しみずじょう
---- しみずじょう ----
別名: (なし)

平成19年11月3日作成
平成19年11月3日更新

島津氏の本城

清水中学校と裏山
清水中学校から見るウラ山が清水城

データ
清水城概要
清水城へGO!(登城記)
清水城戦歴


 

■データ

名称 清水城
しみずじょう
別名 とくにないようだ
築城 嘉慶元年(元中四年=1387)、島津元久により築城。
破却 天文十九年(1550)、島津貴久が内城へ移ると、のちに大興寺・大乗院などの寺が建てられた。(日本城郭体系18)
分類 山城(標高50m)
現存 とくになし。
場所 鹿児島県鹿児島市稲荷町(旧薩摩國鹿児島郡)
アクセス 清水跡は、鹿児島市街地の北、清水中学校の裏山だ。
ところが、これが行きにくいのだ。

JR「鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)」から電車通りを北東へ天文館方面に行き、天文館を通り過ぎて、「いづろ」交差点を左折、山形屋を通り過ぎ、市役所も通り過ぎてすぐ、「桟橋通」交差点を左折、すると鶴丸城の堀端へ出るので、「城山入口」交差点を右折しよう。これが国道10号線だ。

2キロくらい先の「清水町」交差点を左折しよう。ここは東福寺城の東麓だ。
300mくらい、清水小学校を通り過ぎた四つ角、「清水小前」交差点を右折する。
住宅地の間を進むと、300mほどで稲荷川にかかる「大乗院橋」があるので、迷わず渡ろう。
その正面が清水中学校、校舎の向こうの小山が清水城跡だ。

校舎の右手(東側)の体育館の横から頂上へ登る道があるとのことだが、拙者が行ったときは通行止めになっていた。登れないのだろうか。





■清水城概要

清水城(しみずじょう)は、島津氏本家の代々の居城だった。第七代大隅守護・島津元久(しまづもとひさ)が、それまでの東福寺城(とうふくじじょう)が手狭だったため、新たに築いたのが清水城だ。

九州探題(きゅうしゅうたんだい)・今川了俊(いまがわりょうしゅん)が失脚すると、ふたつに分かれていた島津本家は次第に対立するようになった。大隅守護・島津元久と薩摩守護・島津伊久(しまづこれひさ)だ。元久と伊久はいとこ同士にあたる。元久は陸奥守だったので奥州家(おうしゅうけ)、伊久は上総介なので、総州家(そうしゅうけ)と呼ばれる。争いは元久に有利に進み、応永十四年(1407)伊久が平佐城(ひらさじょう)で死去すると、元久は平佐城を占領し、さらに応永十六年(1409)薩摩守護職を手に入れて本家を統一した。ただ、総州家の抵抗はその後も続いていく。(島津修久氏 「島津家おもしろ歴史館」)

元久が没したのち、元久の子・犬千代(いぬちよ)を推す伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)と、元久の弟・久豊(ひさとよ)との間で跡目争いがおきる。頼久は清水城を焼き払った。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
争いの経緯はよく分からないが、家督を継いだのは、久豊のほうだった。しかし、薩摩大隅の戦乱は続く。また、日向の伊東祐立(いとうすけはる)ともたびたび戦火を交えた。久豊のあと、忠国(ただくに)、立久(たつひさ)と続くが、国内では反乱への対応、国の外では日向伊東氏との戦いが繰り返された。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)

文明六年(1474)第十代・島津立久が死去、十二歳の忠昌(ただまさ=武久たけひさ)が第十一代の家督を継ぐと、一族の島津国久(しまづくにひさ=薩州家)、島津季久(しまづすえひさ=豊州家)が反乱、忠昌は鹿児島を離れた。ということは、清水城を攻められたのだろうか。このときは伊作久逸(いざくひさやす=伊作家、久逸は日新斎島津忠良の祖父)、島津友久(しまづともひさ=相州家)、新納忠続(にいろただつぐ)らの働きで、文明九年(1477)国久らを降伏させた。(島津修久氏 「島津家おもしろ歴史館」)
ところが、今度は櫛間城(くしまじょう)の伊作久逸と飫肥城(おびじょう)の新納忠続が争うようになり、島津忠昌は久逸を本拠地の伊作(いざく)へ戻そうとしたが、久逸は伊東祐堯(いとうすけたか)らと組んで反抗したので、忠昌は島津国久らを差し向け、自身も出陣した。人間関係がどうにもヤヤコシく、思いのほかの大乱となってしまった。文明十七年(1485)、島津氏と伊東氏は正面からぶつかり、伊東氏は大敗した。伊作久逸も守護・忠昌に降伏し田布施(たぶせ)に戻った。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)
このころ忠昌は病に冒されていたそうだ。そのなかで、永正三年(1506)、大隅で肝付兼久(きもつきかねひさ)が反乱をおこす。忠昌は出陣したものの鎮圧できないまま、撤退した。挫折した島津忠昌は、永正五年(1508)、清水城において自殺した。西行法師(さいぎょうほうし)の歌、『願はくは 花のもとにて春しなん そのきさらぎのもち月のころ』を口ずさんで死んでいったという。(島津修久氏 「島津家おもしろ歴史館」)

