探題城、姪浜城、鷲尾城
---- たんだいじょう ----
別名:姪浜城 めいのはまじょう・鷲尾城 わしおじょう

平成18年8月15日作成
平成18年8月15日更新

鎮西探題の居城

福岡タワーより探題城跡をのぞむ
探題城遠景(中央、2つのコブの左が探題城、右は愛宕神社、手前は室見川)

・データ
・探題城概要
・探題城へGO!(登山記)
・探題城戦歴
・探題城の素朴な質問

 

■データ

名称 探題城 たんだいじょう
別名 姪浜城・鷲尾城 めいのはまじょう・わしおじょう
築城 不明。
破却 不明。
分類 山城(標高62m)
現存 とくになし
場所 福岡県福岡市西区(旧筑前国早良郡)
アクセス JR博多駅から国道202号線を西へ進む。古いほうの202号線だ。
約10キロ先、室見川に架かる室見橋を渡ろう。橋の右前方に見える丘が探題城だ。
橋を渡り終えると、道路の右に愛宕神社の大きな看板があるので、この小道へ入れば、あとは上るだけだ。しかしここは交通量が多く右折しにくいので、迂回したほうが良いだろう。
室見橋を渡って2つめの信号を右折しよう。ちょうど都市高速の真下を走るのだ。でも愛宕入口から高速へ入ってはいけない。右折したら左車線に入ろう。
約800mくらい先で大きな交差点に出るので左折だ。愛宕小学校を過ぎてすぐ、「愛宕小西」交差点を左折しよう。すぐに四つ角なので右折だ。ちょうどTSUTAYAのウラ手だ。あとはそのまま道なりに上っていけば、愛宕神社の駐車場だ。無料なので安心して停めよう。駐車場はいくつかあるが、愛宕神社の真下はだいたい満杯なので、ちょっと離れていても構わないから停めてしまおう。
さて、あとは歩きだが、愛宕神社への階段をのぼるのではない。「いわい餅」を売っている岩井屋さんの裏山に行くのだ。岩井屋さんへ向かって左うしろに階段がある。須賀神社と書いてあるところだ。
どんどんのぼっていくと、すぐに頂上に到着だ。




■探題城概要


探題城は別名、姪浜城(めいのはまじょう)という。姪浜にお城、と聞いてピンとくる人は相当なお城ファンだと思う。そう、姪浜城は愛宕神社(あたごじんじゃ)の山のことだ。

福岡都市高速を天神から姪浜へ向かうと、福岡ドームを過ぎて左に大きくカーブ、ついで右へ大きくカーブしたときに正面に小さな山が見える。ラクダのように2つのコブがあり、右コブの頂上に愛宕神社の神殿がみえる。左のコブは何もなく木が茂っているが、探題城はこの左コブの頂上にあったといわれている。
現地の「姪の浜歴史探訪観光案内図」にも、福岡市発行「ふくおか歴史散歩第四巻」にも、貝原益軒の「筑前國続風土記」にもそう書いてある。

ところで、探題城を愛宕神社の西のほうに記していることがある。どこで見たか思い出せないが、拙者はこれは単なる間違いだと思っていた。しかし、「筑前國続風土記」によると、室町時代の渋川(しぶかわ)氏、斯波(しば)氏のころの探題館が愛宕神社西方の山にあったということだ。冒頭写真の2つのコブのさらに右側のこんもり部だ。一連の山の中を居城が移動したのだろう。また同書には、これらの他にも在城していた場所があると書いてあるが、これは時代が下ると探題が力を失い流浪することを言っているのだろうか。

弘安四年(1281)、二度目の蒙古襲来。蒙古軍は元寇防塁(げんこうぼうるい)に阻まれ上陸できず、肥前國鷹島(たかしま)で体制を整えている間、閏七月一日、暴風雨で壊滅した。(弘安の役)
しかしながら、元が諦めたとは思えず、鎌倉幕府は三度目の襲来に備える必要があった。その一環として、九州の地に鎮西探題(ちんぜいたんだい)を設置した。鎮西探題は御家人の訴訟裁断を行なう機関で、九州の御家人が訴訟のために遠く鎌倉や京へ出向くのは異国警護の面から好ましくないため、現地で解決できることは現地で決裁してしまおう、というものだ。

