---- たにやまじょう ----
別名:千々輪城 ちぢわじょう
平成20年11月9日作成
平成20年11月9日更新
征西将軍宮・懐良親王を迎えた谷山氏の居城
中央のおわん型の丘が谷山城(左下はコンクリートで固められている)
・データ
・谷山城概要
・谷山城へGO!(登山記)
・谷山城戦歴
■谷山城概要
鹿児島市内を走る路面電車。これを南にどんどん下った終点が「谷山駅」だ。谷山は今は鹿児島市だが、昔は鹿児島郡の南隣の谷山郡(谿山郡たにやまぐん)だった。ただその境界線ははっきりしない。
谷山郡は、阿多四郎宜澄(あたしろうのぶずみ)の没官領(もっかんりょう)だったそうだ。つまり、阿多宜澄は源平合戦のおり平家方についたということだ。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
「阿多」というのは、古く天武天皇(てんむてんのう)十一年(682年)に大隅隼人(おおすみのはやと)と阿多隼人(あたのはやと)が朝廷で相撲をとったという「日本書紀」の記述にあるように、漠然と薩摩地方を指した地名と思われる。また、ニニギノ命の妻・コノハナサクヤ姫は別名、神阿多都比売(かむあたつひめ)で阿多出身と云われている(古事記)。
ただ、後世の「阿多」は単なる郡・郷の呼称(現加世田市付近)となっていく(平田信芳氏 「地名が語る鹿児島の歴史」)。
阿多宜澄(宣澄)が阿多隼人の後裔かどうかは定かでないが、彼は肥前平氏の一族で、平忠景(たいらのただかげ)の女婿(じょせい=むすめむこ)だそうだ。宣澄は「平忠景の乱」に加担しなかったとみえ没落を免れて、のちに薩摩国の国衙目代になったと想定されている。ときの薩摩守は平忠度(たいらのただのり=平清盛の弟)だ。(山川出版社 「鹿児島県の歴史」)
こういった背景から、阿多宣澄は平家方となり、源平合戦ののち、所領を没収されたのだろう。
建久三年(1192)、島津忠久(しまづただひさ)が谷山郡の地頭職に任ぜられ、のち建仁三年(1203)谷山信忠(たにやまのぶただ)が谷山郡の郡司職を安堵された。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
建仁三年(1203)といえば、「比企能員(ひきよしかず)の乱」が起こり、能員の縁者であった島津忠久は薩・隅・日守護職を罷免されている(忠久の母が比企能員の妹(尚古集成館 「島津家おもしろ歴史館」))ので、谷山信忠の郡司職安堵はそれと関連しているのだろうか。谷山氏の出自は良く分からない。地元の豪族だったのだろうと思われる。
その谷山氏が二百年にわたって代々居城としたのが、谷山城だ。谷山城は本城、弓場ヶ城、陣之尾という三つの丘から構成され、それぞれは空堀や浸蝕谷で隔てられているそうだ。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
一時失脚した島津氏は、その2年後の元久二年(1205)には忠久が薩摩国守護に還補される。(山川出版社 「鹿児島県の歴史」)
また、忠久の曾孫・忠真が谷山郡の地頭職に、その子宗久が谷山郡の山田・北別府村の地頭職となったことで、その子孫は山田氏を称した。こういうことから、郡司の谷山氏と地頭職山田氏の争いとなっていく。折から、南北朝の時代背景があり、山田氏は島津一族なので北朝方であることから、対抗上、谷山氏は南朝についたのだろう。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
そして、興国三年(1342=康永元年)五月、征西将軍宮懐良親王(せいせいしょうぐんのみや・かねよししんのう)が九州へ上陸する。出迎えたのは、谷山城主・谷山隆信(たにやまたかのぶ)だ。懐良親王は後醍醐天皇の皇子で、九州の兵を率いて上洛するために征西将軍に任ぜられ、延元のころ(「鎌倉室町人名事典」は延元元年(1336)、荒木栄司氏「菊池一族の興亡」は延元二年(1337)、森本繁氏「村上水軍全史」は延元三年(1338))、吉野から九州へ下向した。これは後醍醐天皇による日本全土を使っての対北朝大戦略の一環だ。このとき懐良親王は5〜6才くらいの幼少であったという。補佐役は五条頼元(ごじょうよりもと)ら十二人の廷臣だった。吉野を出発した懐良親王一行は田辺から熊野水軍に守られて淡路島へ、そこから讃岐へ渡り、その後伊予国の忽那島(くつなじま)へ渡って九州への渡海の機会を待った。そして興国三年(1342=康永元年)五月、薩摩国の山川港に上陸、谷山隆信が一行を迎えた。吉野を出てから5〜6年の苦難の長旅だった。この移動は船によるものであり、それは現地の水軍の力を借りなければ実現不能ということで、田辺から新居大島までは熊野水軍、新居大島から忽那島までは村上水軍、忽那島から薩摩までは忽那水軍の力によるものという説がある。(森本繁氏 「村上水軍全史」)
こうしてみてくると、谷山隆信が南朝方であった理由は、単に北朝方の山田氏(島津氏)に対抗するための方便としてであって、また懐良親王を迎えたのはそのハクをつけるため、ということだけではないような気がしてくる。なぜなら懐良親王一行からみて、もし自分の利益の為だけに親王を利用しようとしている人物であれば、そのような男のもとへなど、危なくて近寄れないと思われるからだ。谷山隆信は真の宮方だったのではないだろうか。
薩摩に到着した懐良親王は谷山城の北西に谷山御所を築き、そこを居城としたそうだ。さらに谷山御所を守るために肥後の菊池武光がやってきて菊池城(谷山菊池城)を築いたという伝説もあるらしい。(森本繁氏 「村上水軍全史」)