第十二代家督は忠昌の長男・忠治(ただはる)が継いだが、国内の反乱は治まらず、吉田位清(よしだのりきよ)が松尾城で叛旗を翻した。永正十二年(1515)、松尾城を攻めているときに忠治は病にたおれ、そのまま亡くなった。二十七歳。
忠治の跡は、弟の忠隆(ただたか)が第十三代を継いだ。忠隆は松尾城を攻め落として、兄の無念を晴らした。しかし永正十六年(1519)、病で亡くなった。二十三歳。
相ついで当主が若くして病没した島津本家は、忠隆の弟・勝久(かつひさ=忠兼ただかね)が第十四代を継ぐ。(島津修久氏 「島津家おもしろ歴史館」)

しかし、島津勝久は凡庸だったのか、あるいは守護職の権威が失われていたのか、義理の弟の島津実久(しまづさねひさ=薩州家)に政治をまかせるようになる。ところが、実久は次第に横暴になってきて守護職を自分に譲るよう勝久に強要するようになった。困った勝久は、伊作(いざく)家の島津忠良(しまづただよし)に援助を求めた。忠良は、伊作久逸(いざくひさやす)の孫で、「いろは歌」の作者として知られる。大永六年(1526)勝久は忠良の長子・虎寿丸(とらじゅまる)を養子とし、同年十一月、虎寿丸は清水城にて元服、貴久(たかひさ)と名乗った。そして、翌大永七年(1527)、勝久は守護職を貴久へ譲り、隠居した。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
しかし、その後の勝久の行動をみていると、貴久を養子としたり、家督を譲ったりしているのは、その場しのぎの方便だったように思える。あるいは、そのときは真剣に隠居するつもりだったのが、あとになって惜しくなり、やっぱりヤーメタ、となったのだろうか。
野心満々の島津実久は、当然この貴久の家督を認めなかったのだろう。さっそく清水城を攻めたようだ。大永七年(1527)貴久は清水城を脱出し、田布施城へと戻った。ところが、隠居していたはずの勝久は実久に迎えられて鹿児島へ帰って還俗した。こうして、忠良・貴久と勝久・実久の争いとなったわけであるが、忠良・貴久父子はすぐに伊作城を攻め、これを奪還し居城とした。

このあとも両勢力の争いは続いていく。こうしたなか、天文四年(1535)勝久が諫言した家臣・川上昌久(かわかみまさひさ)を殺すと、ほかの家臣は一斉に勝久を見限った。孤立した勝久を、今度は実久が攻撃、たまらず勝久は帖佐(ちょうさ)へ逃れた。ついに実久が本性をあらわした、というところだろう。まぁ、このまま実久が島津氏を統一していたら、本望を達すべく立ち上がった、とでも表現するところだ。勝久のほうは、その後も流れ流れて、最後は豊後で亡くなったそうだ。

天文五年(1536)三月、忠良・貴久父子は、伊集院の一宇治城(いちうじじょう)を攻め落とした。天文六年(1537)五月、忠良は加世田城(かせだじょう)の島津実久に和議を申し入れたが拒否された。ということは、このころまでは実久のほうが優勢だったのだろうか。まさに本望達成の寸前まで行ったということだろう。
しかし、天文八年(1539)忠良・貴久は加世田城を落とし、実久を出水へ追いやった。そして、天文十四年(1545)、居城を伊作城から一宇治城へ移した。この城で、貴久はフランシスコ・ザビエルと会見している。
しだいに貴久の勢力が増したのだろう、いつごろ実久が降伏したのか、よく分からないが、天文十九年(1550)いよいよ貴久は鹿児島へ居城を移した。このときに、清水城へは入らず、近くに新たに居館を築いた。これが内城(うちじろ)だ。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)