鎮西探題がいつごろ設置されたかについては諸説ある。
まず、探題設置より以前に、弘安七年(1284)特別な訴訟機関が博多に設置された。特に名称はないようで、今日では特殊合議訴訟機関と呼ばれている。鎌倉から明石行宗、長田教経、兵庫助政行の三名が派遣され、九州の守護、少弐経資、大友頼泰、安達盛宗と組んで、守護として管轄している国以外を担当するよう役割分担が決められた。しかし、この機関はうまくいかなかったようだ。

弘安九年(1286)、博多に鎮西談議所(ちんぜいだんぎしょ)が新たに設置された。これは少弐経資、大友頼泰、宇都宮通房、渋谷重郷の四名で合議、裁断した。いずれも関東から九州へやってきた「下り衆」だ。ただ難しい問題に関しては鎌倉の裁断を仰いでいるとのことで、下級裁判所というべきものであったそうだ。(川添昭二氏 「九州の中世世界」)

正応六年(1293)三月、六波羅探題・北条兼時(ほうじょうかねとき)が九州へ下向、裁判だけでなく軍事に関しても指揮をとった。この間、鎮西談議所が廃止されたのか、兼時の下で機能していたのか、諸説あるようだ。この兼時をもって鎮西探題の成立という説がある。一方、これを鎮西惣奉行所(ちんぜいそうぶぎょうしょ)と呼び鎮西探題ではない、という説もある。「筑前國続風土記」では兼時を初代鎮西探題とし、鷲尾山の巽(たつみ=東南)の山上に住んだ、とキッパリ書いている。つまり探題城(姪浜城)のことだ。

永仁三年(1295)、北条兼時、鎌倉へ帰還。
翌永仁四年(1296)、長門探題・北条実政(ほうじょうさねまさ=金沢実政)が博多へやってきた。このときをもって鎮西探題成立という説もある。北条実政が鎮西探題であったことは間違いないようだ。
ただ、その居館ははっきりしない。探題城(姪浜城)だったかもしれないし(「筑前國続風土記」)、あるいは最後の探題・北条英時(ほうじょうひでとき=赤橋英時)と同じ櫛田神社(くしだじんじゃ)付近だったかもしれない。

鎮西探題は、北条実政のあと、子の北条政顕(ほうじょうまさあき=金沢政顕)、一族の北条随時(ほうじょうゆきとき=阿蘇随時)、北条英時と続いた。代替わりの隙間は、少弐貞経(しょうにさだつね)と大友貞宗(おおともさだむね)が代行していたそうだ。鎮西探題は肥前国守護を兼務していた。なお、北条政顕のあとに子の北条種時(ほうじょうたねとき)を鎮西探題とする説もある。(川添昭二氏 『九州の中世世界』)

正中の変、元弘の変が起こり、天下の行方が怪しくなってきたとき、鎮西探題・赤橋英時は九州の武士を博多へ集めた。このとき、肥後の菊池武時(きくちたけとき)は、少弐貞経・大友貞宗とともに、探題攻めを約束していたという。元弘三年(1333)三月十二日、武時は櫛田神社ちかくの探題館へ出仕したが、着到が遅いと受け付けられず、奉行人と口論となった。翌三月十三日、武時は探題館を襲撃、ところが少弐・大友は時期尚早であると判断し、探題方についた。敗戦を覚悟したのだろう、武時は子の武重(たけしげ)を諭して菊池へ帰らせ、探題勢と奮戦、館の中庭まで攻め入ったが討死した。菊池勢の首は犬射馬場(いぬいばば)に懸け並べられた。

昭和五十三年(1978)八月、福岡市の地下鉄工事の際、東長寺(とうちょうじ)の前から百個以上の頭部の骨が発掘された。打ち落とされた首の骨であり、同時に出てきた遺物が十四世紀前半のものであることから、探題襲撃のときの菊池勢のものと云われている。(朝日新聞福岡本部編 「甦る中世の博多」)
東長寺は櫛田神社の近く、300mくらいのところにあるので、このあたりがかつての犬射馬場なのだろう。
東長寺前の大博通り(ここが犬射馬場か)