それは俄かには信じがたいが、ともかく、谷山隆信が九州の土を踏んだ征西将軍宮の一番の後ろ盾だったろうことは確かなようだ。懐良親王も谷山城を訪れたことは一再ではあるまい。
ただ、懐良親王の目的が薩摩だったわけではなく、九州を平らげ、その兵を率いて京へ攻め上るのが最終目標であるわけだから、親王の目指す先は大宰府であった。そのために懐良親王の次なる目的地は肥後の一大宮方勢力、菊池城だった。谷山御所在住のときから、廷臣のひとり中院義定(なかのいんよしさだ)は菊池、八代、鹿児島を行き来して兵を催したという。(荒木栄司氏「菊池一族の興亡」、新人物往来社 「鎌倉室町人名事典」)
そして、正平二年(1347=貞和三年)十一月、懐良親王一行は谷山を出発、翌正平三年(1348=貞和四年)肥後・隈府城へ到着した。谷山在住は約六年だった。
その後の谷山氏は、やはり島津氏と戦っていたようだ。しかし、南北朝合一ののち応永四年(1397)、島津元久(しまづもとひさ)の強圧に耐えられず谷山城を退去した。その後の谷山氏については良く分からない。それから以降は、伊集院頼久の反乱の拠点となったり、島津実久が宗家に背いてこの城を奪ったりと変転があり、島津貴久のころから島津守護家のものとなったようだ(新人物往来社 「日本城郭体系18」)。鹿児島に程近い地理的要件がそうさせたのだろう。
谷山城の最後については、良く分からない。
それにしても、この城を有名ならしめているのは、やはり征西将軍宮懐良親王の九州上陸の地であるからだろう。
■谷山城へGO!(登山記)
平成18年(2006)6月10日(土)
今日は鹿児島だ。梅雨なので天気は今ひとつだが、今日もレンタカーを借りて、さあ行くぞ。
ということで、谷山城へやってきた。
おそらくこのあたりだろう、、、、と細い道を進んでいくと、偶然、「千々輪城跡」の立て札を見つけた。ヨッシャ!
ところが、駐車スペースがない。道が狭いうえに、何故だか交通量が結構あるのだ。
そこで、仕方がないので、少し離れたファミリーマートに停めさせてもらった。さあ行こう。
先ほどの立て札から民家の間を進むと、すぐに登山道になった。夏どきだけに草木が繁っている。
途中、登山道はガケの間を進んでいく。「切通し」といった感じの雰囲気だ。人工のものだろう。ひょっとして、堀切ではないか、とも思う。
登り始めて5分、平坦地についた。粗末な建屋がある。「大神宮」の扁額が掲げられていて、案内板にあった伊勢神社だと思われる。
ということは、ここは本丸の下段だな。結構、広いな。しかも、もう一段下にも細長い平坦地があって、腰曲輪のようだ。
さあ、さらに登ろう。
上段への道は右にカギ型に折れていて、虎口(こぐち)のようになっている。当時の名残だろうか。
上段についた。おお、広いぞ。野球場ひとつがスッポリ納まりそうだ。平坦な地面に、スッと木々が生えている。杉の木だろうか。
お、平坦地のフチが盛り上がっている。あれは、土塁じゃないか?
と思って、近づいてみた。うむ、間違いない、これは土塁跡だ。
平坦地の一角には、下段と同じような粗末な建屋がたっている。あれが愛宕神社だな。その脇には、「本城」の石碑が立っている。
ここが谷山城の本丸なんだなぁ。あの征西将軍宮・懐良親王もここに来たんだろうなぁ。
おそらく親王殿下も眺めただろう景色はどうだろうか。と思って見てみるが、残念、雲が低く垂れこめていて暗鬱な感じだ。晴れていれば、正面に桜島が望めたはずだが、ほんとうに残念だ。
まぁ天気には勝てないので、雄大な眺めは、またいつかの楽しみにとっておこう。
谷山城は、南朝の思いが込められた場所、そう感じたお城だった。
■谷山城戦歴
◆ 興国三年(康永元年=1342)、島津貞久(しまづさだひさ)が谷山城を攻めるため波之平城へ布陣。しかし、谷山隆信の弟(氏名不詳)が鹿児島への退路を断ち、貞久は兵を退いた。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
◆ 正平二年(貞和三年=1347)十一月、懐良親王(かねよししんのう)が谷山御所を発ち海路菊池へ向かった。一旦、八代に上陸、その後宇土に再上陸して、御船経由で正平三年(貞和四年=1348)正月、菊池城へ入った。この菊池城が、菊之池城か隈府城か、不明。(荒木栄司氏「菊池一族の興亡」)
◆ 応永四年(1397)、谷山氏は島津元久の圧力を跳ね返すことができず、ついに谷山城を退去した。(新人物往来社 「日本城郭体系18」、現地案内板)
◆ 応永二十四年(1417)、伊集院頼久が反乱を起こし谷山城へ立て籠もった。これに対し、島津久豊は波之平城、椿山城に布陣してこれを攻め落とした。伊集院頼久は伊集院へ敗走した。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
◆ 大永七年(1527)、島津実久は本家に背き谷山城を力ずくで奪い、家臣の禰寝播磨(ねじめはりま)を置いた。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
◆ 天文八年(1539)、島津貴久は禰寝播磨を紫原(むらさきばる)の合戦で打ち負かし、そのまま谷山城を攻め落とした。その後、谷山城は島津守護家の掌握することとなった。(新人物往来社
「日本城郭体系18」)
以上
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