おたち
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別名:平戸城 ひらどじょう

平成21年6月27日作成
平成21年6月27日更新

平戸松浦藩の初期の居館

御館(現松浦史料博物館)を平戸城から臨む
平戸城から臨む御館遠景(中央、山の中腹の建物)

データ
御館概要
御館へGO!(登城記)
御館戦歴


 

■データ

名称 御館
おたち
別名 平戸城 ひらどじょう
築城 不明。寛永四年(1627)までには完成していた。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)
破却 宝永四年(1707)居城を平戸城へ移したが、そののちも何らかの建物があったのではないだろうか。明治二十七年(1894)松浦氏の私邸が建てられ、昭和三十年(1955)松浦史料博物館へ寄贈されて現在に至っている。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)
分類 平山城(標高20m)
現存 石垣、階段。
場所 長崎県平戸市(旧肥前國松浦郡)
アクセス 御館は平戸城から平戸港を挟んだ北西の小山の中腹にある。

ということで、ここへ行くには、とにかく平戸大橋で平戸島へ渡らなければならない。橋は有料で片道100円だ。
橋を渡ったら、道なりに進もう。約1.8キロくらい先の大きな交差点を右折すると平戸市役所と平戸城へ行けるが、ここは直進して次の信号を右折しよう。交差点名はない。
約300m先に「幸橋」という石橋を右に見ながら直進し、さらに300m行くと道が右へ大きくカーブする。このカーブの場所で左折しよう。すると正面に松浦史料博物館へのぼる広い石段と石垣が見える。そう、ここが御館だ。
駐車場は、この階段で突き当たるところを右折して100mくらい先を左折して坂をあがると、駐車場の看板が出ているので、それに従って左折すればよい。ただ、道が狭いし3台くらいしか停められないので注意して進もう。






■御館概要

御館は、肥前松浦藩六万石の居館だ。松浦藩といえば平戸城で、今では平戸の観光スポットとなっている。
しかし、松浦藩が平戸城を居城としたのは、江戸時代も元禄のころ、宝永四年(1707)以降のことで、それより以前はここで紹介する御館を居館としていた。

松浦氏は源久が始祖といわれ、肥前松浦郡一帯に多くの分家を排出し、松浦党(まつらとう)と呼ばれた。のちに松浦藩をひらく松浦氏は、この松浦党の分家のひとつ、峯(みね)氏の末裔だ。
小値賀(おぢか)にいた峯持(みねたもつ)が嘉禄元年(1225)頃、平戸へ移り、館山に居を構えた。これが平戸松浦氏へとつながっていく。居館をおいた館山というのは、今の松浦史料博物館の裏山だといわれている。ということは、御館の裏山だ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

のち南北朝のころ、峯勝(みねすぐる)は北朝に仕えて滝口に補されている。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
滝口というのは、天皇を警固する武士のことで、御所の清涼殿の東庭北方に屋根の水が滝のように落ちる場所に控え所があったため、そう呼ばれるようになったそうだ。(神尾正武氏 「松浦党戦旗」)
また、峯勝(みねすぐる)は平戸の勝尾岳に白狐山城(びゃっこさんじょう=勝尾岳城)を築いたという。これ以降、勝尾岳城(白狐山城)が平戸氏の居城となった。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

戦国末期、松浦隆信(まつらたかのぶ=道可どうか)はポルトガルとの貿易を積極的に行ない、平戸は全国から商人があつまり賑わった。また、松浦一族との争いを勝ち抜き、近隣の大村氏などとも戦い、戦国大名としての地位を築いた。
永禄十一年(1568)松浦隆信は剃髪し、道可(どうか)と号し、跡を嫡子の鎮信(しげのぶ)に譲った。これが平戸藩初代藩主の松浦鎮信(まつらしげのぶ)だ。ちなみに、松浦氏には父・隆信、子・鎮信という父子が二組あり、ヤヤコシイ。そこで法名をもって表すのが便利だ。戦国大名・松浦隆信は道可、その子・鎮信が法印(ほういん)、法印の孫にも隆信があり宗陽(そうよう)、その子が鎮信で天祥(てんしょう)だ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
天正十五年(1587)秀吉の九州征伐。松浦鎮信は、同年四月、筑後高良山(こうらさん)へ出向き秀吉に拝謁した。(「北肥戦誌」)