武時の探題襲撃は失敗に終わったが、その二ヵ月後、足利尊氏(あしかがたかうじ)が六波羅探題を攻め滅ぼすと、五月二十五日、少弐貞経・大友貞宗・島津貞久(しまづさだひさ)は探題・赤橋英時を攻めた。これには草野、龍造寺、深堀、相良、禰寝など九州の多くの武将が加わったという。このとき、英時がどこにいたのか、ということになるが、「北肥戦誌」には「博多姪浜城」とある。つまり探題城のことだ。英時は防戦に努めたが支えきれず、自害して果てた。新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻め滅ぼした三日後のことである。まさしく、あっという間に鎌倉幕府は滅びたのであった。

建武の新政ののち、足利尊氏は京で敗れて九州へ落ちてきた。建武三年(1336)三月、多々良浜の合戦(たたらはまのかっせん)で菊池武敏(きくちたけとし)を破り復活、大軍を率いて京へ攻め上った。このとき九州の押さえとして、一色範氏(いっしきのりうじ)を博多に留めた。これが九州探題(鎮西管領)の始まりである。一色範氏がどこに居住したか不明だが、北肥戦誌には姪浜城とキッパリ書いてある。

歴代の九州探題については、本によって多少の異同がある。

川添昭二氏 『九州の中世世界』では、一色範氏(いっしきのりうじ)、一色直氏(いっしきなおうじ)、(足利直冬、一色直氏)、斯波氏経(しばうじつね)、渋川義行(しぶかわよしゆき)、今川了俊(いまがわりょうしゅん)、渋川満頼(しぶかわみつより)、渋川義俊(しぶかわよしとし)、渋川満直(しぶかわみつなお)、渋川教直(しぶかわのりなお)、渋川万寿丸(しぶかわまんじゅまる)、渋川尹繁(しぶかわただしげ)、渋川義基(しぶかわよしもと)、大友義鎮(おおともよししげ=大友宗麟)としている。

吉永正春氏 『筑前立花城興亡史』では、一色範氏(いっしきのりうじ)、一色直氏(いっしきただうじ)、足利直冬、斯波氏経(しばうじつね)、渋川義行(しぶかわよしゆき)、今川貞世(いまがわさだよ=了俊)、渋川満頼(しぶかわみつより)、渋川義俊(しぶかわよしとし)、渋川満直(しぶかわみつなお)、渋川教直(しぶかわのりなお)、渋川政教(しぶかわまさのり)、渋川尹繁(しぶかわただしげ)、渋川義長(しぶかわよしなが)、大友義鎮としている。

外山幹夫氏 『中世の九州』では、一色範氏、一色直氏(いっしきただうじ)、斯波氏経(しばうじつね)、渋川義行(しぶかわよしゆき)、今川了俊(いまがわりょうしゅん)、渋川満頼(しぶかわみつより)、渋川義俊(しぶかわよしとし)、渋川教直(しぶかわのりなお)、渋川万寿丸(しぶかわまんじゅまる)、渋川刀禰王丸(しぶかわとねおうまる)、渋川義基(しぶかわよしもと)としていて満直の名が無いが、同書の別ページで渋川満直について触れているので、単なるヌケモレだと思う。

ほかに、探題城ちかくの「探題塚」の現地案内板には、探題は初代・北条時定(ほうじょうときさだ)から渋川堯顕(しぶかわたかあき)まで続いた、とある。渋川堯顕は光運寺山城で1534ごろ戦死し、その跡に葬ったのが探題塚だ、と書いてある。ここで初代とされている北条時定は、北条時頼(ほうじょうときより=時宗の父)の弟で、肥後國小国(おぐに)の満願寺や姪浜の興徳寺を創建したと云われている人物なので、「鎮西探題」という意味なのだろう。また、最後とされている渋川堯顕についてはよく分からないが、1534年とは天文三年のことなので、こちらは「九州探題」のことだ。
渋川堯顕については、郷土史家・西島弘氏の『姪の浜を中心とした郷土史誌』に、渋川教直の子が知是(政実)で、その子が堯顕と明記してある。しかし、これ以外には堯顕の名を見ない。

