---- もりやまじょう ----
別名:森山城 もりやまじょう
平成22年8月15日作成
平成22年8月15日更新
国人領主・守山氏の居城
守山城遠景(中央のこんもりと、その左に続く丘)
・データ
・守山城概要
・守山城へGO!(登城記)
・守山城戦歴
名称 | 守山城 |
もりやまじょう |
別名 | 森山城とも | |
築城 | 室町時代のはじめ頃(1400年頃)、守山氏によって築城された。(現地案内板) |
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破却 | 天正十七年(1589)頃、有馬氏の夜襲を受け廃城となった。(現地案内板) | |
分類 | 平山城(標高20m) | |
現存 | 堀切(?)。 | |
場所 | 長崎県雲仙市吾妻町古城名(以前の、南高来郡吾妻町古城名、旧肥前國高来郡) | |
アクセス | 山田城は、島原半島の北部にある。 JR長崎駅前のロータリーから右へ、大波止(おおはと)方面へ行こう。大波止の夢彩都(ゆめさいと)の前を通過し、橋を渡って出島電停も通過すると、「市民病院前」交差点なので、そのまま直進して「ながさき出島道路」に入ろう。有料道路なので小銭が必要だ。 そのまま進むと、自然と長崎自動車道(高速道路)になるので、前進あるのみだ。15分くらい走ると、「諫早インター」なので、ここで降りよう。降りたら迷わず「島原方面」へ進むのだ。この道は国道34号線だが、すぐ1キロくらいで大村方面と島原方面に分かれるので左車線を走って島原方面へ進もう。ここからは国道57号線だ。すぐに「小船越町」交差点なので、島原方面の標識に従い素直に右折だ。右に諫早警察署があるのが目印になるぞ。左には、県立総合運動公園がある。しばらくはまっすぐだ。車線が減少して片側一車線になるが、構うことはない。 12キロくらい行くと、「愛野(あいの)」交差点だ。ここで、島原方面は左へ行くように標識が出ているので、素直に左折だ。すると50mですぐに突き当たるので、標識に従って右折しよう。国道251号線だ。 約4キロ先、「雲仙市役所」交差点があり右手に雲仙市役所が見える。山田城へ行くならここを右折だが、今回は直進しよう。 「雲仙市役所」交差点からさらに1キロ進むと、「守山城址公園→」と書いた看板があるので、ここで右折するのだ。たしか交差点名はなかったが、信号機があるぞ。 右折した道は狭いので注意して進もう。道なりに400m行くと左折するのだが、「←守山城址」の標識が立っているので、見落とさないようにしよう。下の写真を参考にしてほしい。 約50m行くと、道の左手に赤い鳥居が立っているので、その手前を左に入ろう。車5台ほど停められるスペースがあるので、ここに駐車しよう。 守山城はその左の小丘、赤い鳥居の上だ。 |
■守山城概要
守山城は、肥前の在地領主守山氏の居城だった。
守山氏は有馬氏譜代の臣、あるいは重臣であったという(日本城郭大系17、現地案内板)。 ただし、有馬氏の場合、家臣団への統率力は強くなく、安定的な主従関係を生み出すに至らなかった(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)というので、現地案内板が守山氏のことを「有馬氏の外城を守る重臣」と表現しているのは、やや言い過ぎと思う。
守山氏の人物としては、守山宮内(もりやまくない)という者がいるが、現地案内板によると守山城主は代々、「宮内」を称したそうだ。ということは、守山宮内とは守山家当主の通称であって、特定の人物を指すものではないらしい(現地案内板)。
守山氏に関する記録はあまり残っていないようで、よく分からない。
有馬氏の譜代の臣、あるいは重臣であったが、ときには有馬氏に叛旗を翻すこともあった、というくらいだ(日本城郭大系17、現地案内板)。
守山氏は有馬氏の攻撃によって滅亡するが、それには二つの説があるようだ。
ひとつは、永禄六年(1563)守山宮内が千々石淡路(ちぢわあわじ)・田口監物(たぐちけんもつ)らとともに有馬氏に叛旗を翻し、伊佐早(いさはや)の西郷氏に味方した。このため有馬氏の攻撃を受け、守山宮内は守山城に籠城して抵抗したが討死し、守山一族も滅亡した、というもの(日本城郭大系17、長崎県の地名)。
もうひとつは、龍造寺隆信の勢力が強まると守山氏は神代(こうじろ)氏らとともに龍造寺の軍門にくだり、有馬氏を離れた。その後、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死すると、守山城は島津勢に接収され、島津の諸将が加番するようになるが、天正十五年(1587)秀吉が島津を降伏させると守山城はふたたび守山氏の居城となった。しかし、天正十七年(1589)頃、有馬勢の謀略により夜襲を受け、守山一族は城とともに全滅した、というものである(現地案内板)。
どちらが事実なのか、よく分からない。あるいは両方とも事実であり、守山氏が有馬氏を離反したのが永禄六年(1563)で、その恨みを晴らすため天正十七年(1589)頃に夜襲をかけた、とも考えられなくはない。