七年の滞在を経て朝鮮出兵から帰国した松浦鎮信(まつらしげのぶ=法印ほういん)は、その翌年の慶長四年(1599)、日の岳城(ひのたけじょう)を築き、居城を勝尾岳城(白狐山城)から移した。日の岳城は今の平戸城と同じ場所にあった。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは、松浦鎮信は領国に引き篭もっていたようで参加していない。翌慶長六年(1601)鎮信は東上して家康に拝謁し、旧領六万三千二百石を安堵された。同年、鎮信は家督を息子の久信(ひさのぶ)に譲った。ところが、久信はその翌年、慶長七年(1602)伏見の邸において三十二歳の若さで死んでしまう。鎮信はさぞ落胆したことだろう。久信の子・隆信(たかのぶ=宗陽)はその翌年、慶長八年(1603)十三才で元服し、鎮信に伴われて駿府に出向き、家康に謁して家督を認められた。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」

慶長十四年(1609)オランダ船がはじめて平戸に入港した。これより先、慶長五年(1600)にオランダ船「リーフデ号」が豊後に漂着し、その航海長のイギリス人、ウィリアム・アダムスは三浦按針(みうらあんじん)として家康の顧問となっていた。のち、「リーフデ号」船員たちを帰国させるにあたり、松浦鎮信は家康に請い西洋渡航の朱印を受け、銀十五貫を投じて船を造って慶長十年(1605)彼らをマレーのパタニへ送り届けた。オランダはこの好意に報いるため、国王の書を携えた商船二艘を平戸へ派遣した。これが慶長十四年(1609)平戸へ入港したわけだ。鎮信はさっそくオランダ国王の書簡を家康へ送り、正式な通商許可を得て、同年平戸にはじめてオランダ商館が設置された。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

慶長十七年(1612)、松浦隆信が従五位下肥前守に任ぜられた。しかし、その口宣案の宛先には、わざわざ「豊臣隆信」と書いてあった。拙者はこのことがきっかけとなったと思うが、翌慶長十八年(1613)、松浦鎮信は居城・日の岳城に火をかけ、自ら焼き捨てた。理由は、嫡子・久信が若死し絶望したためともいわれるが、徳川の嫉視を避けるためともいわれている。拙者は後者と考えている。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

こうして、居城が焼失したわけだが、それ以降は城を構えず中之館(なかのたち)を居館とし、ついで御館(おたち)に移った。ただ、中之館(中之御館とも)から御館へ移った時期も理由も不明だ。長くても十四年程度の短い期間しか中之館にいなかったという説もある。また中之館の場所も現在の平戸市保健所付近という口伝がある程度で、その規模も遺構も全く不明だそうだ。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)
ところで、中之御館の「中」というのは、御館を居館としていた時期にとってみれば、先の居館(居城)が日の岳城で、今の居館が御館で、その間に挟まれた短い期間の居館が「中」之御館という意味だろう。中先代の乱の「中」と同じ用法だと拙者は思う。

ということで、松浦隆信は居館を御館(おたち)に移した。現在、松浦史料博物館がある場所であり、今も立派な高石垣が残っている。ただ、この石垣が御館時代のものか、明治時代のものか不明という。御館のあった場所は明治二十七年(1894)松浦家の私邸が建てられ、昭和三十年(1955)に松浦史料博物館に寄贈されている。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)
御館が藩主の居館であったのは、平戸城が築かれるまでの約九十年間のことで、この頃がもっとも蘭英貿易が盛んで華やかな時代だったそうだ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

オランダについては先述したが、イギリスとの貿易の始まりは鎮信が日の岳城を焼いた慶長十八年(1613)で、イギリス船「クローブ号」がイギリス国王の書を携えて平戸へ入港したことに始まる。鎮信と隆信は、四十艘の船で沖合い900mまで出迎えたという。「クローブ号」の司令官・セーリスはウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに江戸へのぼり家康に拝謁して正式に通商の許可を得た。幕府は浦賀を貿易港とすることを望んだが、セーリスは平戸に商館を構えた。こうして平戸にオランダとイギリスの二つの商館が設置され、それぞれ貿易を行ったが、両国の競争は激しく紛争は絶えなかったという。イギリスの貿易品は西洋の品が多く高価であったのに対して、オランダは東南アジアで仕入れた諸国の品をもって薄利多売を行ったので、次第にイギリスは圧倒された。また商館の経費が東印度会社から削減されたことなどあり、ついに元和九年(1623)イギリス商館は閉鎖された。平戸でのイギリス貿易はわずか十年だった。
平戸貿易はオランダの独占するところとなったが、寛永十四年(1637)島原の乱が起こった。幕府は一揆を支援したポルトガル人を追放するとともに、島原の乱を鎮圧した松平伊豆守信綱(まつだいらのぶつな)に島原からの帰途、平戸を調査させた。信綱はオランダ人の砲術の優秀さと商館の堅牢さを危険と判断し幕府に報告ししたため、幕府はオランダ商館の破壊を命じた。寛永十八年(1641)オランダ商館は長崎の出島へ移った。こうして平戸は元の淋しい町に戻ったという。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