話を戻して、九州探題・一色範氏は室町幕府(北朝方)の出先機関として、九州の南朝勢と戦った。しかし、少弐・大友・島津にとってみれば、やっといなくなった鎮西探題がまた復活したようなもので不満だったことは容易に想像される。同じ北朝方でありながら、なかなか足並みが揃わない。
一方、南朝の後醍醐天皇は、皇子を各地へ派遣して北朝と対抗した。構想が大きくて拙者は好きだ。その一環として、九州へは懐良親王(かねよししんのう)を征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)として派遣した。懐良親王は興国三年(康永元年=1342)五月一日、薩摩国へ上陸、谷山城へ入った。
これに対し、幕府は一色範氏の子・直氏を貞和二年(正平元年=1346)九州へ派遣した。懐良親王は貞和四年(正平三年=1348)ついに肥後・菊池城へ入った。
ところが、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)で足利直義(あしかがただよし)の養子・直冬(ただふゆ=尊氏の実子)が貞和五年(正平四年=1349)九州・肥後へ入ってきたので、探題方・宮方に継ぐ第三勢力を形勢することとなった。足利直冬の官位が左兵衛佐(さひょうえのすけ)であったので、この勢力を佐殿方(すけどのがた)という。

少弐頼尚(しょうによりひさ)は早速、直冬を娘婿とし、館へ迎え入れて探題方から離れた。佐殿方の勢力は侮りがたく、一時は九州探題に任命され、探題・一色範氏は南朝へ降伏して直冬と対抗した。しかし、佐殿方は観応三年(正平七年=1352)鎌倉で足利直義が暗殺されると急速に勢力は衰え、月隈・金隈(つきぐま・かねのくま)の戦いで探題方を破るなど踏ん張ったが、支えきれず同年直冬は長門へ逃れた。一色範氏は再び北朝へ復帰、少弐頼尚を攻めるが、今度は頼尚が南朝へ降伏した。文和二年(正平八年=1353)、大宰府南方の針摺原(はりすばる)の戦いで少弐頼尚・菊池武光連合軍は探題勢を大いに破った。文和四年(正平十年=1355)一色範氏は京へ帰り、直氏もあとを追うように京へ戻った。

目障りな探題がいなくなると、少弐頼尚は南朝から北朝方へと転じた。まことに変転いちじるしい。延文四年(正平十四年=1359)、少弐頼尚と菊池武光は筑後で大激戦を演じ、菊池勢は少弐勢を散々に打ち破った。大保原の戦い(おおほばるのたたかい=筑後川の戦い)である。戦闘ののち、武光が血のついた太刀を川で洗ったので、太刀洗(たちあらい)の名がついたと云われる合戦だ。
南朝方は勢いに乗って康安元年(正平十六年=1361)大宰府に征西府を置いた。
太刀洗合戦の碑が建つ太刀洗公園

一方の北朝方は、延文五年(正平十五年=1360)斯波氏経(しばうじつね)を九州探題に任命した。氏経は豊後に入り大友氏時(おおともうじとき)を頼ったものの大した成果は挙げられず帰還。つぎに渋川義行(しぶかわよしゆき)が探題に任命されたが、九州へ上陸さえできず引き返した。南朝のもっとも得意な時期であった。

これに対し幕府は、応安三年(建徳元年=1370)、今川貞世(いまがわさだよ=了俊りょうしゅん)を九州探題に任命した。了俊は翌応安四年(建徳二年=1371)二月、京から九州へと向かった。その道中は急がず、途中の国人たちに盛んに文を送り、味方につくよう呼びかけている。また、豊後・高崎城に子の義範(よしのり)を、肥前・松浦へは弟の仲秋(なかあき)を派遣し、九州の諸勢力に対しても勢力拡大をはかった。こうして悠々と中国を西下、同年十二月、門司へ上陸した。この間に了俊が記したのが、『道ゆきぶり』である。
了俊は征西府のある大宰府を攻め、応安五年(文中元年=1372)八月、ついにこれを陥とした。征西将軍宮は筑後・高良山(こうらさん)に陣をはり抵抗したが、菊池家の家督・武光(たけみつ)、武政(たけまさ)が相ついで死去したため、応安七年(文中三年=1374)高良山を退去し菊池城へ戻った。

