅舎の背後に50mくらいの山が見える。これが東福寺城(とうふくじじょう)跡だ。

東福寺城は、島津氏本家の居城だったお城だ。しかし、島津氏は最初から鹿児島(今の鹿児島市という意味)に居たわけではない。
現地案内板によると、源頼朝から薩摩の地頭職に任ぜられた島津氏は、はじめ出水(いずみ)に居を構えたとある。初代・島津忠久(しまづただひさ)が出水山門院(やまといん)に居館を構えた、という記述も案内板にあるが、一方、ものの本には島津氏は第三代までは鎌倉にいたとしているものもあって、この記述がどこまで信頼できるかは分からない。それに、島津荘というのは、大隅から日向にかけての一帯じゃなかったっけ。。ともかく、島津氏は当初、鹿児島以外にいたのだろう。

ところで、東福寺城を築いたのは、藤原純友(ふじわらのすみとも)の四代目の子孫・長谷場永純(はせばながずみ)だそうだ。天喜元年(1053)だといわれる。南北朝時代には、長谷場・矢上・上山・谷山の各土豪が鹿児島近辺におり、いずれも南朝方についていたという。(現地案内板)
このうち、鹿児島郡司の矢上高純(やがみたかずみ)が東福寺城を居城としていたようだ。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
長谷場永純と矢上高純の関係はよく分からないが、「純」の字を共通にしているので、直系の子孫とか、藤原純友から分かれた一族とか、そういうものじゃないだろうか。

一方、薩摩守護職・島津氏は北朝方なので、これと争うことになる。
暦応四年(興国二年=1341)、島津氏第五代・貞久(さだひさ)は、東福寺城に籠る矢上氏を激戦の末、破った、と現地案内板にある。また、現地案内板の年表には、同年、島津貞久が東福寺城の肝属兼重(きもつきかねしげ)、催馬楽城(さいばらじょう)の矢上高純を攻める、ともある。
あれ?東福寺城って矢上氏の城じゃないの?と思うが、これについては、日本城郭体系18に、肝付兼重は援軍として東福寺城に入っていた、とあって納得できる。
肝付兼重は、敗れたといっても戦死したわけではなさそうだ。のち貞和五年(正平四年=1349)に石井中務丞を攻めたあと病死したようだ。(新人物往来社 「鎌倉・室町人名事典」)

ところで、島津貞久のほうはこの東福寺城戦で鹿児島郡に拠点を得ることができ、志布志(しぶし)から四男の氏久(うじひさ)を呼び、東福寺城に入れたそうだ。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
島津氏久は島津氏第六代で大隅の守護職だ。
以後、貞久と氏久は約40年にわたって東福寺城を根拠地として勢力を伸ばしたそうだ。(現地案内板)

つまり、東福寺城は島津氏が鹿児島へ進出した最初の拠点、本拠地、ということになる。
島津貞久といえば、正慶二年(元弘三年=1333)五月、少弐貞経(しょうにさだつね)・大友貞宗(おおともさだむね)とともに、姪浜城(探題城)に鎮西探題・北条英時(ほうじょうひでとき)を攻め滅ぼした武将だ。また、その子・島津氏久は、永和元年(天授元年=1375)、九州探題・今川了俊(いまがわりょうしゅん)が少弐冬資(しょうにふゆすけ)を水島で謀殺したときに、面目を失したと激怒して帰国したあの武将だ。
父の貞久は、薩摩守護職と大隅守護職の両方をもっていたが、三男・師久(もろひさ)に薩摩守護職を、四男・氏久に大隅守護職をそれぞれ譲った。なぜそうしたか、明確ではないが、親の情として理解できる。このため、師久と氏久は両方とも島津家第六代となっている。

しかし、氏久の子、島津元久(しまづもとひさ)の頃になると、薩摩守護家と争うようになる。相手は師久の子・島津伊久(しまづこれひさ)だから従兄弟どうしということになる。この争いは、結局、元久の勝利に終わり、再び島津本家は統一された。