永禄六年(1563)といえば、有馬義貞(ありまよしさだ)が百合野合戦(ゆりのかっせん)において龍造寺隆信に大敗を喫した年であり、このため義貞は父・有馬仙岩(ありませんがん)から一時的であるが追放されている(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)。 その年に守山氏らが有馬氏に反して西郷氏に味方した、ということになると、百合野合戦の大敗が要因と考えられるが、そうなると、有馬氏には守山城を攻撃する余力はないように思える。もし、百合野の戦いより早く守山氏らが有馬氏に叛旗を翻したということになると、いまだ龍造寺の勢力は肥前国小城郡あたりに留まっており、伊佐早や守山は孤立するようだし、そもそも有馬勢は小城郡まで兵を進められそうにない。
そう考えると、前者の可能性は低いのではないだろうか。ということで、当ホームページでは後者の現地案内板説を採ることにしよう。
なお、前者も、永禄六年(1563)が天正六年(1578)の誤りだと仮定すると、可能性がとても高くなると思う。天正五年(1577)正月、龍造寺隆信が一万七千の兵で伊佐早を攻めたとき、西郷純堯は有馬氏に援軍を求めたが有馬勢は動かず、深堀純賢の斡旋で西郷純堯は龍造寺と和睦、嫡子・純尚(すみひさ)を龍造寺隆信の娘婿とし、これに家督を譲って高城を退いた。これをきっかけとして、西郷氏は完全に有馬氏から離れたという(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)。その翌年であれば、守山宮内らが有馬氏に叛旗を翻すのに無理がない。ただ、その場合であっても、有馬氏が守山城を攻める余裕はないはずなので、守山氏滅亡はのちのこと、おそらく沖田畷の戦いより後のことと思われる。
天正十二年(1584)三月二十四日、沖田畷の戦い。龍造寺隆信は討死した。
島津の家老・上井覚兼(うわいかっけん)は四月三日、島津忠長・伊集院忠棟とともに船上から「神代・井福・森山」を偵察し、沿岸の小村を焼かせた。四月四日、これら三つの城は降伏し、四月六日に城を受け取っている(平凡社 「長崎県の地名」)。 つまり、沖田畷合戦ののちも神代城や守山城は島津に抵抗を続けていたのであり、すなわちこの当時これらは龍造寺方だったということであり、この点からも先の両説でいえば後者が有利だ。
上井覚兼自身は四月八日に神代に入り、伊佐早攻略を策した。四月九日、覚兼は「森山」にいる有馬晴信に前日の談合の結果を報告している(平凡社 「長崎県の地名」)。 有馬晴信が守山城に滞在していたのであり、現地案内板にもその記述がある。上井覚兼は四月十七日、「森山城」に赴く途中の新納忠元と伊福で面会した。そして、四月二十日、覚兼は川上忠智・山田有信・伊地知重秀・八木昌信とともに「森山」に入り新納忠元の宿で談合、「地頭森山殿」に礼を言って、山田城を検分している(平凡社 「長崎県の地名」)。
山田城は守山城と約1キロくらいのところにあり、隣接しているといってよい。もともと中世には守山郷は山田庄の一部であり、昭和二十九年(1954)に守山村と山田村が合併して吾妻村となったものだ(平凡社 「長崎県の地名 『吾妻町』の項」)。
沖田畷の戦いの後の島津勢は、次なる戦いの準備を着々と進めていたのであろう。守山城には島津の名だたる諸将が入り、主要な拠点とされていたようだ。
守山城は小丘である。今では公園になっていて、三段の平坦地があり、上の段の背後はすごい藪で入れないが、さらに高くなっているようだ。現地案内板によれば、当時は高地の中央を掘り、本丸と二の丸をつり橋で結んでいたそうで、切り通しの古城とも呼ばれていたという(現地案内板)。 ということは、今は入れない藪の中に本丸と二の丸があるのだろうか。「堀切」の遺構があるという本もあり、この切り通しのことをいっているようだ。また、周囲もすっかり削り取られ道路が貫通し、昔の面影は全くないという(日本城郭大系17)。
なお、同書には、石垣の遺構がある、とも書いてあるが、拙者には分からなかった。現地案内板の横に石垣があるが、舗装道路に面していて、当時のものとは思えない。道路を作るために斜面を削ったあとに設置されたのではないだろうか。
かつて守山氏が守り、島津氏が活用した守山城も、今ではのどかな公園となってしまったのだろう。守山一族の石碑がわずかに面影を伝えているようだ。
■守山城へGO!(登城記)
平成20年(2008)4月29日(火)
山田城を後にした拙者は、次に守山城へ向かった。
場所はよく分からないが、「守山城址」の標識に従ってたどり着いた。
さっそく登ってみる。
最初の平坦地に着いた。すると、近所の中学校の野球部だろう、親子で集まって何かの集会を開いていた。あらら、これじゃウロウロ出来ないな。
上の平坦地へ行ってみよう。その一角には、「守山一族終焉」の碑があり案内板が立っている。
しかし、そのほかは遊具が数点あるだけで、遺構らしきものはない。
では、と石碑の裏へ入り込んだが、すごいヤブだ。ちゃんとした登城者ならヤブを漕いで進むところだろうが、拙者のような素人には無理だ。だいいち単身赴任中で、装備も何もない。ただのハイキングのいでたちなのだ。
ここは諦めて他へ行くことにした。
なお、ここからの眺めは、流石に見晴らしがきいていて良い。
山を下りて、稲荷神社のほうから登ってみよう。
と思って鳥居までやってきたが、なんと、巨大クマンバチ1匹が階段の中央を遊弋している。まるで、ア・バオア・クーを守備するリックドムのようだ。
こりゃダメだ、諦めて下山することにした。
■守山城戦歴
◆天正十七年(1589)頃、有馬晴信の夜襲を受けた。守山宮内は一族とともに守山城に立て籠もり抗戦したが全滅、守山一族は滅亡した。(現地案内板)
以上
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