その後の清水城は廃城になったようだ。大興寺・大乗院といった寺院の敷地になったという。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)

清水城は、現在の清水中学校の裏山だ。麓の居館があった場所が、現在の清水中学校だそうだ。しかし、居館跡はもちろん、山城のほうも遺構は何もないらしい。ただ、城下町の馬場跡は面影があるのだという。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
清水中学校前の「稲荷馬場」


三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■清水城へGO!(登城記)
平成17年(2005)8月28日(日)

内城を訪問したあとは、当然、清水城へ行こう。
ところが、すぐ近くに見えたが、なかなかたどり着けない。道が狭くて、入ってよいものかどうか分からず、国道から迂回しようと思ったら、今度は近づけなくなった。
それでも地図を見ながら、田んぼのあぜ道のようなところを通って、なんとかたどり着いた。

さて清水城だ。
清水中学校は部活の生徒もおらず、ガランとしていた。まぁ、その方が変な目で見られないからいいや。。ここが麓の居館跡なのか。
清水城の全景を撮ろうとしてつなげてみた

校舎の背後に見える50mくらいの山が清水城だな。さて、どこから登るのだろうか。
と、ウロツイテみたが、よく分からない。それなら地元の人に聞いてみよう、と何人かに聞いたが、清水城なんて知らない、という。
どして?

違うのかなぁ、と思いながら、中学校よこの住宅地に入って、老夫婦がいたので、聞いてみた。やはり知らないという。そのとき、家の中から娘さんらしき人(と言っても拙者と同年代だ)が出てきて、そう言えば昔、山の上にお城があったと聞いたことがある、と言った。
ヨッシャ!手がかり入手!
なんでも、娘さん(といっても中年だ)は清水中学校の卒業生で、当時はときどき学校の行事で山に登って頂上でお弁当を食べることがあったそうだ。
ふむふむ、で、どこから登るの?

当時は体育館の横から登るところがあったとのことだが、今は登れないんじゃないか、という。
う、嫌な予感。以前にも薦野城(こものじょう)で、同じようなセリフを聞いてひどい目にあったナ。
とにかく行かねばならぬ。お礼を言って、さっそく体育館へと向かう。

だが!
なんと、柵がしてあって登れない。ガクッ・・
「急傾斜地崩壊危険箇所」の標識 

それでも柵を突破して登ってみたが、今度は鉄条網がしてあった。
強行突破しようかな、とも思ったが、薦野城の二の舞になったら嫌なので、立ち去ることにした。
登っていくと鉄条網とコンクリート塀

島津守護家の本城だった清水城だが、住宅地の中にポツンと忘れられているようだ。



■清水城戦歴

◆島津家第五代・貞久(さだひさ)は、薩摩国守護職を三男師久(もろひさ)に、大隅国守護職を四男氏久(うじひさ)にそれぞれ譲った。そのため、師久・氏久とも系図で第六代となっている。当初は協力して、九州探題・今川了俊(いまがわりょうしゅん)の軍勢と戦っていたが、了俊が失脚し九州からいなくなると、両家は対立するようになった。そして、師久の子・伊久(これひさ=総州家)と、氏久の子・元久(もとひさ=奥州家)はついに戦火を交えた。そして、応永十四年(1407)、総州家・伊久が平佐城で亡くなると、奥州家・元久は同城を占領した。(尚古集成館 『島津家おもしろ歴史館』) この争いに幕府は伊久側を擁護、伊久死後は子・守久に薩摩国を委ねたが、薩摩国内に守久の支配はおよばないため、幕府も既成事実を追認し、応永十六年(1409)、島津元久を薩摩国守護に任じた。(山川出版社 『鹿児島県の歴史』)

◆応永十八年(1411)島津元久が死去。そののち、元久の子・犬千代(いぬちよ)を推す伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)と、元久の弟・島津久豊(しまづひさとよ)との間で跡目争いがおきる。頼久は清水城を焼き払ったという。この合戦の年月については、「日本城郭体系18」には明記していないが、当ホームページでは元久死去の応永十八年とした。


以上



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