この間、寛永十四年に松浦隆信(宗陽)が没し、子の鎮信(天祥)が跡を継いだ。松浦鎮信は山鹿素行(やまがそこう)と親交があり、砂型を使って素行と築城用兵について研究したといわれる。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
松浦鎮信と山鹿素行は気があったという。素行の弟・平馬(へいま)は平戸藩士となり、のち家老となった。寛文六年(1666)素行が幕府から咎められ赤穂(あこう)に流罪となると硯や筆を送って慰め、また幕府に赦免を働きかけた。素行が許されると江戸の住まいを鎮信が斡旋したそうだ。その後、素行がもてはやされると、再び幕府の咎めを受けそうになったので、鎮信が陳情書をもって老中の間をまわって事なきを得た。そういう付き合いがあって、鎮信が新たに築く城の縄張りを山鹿素行が行ったといわれている。この新城が平戸城だ。(小学館 「城郭と城下町9」)
幕府に対する平戸城の築城願は、鎮信の子・棟(たかし)のとき元禄十六年(1703)に提出され、その四日後に許可がおりているが、実は松浦鎮信のときに築城許可があったのだという説がある。たしかに許可が出るのがわずか四日間というのは、あまりにも早すぎると思う。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)
それより前の元禄二年(1689)鎮信は致仕し、その跡を子の松浦棟(まつらたかし)が継いでいた。棟は久々の一字名だ。ちなみに鎮信は平戸城築城許可を得た元禄十六年(1703)に没した。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)

こうして平戸城は元禄十七年(1704)から築城を開始し、宝永四年(1707)一応の完成をみた。藩主・松浦棟は同年十一月、御館から平戸城へ移った。これ以降明治まで、平戸城が肥前松浦藩の居城となる。御館のその後はよく分からないが、明治に入ってから松浦家の私邸が建てられているので、江戸時代をとおして何らかの松浦家の施設があったのだろうか。御館のあった場所には、明治二十七年(1894)松浦家の私邸が建てられ、昭和三十年(1955)に松浦史料博物館に寄贈されている。(新人物往来社 「日本城郭体系17」)

現在の松浦史料博物館の建物は、明治二十六年(1893)に旧藩主・松浦詮(まつらあきら)の私邸として建てられた「鶴ヶ峯邸(つるがみねてい)」だ。また、石垣と階段は、御館時代のものだともいう。(現地案内板)
鶴ヶ峯邸は明治二十六年(1893)から建築を開始し二十七年(1894)に完成したということだろう。また、鶴ヶ峯の「峯」は、松浦家の先祖・峯氏にちなんでいるのだろうと思う。

御館は松浦氏の歴史を、その場所と石垣と展示品が、今に伝えているようだ。




■御館へGO!(登城記)
平成21年(2009)6月6日(土)

さて、平戸城をあとにして、次は御館へ行ってみよう。ゆっくりと歩いていったので、約30分の散歩道だ。

御館は今の松浦史料博物館だ。その麓に立つと、階段が圧倒的な迫力だ。御館は館なので天守閣はないのだが、
この高い石垣と広い階段は松浦氏の大名としての威厳を表しているようだ。
御館の正面階段

階段を上りつめると立派な門が建っている。御館当時のものではないと思うが、松浦邸時代のものかどうかについては、よく分からない。
松浦史料博物館入口

門をくぐると、御屋敷が何棟か建っている。何となく、どっしりとした感じを受ける。
松浦史料博物館

入場料500円を支払い、博物館へ入ってみる。撮影禁止なので写真は控えたが、よくある天守閣内部の資料館とは、また一味ちがい、良い。
個人的には、五大老の書簡が気に入った。ただ、松浦義(天叟(てんそう))の赤烏帽子の肖像画を楽しみにしていたが、展示していなかった。

博物館を出て、あたりを探索しようと思ったが、民家がすぐそばまで迫っていて、遠慮した。
正面の売店で、平戸に関する資料を購入し、ついでに店員さんに、この裏の山に登れるか、と聞いてみたが、登ったことがないので分からない、という。
鹿児島・清水城もそうだったが、近くに住んでいる人にとっては、どうってことない山(丘)であって登ろうとも思わないのだろう。

御館はすっかり観光スポットとなっていて、石垣と階段が当時の面影を伝えていた。
城下町を歩くと、町の中に高石垣が溶け込んでいるようだった。
趣のある正面階段


■御館戦歴
  ※御館には、とくに戦歴というほどのものは無いようだ。

以上



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