その元久が、嘉慶元年(元中四年=1387)、新たに築いたのが清水城だ。元久は居城を東福寺城から清水城へ移す。東福寺城が手狭になったからだという。しかし、本城が清水城に移ったのちも、東福寺城には軍事施設が置かれていたそうだ。また、幕末には島津藩の砲塁が置かれたそうだ。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)

今は多賀山公園となっていて遺構はなさそうだ。「東福寺城跡」の石碑が建っているあたりは段々状の平坦地になっていて曲輪のように見えるが、当時のものかどうか定かでない。





三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■東福寺城へGO!(登城記)
平成17年(2005)8月28日(日)

さて、鹿児島もそろそろ夕方に差し掛かってきた。
本日の締めくくりは、東福寺城へ行こう。

帖佐方面から鹿児島へ向かい、磯庭園前から左の海沿いの道へ入る。祇園之洲橋を通り過ぎると、多賀山公園の看板があったので右折して山道をのぼった。くねくねと上っていくと、駐車場についた。十台くらい停められそうだ。

駐車場のすぐ横に、「肝付兼重(きもつきかねしげ)卿奮戦之跡」の石碑が建っている。後で知ったが、肝付兼重は南北朝時代の武将で、南朝方として肝付郡内だけでなく日向国三俣院や鹿児島東福寺城などで北朝の畠山直顕(はたけやまただあき)、島津貞久(しまづさだひさ)と戦ったそうだ。(新人物往来社 「鎌倉・室町人名事典」)
肝付兼重、奮戦の碑

「東福寺城跡」の案内板が出ているので向かっていくと、絶壁の間に橋が架かっていた。
ん?これは、ひょっとして堀切の跡じゃないだろうか。コンクリートで固められているが、どう見てもそのように見える。
これって堀切じゃないの

期待を胸に、さらに進むと、広い広場だ。ここは現代になって平らに造成されたような感じだな。
広々と気持ちの良い公園

階段をのぼっていこう。急に山城の雰囲気がでてきたぞ。
結構、ゴツゴツした地形で、木の柵の外側は切り立った崖になっている。平坦地と急崖は城づくりのポイントだ。
平坦地と急崖の組合せだ

そして上り詰めたところが本丸だ。東福寺城跡の石碑が建っている。ちょっと木々が邪魔だが、桜島が真正面にみえて雄大な気分になれる。
本丸に建つ石碑 本丸から桜島を臨む

一番奥まった場所は一段高くなっていて墓所のようだ。島津氏ゆかりの墓だろうか。
本丸にあるお墓

お、本丸から下は段々状になっているぞ。これは曲輪跡じゃないだろうか。それとも、お花見用に現代になって整地したのだろうか。桜が植えてあるし。。
しかし、お城ファンとしては、ここは曲輪の跡ということにしておこう。
本丸周辺は段々状の地形だ


さて、他には痕跡らしきものはないようなので多賀山公園の反対側へ行ってみよう。
公園の端にぽつんと多賀神社があった。この神社は島津義久が近江国・多賀大社を勧請したものだそうだ。へえ。
多賀神社

少し戻ると坂の途中に、東郷平八郎の銅像が建っていた。海に向かって立っているところが東郷らしい。
東郷元帥銅像の背中

坂をくだると東郷元帥の墓があった。あれ?東京に葬られたんじゃないの?と思ったが、案内板によると元帥の遺髪がここにあるそうだ。なるほど。
すぐ横には、「東郷元帥の碑」があった。碑文は、拙者の好きな伊藤正徳だ。格調高い文章が良い。なにか旧友に会ったような気分でそこを後にした。
東郷元帥の墓

東福寺城は遺構らしきものが少し残っている程度だが、それとともに鹿児島の歴史が詰まっているような場所だった。





■東福寺城戦歴

◆暦応四年(興国二年=1341)、島津貞久(しまづさだひさ)は、東福寺城に肝付兼重(きもつきかねしげ)を攻め、激戦の末これを破った。兼重は脱出したようだ。当時、東福寺城は、鹿児島郡司・矢上高純(やがみたかずみ)の居城であったが、肝付兼重は援軍として籠っていたらしい。この勝利の結果、島津貞久は東福寺城を居城とし、島津家の礎を築いていくことになる。


以上



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