翌永和元年(天授元年=1375)、今川了俊は九州南朝の本拠地・菊池城を攻めるため肥後・水島(みずしま)に陣を進めた。この戦いを九州平定の総仕上げにするつもりだったのだろうか、九州の三守護、少弐冬資(しょうにふゆすけ)・大友親世(おおともちかよ)・島津氏久(しまづうじひさ)を水島へ呼び寄せた。ところが少弐冬資はなかなか来なかったため、了俊は島津氏久をあいだに立て斡旋させたところ、冬資はようやく水島へ現れた。ところが、何としたことか、了俊は冬資を殺してしまう。面目を失した島津氏久は激怒、陣を引き払い領国へ帰還し、その後、徹底して了俊に対抗した。そりゃそうだろう。
動揺した了俊軍は菊池勢に討ち負け、肥前へ撤退した。

しかし了俊はしぶとい。容易に従おうとしない島津氏に対して了俊は、永和二年(天授二年=1376)大隅・薩摩守護職を奪い、永和三年(天授三年=1377)十月には日向・大隅・薩摩・肥後の63人(61とも)におよぶ国人一揆を結ばせ、島津に対抗させた。しかし逆にいうと、了俊の島津征伐が容易に進まず、島津こそしぶとかったということだ。

永和四年(天授四年=1378)九月、了俊は大内義弘(おおうちよしひろ)・盛見(もりはる)など中国勢を従え菊池へ攻め寄せたが、菊池武朝(きくちたけとも)と後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや)・良成親王(よしなりしんのう)はこれを詫磨原(たくまばる)に破った。(詫磨原の戦い)しかし、局地的な勝利に留まり、大勢挽回には至らなかった。
永徳元年(弘和元年=1381)、探題方は菊池城の支城を次々と落とし、ついに菊池本城も陥落。菊池武朝は征西将軍とともに、宇土、さらに八代・古麓城(ふるふもとじょう)へと逃れた。了俊はさらに南朝方を追い詰め、明徳二年(元中八年=1391)、古麓城の名和顕興(なわあきおき)降伏、九州の南北朝時代は大きな区切りを迎えた。
翌明徳三年(元中九年=1392)南北朝合一。南朝方の牙城・九州を制圧した探題・今川了俊の功績は大であったが、応永二年(1395)幕府は了俊を召還、探題職を解任した。大内義弘、大友親世(おおともちかよ)の讒言(ざんげん)があったという。

了俊のあとは、渋川満頼(しぶかわみつより)が九州探題に任ぜられ、応永三年(1396)博多へ入った。この居城がどこなのか、判然としない。南北朝合一は成ったが、戦乱が収まったわけではなく、少弐貞頼(しょうにさだより)・菊池武朝らは探題満頼としばしば戦った。満頼はしかし、了俊ほどの実績は挙げられず、大内盛見に後ろ楯になってもらっていた、という感がある。

次の探題・渋川義俊(しぶかわよしとし)も少弐氏らと戦ったが勢力は振るわなかった。以降、九州探題といっても肥前、筑後あたりを転々とし、名ばかりとなっていった。
渋川教直(しぶかわのりなお)は肥前・綾部城でこの世を去った。子の万寿丸(まんじゅまる)は十年後、岩門の亀尾城で家臣に殺された。万寿丸の弟・刀根王丸(とねおうまる)は少弐政資(しょうにまさすけ)・大友政親(おおともまさちか)の連合軍に攻められ筑後へ落ち延びた。のち明応九年(1500)、渋川刀根王丸は大内義興(おおうちよしおき)の推挙で将軍・足利義尹(あしかがよしただ)に拝謁し一字をもらい渋川尹繁(しぶかわただしげ)と改名、九州探題に任ぜられた。しかし、名ばかりの探題で、園部城(三養基郡基山町)や勝尾城(鳥栖市河内町)に在城したといわれる。(吉永正春氏 『筑前戦国争乱』)

姪浜の探題城がいつ頃まで探題の居城として機能していたか、よく分からないが、いつの間にか歴史のなかに埋もれていったのであろう。
江戸時代に入って、寛永十年(1633)、福岡藩二代藩主・黒田忠之(くろだただゆき)が愛宕神社を勧請した。
愛宕神社のほうは参拝客が絶えないが、探題城のほうは今では小さな祠があるだけで訪れる人もなく、何もなくてただガランとしているだけだ。



■探題城へGO!(登山記)
平成十五年(2003)一月十二日(日)

今日は愛宕神社へやってきた。少し遅い初詣だ。
その帰りに探題城へ寄ってみた。探題城は、愛宕神社から階段をおり、「いわい餅」の岩井屋さんのお店の横の須賀神社の鳥居をくぐってのぼっていく。店の裏の山だ。
おみやげ、お食事屋の岩井屋さん

すぐに頂上につく。何も無い。
平坦地だし、広さも館を建てるには十分だが、今は何も無い。便宜上、当ホームページでは「本丸」と呼ぶことにしよう。
本丸の地面にコンクリートのようなものが見えているが、これは昭和の始めにケーブルカーの駅があった名残りだと思う。
なにもない本丸跡

以前、愛宕で生まれ育ったという人に、探題城のことを聞いてみたことがある。さすがに城跡のことは知っていて、さらに、頂上には石垣がある、と言っていた。
しかし、時代からいっても石垣はないだろうと思っていたが、彼が言っていたのは、このケーブルカー駅の基礎のことかもしれない。

本丸の奥に小さな祠がある。
本丸跡の祠
何のホコラかよく分からないが、お参りをして、その背後に回ってみる。
崖だ。当時のままかどうかは分からないが、お城らしくて良い。
おや、石積みのようなものがある。ひょっとして愛宕人の彼が言っていたのはこのことだろうか。
石積みだろうか

ほかには何もなさそうなので、下山することにした。

町に溶け込んでいてあまり気がつかないが、この山は結構な急斜面だ。というよりも崖に囲まれている、と言ったほうが正確だ。
下の写真は、山の南側の一角だ。高い崖になっていて、とてもじゃないが登れない。
姪浜城の断崖は20m以上あるぞ

また、山の北側は、今は住宅地になっているが、江戸時代まではここが海岸線だった。「TSUTAYA」のあたりはゴツゴツした岩礁に波が打ちつけていたのだろう。
したがって、北からの攻撃も困難で、要するにお城に適した地形だったということだ。
北側のマリナ通りは昔の海岸線だ(写真奥の山が探題城)

鎮西探題の役割からいって、もともとこのお城は元寇に備えたものだったと思うが、外敵と戦うことはなく、内側の敵から攻められ討幕の格好の目標にされた、という感じがする。



■探題城戦歴

◆元弘三年(1333)五月二十五日、少弐、大友をはじめ九州の諸氏は、博多姪浜城の鎮西探題・北条英時を攻めた。探題方は室見川の西岸に陣を構えてこれに備えたが、少弐らに破られた。探題・英時は姪浜城に籠って防戦したが、支えきれず、城中にて自害した。(北肥戦誌)

◆建武三年(延元元年・1336)三月、多々良浜の合戦において足利尊氏は菊池武敏を破り復活。四月、大軍を率いて上洛するにあたって、九州の押さえとして一色範氏を鎮西管領(九州探題)として姪浜城へ置いた。(北肥戦誌)

◆建武五年(延元三年・1338)正月、菊池武重は一万の兵を率いて筑後へ至り、菊池武敏と合流、石垣山鷹取城へ立て籠もった。探題・一色道猷(範氏)は姪浜城を発向し、これを攻めたが、松浦党に多くの死者を出し敗退した。(北肥戦誌)

◆文和三年(正平九年・1354)、菊池・赤星勢が姪浜城、飯盛山城を攻めたので、九州探題・一色直氏は肥前・千栗の陣を発ち、背振山を越えこれを打ち払おうとした。しかし菊池勢は背振山の絶頂に伏兵を置いてこれを襲った。狭い山中で乱戦となったが、探題方はなんとか菊池勢を撃退し、直氏は筑前に入り、姪浜城、飯盛山城を回復、ここに在城した。(北肥戦誌)

◆貞治元年(正平十七年・1362)、筑前國怡土郡に松浦党が官軍として蜂起し、小田部、生の松原、姪浜城にて合戦に及んだ。(怡土の陣) (歴代鎮西志)

◆応永三十年(1423)、少弐満貞と九州探題・渋川義俊が合戦。探題方は敗れて、鳥飼城・姪浜城・肥前綾部城などにちりぢりと退却した。(歴代鎮西志)

◆嘉吉二年(1442)、大内教弘(おおうちのりひろ)が筑前へ進攻、大宰府の少弐教頼(しょうにのりより)を破り、宝満要害も落城した。教頼は宗貞盛(そうさだもり)らとともに対馬へ逃れた。大内教弘はなお残党退治のため肥筑国境に在陣し、九州探題・渋川教直(しぶかわのりなお)を博多姪浜城へ、陶弘房を箱崎へ、仁保弘直を大宰府へ、原田弘種を高祖城へ、秋月種繁を秋月城へ置き、防備を固めて周防へ帰還した。(北肥戦誌)

◆文明元年(1469)、少弐教頼が対馬より筑前に渡り大宰府を押領した。筑前守護代・陶弘護(すえひろもり)は山口に在住していたが、兵を率いて九州へ渡り、田嶋の宗像社に参詣、箱崎経由で国府山に陣を敷いた。宗像大宮司氏弘は抜け駆けて少弐の内山城へ夜襲をかけた。少弐教頼はたまらず対馬へ落ちた。陶弘護は姪ノ浜城に滞在し、戦乱は治まった。(「宗像軍記」)

以上



■探題城の素朴な質問

Q1.鎮西探題襲撃の舞台はどこ?
鎌倉時代末期の正慶二年(1333)、九州の武士が鎮西探題を攻めた。最初の菊池武時の攻撃は失敗に終わり武時は討死した。二度目の少弐貞経・大友貞宗の攻撃は成功を収め、探題・北条英時は自刃した。この場所はどこなのだろうか。

柳猛直氏『福岡歴史探訪 西区編』には、「北条英時を菊池武時(寂阿じゃくあ)が襲って戦死した場所も、その後、英時が宮方に討たれて戦死したのも、この場所(鷲尾山、探題城)と伝えられていたが、それは誤りで明治になってから『博多日記』という最も信頼出来る当時の見聞記が発見されてから鎮西探題の館は今の博多・櫛田神社の近くにあったことが判明した」とあるように、江戸時代までの認識は誤りであるというのが通説のようだ。櫛田神社の近くから発見された上記の百個を越える人骨もその証拠とされている。

では、ここで一度まとめてみよう。

書  名 (一度目)菊池武時の襲撃 (二度目)少弐・大友の襲撃 書かれた時期
博多日記 松原口辻ノ堂より御所へ押し寄せる。
櫛田浜口にて合戦。
犬射馬場にて武時討死。
記述なし(記述部分の滅失?) ほぼ当時
太平記 櫛田宮を通り過ぎ、探題の館へ押し寄せた。
(櫛田神社に大蛇)
英時の館 室町時代
北肥戦誌(九州治乱記) 博多 博多姪浜城 江戸時代
歴代鎮西誌 櫛田の祠を通り過ぎ、鳥飼城にて合戦。
(櫛田神社に大蛇)
探題城 江戸時代
筑前國続風土記 記述なし
(太平記、九州記にあるのでここには記さない、
 とのこと)
記述なし
(やはり太平記、九州記にあるので
ここには記さない、とのこと)
江戸時代
柳猛直氏『福岡歴史探訪 西区編』 櫛田神社の近く 櫛田神社の近く 現代
川添昭二氏『九州の中世世界』 櫛田神社の東北方にある探題館 櫛田神社付近 現代
福岡市『ふくおか歴史散歩』 博多の探題館 博多館(「このとき鷲尾城もまた落城す」) 現代
山川出版社『福岡県の歴史』 場所の記述なし 鷲尾山(愛宕山)にあった鎮西探題の城 現代
新人物往来社『日本城郭体系18』 場所の記述なし 姪浜城 現代


あれ? 「博多日記」には探題滅亡については書いてないじゃないか。知らんかった。(・・ちなみに「博多日記」については、川添昭二先生の『鎮西探題史料集(下)』を参照しました)

改めて考えてみると、「博多日記」によって明らかになったのは、@鎮西探題の館(御所と呼んでいる)が櫛田神社近くにあった(松原口辻の堂から櫛田浜口へ進軍)、A菊池武時はこの探題館へ攻め寄せ戦死した(姪浜城ではない)、という二点だ。

そして、注意深くみてみると、「歴代鎮西誌」が鳥飼城と書いてあるほかは、「太平記」も「北肥戦誌(九州治乱記)」も「博多日記」の記述と矛盾しないようだ。そうすると、少弐・大友による探題襲撃が探題城(姪浜城)であったとしても悪くない。菊池武時の事件は突発的だったので北条英時も櫛田神社近くの居館で襲撃を受けたが、少弐・大友のときは合戦の兆候があったので櫛田神社そばの居館を離れ、姪浜の城に籠った、と考えることもできるのではないだろうか。櫛田神社近辺は海岸近くの平地で拠るべきものは何も無い。

現代に書かれた本のなかでも、両事件を櫛田神社近くとしているものが多そうだが、「福岡県の歴史」や「日本城郭体系」は二度目の襲撃を探題城(姪浜城)としていて、必ずしも旧説を排除していない。

ここで拙者の考えを述べておくと、一度目の襲撃、菊池武時のものは櫛田神社のそばでおこったもので間違いない(百個の頸の骨)が、二度目の襲撃、少弐・大友のものは姪浜の探題城だろうと思う。というのは、守る英時のがわから考えると、二度目は探題城のほうがふさわしいからだ。記録が軍記物だからといって切り捨てなくてもいいんじゃないだろか。拙者が英時なら、少弐氏の様子を探らせたところ明らかに合戦の準備をしていて、しかも使者まで斬られたのなら(太平記、北肥戦誌、歴代鎮西誌)、平地の櫛田神社近くを捨てて、サッサと舟に乗って姪浜城に籠城しますよ。しかも襲われるの、二度目だぜ。

念のため、北肥戦誌に「博多姪浜城」と書いてあって、なんで姪浜が博多なんだ?と思ってしまいそうだが、昔の「博多」は今よりももっと範囲が広く、博多湾岸沿いを広く「ハカタ」と呼んでいたので、とくにおかしな話ではない。黒田氏が入国してから、「博多」は那珂川の東、石堂川(これも戦国時代につくられたもので、それ以前は無い)の西の狭い範囲に押し込められたものだ。

一方、「歴代鎮西誌」の「鳥飼城」とあるのは、明らかに信頼できないと言われても仕方ない。ところで、鳥飼城ってなんだろ?鳥飼あたりで城を構えられそうな場所は、、、、と考えると、のちの福岡城のあの丘、今の舞鶴公園くらいしか思いつかない。どうだろうか。




Q2.探題城よりも愛宕神社のほうが標高が高いんじゃないの?
これは調べたわけではないが、どう見ても、探題城のあったというコブよりも愛宕神社のコブのほうが標高が高い気がする。どうして、愛宕神社のほうのコブの上に築城しなかったのだろうか?
ひょっとしたら、探題城は神社のほうにあったのかもしれない、という想像ができそうだ。当時は愛宕神社はまだ無く、鷲尾神社という神社があったそうだ。もしそうだとすると、言い伝えが誤っていることになる。

でも拙者の意見としては、はじめから探題城は少し低いほうのコブに築かれた、と思っている。
何故か?
それは、高いほうのコブには、すでに鷲尾神社が鎮座していたからだ、と考えたい。現地案内板によると、鷲尾神社は景行天皇(けいこうてんのう)の時代に創立されたという。景行天皇とは、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父君だ。
そんな伝説の時代なんか関係あるかい!と言ってしまうのは簡単だが、古い神社に遠慮して南側のコブに居城を築いたとしても、悪くない。と思うが如何だろうか?



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